008 クラインの「帰宅」
郊外の高級住宅街にリムジンが一台滑り込んで、そのうちの一軒の前に止まる。
車から人が降りるのを待ちかねたように、若い女が門扉を開いて急ぎ足に近寄った。
「クライン! お帰りなさい」
豊かな笑みを満面に、青年の腕を取る。
「ただいま帰りました。――薫」
抑え気味な感情は、いつものことだ。
「いつも急だわ。ゆっくりできて?」
「今日半日だけの休暇です。今夜は泊まってよろしいでしょうか」
「いやぁね。遠慮はしないで。家族なのに他人行儀なんだから………ゲルハルトは知ってるの?」
「父には知らせる必要はないと思ってますので――」
控えめに、父を否定する。
「ディトマも忙しい人だし、ホントにこの家の人たちはご多忙でいらっしゃること。新妻の私を放っておいていいものかしら」
アタッシュケースを運転手から受け取り、クラインの背中を押しながら薫はリビングに通した。家政婦にティーを頼むと、上着を取って座らせる。
「ディトマは相変わらず研究熱心?」
「そう。熱中しすぎて、この家が遠いせいか彼女のアパルトマンに泊まりっぱなし。まぁ、いいオトナだから私が言うことではないけれど……」
「父は、良くしてくれますか」
遠慮がちな気遣いを感じて、彼女は暖かな眼差しを彼に向けた。
「お父様を心配してくださってるのね。嬉しいわ。ええ、ゲルハルトは私を愛してくれているし、私も間違いなく愛してるから。幸せよ」
背中まである長い黒髪をサラと揺らして、ティーを注ぐ準備をした。「せっかくだから、少しは母親らしくしたほうがいいと思って」
薫はクラインの継母であり、クラインの父ゲルハルトの妻である。
数ヶ月前に結婚したのだと、事後報告が薫から来ていた。
クラインが幼い頃からの古い知り合いで、カノーヤー家の良き友人であったものが、妻亡き後にだいぶ経ってからゲルハルトの伴侶に納まったらしい。
「今回はいつまでウォクトワイスにいるの」
「………それですが…ディトマと仕事が絡みそうです。詳細不明なので、明日でないと何とも…」
「エ……ああ!」
仕事柄、機密の多い一家である。
薫もすぐに理解した。
「じゃあ、今晩だけではないのね」
「たぶん――」
曖昧にしながら、冷めないうちにカップを手に取り紅茶を口にした。
家は、いい。
そう感じたのは錯覚だったか。
しかし、少なくともここでは人の死がない。
(疲れているのだろうか……)
昼下がりの光が、アール状の窓からつつましく射し込む。
大小の熱帯植物を配置し、東南アジア系のリゾートを醸しだすインテリア、以前はこんなに情緒豊かな家ではなかったが――薫と言う住人を得て、彼女の趣向に染められたのだろう。
薫は、久しぶりに会ったクラインを詮索するでもなくただ窓の外を見つめていた。
その静寂―――
女は沈黙に耐えられないもの、との評は、薫には当てはまらないのである。
「……奥様、お電話が入っておりますが…」
なるべく雰囲気を壊さないよう、努力して家政婦が声を掛けてきた。
「出ます。どちらから?」
「ディトマ様でございます」
「あらっ。二日ぶりね」
カップを置くと、いそいそとラウンジの奥へ行く。
「――ディトマ? 連絡もいいけれど、顔も見せて欲しいわ。それともクロエのアパルトマンに家具一式送りましょうか………」
低めに、だが快活に笑う薫の声は、眼を閉じたクラインの意識に聞こえてはいないが、音響の良い邸内ではふと耳に届いてしまうものだ。
「………――いいのよ、ディトマ。……あの子は元々神経が細くて優しい人だから――無理して来なく……ええ。いつまで滞在するかまだ――――」
自分の話題だと気づいたのは、薫が通信を切ってからだった。
「兄は来るのです?」
席に戻ってきた薫に、クラインは聞く。
「クロエと食事の約束していたそうよ………今夜は、そうね…・暖かいようだから、テラスでディナーにしましょう」
ニュアンスからして、ゲルハルトは出席しないようである。
洞察力に長けた、薫の対応はうれしい。
反面で心苦しいのは、隠したものを他人には見られたくない衝動に駆られるせいだ。
片付けるわね、と自分でカップを載せ、ワゴンをダイニングへ運んでいった薫の足音を背に、クラインはまどろむ。
双子の兄ディトマと、亡き母と、父ゲルハルトが、揃って家族をしている。
自分もそこにいるはずなのに――……話を聞いて…。
クラインは、もがいた。
溺れているかのように苦しいのに、皆は笑っているばかりで手も差し伸べてくれない。
た・す・け・て。
叫んだ。
しかし、クラインの口が言ったはずだったが――――。
“タスケテッ!”
女の声で漏れ出る。
(誰だ…)
“お願い!アタシを助けて!”
必死の形相で、女がクラインの腕を掴んだ。
(!)
”あなたが!”
「――クライン」
優しい声が耳元に響く。
「クライン。起きれて?」
もう一度、クラインを呼ぶ声がした。
「ア……」
「どうしたの……食事の準備ができたのよ。――少し夢見が悪かったようね。日が差してたから、暖かいと思ってタオルケットも掛けなかったせい?」
薫が覗き込んで、彼の髪を撫で付けている。
多少の冷や汗を感じながら、クラインは体を起こした。
「夢を……いつものことです」
嘘をついた。
「…そう…無理とは思うけど…ここでは誰もあなたを殺そうなんて人はいないのよ。安心して甘えて――さあ、着替えてきて」
用意された部屋で、クラインは堅苦しいスーツを脱ぎながら、
(あの女………)
夢でしがみついてきた女の顔が浮かぶ。
知った顔のようだったが……思い出せない…。
しかし、何となくこの先、災いになりそうな禍々しい色を為す夢をしていたのは感じる……。