第21話 ドラゴンさん達の長い一日 それぞれ2
イーシャ・ソムニスは、薄曇りの空が黄金の流星によって晴れてゆくのを、作戦本部の設置してある砦の窓から眺めた。
黄昏と暁が共存する空から星々が尾を引いて落ちてくれば、海を覆い尽くしていた濃霧が光に洗われるように霧散していく。
見る間に覆い尽くされていた街が見え始め、沿岸から海が望めるようになっていった。
防衛のために並んでいた兵士や魔術師達にも星は落ちていき、そのたびにどよめくのがここからでも分かる。
持ち込んだ遠話機が鳴り、出てみれば、ヒベルニアの防衛線にいるセラム・スラッガートからだった。
『そっちでも見えたかい』
「ええ来たわ。やはり小さくとも、ドラゴンなのですね」
ラーワに作戦を語られた時はにわかに信じられなかったが、こうして目の当たりにすれば、否応なく理解できた。
美しく幻想的な光景は、世界が生まれ直すようなすごみがある。
とはいえひたっている場合ではない。
防衛網が敷かれているのは、ドラゴンの知行地が近いシグノス平原方面と、神に乗っ取られているというドラゴンが眠る海に近い海岸線であった。
ここナヴァレは特に激しく蝕の濃霧が押し寄せ、黄金の光に散らされてもなお、現在街の半分が浸蝕されていた。
なぜバロウ国内にある中でもここナヴァレに蝕が押し寄せるのかは不明だが、すでに数日ぶりに見える黒い海からは、シーサーペントや、クラーケンなど、海の幻獣の形をした濃霧の塊、白の妖魔が陸をめざして現れようとしていた。
今の今までは、対蝕用結界を張り続けることで食い止めじりじりと後退して行くしかなく、市街地は軒並み蝕で埋め尽くされた。しかしそれも今回で終わりだ。
『ではそちらは任せるよ、イーシャ。あまりはしゃがないようにね』
「あら、あなたこそ、デスクワークばかりで鈍って居ないと良いのですけど」
苦笑の気配のあとに、通話が切れた受話器を通信兵の背に戻したイーシャは、自身の杖に持ち替えると、部下を引き連れて沿岸へ飛び立った。
イーシャにも流れてくる星の一つが胸に降りてくる。
すると、全身にはつらつとしたぬくもりが広がり、魔力がわき上がる昂揚を覚えた。
《イーシャさん、がんばって!》
亜麻色の髪の少年とも少女ともつかない子供の声が脳裏に響いて、こんなときであるのに、笑みがこぼれる。
この目まぐるしい1週間のうちに、ようやく邂逅をはたした竜の子は、あの親にしてこの子ありともいうべき、優しさと強さを兼ね備えた子供だった。
「はい、おばあちゃんですが、少々張り切りましょうか」
「魔術師長……?」
「下がっていてくださいな」
くすりくすりと笑うイーシャを部下達は不安げに見ていたが、すぐにえぐり取られた新たな沿岸へたどり着いていた。
入り江となった場所には海水と共に、巨大な白いシーサーペントが鎌首をもたげて陸上へ襲いかかろうとしていた。
一斉に兵士達が引いたのを確認すると、イーシャは溢れる魔力のままに、力ある言葉を振るった。
『凍てつき凍り 儚く散りませ 氷結華牢』
イーシャが杖を振るった瞬間、彼女を中心に海面が一斉に凍り付いた。
その効果は目前に迫っていたシーサーペントですら巻き込み、暴れる猶予を与えることなく氷の彫像となり、砕け散る。
「あらあらまあまあ、あの子ったら、魔力まで分け与えてくださったのね」
一人で成すには絶対に不可能とされる戦略級魔術に、配置された魔術師達が絶句する中、イーシャは目を丸くして驚いただけで、魔術師達を振り返った。
魔術師達は知っている。増幅されただけでは、このような事象を引き起こすことなどできないと。
空気中の水分すら凍って氷の粒が舞い散るなか、氷華の賢者は艶然と微笑んで見せた。
「さあ、みなさん。こんなおばあちゃんより戦果が少ないなんてこと、ないようにしてくださいな?」
老化の遅い魔術師にしても明らかに30代にしか見えない、御年うん百歳の当代魔術師長の言葉と笑みをそのまま受け取る者など皆無であり。
続々と押し寄せる蝕の魔物達を迎撃するべく、それぞれの武器を構えたのだった。
*
リシェラ・フォン・アヴァールは、蝕から逃げてきた避難民達と共に、ヘザット王都を目指していた。
蝕の魔物からの防衛の大半は派遣されてきた守人や魔族、兵士達現場の判断に任せているが、避難民達までは面倒を見切れない。
ヘザット国内は、つい最近、黒火焔竜によって土地の調整が行われていた影響で、蝕の影響から逃れた国民が多かった。
そのため領地の者は、管理している貴族達が誘導することとなっているのだが、自分だけ荷物をまとめてさっさと逃げた貴族もいると聞く。
だがリシェラは、ようやく笑顔を取り戻せるようになった領民達を置いて先に逃げるという選択肢がどうしても選べなかった。
土地を一時期でも捨てるのは心が痛んだが、背に腹は代えられないと通達があった直後から複数回に分けて避難を繰り返していた。
のだが、近隣の今回の事態を知らされてすらない領民達も説得して引き連れていたら、リシェラが一番最後になってしまっていたのだ。
作戦決行の合図となる、蒼穹に星が流れ始めてから数時間。
早く防護結界の張られた土地へとたどり着かなければならないのだが、大人数での移動はなかなか進まなかった。
「この世の終わりだあ……」
「あともう少しです、皆さん頑張りましょう」
今まで見たことのない事象におびえる人々をなだめながら道を進み、ようやく目的の街へが目前に迫ったとき。
それが現れた。
「化け物だああぁあ!!!」
後方から上がった悲鳴に振り返れば、後方より濃霧を引き連れて生じていたのは蝕の魔物だった。
こうして歩いてきていた人々にもリシェラにも、あの流星は落ちてきていたため、多少ならば濃霧に当たっても大丈夫だろう。
しかし、実体化した蝕の魔物は、通常の魔物と変わらぬ攻撃性を備えていると知らせがあった。
「皆さん、全速力で街へ入ってくださいっ!」
言われるまでもなく、走り始める人々とは対照的に、護衛としてついてきてくれていた数少ない兵士達が蝕の魔物を足止めするために立ち向かっていく。
多少魔力が人より多いとはいえ、役に立たないと知っているリシェラは使用人に連れられて速やかに人々と一緒に街へと走る。
だが、濃霧より弾丸のように飛んできて、逃げる人々の側面に新たな蝕の魔物が現れた。
突如間近に現れた蝕の魔物に、大混乱に陥る人々に、リシェラの声は届かない。
なんとか避難しようとしていると、目の前で、幼い子供が足をもつれさせて転んだ。
その子供は昨晩、炊き出しでリシェラに微笑んでくれた幼子だった。
白い災厄は、無慈悲に迫っている。
考える間はなかった。
「リシェラ様!!」
リシェラは丈夫になった四肢を動かし、幼子の元へ誰よりも早くたどり着く。
泣いていた幼子を突き飛ばして逃がして、自分が大地に転がる。蝕の魔物の爪が間近に迫っていた。
恐怖に身体がこわばる。
《だいじょうぶだよ》
やわらかい、子供のささやき声に、リシェラは赤の房の混じる黒髪を思い出した。
身体のうちから魔力があふれ出し左手の薬指が熱くなる。
薬指にはめた指輪から、おびただしい影がふくれだし、蝕の魔物を払いのけた。
蝕の魔物はただそれだけで霧散し、リシェラは呆然とその影を見つめた。
茨のような黒い影は、そのまま彼女を守るように取りまく。
ともすればまがまがしくみえる黒の茨だったが、リシェラには優しく思えた。
「……オブリエオビリオ?」
名を呼べば、応じるように黒の茨が震え、リシェラの胸に熱い脈動を与えた。
一生言葉を交わすことはできないかもしれない。と言われていた。あきらめもしていた。
どうやら声を発することはできないらしい。けれど、そっと茨の一つに触れれば、あの質感を思い出して、こみ上げてくる想いにリシェラの目尻が熱くなる。
「せいじょさま?」
ふと、そんな声が聞こえて、振り返れば、自分が助けた幼子が純粋な瞳でこちらを見上げていた。
いつしか逃げ惑う人々が足を止めて茨に取り巻かれるリシェラを見つめていた。
浸っていることはできない。自分にはやるべきことがある。
「いいえ、わたくしは領主です。あなたたちを守るのがわたくしの義務」
立ち上がったリシェラが彼らを守るために背を向ける。だが黒の茨が咎めるようにリシェラの服の裾を引いた。
当然だ、リシェラは魔力を多少扱えるようになっても、修練は積んでいない。戦闘はおろか、護身の術ですらおぼつかない娘でしかない。
けれど、蝕の魔物は今もなお続々と現れ、このままでは街から出てきている増援が来る前に逃げる人々から犠牲が出る。
この邂逅が、いまこのときだけの奇跡なのだとしても、リシェラは願った。
「オブリエ様。わたくしはあなた様がいない間に、とても贅沢になりましたの。居場所を守るお手伝いをしていただけませんか」
黒の茨は仕方ないとでも言うように服から茨を離し、リシェラを守るように、膨大な黒の茨を出現させる。
リシェラはその姿が人々にどのように映るか知らぬまま、茨を従え、蝕の魔物へと相対したのだった。