第15話 ドラゴンさんの始まりの終わり
突如噴き出した白い霧からは、苦悩と悲哀があふれていた。
雷がはじけるような音と共に、水面になってもなお残っていた術式が発光し、激しく明滅し始める。
封印が破れかけているのは明白だけど、なぜ今なのか。もしかして私が刺激してしまった?
「なんでっ再封印したばかりっ」
リュートが愕然とした声を上げながらも、傍らに置いていた弦楽器をひっつかむと、叩き付けるように弦を鳴らした。
淡い瞳が金に揺らめくと、リュートのどこにあったのかと言うほど膨大な魔力があふれ出す。
『晦冥に微笑を 慈しみの夢を 永久に等しき、安らぎの眠……ぐっ!?』
それは封印補強のための術式詠唱だったのだろうけど、唱え終える前にリュートの歌は魔力の波に呑まれてかき消えた。
頽れるリュートに、白い蝕が襲いかかろうとする。
硬直する彼を私が全力で引き倒すのと、ベルガが銃弾を撃ち込むのが同時だった。
銃弾を含んだ蝕は灰色に染まり消滅するが、後から後からあふれてくる。
足下を覆うようなそれに、ぞわりと怖気が走った。
一瞬、燃やすという選択肢が頭をよぎったけれど、それをやればぎりぎりのとこで持ちこたえている封印を消し飛ばしてしまうだろう。
というか、今度は蝕が私へ向かってくる!?
それを阻んだのは、獣とも無機物ともつかない薄っぺらい何かだった。
その絵画とも奇妙な生き物ともつかない物を飲み込んだ蝕は、灰色に染まると消滅する。
「こっちへ来い!」
初めて聞くくらい大きな声で叫んだのは、絵筆を構えたパレットだ。
彼女が次々に虚空へ獣を描き出しては、此方に放つことで道ができていた。
こういうときは全力で退却に限る、と私がリュートの腕をとって走ろうとすれば、リュートが抵抗した。
「ごほっ再封印、をしなきゃ」
「この封印式はすでに破綻しています。術式を一から組み立てられない以上、体勢を立て直すために逃げるのが一番ですっ」
「その通りだよっ!」
苦しげに咳き込みながらも蝕へと向かおうとするリュートを、ネクターが一喝する。
怯んだ隙を狙って私はどっせいとリュートを俵担ぎにした。
だいたいネクターと体格が同じくらいだからいけると思ったんだよね!
「何するんだお前!?」
「聞き分けがないからに決まってるだろう!? 君は大事な協力者! おとなしくしててっ」
リュートは抗議しつつも自分の本体だけは離さなかったから、前は見づらいけどなんとかなる。
ドラゴンの脚力なめるなよー! と私はパレットとバスタードの所まで一気にかけた。
ちらりと傍らを見れば、ベルガと、アールを抱え上げたネクターも併走している。
その間にも、蝕は雲のように黙々と立ち上がり続け、どんどん視界を覆い隠していき、リュートとパレットが張っていた晦冥の封印を浸蝕していた。
しかもあったはずの出入り口の扉は消失し、あるのはどこまで続いているか分からない異空間で、私の感覚でも完全に屋敷とのつながりが絶たれてしまっている。
私は胸を鷲掴みにされるような恐ろしい感覚がまだ続いていた。
得体の知れなさが先に立っていてすごく嫌なんだけれども、今は逃げる方法を考えなきゃ。
「ねえリュート、ここから退避する方法はっ」
「ない! 監視者用出入り口も、僕が作った屋敷への抜け道も完全に閉じてるっ。レイラインとの接続はなし! 魔力も独立してる! 晦冥の封印内に囚われてるよっ」
だろうね。竜を封じるんだ、私だってそれくらいはやる!
返答すらも絶望的。蝕に浸蝕されているせいで、どんどん魔力も薄くなっている。
さらに襲いかかってくる蝕を、パレットが大きく絵筆を振るい、筆先から鮮やかに広がる色彩が壁となって蝕を阻んだ。
瞳が黄金色に染まっているのは、竜の魔力で精霊化しているからなのかもしれない。
そう考えている間にも空間全体がきしみ、封印の術式は悲鳴を上げている。
床を見てみれば、また竜がこちらへと近づいて、足下は大きく波紋が広がっていた。
何もせずとも水面に立っていられるのは、この水自体が封印の魔力そのものだからなんだろう。
けどこの封印も、防御壁も遠からず崩壊するのは時間の問題だ。
厳しい顔をしたネクターが言う。
「異空間に穴を空けるにしても、これだけ強固に作られた空間ですと時間がかかりますし、この術式の再生能力に抗いきれるか」
ネクターの呟くとおりなんだよなあ!
現実世界に、いいやせめてここじゃない別の異空間につながれば、方法はなくはないんだけど。
「竜、この空間の外とつながれば、無事に避難できるか」
とにかく走り続けながらも全力で打開策を考えていると、今まで同じように走っていたバスタードが問いかけてきた。
不意打ちでもリグリラを吹っ飛ばした実力者である彼の表情に、冗談を言う様子はなく、ただ確認と言う雰囲気だ。
何ができるのか分からないけど、迷わずうなずいた。
「できる!」
「バスタードっ!」
私が担いだリュートが不自由な姿勢でも抗議しようとするけれど、バスタードは寡黙な表情に初めて笑みのようなものを浮かべた。
「リュート、悔恨と憎悪と絶望が共にあった自分が、最後にあなたに拾われたことで救われた。ようやく、希望をもたらすために剣を振るえそうだ」
「だめだっ」
「わっ!?」
暴れて私の手から逃れたリュートは、バスタードに駆け寄ろうとしたが、彼は背中から大剣を抜き去った。
「憎悪と復讐の血潮に打たれし我が真名“オリーウス”にかけ、今ここに我が必斬堅剛の一撃を見舞わん!」
バスタードの全身から魔力が溢れ、剣に……いや、自分の本体へ集約されていく。
ブーストによって全身の筋肉が大きく盛り上がり、あれほど静かだった気配が狂的な猛々しさに染まっていった。
「ぬぅん!!!」
極限まで魔力が練り上げられた瞬間、大剛の一撃が振り下ろされた。
それは、彼の魔法を具現化した斬撃だったのだろう。
空間に広がる術式を一つも傷つけることなく走った一撃は、私たちの前方に大きな亀裂を作った。
けれど、術式による再生能力は鈍い。そして私もこの空間の外を知覚できた!
水底を見れば、すでにアドヴェルサの瞳は半ばまで見開かれ、水面近くまで上がってきている。もう一刻の猶予もない。
「転移するよ! 手を握ってっ」
術式展開は周辺の蝕まで連れて行ってしまう恐れがあってまずい。範囲を厳密に決めるために叫べば、アールが私に抱きつき、ネクターが私の手を握った。
蝕のけん制をしていたベルガは、私の下まで走ってくると、魔術銃に戻り、アールが受け止めた。
「バスタードさんっ!?」
けれどアールが悲鳴のような声音にそちらを見れば、バスタードは満足げに微笑むとその人型は光の粒子となって霧散していった。
今のは、彼の全身全霊をかけた一撃だったのだとすぐに悟る。
残された抜き身の剣が地に落ちていこうとするのを、リュートが間一髪抱え込み、その彼の服をつかんだパレットが私へと手を伸ばす。
私が思いっきり伸ばした手が触れて。
亀裂がふさがる寸前、水面が盛り上がるのを見ながら、私は術式を発動してその場から離脱したのだった。
*
転移の魔力光が和らいだとたん、懐かしい我が家の香りに包まれた。
そこは、ヒベルニアにある我が家に作った転移室だ。
ここはちょっと特殊で、あらかじめ登録しておいたごく少数の知り合いの魔力にだけ反応して起動する。
あとここに転移できるのは、リグリラやカイルくらいなものだ。
数週間ぶりの我が家に落ち着く間もなく、今更ながらばくばくと鳴る心臓に大きく深呼吸をした。
あの場にいたときは必死すぎて後回しになっていたけど、あの竜から感じる圧迫感がすさまじくて今更ながらに震えが来ている。
ドラゴンなんだからそんなに変わらないだろう、と思っていたけれど、あの竜から感じる気配というかオーラは今まで異質さがあったのだ。
おじいちゃんなんか想像と全然違うんだけど。
私が転移室で座り込んだまま動けないでいると、厳しく表情を引き締めたネクターが口火を切った。
「あれが、原初の竜、アドヴェルサですか」
ああそっか、もう眠りを刺激しないために呼ばないでいた名前を、口にして良いのか。と場違いに気付いた。
「はなし、かけてきたよね。かあさまのことを、みつけたって」
「ええ、なぜ初対面のはずのラーワだったのか」
青ざめたアールとネクターの会話で、私だけに聞こえた声じゃないことを知って幾分かほっとする。
いや、だって蝕関連では私だけってことが多かったからね。
「あれが、アドヴェルサさんの、声だったのかな」
「ちがうよ」
アールの疑問に、リュートの強固な否定が響いた。
バスタードだった剣を抱え込んでうずくまっていたリュートだったけど、その瞳は力を失っていなかった。
「あれはアドヴェルサじゃない。身体はそうだったけどまったく別人だった」
「……ああ、ちがう」
パレットも同意を示してきて、リュートの表情にさらに感情が……怒りが溢れてくる。
「そうだよ、僕の知っているアドヴェルサはあんなに子供っぽくなかった。もっとすんだ大人びた良い声で話してくれたんだ!」
「そ、うなんだ」
「そうなんだよ! だからあいつはアドヴェルサだけどアドヴェルサじゃない! 絶対に彼を取り戻してやるっ」
自分を鼓舞するように立ち上がったリュートが、怒りのままに叫ぶのに若干引いた。
もしかしなくてもリュートって、ネクターと若干ベクトルが似てるかい?
でもこれだけ、アドヴェルサを知っている二人が言うのだから、本来の彼ではなかったのだろう。
と言うことは……。
「神の浸蝕が予想以上に早く、かの竜が乗っ取られた、と言うことでしょうね」
ネクターの結論に私はうなずいた。
考え得る最悪で、一番可能性の高い結論だ。
私たちが退避してからすぐに晦冥の封印がほどけたとみて間違いないだろう。
相手が予想以上に素早くて、誰も彼もが間に合わなかったのだ。
その事実は重いけど、浸るのはあとでもできる。まずは現状の把握だ。
ぱしんっと、頬を叩いた私は、立ち上がった。
「ネクターおじいちゃんに連絡とって、今すぐ起きたことを話して。可能なら、空間転移をつなげられないか試してみてほしい。私はドラゴンたちと早急に話し合ってくる」
「了解しました」
ネクターがうなずけば、リュートも憤然と立ち上がった。
「僕は、屋敷の様子を見てくる。強制的に断ち切られたのなら、無事だろうし」
そう言ったリュートはちらりと、ベルガとパレットを見た。
「二人を連絡役に置いていく。僕は精霊だ、嘘はつかない。アドヴェルサを取り戻すまでは共闘、分かってるな!」
「わかってるよ、ありがとう」
お礼を言えば、リュートはふんと鼻をならして、姿を消した。
「じゃあ、ベルガさんパレットさん、居間に行きましょ」
アールに声をかけられた精霊二人と共に、私も居間へと移る。
その間にも私は、全世界に散らばっているはずのドラゴンたちに連絡を取ろうとドラゴンネットワークにアクセスしようとした。
「っ!?」
「どうしたの」
驚いてふらつけば、ベルガがいぶかしそうな顔をするのに、うろたえながらも応えた。
「ドラゴンネットワークから排除された」
「それほんとうっ」
「アールやっちゃだめだ」
アールがアクセスしようとするそぶりを見せたのを止めて、私は目まぐるしく思考する。
ネットワークにつながる寸前、巌のような魔力を感じた、衝撃と共にはじかれたのだ。
あれは先輩の気配で、一回こっきりの時限式だった。
排除、と言う単語を使ったけど、感触からして警告や、忠告の意味合いが強いような気がする。まるで私たちを守るために残したみたいな。
嫌な胸騒ぎがする。
「アール、とりあえずドラゴンネットワークは私が良いって言うまで遮断して。エル君に会いに行ってくる」
「ぼくも行く!」
エルヴィーの側にはヴァス先輩の分身がいるから、状況がもっと分かるはずだ。
不安げなアールも連れて行くことにして、私はネクターに一言断るために転移室へとって返す。
けど、その前に、血相を変えたネクターが居間へと走り込んできた。
「東和国の各地が蝕に呑まれて、都市機能が寸断されていて、さらに眠り病の症状を示す患者が続出し被害範囲の確認すらままならないそうです!」
「なんだって」
「御師様曰く、世界の終焉が始まった、と」
紙のように顔を白くしたネクターの言葉に、私は愕然と立ち尽くしたのだった。





