009 家族の在り方
どれくらい眠りこけたのか、自分の手首を持ち上げた。
時間は夕刻を過ぎていて、ふと探した部屋の時計よりも、腕時計の針が少しばかり進んでいるのを直す。
正確な時間を要求される仕事で、進み癖のついた時計はまずいだろ、と言われたことがあったが、腕に馴染んだ感触は取替えずに来ていた。
自分の時間が早く進んでいるような、急かされる感覚は止めてはいけない気がする――。
「―――口に合う? 私はあまり飲めないから、見立ててもらったワインだけど」
テラスにセッティングされたテーブルと椅子に、贅沢な光を放つ蝋燭を立てたクロスの上を、いくつかの皿が取り替えられた。
「そんなことは……このもてなしに、文句は言えないでしょう」
「でも、あなたは白のくちね。この辺はディトマの分野だし」
庭の木々の向こうには、エリアの輝く摩天楼が煌いていた。
どうにかこの安寧に浸りかけ、少しクラインの口は饒舌になったのだろうか。
「いまさらですけど、改めて。結婚おめでとう、を」
薫は小首を傾げて、薫はニコと微笑んだ。
「ありがとう。でも…私にだけお祝いしてるのね、それ」
心配りをしながら、ストレートな物言いは彼女の性格だ。
「ゲルハルトは、あなたにも祝って欲しいのだと思うけれど。母親って、いつも子供と父親の仲介役をするものなのかしら」
「父は……忙しい人ですから…」
クラインは、言い訳をする。「それに、貴女と言う伴侶を得て、よりウォクトワイスの飛躍を望めるようになったでしょうし」
「――クライン………」
「貴女は、母よりも外交的だし、父をよくサポートできるでしょうから…」
「クライン」
強めに、薫は彼の名を呼んだ。
彼はフイと視線を逸らす。
「私とゲルハルトの愛情の在り方を、勝手に歪めないで。私たちは政治のために結婚したのではないのよ……彼は政治のトップで戦う人だけど、戦う英雄の妻は共に戦わねばならないの? ――おかしいわ…私たちはそんな気持ちで一緒になったのではないのよ。ただ彼に好意を持って、一緒に居たかったから、それだけの理由」
「しかし、いつかは貴女も利用しようとするとは考えない…?」
「いいえ。個々の意志は自由であるべきことを、私が証明します―――」
薫はそこで、悪戯っぽい瞳をした。
「クラインは深刻になりすぎ。人の愛情は、もっと簡潔に考えないと呪縛に囚われてしまうのよ。あなたも誰かを愛してみたら判るわ」
強い女性、と見るのは間違っているのだ。と、クラインは改めて思う。
恐らくはこの一家に、どの友人たちよりも受け入れられていた薫の存在は、幼い頃から少しだけ遠くに見えるようなものだった。
客観的に家庭内を覗き込めた彼女は、誰よりもカノーヤー一家のことを知っている。
自分が今現在、こんなにもシニカルな気分なのは、幼少時に母以外で一番身近にいたこの女性に、憧れめいた気持ちが無かったわけではない事を思い出したからだ。
特別な愛情の対象ではなくても、大事な宝物だったかもしれない記憶が、けして仲が良いとは言えない父に踏みにじられた気もしている。
これが父と息子の関係か。
「――私は…人の愛情を受けるに値しない人間です…」
人を愛せるとも言えない。こわばったような、クラインの在りよう――――。
まだ半分以上グラスに残るワインに、口をつけて薫はホウと溜息をついた。
「あなたは――遠くなってしまったのね。ようやく貴方とも家族になれたのに…」
深く沈んだ海のような瞳で、薫は寂しそうにした。
そんな愛情をも、受けれいるのが難しいクラインなのである。
家族は、人間関係で一番難しい。