第28話 万象の賢者は伴侶を想う
宵闇に沈む廃墟の中を、ネクターは星明かりを頼りに歩いていた。
程なくたどり着いた半壊した講堂では、抜けた屋根の代わりのように精霊樹の枝が伸び、今は魔力で闇におぼろに光る花が、ふわりふわりと舞い散っている。
その根元では、花びらに埋もれるように、愛しいドラゴンが安らかに眠っていた。
黒瑪瑙のような艶を帯びた鱗に覆われた身体をゆったりと丸め、たてがみによって生じた熱で対流が生まれているのか、時折緩やかに花びらがゆらりと落ちる姿は、いつ見ても美しいと思う。
どこから種が忍び込んできたのか、廃墟の所々から蔦や草が生えてきて、賑やかな様相を呈してきている。
ただ、日中にもアール達と手分けして花を落としたのに、また身体に降り積もってしまっていた。
「自分で選んでおいてなんですが、楽しいのか大変なのか分からない木ですね」
秋に落ち葉を集めた時に似たようなことを言ったな、と思いつつ、ネクターは広間の隅に用意してある道具を取り出す。
彼女の身体は堅牢だ。風雨も、寒暖にも一切影響を受けない。
10年単位で動かないこともよくあることだと話していたから、多少汚れていても問題ないのだろう。
だがネクターは、彼女の鱗を磨くことを日課としていた。
彼女の身体から薄紅の花を落としてゆきながら、ネクターは薄青の瞳を細めながらいつものようにぽつりぽつりと話しかけた。
「アールは、エルヴィーを選びましたよ。ただ、人間で21と言えば十分な成人ですが、もう少しくらい待っても良いと思うのです。エルヴィーはおそらく、あなたたちの影響でカイルと比較にならない時を過ごすことになりそうですから」
エルヴィー自身はまだ気づいていないようだが、武器に魔術銃を選んではいても、魔力保有量は王宮に仕える宮廷魔術師にも劣らない。
自分で思っているよりも、恐ろしく長い時を過ごすことは想像に難くなかった。
だが、今は言わなくて良いだろう。
「彼の決断を私ですらこれだけ驚いているのですから、あなたは美琴さんとイエーオリ君が結婚する今、驚く要素は少ない方が良いでしょう?」
振り落とし終えた花びらを慣れた手つきで一カ所に集めつつ、ネクターは続けた。
「リシェラさんの結婚式はそれは華やかだったそうです。リリィさんが話していったのは聞かれましたか。あなたが気にかけてらっしゃいましたから、写真を撮ってきてくださっていますよ」
リシェラ・フォン・アヴァールとネクターは面識はない。
だが、ラーワの話で彼女の困難な環境を知っていただけに、伝え聞いた話には安堵したものだ。
彼女は侯爵の青年との婚約がそのまま続いており、”蝕の落日”の騒動の際、魔族の力を借りて多くの領民の命を守り、ヘザット国内では”茨の聖女”と呼ばれて、大変な人気なのだという。
その盛り上がりは、彼女の父親の汚名ですら悲劇として受け入れられるほどであり、彼女はヘザット内で唯一無二の地位を築いていた。
「彼女の領地経営も順調そうです。そういえば、カイルとベルガがこの間来ましたね。ベルガの呪いはもうずいぶんほどけてますから、申し訳なさそうなのがかえってかわいそうです。たっぷり謝られることを覚悟しておいた方が良いですよ」
カイル達は、アール同様、魔力循環を整えるために、方々を巡っていた。
彼らはより人里に近い場所を順に巡り、循環の魔族としてふさわしい活躍をしている。
「なんでも遅いハネムーンなのだそうです。カイルにもロマンチックなところもあったのですね」
アールの話では、この世界に残ったドラゴンたちも、過剰になった魔力を滞りないレベルにするため、レイラインの整備に大わらわらしい。
色んなものが変わっている。
蝕の落日で多くの都市が救われたが、何も被害がなかったわけではない。
フィセルは、あの日、精霊樹に蓄えていた大半の力を使い果たし、眠りについていた。
本体としていた精霊樹も立ち枯れ、かろうじて残った挿し木の幼木の中で、今でも一年の大半を眠って過ごしている。
ほかにも一度蝕で断絶したレイラインは大地が戻ってもそのままで、あちこちで魔力災害が起こっている。
だが、
「ドラゴンたちはカイルやアールの手助けもあって、魔族や精霊達に手伝いを願っているそうですよ。まだ限定的ですが、徐々に増やしていくことでしょう。フィセルも少しずつですが目覚める時間が長くなっています。完全にとは行かないまでも、会話ができるくらいに回復するのは間違いありません」
元に戻らずとも、変化はある。
「あなたでしたらきっと嬉しがるでしょうね。それともようやくか、とため息をつくのでしょうか」
だが、神がこの世界を補強するために降り落としていった雪――神雪は、多くが未だに降り積もり、そこから影響を受けて新たな幻獣が生まれ、ゆがんだ魔力からは強力な魔物が生じて行く。
その影響は環境だけでなく、人間にまで及んでいることを、魔術師長の座を譲ったイーシャからの報告でネクターは知っていた。
「実は精霊を見えるようになった子が増えているらしいのです。これからかつてなく魔術が身近になる時代が来るでしょう。ただ、神とやらがはた迷惑なことには変わらないですが。きっとあなたがこんなに遅いのは、その迷惑さ加減を一番に味わった結果なのでしょう?」
やれやれとため息をつきつつ、ネクターは慣れた手つきで、花びらを一カ所に集めていった。
「ああそうそう、リュートとパレット、そしてアドヴェルサの行方はまだ分かりません。ただ、カイルが噂を聞いてきましたよ」
リュートら精霊とアドヴェルサは、騒動のあと、いつの間にか姿を消していた。
ただ、ベルガの呪いを少しだけ緩めていったらしい。
『自分にはこれが限界だ』とベルガに言い残して去って以来、行方は一切わからなかったのだが。
「なんでも、神雪の残る地に、白銀の髪のリュート弾きが現れるのだそうです。一人とも、二人とも、三人組とも言われるのですが、彼らが街角で唄った土地では、レイラインが落ち着いているとか。律儀な方達ですね」
ネクターはこの場所でほんの少しだけ声を交わした白銀の竜を思い出す。
10代にしか見えないような、ずっと一人で世界を支えていたとは思えないほど繊細で、けれどだからこそ支え切れたのだろう、頑固で律儀な性格のドラゴンだった。
あとからフィセルやテンに聞いたが、自分に任せられた職務から一切逸脱せず、強固に守り続けていたのだという。
義務感ではなく、愛着からの行動だったと言うが、それでも唯一楽しんだ余暇が、音楽と絵画だったから、封印具も弦楽器と筆にしたのだと言っていた。
やっと解放されたというのに、ドラゴンとしての職務を忘れないことは彼の気質のせいだろう。それでも多少の頓着はあれど、彼らがくびきを外れ守り抜いた世界を見て回れることは、喜ぶことができた。
リュートの想いが、今なら十分に分かってしまうだけになおさらだ。
花びらを集め終えたネクターは、薬草のたい肥として使うために決めてある場所へと片付ける。
そして、眠るラーワの首元に背を預けた。
夜風に潮が混じらないのは、風化を抑えるために魔術で取り除いているからだ。
それでも、空気にほんの一月前まで混じっていた冷たさが和らぎ、春を迎えていることを教えてきていた。
こうして、室内を見渡してみれば、友人達から贈られた様々なものであふれている。
ネクターが今座っているのは、東和の者たちから贈られた畳であるし、この室内に施された術式はカイルやイーシャ、セラム達の傑作だ。
リグリラからは毎年かならず、着るものが届くし、冬の寒い日には見る方が冷たいからと、ラーワの身体を覆うほどに大きいキルトの掛布がよこされて、さらにアールと自分が力を合わせて編んだ手編みのマフラーと帽子のおかげで、ここ数年の冬はずいぶん楽しい様相になっている。
蒸し暑いのは良くないかも知れないと、イエーオリとエルヴィーは風を送るためのプロペラがついた扇風機という魔術機械を置いていった。
彼女が築いたつながりが、一目で分かる光景だと思う。
「愛されておりますね、ラーワ。もちろん私が一番ですが」
返事は5年間一度も返ってこないが、ネクターはありありと分かる。
きっと少し顔を赤らめたあと、同意を示してくれるだろう。
何十年たとうと、照れが抜けない彼女は愛おしい。
連れ添った百年と少しで、おぼれそうなほどの幸せと共に多くのことを知ったつもりでいた。
けれど、こうして新たに知ることも、気づいてしまうこともある。
「ねえ、ラーワ。私は精霊になるために修行をしていた10年間。あなたにずっとこのような想いをさせていたのですね」
いや、自分は彼女にもっとひどいことをしていたのだろう。
あのときの自分は、別れすら告げずに姿を消したのだから。
ネクターは昔から、人の感情を読み取るのが苦手なことを自覚していた。
その代わり喜怒哀楽を仕草や表情を記憶して蓄積することで人の要求を察せられるようになったが、それでも相手の側に立って物事を考えることはいつまでたっても上達しなかった。
悲しみも分かる、痛みも分かる、苦しみも知っている、怒りも、悪意も向けられた。
けれど、壁を隔てて観察しているような心地が抜けきらなかったのだ。
化け物とののしられもした。血も涙もない知識の亡者だと唾棄されもした。その通りだろうと冷静に自分を分析したが、彼らの望んでいた反応はついぞできなかった。
カイルがなぜ悲しい顔をしていたのかすら分からなかった。
そう、当時、自分がどれだけ心身共に摩耗し、疲れ果てていたのかすら気づかなかったのだ。
それが、ラーワと出会い、すべてが変わった。
自分よりも遙かに高みにいる彼女によって、相対的に自分がちっぽけな人間であると思い知って、自分がどれだけ悲しみと、怒りと孤独を抱えていたのかに気づき。あるはずがないとふたをしてきた感情が溢れ出してきた。
そして、自分の無力さを知るために、彼女を深く知りたくなった。
なにより彼女が見る世界の鮮やかさに圧倒された。
知れば知るほど、知識だけではなく、彼女自身に近づきたくなった。
どんなときにどのような反応をするか、何を喜ぶのか、何を悲しむのか。
一度見ればたいていのことを覚えられるにもかかわらず、彼女の笑顔を何度もみたいと願った。
初めて、魔術以外で渇望を覚えた。自分にこれほどの熱があったのかと、驚いたほど。
自分が彼女によって何度も壊されて、作り直されていくことが幸福だった。
薄々、彼女が元は人間なのではと気づいてもいた。
理論上でしかなかった異世界の者であることはネクターを以てしても驚愕だったが、また一つ新しい彼女を知れたという喜び以外はなかったものだ。
なにより、人間だったからこそ、己に人間らしさを教えられたのだろうと思うと、巡り会えた奇跡に感謝するしかない。
「それでも、理解がまったく足りませんでした。ええそうです、例え大好きなあなたでさえ、すべてを理解しきることはできない。そう言うものだとわかっていても、どれだけ残酷なことをしていたのか、あのときに気づければ良かったと何度も後悔しています」
言葉だけでは足りない。この先何度繰り返しても、ネクターの気が収まることはないだろう。
一生背負っていかねばならない咎だ。
どれだけ悲しませたのか、どれだけ苦しい思いをさせたのか。
我ながら彼女のおかげでずいぶん人間らしくなったと思ったのだが、こうして自分で経験しなければ分からなかった。
自分はまだ良い。
少なくとも、ラーワは今ここにいる。誓約が切れていないことで生きていることが分かっている。
けれど当時の彼女は、己が生死不明の中で待ち続けていたのだ。
それがどれほどつらく苦しいことだったか、今なら痛いほどわかる。
「私はまだ5年です。たった5年。あなたの時ほど困難ではありません。私はいくらでも待ちましょう」
本心からそう思う。けれど。
ネクターは黒曜石のような艶のある鱗を愛おしく撫でて、ラーワの顔に額を寄せた。
ひんやりとした鱗に、自分の熱が移ってゆく。
「ですが、やっぱり寂しいです」
アールもいる、カイルもいる。以前より、大事にしたいものがずっと増えた。
それでも、変わって行く世界を、誰よりも愛おしんだ彼女がいない寂しさを、考えてしまうのだ。
共有したい出来事も、反応が想像できたとしても、彼女自身ではないことが悲しい。
「ねえ、ラーワ。そろそろ起きてください」
そっと口付けて、誓約に呼びかけて寄り添って。それでも起きぬ彼女に落胆することにも慣れてしまった。
アールとの約束で、きちんと家で眠ることになっている。
夜に抜け出していることを気づかぬふりをしてもらっているのだから、そこは守らなければ。
ほんの少し、にじんだ涙を拭うために額を離そうとして。
ふと手を添えていた鱗が、震えた気がした。
だが、そのように思ったことは何度もあった。
期待による錯覚だろうと、自分のあきらめの悪さに苦笑しつつひと撫でする。
しかし今度は、鱗の筋肉が隆起するのを感じて、ネクターの胸にまさかという想いがこみ上げた。
顔をのぞき込んだ瞬間、5年の間固く閉ざされていた黄金の瞳が、現れ。
「らー、」
「この馬鹿神めええええぇぇぇぇえ!!!!」
歓喜に頭部へ抱きつこうとしたネクターは、ラーワの絶叫と共に跳ね上げられた首をもろに受け、見事に吹っ飛んだのだった。





