18 ドラゴンさんは怒られる
『黒熔の、どうかなさいましたの?』
気が付くと目の前にリグリラがいて、紫紺の瞳で心配そうにのぞき込まれていた。
どうやら、街をふらついている間に無意識にリグリラの店まで来ていたらしい。
金砂の髪をたなびかせるド迫力美女という変わらぬ姿を前に私はひどくほっとした。
『なんでもないんだ。リグリラの顔がちょっと見たくなっただけ』
なんかそれだけで十分な気がして、笑みを作って帰ろうとした私の腕を掴まれ引き留められた。
驚いて振り返ると、腹立たしいと言わんばかりに顔をしかめるリグリラがいて。
『何でもないわけではないことくらい、わたくしにだってわかります。どうせあの魔術師のことでしょう。良いから中へ入って下さいまし』
案内された部屋は、店の裏階段を上がった先のリグリラの私室だった。
他に借りるのも面倒ですし必要ありませんから店の一室を間借りしていますの、とリグリラはついでのようにいった。
『ところで、この菓子の袋はあなたが気に入ってらした店のもののようですけれど、本当にいただいてよろしいんですの?』
部屋に入るなり押し付けるようにして渡した大量のマドレーヌの入った袋を、困惑した表情で抱えるリグリラに、私はこくりとうなずいた。
『いいんだ。よかったら食べて』
『ですが、これはご自分のために買われたものでしょう?わたくしに気兼ねするなど今更ですわ』
『……違うんだ』
いまだに尾を引く衝撃に動揺する心から、言葉がこぼれる。
『おいしく、ないんだ』
自分でも驚くほど、細い声だった。
『あんなにおいしかったのに、ネクターがいないだけで味がしない』
手に持ったカップの水面に映る自分は、馬鹿みたいに情けない顔をしていた。
淹れてくれたお茶もリグリラのことだからきっと一級品だろうに、香りも味も、全く感じられない。
それでもじんわりと指先から広がるぬくもりのおかげで幾分落ち着いたから、冷静に事情を説明する事が出来た。聞き終えたリグリラはやっぱりとでも言うようにため息をついた。
『一時期、王宮が騒がしいと思っておりましたわ。だから人なんて安易に信用してはいけませんのよ』
『……そういう割には人を相手にする仕事をしているね』
『それとこれとは別ですの』
きっぱりと言い放つリグリラは、柳眉をひそめて言った。
『人の生は私たちとは違いとても儚い。どのような形かはともかく、遅かれ早かれ別れが来るとはわかっていたはずでしょう。ドラゴンともあろうあなたが、なぜそこまで動揺しているのです』
『なんか、荒野に帰る前にお菓子でも食べて元気出そうって思って、食べたら全然味がしなくて、びっくりして。―――びっくりしたら、怖くなった』
『あなたが?』
困惑する彼女の視線から目をそらし、私は胸の凝りを話し出した。
『私が、不完全なドラゴンだってことは前に話したことがあったよね』
『ええ、わたくしの挑戦を断る理由として、でしたわね。ですがあなたは感情が豊かなこと以外、どう見てもほかのドラゴンと変わりがないと思っておりました。むしろ、魔力の循環を整える速度からいえば上位に入る優秀さなのではありませんこと?』
『わあ、リグリラに褒められた』
『事実を言ったまでです。茶化さないでくださいまし』
『ごめん』
眉尻を吊り上げるリグリラに即座に謝る。
『でもね、ほかの仲間みたいに、荒れ狂うレイラインをとどめて魔力を拡散させるとか、魔力の循環が死滅している場所に新たにレイラインを引き直すとか、何百年何千年単位でやる仕事はできないのも本当なんだ。私はドラゴンが使う魔法のほとんどを生まれた時に拒んでしまったから』
私の告白に、リグリラが息をのむのがわかった。
そりゃそうだ、自分の弱みをさらけ出しているんだから。絶対的な力にしか興味を示さない魔族であるリグリラには信じられない暴挙に映ったかもしれない。
『……道理で、あなたがあまり魔法を使わないと思っておりました』
それでもリグリラは相槌だけを返してくれて、私は見放されなかったことに少し安堵し、苦笑いを浮かべる。
『まあ、威力が大きすぎるっていうのもあるけど苦手意識があるんだ』
魔術と魔法は明確に分かれている。
魔法は、創世の時代にこの世界を創り、育むために神々が扱った無から有を生み出す奇跡だ。
魔術は、その奇跡によって起こった事象を模倣する技術であり、それは限りなく近い現象を起こすことはできるけど、世界の修正力には結局あらがえない。
だが魔法なら世界を動かす法を作り、恒久的に発動し続けるような事象を新たに組み込む事ができる。
魔法としては初歩の空間転移でも、ドラゴンのほかにそれが使えるのは、それこそ大陸を収める神や、世界の根幹から生まれた魔族、根幹に近づくことのできた高位精霊だけだった。
だけどその構成は途方もないほど複雑で、難解で、私はそのすべてを受け入れることができなかった。
もし初めにレイラインと魔力の循環を整えるための必要最低限の魔法すら覚える事が出来なかったら、私はドラゴンとして生まれることすらできなかっただろう。
残りは今でもドラゴンネットワークを介して少しずつ覚えてはいるが、それでもすべてを理解するまであと1000年くらいはかかるんじゃないだろうか。
『ドラゴンは生れ落ちると同時に、過去から現在に至るまでのすべてのドラゴンの知識と、必要な技能を習得する。その中にはね、記憶を記録にする魔法というのがあるんだ』
『記憶を記録に、とはどういうことですの?』
『たとえば日記と、観察記録の違いってどこにあると思う?』
リグリラは私の唐突な質問に考えるように沈黙した。
『個人的主観か客観的事実か、でしょうか』
『そう、もっと簡単に言えば感情が含まれるか含まれないかだ。リグリラなら、他のドラゴンに会ったことあるからわかるんじゃないかな。彼らと話してロボット…からくりみたいだって思ったことない? あれは、すべての記憶から感情を消去して記録として保管しているからなんだ。彼らは何も感じないし、何も思わない。思ったとしてもすぐなかったことにする。だって感情なんて魔力の循環を守護するのに必要ないから』
息をのむリグリラに、私は苦笑を浮かべてみせた。
『ドラゴンには完全な忘却っていう機能は備わっていないから、そういう回りくどい方法を使うのだろうけど。
―――創造主はひどいなあと思うよ。至上命題を刷り込んでから、孤独に苦しんだかつてのドラゴン達の記憶を詰め込んで、魔法の知識を植え付けるんだから。それならいらないって、魔法を発動させたくもなるよね。まあ、私はドラゴン達の記憶の段階で冗談じゃないって思っちゃったから、そのあとの魔法学習がうまくいかなかったわけだけど』
それなら初めから心も感情も作らなきゃいいのに、と呆れたもんだ。
それでもドラゴンに心があるのは、生まれ落ちる前にほんの一瞬だけ触れた、この世界を愛してほしいという創造主の願いからきているのは知っていたから、まあ悪意はないことは知っている。
でももうちょっとやり方があったんじゃないかなとは思うよ。
『でも、ご飯がおいしくなくて、毎日じりじりして、あんなに楽しかった街歩きも寂しいだけでさ。
ああやだな、怖いな、寂しいなってぐるぐるして。一瞬、この気持ちを全部なかったことにできたらって、思ってぞっとした』
つらいんなら苦しいんなら、最初からなければいいと考えた、悲しいドラゴン達が心を”無い”ことにしてしまった気持ちがわかる気がして。
『そうはいっても、あなたは心を無くすことを選ばないのでしょう?あるものをなくそうだなんて考えるのは馬鹿らしいことですもの』
『でもさ、たった三年だ。たった三年ネクターがいないだけでこんなことを考えるんだ。
ネクターが本当に死んでしまったってわかったら、……そうじゃなくてもおじいちゃんやリグリラですら居なくなってしまったら、それでも心を持ち続けられるか自信が持てない』
私の生は、長い。
ネクターもカイルもおじいちゃんもリグリラにさえ置いていかれて、また一人っきりになってしまったとしたら。
ずっと欲しかったつながりを、彼らと笑ったり泣いたり楽しかったり怒ったりしたことも全部なかったことにして、ただ漫然と時を魔力の循環を守護していくだけに費やすようになるかもしれない。
ネクターと友達になれてあんなに嬉しかった、共に過ごして幸せだった、その想いすら忘れることを自分で選ぶ日が。
孤独の悲しみと恐怖は、もしかしたらドラゴン唯一の弱点なのかもしれない。
きつく拳を握りしめても堪え切れず、こぼれた涙は結晶となって床に落ちて、澄んだ音をさせた。
『怖いよ、リグリラ。私もいつか、みんなとの楽しかった記憶を忘れて、他のドラゴンみたいになっちゃうのかな』
寂しいと感じる心もなくして、何百年も何千年もずっと歯車みたいに世界を支え続けて、誰にも顧みられない。
一度溢れだした涙は止まらず、透明な魔力結晶がいくつも転がり落ちていくのを何度も見送った。
どうしたらいいかわからなくて、なんとか止めようと手で拭うことを繰り返していると、目の前に座っているリグリラが動く気配がした。
『黒熔の』
『な、に……痛っ!』
そばで呼ばれてのろのろと顔を上げると、額におもいっきりデコピンを食らわせられてのけぞった。
く、首ががくんってなった!
これ普通の人間が食らってたら頭がふっとばされてんじゃないの!?
『あなたという竜は…………!』
びっくりしたおかげで涙は吹っ飛んだが、唐突な暴挙に少々ムッとして首をもどすと、綺麗な顔をくしゃくしゃにゆがめたリグリラに見下ろされていて、目を丸くした。
『あなたはわたくしが一方的に勝負を仕掛けて負けた時も、次も来ると宣言しているのに理由がないと消滅させない。家族がいるんだからと、強欲な人間どもを苦労して気絶させてまで人里に戻してやるような筋金入りの阿呆ですのよ。そんなあなたが先のことを考えるなんて馬鹿らしい』
『あ、阿呆って……』
それに馬鹿らしいって!
だが抗議の言葉は、リグリラの苛烈な声に飲み込まれた。
『それに自分を卑下なさるのも大概になさいまし。
300年、孤独に抗い続けたのでしょう? 諦め悪くしがみついたのでしょう? くじけても、やり直したのでしょう? その時点で初めから諦めていた他の軟弱なドラゴンとは雲泥の差がありますわ。
そうなるかもしれない? ありえませんわ。
人族の事情に首を突っ込んでまであんな妙な魔術師を友人だと呼ぶだけでなく、ただ喧嘩を売りに来るだけのわたくしでさえ迎え入れるほど寂しがり屋のあなたでしたら、また必ず足掻きだします。あなたのようにお人好しで、強く、美しく、魅力的なドラゴンを私は知りませんの。何体ものドラゴンと会ったこのリグリィリグラが保証しますわ』
怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えるリグリラを、私は呆然と見上げた。
阿呆と言っておきながら、卑下するな、なんて滅茶苦茶だ。
だけど、真名を使ってまで宣言されたその言葉の一つ一つに、心の奥に風が通っていくようだった。
『リグリラに褒められた』
『ですから褒めてません! 事実を言ったまでですの!!』
『……うん、ありがとう、リグリラ。ちょっと元気出た』
まだひりひりする額を撫でながらにへらと笑うと、リグリラの陶器のような顔が耳まで真っ赤になった。
この戦闘狂なくせして服が好きで、素直じゃないくらい素直な魔族は、私のことを真剣に考えてくれている。
すうっと吸った息を全部吐くのと一緒に腹の奥にたまっているよどみをおいだす。
いつかを考えるのは後にしよう。ずっとずっと後でいいのだ。
先は長いんだから、今だけを考えていても大丈夫。
何にも解決していないけど、さっきよりもずっと楽になった気分でうーんと伸びをすると、ついていたらしい魔力結晶がパラパラと床に落ちた。
『あーあ、どうしようこれ、一応ガラス玉に見えなくもないし、服の装飾につかう?』
『……どんな強化戦闘衣にするつもりですの。それに、この粒一つでこの国なら一か月は遊んで暮らせますのよ?わたくしの顧客にはぽんと支払える方々もいますけど、表に出した途端、魔術師どもが目の色を変えて押しかけてくること請け合いですわ』
『でもさ、さっきのデコピンってリグリラが私に初めて一撃いれたってことになるんじゃない?最近は条件決めてなかったけど、昔は勝ったら血が欲しいって言われたし、涙の結晶じゃ賞品にならない?』
『もう、血は必要ありませんの。ですが確かに、そうですわね。で、でしたら―――』
一瞬表情が陰った気がしたが、リグリラはさっきの凛とした姿とは打って変わって葛藤するようにそわそわと視線をさまよわせた後、思い切ったように紅い唇を開いた。
『わたくしに、あなたのあ、愛称を呼ぶ許可を頂けませんこと?』
『それだけ? いいよ』
『わたくしのほうが付き合いが長いのにあののほほんとした魔術師風情に先を越されたのが悔しいわけではなくてわたくしもただ喧嘩を仕掛けるだけではなく他の交流の仕方を模索するのも悪くないと思った一種の酔狂ですの! ですが魔導を極めた者同士不愉快というのなら残念ですけど―――て、良いんですの?』
必死に言い訳を並べていたリグリラのきょとんとした顔がかわいかった。
お約束的反応を素でやっちゃうのもイイ!
『私だけリグリラって呼ぶの寂しいよ。あ、この結晶は別にあげるから好きなように使ってね』
『あ、ありがとうごさいます』
『うん、じゃあ今後勝負はナシってことで』
『それはやめてくださいなそ、その…………ラーワ!!!』
途端大慌てのリグリラを前にするとなんかさっきまでの自分が本当に馬鹿らしくなってきた。
うん、この楽しさを手放すのは確かに惜しい。
『それにですね、こう一所にとどまって鬱屈しているよりは大いに動いて発散するほうが良いのではなくて? そんな時には試合というの悪くないと思いましてよっ』
まだネクターと完全に会えなくなったわけでもないのだ。
それなら、今は後ろ向き思考を何とかするために、このもやもやした気持ちを少しでも晴らすか。
私は大事な友達に報いるため、ちろりと瞳に熱を灯して言った。
『……それもそうだね。じゃあ付き合ってくれる?』
『え、ええ、もちろん喜んで!!』
途端、闘志むき出しで目を輝かせ始めたリグリラは、私が伸ばした手をしっかりと握ってくれた。
他愛のない話をして時を過ごした後、
かけがえのない友の凛とした後姿を見送った金紫の魔族は、ほうと息をつく。
あれほど取り乱す姿は初めて見ただけに、立ち直ってくれたことに対する安堵もひと際だった。
だが、と金紫はかの竜の魔術師に対する言動を思い出し、苦笑を浮かべた。
『本当に気付いていないのか、それとも気付かぬふりをしているのか、微妙なところですわね』
確かにやさしい竜であったが、引き際もあきらめもよく知っているはずだった。
何せ、常に中立を保つことを是とする種族だ。風変わりなかの竜でさえ、役目を妨げるものには容赦はしない。
数百年の付き合いになる金紫だったが、かの竜が線引きを誤ったところなど一度も見たことがなかった。
それがどうだ、守護の役目に支障こそ出していないようだが、あそこまで思いつめるほど気がかりになっている。
『わかっていらっしゃるのかしら。その胸の痛みが友情では片づけられないことを』
胸の凝りを吐き出させるためにさり気なく、だが根掘り葉掘り吐かせた新年祭の日の行動と会話は、その場で頭を抱えたくなったほど言葉が足らず、不器用で、金紫はかの竜の鈍感なすれ違いに呆れ果てた。
かの竜は、子が居ればいいといった。子孫が続けばその血筋を見守れる、と。
それは大切に想う者の特別ではなくなってでも、孤独から逃れたいと願った愚かな、そして無意味な考えだった。
子孫を縁にはできても、結局本人の代わりにすらならない。
行き場のない想いに狂うだけだ。
だが、かの竜を前にして金紫は意味がないと切り捨てられなかった。
なにをどう考えればその答えに行きつくのか、わからなくはないだけになおさら。
何せ、己もそれをやろうとして結局うまくいかなかったのだから。
『……それにしても、あの方の幸福を願ったとはいえあの魔術師、せっかくこのわたくしが矛を収めてあの方の衣装を作って差し上げたのに、無駄にするなんて万死に値しますの。次に会ったら容赦しませんわ。あのことなんて絶対に私の口から申すものですか』
ここにはいない魔術師相手に舌打ちを一つ、そして決意も新たに拳を握る金紫はふと、呼び起された遠い日の記憶にしばし囚われた。
覚えているのは、極上の魔力の味と、守られる当てのない約束。
”いつか、必ず勝ってやるからその時は…………”
その先が浮かぶ前に振り払い、それでも消えない疼きに朱唇をかむ。
『本当、ひどい男でしたわ…………ハイド』
滑り落ちてきた金砂の髪を後ろに払い感傷を断ち切ると、金紫の魔族は対ドラゴン戦の準備のために、自室へ戻っていった。