第25話 小竜は静かに日々を待つ下
恒例行事のような一連の出来事が終わり、流れるように巫女たちが清掃作業に戻る中。
「アール、姉の調子はどう見える?」
清掃に加わった美琴にそう聞かれて、アールはぞうきんがけをしながら答えた。
「まこさんの言うとおり、正常に見えます。無理に魔力を使っている様子も見えません」
「そっか……」
アールは、美琴が問いかけるのも無理はないと思った。
真琴の歩き姿は健康体に思えたが、美琴の言葉の通り、彼女は数日前にようやく床をはらったばかりのはずなのだ。
アールと美琴を拉致し、転移陣で連れ去ったテンは、この大社の中にある儀式場の一室にたどり着くと真琴からぬけだし、自身は霊体として形をとった。
直後、真琴はその場で倒れたのだ。
きっとその瞬間が、逃げ出す絶好の機会だったに違いない。
だが、蒼白な顔で力なく目を閉じる真琴をそのままにはしておけずに、アールと美琴はとどまった。
なにせ、真琴が倒れた時のテンの表情は、心から彼女を案じているものだったから。
真琴はそのまま3日間眠り込み、目を覚ましたときにはアールと美琴も心から安堵したものだったが、詳しい理由については一切話してはくれなかったのだった。
「たぶんまこさんが倒れたのは、テンさんを乗り移らせたからでしょう。その上で、本来、人の身では使えない魔法を行使したのだから当然です。あの魔力の消費は本当に一時的なものだと思います」
「だと思う。姉は、そういうところは、嘘は言わないから」
わかっていても心配、と顔に書いてある美琴の、気をそらすために、アールはもう一つの疑問を口にした。
「ただテンさんを霊体でしか見かけない理由は、なんでしょうね」
「それも、気になるよね」
美琴はその胸中を示すように、黄金色の尻尾をふさりと揺らした。
アールと美琴は、未だにテンが肉体を伴って現れたところを見たことがない。
ヴァスのように本体が別の場所にあって、分身を飛ばす代わりに、精神だけをこちらに飛ばしているのか、あるいはもっとほかの理由か。
ただ、彼女の霊体は徹底していて、彼女に触れられれば質感も感じるし、声も聞こえる。
だが、魔術の素養が高いものでないと見ることができないのだ。
幸か不幸か美琴もアールもそれくらいの素養はあったが、この間来客が会った際に応対に出た巫女に、見えないからって同じ室内で遊ばないでくれ!とテンが叱られていた。
ついでにその巫女は人間だったのだが、宥めようとしたのか、テンは唐突に抱きついてさらにお説教されていたのは余談である。
非常に残念な竜だとはここ数日で実感していたアール達だったが、それ以上のことは謎のままだ。
それとなく探るように聞いても、真琴もテンもはぐらかすばかりだ。
「ごめんね、アール。こんなことをするとは、思わなかった。ラーワ様にも……」
「みこさん、それは言わない約束ですよ」
アールがぞうきんがけの手を止め、語気を強めて制すれば、肩を落としかけていた美琴がはっと顔を上げる。
これっぽっちも美琴のせいではないのに、繰り返されたらアールだって困ってしまうのだ。
だから、もう言わないと1日目に約束した。
悪いのはテンで、真琴なのだから。
……ただそれもわからなくなる時があるのだけれど。
「そう、だったね。今できること、やろうって言った」
泣きそうに眉尻を下げた美琴は、ふるふると首を振って思考を切り替えた。
「姉がすでに柱巫女になっているとは、知らなかった。私達は、いろんなことを知らなさすぎる、と、思う」
「はい、だから、この大社でできる限り知ることにしましょう」
アールは以前、ネクターに言われたことを思い出す。
わからないことがあったときは、とにかく、それに関連する情報を集めること。
それ自体についてはわからなくても、周りの情報を集めて光を当てていけば、いずれその知りたいこともわかるようになるのだから。
心細いのは確かだけれど、泣きながら、ただ待っているだけは嫌なのだ。
「私は、昨日と同じ。書庫で、無垢なる混沌と、テンさんについてわかることがないか、調べてみる」
「ぼくは、大社の構造を把握して、抜け道がないか探してみます」
アール達は放任と言っても良いほど、行動の制限はない。
どうせ、逃げることができないと思われているからだろうが、好都合だった。
「それに、今日は手の空いている巫女さんたちに、文字を教えて貰う約束をしているのです。それとなくお話が聞けないか頑張ってみますよ」
ふんす、とアールが気合いを入れていると、美琴は黒々とした瞳に意思を宿す。
「頑張ろうね、アール」
「はい、みこさん。がんばりましょう」
一つ気合いを入れた二人は、長い廊下を一気に駆け抜けたのだった。
朝食を終えて美琴と別れたアールは、大社内を歩いていく。
つやつやとした白い「お米」と呼ばれる主食を、「お箸」と呼ばれる2本の木の棒で食べるのももう慣れたものだ。
最近は、ちょっとパンが食べたいなあと、思わなくはないけれど。
大社の外へは出られないと知っているから、巫女達もアールが一人で歩いていても気にしない。
なにせ、ここからは、テンの許可がないと門の外へ出ることもままならないのだから。
「むー。やっぱり無理かあ」
とりあえず、この大社の入り口へやってきたアールは、”門”を目の前に悩み込んだ。
入り口自体は巫女達にあっさりと教えて貰ったのだが、その門が問題だった。
それは丁寧に整えられた庭の中央にある、石造りの円柱だった。
アールの胸くらいまであるその円柱は、上部はすり鉢状にへこんで水がためられている。
そこから流れ落ちた水は、地面に複雑に作られた溝を通って周囲の庭へ消えていった。
円柱の表面に彫られた文字や、水が帯びている清冽な魔力で、それが一種の力場をつなげる転移陣の役割を果たしているのだとわかる。
けれど、アールにはどうしたらこれを起動できるのか、そもそもこれがどこにつながっているのかが、全くわからないのだ。
普通の転移陣だったら、一瞬で移動しているように思えてもレイラインを経由するから、必ず細い線がつながっている。
だが、この大社を流れるレイラインを感知しづらいのはテンが妨害しているせいだろうが、それにしてもアールの知識にない魔法で途方に暮れてしまっていた。
庭の端まで歩いてみても、外にはつながらず、反対側の庭に出てきてしまうから、この空間自体が外の世界と隔絶されているらしい。
だから、この門だけが出入り口なのだが、そもそもこの門に使われている術式が転移用なのかも自信がもてないのだった。
「みこさんに期待するしかないのかな。まだ、ぼくじゃあの文字は読めないし」
美琴はいま、大社の膨大な資料を切り崩して、テンや柱巫女につながる情報を探しているはずだ。
大社が成立した時代からの資料が眠っているという、建物一つ分ある書庫にひるんでいた美琴だったが、それでもやり抜くとこもっていてくれている。
その中に、もしかしたらこの門の開け方もあるのかも知れない。
巫女達に聞いたところによると、この門を開けられるのは、テンと真琴だけらしい。
真琴は一度、この門を開けるところを見せてくれて、そこからほかの巫女達が外へ用を足しにいって返ってくるのは確認していた。
そのときはレイラインを感知できたのだが、起動している間だけだ。
この大社は、朝と夜があって、庭はとてもきれいで、空気には魔力が満たされていて、とても落ち着くことができる。
なのに、レイラインだけはない。
その一点だけが変で、ここはどこなのだろうとアールは途方に暮れていた。
「でも、ここにつながっているのはわかっているのだから、読み解けるように頑張ろう」
アールが着物の袖を揺らして気合いを入れたとき、ふわり、と円柱を流れる水が光と魔力を帯びた。
円柱の転移陣が起動したのだ。
噴水のように流れ出した水が溝を通って円柱を中心に放射状に広がったとたん、一斉に水が立ち上がる。
水の壁はさらに光を増していき、唐突に水面が凪いだ。
それで、何処かにつながったことを知ったアールは、一瞬飛び込もうかと考えた。
とにかくこの領域から出れば、助けを呼べるかも知れない。
けれど、そうすればここに美琴が一人になってしまう。
一緒に出ようって約束したのに、おいてはいけない。
そうやって考えているうちに、水面の向こうから大きな人影が近づいてきた。
さあっと、水面に波紋を広げて、その姿が現れた。
「まったく、分社までは出られるんだから、こっちにくればいいのにテンのやつ……って、え」
ぶつぶつとつぶやきながら水面から出てきた人は、男の人の姿をしていた。
肌も衣服も濡れていないのは以前見ていたから、それほど驚かない。
けれど、その男の人が身にまとう服が西大陸のものであること、彼の独り言が西大陸語だったこと。
さらに言えば、彼が精霊であることに驚いて、アールはぱちぱちと瞬きながら、淡い髪と淡い瞳をした青年を見上げた。
その青年は背に負ったリュートの位置を直しつつ、ひどく驚いた表情でアールを見下ろしていたのだった。





