19 ドラゴンさんの友達は、
その後も落ち込む度に発散しつつ荒野でネクターを待った。
もちろん鱗の位置探索は断続的につづけ、レイラインを通してネクターの魔力も探し続けていた。
それでも荒野から動かなかったのは、一日二日ならともかく、数週間単位で調整地を離れることができなかったことと、最後の思念話で帰ってくるといったのだから、ここを動かないほうがいいんじゃないかと思ったからだ。もしここを目指していたら、私がいなければ目印の無い荒野では迷ってしまうだろう。
だが、それから何年もたっても見る影も音沙汰もなければ、いい加減待つことに耐えられなくなってきた。
不安を忘れたくて完全同調していたおかげで、魔力の循環もだいぶ安定してきていたから、私は覚悟を決めて荒野を離れることにした。
散々探し回った後とはいえ、その場にいけば私が気付けることもあるかもしれないし、もし、ネクターが死んでいても、その痕跡くらいは見つけたかった。
そんな風に覚悟を決めて、とりあえずネクターが乗ったらしい船が向かっていた国まで飛んでみようと思った矢先、転移術の気配がした。
リグリラだろうか。
だけど彼女には1年前にストレス発散に付き合ってもらったばかりだ。
だいぶ荒っぽくやってしまったからしばらく療養すると言っていたし。違うだろう。
ならばほかの魔族だろうか?
それにしては現れた魔法陣がどことなくぎこちない。
案の定、転移陣は盛大な雑音と静電気のように飛び散る拒絶反応を起こしながら、それでもぼんっと音を立てて発動した。
現れたのは今まで焦がれに焦がれた魔力波。
『けほっけほっ、やはり長距離は厳しいですね…………あ、ラーワ! 久しぶりです』
そこには。
亜麻色から鴇、毛先には淡紅を乗せた腰までの長髪を三つ編みにして、
出会った時から全く変わらない雲のかかった空色の瞳を細め、
優男の形容詞が似合う端正な顔をふにゃりとさせて笑う、ネクターがいた。
『ネクターッ!』
私は瞬時に人型へ転ずると湧き上がる衝動のまま、地面にへたり込むネクターへ走り寄った。
若干疲れが見える顔でもぱっと表情を輝かせたネクターはひらひらと手を振っていた。
『時間はかかりましたが、やっと約束通り会いに来ることができましたよ!』
『それよりもっ』
寂しかった、元気で良かった、どうしていたんだ、なんで連絡しなかったの?!
また会えたらなんで言おうか、と考えていた言葉なんて全部吹き飛んでいた。
怒りと、悲しみと、喜びと、全部をひっくるめた混乱が体中を巡っていてそれ以上は続かず、ただひたすらもどかしい人の手足を必死に動かす。
『それにしてもこの術式23番の言語記述と魔力供給が甘かったことが今回の摩擦の原因でしょうか。やはり魔法は魔術とはまた違ったコツが必要のようですね……。次は魔力供給の制御術式をルーチン化してみましょうか』
なのにネクターはうきうきと発動させた魔法陣を前に実験結果の考察に入っていて、すべての激情はその1点へ収束し、一片の容赦もなくなった。
『いま、まで、どこに行ってたんだ馬鹿ネクタ―――――ッッッ!!!!!!』
『――――――――げぶほっッ!!』
私の繰り出したアッパーカットによって宙を舞ったネクターは、手加減していたとはいえその後しばらく起きてこなかった。
『本当に申し訳ありませんでした!』
『知らないっ!』
ネクターが起きる前にドラゴンに戻っていた私は起きた途端平謝りするネクターに背を向け、尻尾だけどしどしと動かした。
尻尾が地面をたたくたびに後ろから慌てる声が聞こえたが構うものか、私は猛烈に怒っているんだ!
『たったあれだけの連絡で10年も音信不通になってどれだけ心配したと思っている。一時期は死んだかと思ったんだぞっ!』
『心配してくださったんですか』
『うれしそうな声出すな、反省が足りない!』
『す、すみません』
『それなのに君は10年も会っていなかったのに魔法陣の修正に気を取られているし――――まるで、私だけ寂しかったみたいじゃないかっ』
『ラーワ…………』
『そりゃあ、私にとってはたかが10年だ、それでも君がいない時間は長かったよ。生きた心地がしなかった。こんな思いもう二度としたくない』
ひゅっと息をつめる音がすると、ネクターが動く気配がした。
『本当に、申し訳ありませんでした』
先ほどよりはずっとましだったのでくるりと首だけ後ろに回して覗き見ると、深々と頭を下げているネクターの後頭部が見えたので、ほんのちょっぴり気が済んだ。
『……どうして連絡を取らなかったんだい?』
『これは自分一人で為すべきだ、と思っていましたから。それに一度でも連絡をとれば、寂しさに負けてラーワに会いたさで決心が揺らいでしまいそうで。自分の戒めの為に時期の半分は鱗もこうして封印していました。ですが、このせいであなたを寂しがらせてしまったのは私の身勝手でした』
申し訳ありません、と言いながらネクターが取り出したのは魔術言語がびっしりと彫り込まれた小箱で、ふたがあけられて初めて鱗の魔力を認識できた。相当優秀な古代魔道具の一種だろう。
とりあえず、封印されていたとはいえ鱗が割れた様子もなく小箱の中にあるのを確認し、ふうと、ため息をついた。
『君の行動に口を出すことはしたくない。でも、もうしないと誓えるかい?』
『誓います。魔術宣誓にしますか』
『そこまではいらない』
『そうですか……』
『後で、カイルに怒られることも覚悟しておくように』
『……はい』
私は人型をとって、しょんぼりしながらも頭を上げたネクターに近づいてペタペタと遠慮なく全身を触りまくった。
『ラ、ラーワ?』
『黙ってて』
戸惑うネクターを無視して作業を続け、どこにも怪我がないことを確認し、そこにいる事を再認識する。
だが、以前と全く変わらない、というわけではなかった。
どうにも離れがたくてそのままネクターの隣に腰を下ろすとネクターは少し戸惑っていたようだが、私は構わず肩にもたれかかるように引っ付くと、そっと頭をなでてくれた。
やっぱり、ネクターの手は温かかった。
『今まで、どこで何をやっていたの?』
『初めの1年は木精様へ教えを乞いに行くために旅を。精霊樹のもとにたどりついてからは今まで木精様について頂き修行をしていました。最近ようやく及第点を頂いたので、こうしてラーワのもとへ空間転移をしてきた次第です。ただ、自由時間はそれほどありませんので、また師匠の下へ帰らなければいけないのですが』
確かにお爺ちゃんのところなら聖域と呼ばれるほどの濃密な魔力でネクターや鱗の魔力は隠されてしまう。
納得はしたが、私にはまだ看過できないことがあった。
『どうして、転移術が使えるの。それに、魔力の質も量も変わってる。まさか……』
さっきはそれどころじゃなくて構わなかったが、空間転移はネクターには絶対に教えなかった術だった。
空間転移は、人の使う魔術ではない。初歩とはいえ人知を超える理を使った魔法だ。だけどさっき見た魔法陣は、私の使うものとそう変わらなかった。
さらにネクターの体内魔力が増えている。
昔から下級精霊に匹敵すると思っていた魔力が、すでに高位精霊レベルまで上がってしまっている。
その魔力はもう人を越えてしまっていて。
私のたどり着いた恐ろしい答えをネクターは穏やかな表情で肯定した。
『時の深淵を、世界の根幹を観てきました。あのような時間軸で生きていらっしゃるラーワを改めて尊敬します。少々危ういこともありましたし、身体は半精霊化したようですが、何とか観て戻る事が出来ました。ラーワの教えのおかげですね』
何でもないことのようにへらりと笑うが、あれは人の身で理解するには途方もないものだ。
私でさえ、生まれ落ちた時にねじ込まれたそのすべてを受け入れきれず半狂乱になったというのに。
確かにその影響か以前よりもずっと体内魔力が濃くなっている。
だがその分肉体の存在感が薄くなっているのに泣きそうになった。
『だから、教えなかったのに! わかっているの? 終りある君が、これで終わりがなくなってしまった。いつ果てるともしれない時をさまようのはきっと呪いになってしまう』
人が、魔法を使えるようになる方法もなくはない。
だが、その方法はすべて人としての生を捨てるのと引き換えになる。しかもその過程で精神のバランスを崩し廃人になったり、その膨大な魔力に汚染されて魔物に成り下がることだってあるのだ。
探究心旺盛なネクターなら実践する可能性が高い。
だけど、もし成功してもいつか後悔する日が来るかもしれない。
私は人の意識があっても、ドラゴンという適合した精神と肉体があったから狂わずに済んだ。
人の心のまま、死なずというのは酷な世界だ。
そんな危険を冒させたくなくて伏せていたのに、どうして知ったのだろう?
『そもそもなんでそんな危ない橋を渡ったんだ? そこまでして魔導の真理を追究したかったのかい?』
『ラーワの見ている世界を、知りたかったんです。そうすれば、あなたの生きている時が少しでもわかると思いましたから』
『私の世界?』
意味がつかめなくて私は目を瞬かせた。
『時の深淵についてはラーワと木精様に会いに行ったとき、あの方自身に教えていただいたのです。その時に危険性は懇々と諭されましたが、やる気があるのなら手伝いもするとの言葉もいただきました。
いつか、それが必要になるかもしれないと。
それでも実行する気はありませんでした。興味が湧かなかったとは口が裂けても言えませんが、ラーワは人でも魔族でも関係なく友達だといってくれましたし、私自身人であることに満足していましたから、果たして意味があるのかと思ったのです』
『それなら、いいじゃないか。私は君との関係が続くならなんだってよかった』
『いいえ、私が良くありませんでした』
ネクターは強固に首を横に振った。その思わぬ瞳の強さに、少し圧される。
『ラーワ、あなたは私を大事な友だと言ってくださった。私も、それが嬉しかった。
だからはじめはきっと友人だったのでしょう。
胸の内に湧き上がる想いが変わっている事に気付いても、この関係が死ぬまで続いていくのだと、愚かにも疑いもせず、そう考えていたのです。
ですが、あの新年祭の日、私が人の女性と人生を歩むと当然のように思っていたと知ったとき愕然としました。ラーワは、生き物には生き物の営みがあると理解しているのに、私はあなたが合わせてくれることをいいことに、生き物ではないあなたの理を全く理解しようとしていなかったのだと。さらに、自分の甘えに気付いたのです』
『それは……』
私が、人間だったことがあるからなのに。
だが、ネクターはまるで自分自身に憤りを感じているように、続けた。
『私は、終りある生き物です。やがて死に、土にかえるのは自然。ですがドラゴンであるあなたには終わりがない。ということは、私はあなたに看取られることになる。誰かに置いて逝かれることがどれほど辛いことか私は知っていたはずなのに、優しく寂しがり屋のあなたにそれをやらせようとしていた。
それではあなたと共に歩むなど言えたものではありません。
その甘えに気付いた時、この想いをどうするか、とても迷いました。
あなたの望むよう妻をめとり子孫を残すほうが、きっと摂理としては自然なのでしょう。
私が踏み込むことでこの関係を崩してしまう恐怖もありました。
ですが、今の立場に甘んじたくないと思う自分がいて、どうしてもあきらめきれずに私は木精様を頼りました。その気持ちはあなたの理の一端を覗いた今でも変わりません。なので、誓わせてください』
ネクターは真摯な表情で、恭しいまでに丁寧に私の手を取った。
途端、いつかのように亜麻色と薄紅の髪が魔力を帯びてふわりと舞う。
『我、精霊樹の眷属ネクター・プロミネント。いと麗しき黒竜、ラーワエナーセラムノクトゥルヌスフィグーラに、わが身、我が魔力、わが魂すべてをささげ、永久の愛を誓約す』
私の名前を言い切ることに成功したネクターに驚く間もなく、広がった魔法陣に本気を悟る余裕もなく、私は空色の瞳を呆然と見つめた。
文言も、初めて出会った時にされた誓約と少し違った。
永久、の愛?
『な、にを、いうの?』
『この誓約が、私の覚悟です。
一番の不安要素である寿命の違いは、私が半精霊化したことで緩和したと思います。あなたが子供好きなことは知っていますし、私もあなたとの子供でしたらぜひ可愛がりたいですが、こればかりは越えられないのが残念です。それでも、寂しい想いはさせません』
まずはネクターの正気を疑い、思わず思念をつなげて本心を覗き込んでしまうくらいには動揺していて、それが紛れもない事実で、私に向けられた友情ではない熱を帯びた感情に音をあげて、慌てて思念を断ち切った。
そんなプライバシー侵害も甚だしい行為も、ネクターはすべて受け入れて柔らかく笑った。
『いつ果てるともしれない時をさまよう、とあなたは言いましたが、あなたと共にさまよう世界ならばきっといつまでも楽しいと思うのです。今でしたら唯人よりもずっと時間がありますので、返事は待てます。―――ラーワ、どうか、私がそばにいる未来を考えていただけませんか』
ネクターに包み込まれた手の甲に唇を寄せられながら哀願され、口づけられた指先から全身が熱くなるのがわかった。
これはライクじゃないのは嫌というほどわかった。
私は今、どう感じている?
気付かないふりをしていた。できれば恋人なんて作らないで居て欲しい気持ちに。
ほんのちょっぴり嘘をついた。友達以外になれたらと思う心に。
いなくなって痛いほどわかった。ネクターが本当に特別だったって。
ネクターじゃなきゃダメなんだ。
だが、それでも、その感情を受け入れるのをためらった私は、立ち上がることでネクターから自分の手を取り戻す。
そして落胆するネクターを務めて視界に入れないように数歩離れてドラゴンに戻ることで、ようやく動揺する心をなだめた。
『……ネクター、それじゃあ前と変わらないだろう』
『そう、ですね。すみません。こういうことしかできなくて』
『わかっているのか、私はこんなに君と違う。
今まで人間にはさんざん恐怖の権化だとか邪黒竜とか黒火焔竜と呼ばれているドラゴンだ。女でも、男でも、生物でもないんだぞ』
『忘れていませんか?私がはじめて出会ったのはドラゴンのラーワです。
それに自分で言っていたじゃないですか、どんなモノにもなれるって。それなら姿にこだわる必要はないでしょう。むしろラーワはラーワなのに、どうして姿が違うだけで態度を変えなければいけなんですか?』
わざと大きな顔を近づけて牙をむき出してやったのに、ネクターにきょとんとされて、気が抜けた。
……ああそうだったよ、君はドラゴンに食われるか食われないかの瀬戸際で、知りたいからあなたのものになりますってぶっ飛び発言するような馬鹿だってことを!
『…………形ある約束にこだわる前に、いうことがあるんじゃないか?』
そういう私こそ明確な言葉を求めているなと内心自嘲していると、ネクターは熟れた果実のように頬を赤く染めて、言った。
『愛しています。今も、昔も、これからも』
はにかむような笑顔に、鱗の1枚1枚にまで甘い熱が染み渡るようだった。
……ああもう認めるよ、ものすごくうれしい。
下手したらこの一帯火山地帯にしてしまいそうになるくらい。
『私もだよ、ネクター』
『え?』
何を言われたかわからず、ネクターはぽかんとした。
誓約の魔法陣は広がったままである。
今のネクターならきっと一人で誓約の精霊を引き出す事ができる。
そうすればネクターは自分自身への誓いとして、胸に刻むのだろう。
前のように。
このまま流れるままにしていいのだろうか。
良くない。
最後のあがきを見事に崩された私は、言葉に魔力を乗せ、宣誓する。
『……我、ラーワエナーセラムノクトゥルヌスフィグーラは、ネクター・プロミネントの誓約を受け入れ。――――幾久しく、彼を愛することを宣誓す』
いつかのように円環が明滅を繰り返し二つの光球が浮かび上がる。
今回は硬い意志が反映され、魂ごと消滅するレベルに設定された。
構わない、むしろ喜ばしいことだ。
世界にその誓いが不変に近いものであると認められたことを意味するのだから。
ぱっと光球が胸中に消えるのを見届けた私は、今だ呆然とするネクターの空の瞳を覗き込んだ。
『ねえ、ネクター。前に私の言うことを何でも一つ聞くって約束したよね』
『え、ええ、レイラインを傷つけた代償に、ですよね』
『じゃあ、そばにいて。私の伴侶として』
『っ!』
『私は、君のおかげでたくさんの人と知り合ったよ。友人くんやリグリラとも友達になれた。でもね、それでも、ネクターがいてくれなきゃダメなんだ。代わりなんて利かない、唯一なんだよ』
『ラーワ……』
空の瞳を大きく見開くネクターの額に、鼻先をそっとおしあてる。
『……長い長い時間になるけど、よろしくね』
『はい、ラーワ。幾久しく共に在りましょう』
やっと理解が及んだネクターの歓喜がにじみ出るような笑顔は一生忘れることはないだろう。
私の頭を抱え込むように身体を寄せるネクターのぬくもりは、何にも代えがたく優しかった。
そして、一世一代の勇気を振り絞っての行動が実を結んだことにほっと胸をなでおろしていた私は。
『ところでラーワ』
『ん?何』
『この場合、私はあなたの妻になる、ということでいいのでしょうか?』
『…………ぷっあははははははっ!!』
大まじめな顔をしてそんなことを言うネクターに不意打ちされ、ドラゴンに生まれてはじめてぐらいの大笑いをしたのだった。
次回で最終回です。