第35話 ドラゴンさんは再会する
水壁をくぐった一瞬、ひんやりとした感触はあったけど、全く濡れはしなかった。
一歩踏み出せばすぐに堅い石畳を踏む感触がする。
野外であることを想定して、靴を履いていて良かった。
そうして降り立ったのは、空の下、だった。
振り向けば水壁があり、変わりなく水面を揺蕩らせている。
周囲は色とりどりの花が咲き乱れる庭となっていて、丁寧に手入れをされた雰囲気があった。
だが、魔力で満たされているのは感じ取ることができるのに、レイラインがつながっている気配はみじんもない。
つまり、この空間は現実から隔絶された場所にあると言うことだ。
開放的に思えるのに、妙な閉塞感を覚える場所だった。
この空間の特異さを感じられるカルラさんとカイルは、全身に緊張をみなぎらせていた。
『ここが、大社の中か。構造としては分社に似ているが……空気が違うな』
そうつぶやいた帝さんも、顔は愉快そうだけど警戒は忘れていない。
徹底的に作り込まれた箱庭、と言うのが私の感想だった。
ともかく、前方に見える壮麗で瀟洒な建物が本殿と言うやつだろう。
『カイル殿には予定通りこの門の守りを頼もう。あとは、穏便に殴り込みをかけたいところだが』
言葉を切った帝さんは、石畳の小道の向こうを見やる。
見覚えのある人影が歩いてきたからだ。
そう、彼女の領域に入り込んだからには、気づかれないとは思っていなかった。
『まあ、「来い」って言ったのはあたしだけれどもね。まさかここまでぶっ飛んだ手を使ってくるとは甘く見ていたよ』
華やかな衣を身にまとい、深緑の髪を背に流したテンが、苦笑しながら現れたのだった。
その傍らには、当然のように白い髪の頭頂部には白い狐耳が主張する真琴がいる。
白い着物に赤の袴という巫女服姿の彼女は、私を見ると申し訳なさそうに会釈をしたが、会話はテンに任せるようだ。
「ラーワ、こいつが……」
「そう、アール達の拉致犯で、要の竜の一柱」
カイルにひっそりと尋ねられた私はそう返したのだけれど、目の前に居るテンには違和感があった。だけど、その前に、カルラさんが動き出したことでその場を譲る。
『嵐刻竜よ、これは盟約には反さない事柄であると先に申しておきます』
軽く頭を下げて、青ざめた顔ながらもきちんと言い切れば、テンは苦笑を崩さないままうなずいた。
『わかっているよ。君の魔核が壊れていないと言うことは、一切契約には反していないと判断してるし。そこの帝くんが一枚上手だったってことだ』
さらりと、流し見られた帝さんもさるもので、すっと、頭を下げた。
『大社の神とお見受けいたします。余は今代帝。このたびはぶしつけな来訪で申し訳ない』
『ほんと、全くだよ。まさかほかの要の竜を引き入れて大社の門を創り上げるなんて、今までなかったことだ』
『余は、人脈と運には恵まれておると常々考えておったが、今回はとびきりであった』
あきれた風に肩をすくめるテンに、ぬけぬけと言った帝さんは、不意に眼差しを鋭くした。
『だが、これにて古の約定を果たしてくださるものと確信している』
朗らかだったテンは黄金の瞳を丸くするのに、さらに畳みかける。
『帝が大社の門を開くことができた暁には、大社の神に一つ願うことができる。古き先祖よりそう伝わってきた』
私はその言葉で、ようやく、なぜ帝さんが強制的に追い返される心配をしていなかったのかを理解した。
恐らくずいぶん昔には、テンと帝との間に、何らかのつながりがあったのだろう。
『確かにそう約束したね。けれど、君。その約定の真の意味を理解して願おうとしているのか?』
ひんやりと冷気を帯びたその声音にも、帝さんは動じなかった。
『わかっておる。余が願うのは、柱巫女制度の撤廃だ』
テンは驚きに目を見張り、ついで泣き笑いのような表情になった。
『そっか、わかって来ちゃったのか。でもあたしの答えは……』
『みなまで言うな。説得の準備はきっちり整えてきたのでな。付き合ってもらうぞ』
挑戦的に笑う帝さんに対し、テンはしょうがないと言わんばかりに微笑んだ。
『今回はずいぶんイレギュラーだけど、君は自力でたどり着いた。ならば聞かなければいけないね』
それは母親のような優しさと労りに満ちていて、私の中の違和感はふくれあがるばかりだ。
『ただ、そろそろ身体に穴が空きそうで怖いから、まこっちが相手をする。ただ代役、だなんて思わないでくれよ。彼女はあたしと一心同体なんだ』
にらんでいたことを揶揄された私はちょっとむっとしたものの、肝心のことを問いかけた。
『アール達は、無事なんだろうね』
彼女の能力の分析は、ネクターとやった。
いくつも仮説を立てた今なら、きっと勝てる。
『もちろん、すぐに引き会わせるとも。君はちゃんと来たのだから。だけどそれだけで良いのかい?』
だから実力行使も辞さない姿勢で問いかけたのに、あっさりと返されたあげく胸中を見透かされたように言われて、意気をそがれた。
言葉に詰まっていると、代わりに帝さんがテンの傍らにいる真琴を見つめながら声を上げた。
『余は、当代柱巫女であるなら、不足はない』
『じゃあきまりだ。とりあえずようこそ、あたしの家へ。歓迎するよ』
あくまで朗らかに言ったテンは、私達を奥へ促すように手を広げる。
けど、その時懐かしい気配が近づいてくるのを感じて、はっとした。無意識のうちに耳を澄ませば、石畳を駆ける軽い足音が響いてくる。
それほどたたず、テンの向こうにある生け垣の影から現れたのは、亜麻色に赤の房が混じった髪を揺らして、全速力で走ってくるアールだ。
そうしたら、たまらなかった。
「かあさまっ!」
「アールッ!!」
私は、テンの横をすり抜けると、表情にいっぱいの喜色を浮かべるアールを抱きしめたのだった。
『おおふ。わかっちゃったかあ。さっすがドラゴンの子』
「どこも怪我はないかい? 怖いことはなかったかい? 遅くなってごめんね……」
「うん。大丈夫だよ、かあさま。巫女さん達みんな、すごくよくしてくれたから」
テンの困ったような声も意識の外で、私はアールの頭を撫でてその身体を確かめた。
着ている白い着物に赤い袴は隅々まで手入れが行き届いたものだし、アールの血色もかなり良い。
なによりアールの表情が明るいことに、心底ほっとした。
けれど、不意に、アールの金の瞳が涙に潤む。
「寂しかったっ! かあさまたちが無事で良かった、よう……!」
そのまま、私の首にかじりついて泣き始めるアールを、ぎゅっと抱きしめた。
「そうだねえ。寂しかったねえ。怖かったよねえ……」
アールが最後に見たのは、私達がテンになすすべもなく倒される姿だったのだ。
私達が心配したように、アールが怖くなかったわけがない。
思い至ったとたん、もっと早くこられたら良かったのに、と後悔の気持ちでいっぱいになった。
謝りたい気持ちもたくさんあったけれど、今それをすれば、きっとアールは涙をこらえて大丈夫だよって言ってしまうだろう。頭の良い子だから。
なら、今は何も言わず、思いっきり泣いてしまうのが良い。
『テン、少しは反省されましたか』
『……ものすっごく反省いたしました』
ちゃんとここにいることがわかるように、アールの亜麻色の髪や、背中を優しく撫でていると後ろから、そんな言葉が聞こえてきた。
ちらりと視線をやれば、真琴にじと目でにらみ上げられたテンが、全力で肩を落としている。
その姿に息をついた真琴は、私の困惑の眼差しに気づくと、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
『ラーワ様。テンやわたくしを許せとは申しません。ですが、お話だけは聞いてくださると嬉しく思います』
そうして真琴は、くるりと帝さんの方へ向くと、丁寧に頭を下げた。
『では帝様、こちらへ。わたくしたちは、わたくしたちの話をいたしましょう』
その姿はすでに、厳かな巫女のもので。
風格すら漂うその姿は、20を超えたばかりの若い子だということを忘れてしまいそうになるほどだ。
『うむ。わかった。ゆくぞ、カルラ』
その眼差しを向けられた帝さんは、聞きたいことはあっただろうに飲み込んで、真琴に案内されるまま、別の小道へと去って行った。
4人だけになって、ひっくひっくとしゃくり上げるアールを抱いたままの私が見上げれば、テンはひどく決まり悪そうにしながら言った。
『あーうん、えーっと。……とりあえず、門は繋げっぱなしでも良いよう。と言うか、繋げっぱなしにできる技術にびっくらこいていたりするけれども』
『聞きたいことが、山ほどあるよ』
しどろもどろなテンに先んじて私が声を出せば、彼女がほっとしたようだった。
『だろうね。落ち着いて話せる場所に行こうか』
それには全く同意だから、立ち上がろうとしたら、アールがぎゅっと私の服を握りしめてきた。
まだしゃくり上げながら、不安に揺れる瞳を向けるアールに心は揺らいだが、私はアールの頭をゆっくりと撫でて、額をくっつけた。
「門のむこうに、ネクターが居るから、安心させてあげてくれないかい」
「かあさまは……?」
「アールの顔見たら元気が出たから、もうちょっと頑張ってくるね」
安心させるためににっこり笑って見せて、そっと立ち上がれば、アールはおとなしく手を緩めてくれた。
でも詭弁だってわかっているのだろう、その表情は明らかにしぶしぶで、ずきりと心が痛む。
だけど、ゆっくりと促してアールを預ければ、カイルは黙って引き受けてくれた。
『じきに、みこっちゃんも来るから、気をつけて帰ると良い』
そうテンに声をかけられたカイルは、片眉を上げて、困惑を顕わにする。
きっと、こう思っていることだろう。なんでこの竜はこれほどあっさりとしているのだろうか、と。
その疑問もふくめて、私はなにがなんでも話が聞きたいのだ。
『さあ、くるかい?』
『もちろん、そのためにここに来たんだ』
だから私は、テンに誘われるままに、その手を取ったのだった。





