第11話 狐人の少女は兄を想う
ざく、ざく、ざく。
天城美琴は脳裏に鮮明に焼き付く光景を振り払うように、森の中を歩いていた。
乱暴に下草をかき分けたことで緑の匂いがいっそう強くなり、ちぎれた草の汁が裾を汚したが、かまわなかった。
一応、安全を考えて、帰り道のわかる、森の浅いところまでしか進んでいない。
美琴の耳も鼻も、この周辺の濃密な魔力と強力な生ける者の気配を感じ取っていた。
その中で一時期の感情で愚かな行為に走れるほど、巫女としての研鑽は甘くはない。
それでも、一人になりたくて、ぎりぎり灰色の部分まで無視していることは否めなかった。
木立がこすれるさざめきしか聞こえなくなったところで、美琴は丁度良さそうな樹木を見つけて足を止めた。
根元に持ってきていた杖を立てかけると、軽く足に力と魔力を込める。
東和に伝わる身体強化術で軽く飛び上がった美琴は、太い枝に飛び乗ると、そのままとん、とん、とんと、上っていった。
見晴らしがいいところまでいったところで、美琴は枝の付け根に座り込んだ。
この森の木はどれも立派で、下がかすむような高さまで来ても美琴を支えられるほど枝が太く、主軸は言わずもがなで寄りかかるにも困らない。
自分の黄金色の尻尾を抱き込んだことでようやく落ち着いた美琴は、ほう、と一つ息をついた。
『……すごかった』
はからずともつぶやいてしまうのは、感嘆の言葉。
『仙にい、すごく、強くなっていました』
その事実に圧倒され、同時に泣きたいような心地になる。
頭の耳が勝手に伏せられてしまうのは、紛れもない美琴の心情を明確に表していた。
発端は、ラーワとリグリラの遊び場として作られたという陸の広場で、先ほどリグリラと仙次郎が遊びだと言って模擬戦を繰り広げたこと。
魔族だというのに魔術は使用せず、武器も仙次郎とおなじ、槍のみに限定するというリグリラの言葉に、美琴はあきれたものだ。
なぜなら、故郷での仙次郎は幼い美琴が知る中でも国一番であったし、東和の歴史上最年少の13歳で守人の資格を得ていた。
守人は、心、技、体を全て併せ持ち、血のにじむどころではなく、血反吐を吐くような研鑽を積んでなお、たどり着けぬ者がいるほどの高みだった。
人々の安寧を守るため、巫女達とともに日々妖魔のふりまく厄災を防ぐ役割を担っている。
常人ではただ、食われ、消滅するしかないそれらの脅威を、その身一つで、あるいはたぐいまれなる術によって退け、時には無体を強いる八百万の神々にまで立ち向かう。
その活躍があってこそ、平安が守られていることを東和の民は骨身にしみてわかっており、尊敬と敬慕を一身に集めているのだ。
現に、仙次郎は東和時代に、神々の一柱を退けた実績もある。
だから、昨日仙次郎の言っていた「一太刀入れるのがせいぜいだ」という言葉も驚きはしてもさほど重くは受け止めていなかったのだ。
だが、彼と彼女が向き合った瞬間、それが誇張でも何でもないことを嫌でも理解した。
気あたりがちがう、気迫が違う。
一合、切り結んだだけで、空気がびりびりと震えた。
動きは早すぎて残像となり、槍の穂先がとらえられず。
攻防が目まぐるしく入れ替わり、ただ槍の柄が打ち鳴らされる音ばかりが響く。
隣で、この応酬のすさまじさにエルヴィーが青ざめていたが意識の外だ。
巫女として、美琴もそれなりに武術たしなんているからこそ、わかってしまう。
リグリラと名乗った神の……こちらでは魔族と言う彼女がどれだけ桁違いか。
その彼女の荒々しくも華麗な、槍の舞を受けきれている仙次郎がどれだけ高みにいるか。
そして、彼と彼女がどれだけ想いを交わし合っているか。
わかって、しまった。
自分が、どういう気持ちで兄を、仙次郎を追っていたか。
理解してしまった。
かなわない。と。
仙次郎とは年がほぼ一回り離れているせいか、ずっと優しくしてくれる兄だった。
美琴が物心ついた頃にはすでに守人として活動していて、いつものほほんと笑っていた。
いればいつでも遊んでくれて、おいしいものを買ってきてくれて、里の誰よりも強い。
自慢の兄だった。
だから、美琴もいつか、この人と肩を並べられるようになろうと、巫女を目指した。
ただ、肩を並べたのは、大社の巫女となった姉の真琴だったけど。
もともと年が離れている上、姉は幼いころから才能を発揮していた。
なにより、国一番の術者になり、大社入りすらした姉は、優しく柔らかく、美琴にないものを全て持ち合わせていて。
だから姉と兄の婚約話が出たときも、大好きな二人が一緒になるのならば幸せだと、素直に思えたのだ。
なのに、彼は婚約寸前で出奔した。
『仙次郎は、運命の人を探しに行ったのですよ』
知って真っ先に会いに行った姉の真琴は、そう話してくれた。
いつもと変わらず、嬉しげに笑みすらこぼして。
それが美琴の心に何かを落として、許せない、と思ったのだ。
いままでそれは、姉を捨てていった仙次郎への怒りといらだちだと考えていた。
だから、巫女達の中から、留学の話が出たときに、真っ先に手を上げて、真琴の推薦もあって、美琴は東和からバロウへ来たのだ。
けれど。
『違ったのですね……』
美琴は自分の尻尾をぎゅっと握って、膝に顔を埋めた。
羞恥と、戸惑いと、心をえぐられるような痛みがどろどろと胸の内を渦巻いている。
昨晩、金砂の美女、リグリラに指摘された瞬間は、何を馬鹿なと思った。
あくまで兄であったはずだった。
家族が急にいなくなれば心配するだろう。
そう思ってまくし立て、初対面のさらに言えば荒御魂であるリグリラと人生で初めてくらいの大げんかを繰り広げた。
その最中は必死すぎて忘れていたが、荒御魂に無遠慮に怒鳴り散らすなんてよく殺されなかったと思うし、同時にのぼせてダウンする、という引き分けに持ち込めたのはなかなかの偉業なのかもしれない。
だがそうやって言い合っているうちに、どんどん腑に落ちていってしまったのだ。
彼女が仙次郎に向ける想いと、美琴が持つ想いが、あまりにも似通いすぎていることが。
いらだちの正体は、自分はあきらめたのに、どうしてあっさりあきらめるのか、という姉に対しての怒りだった。
美琴は、国のためではなく、姉のためでもなく、自分自身のために、仙次郎を追いかけてきていたのだ。
でも、もう遅い。
美琴の恋は、自覚すると同時に破れてしまった。
口げんか、という対話の中でわかった。
傲慢で、理不尽で何より荒御魂らしいリグリラがどれだけ仙次郎に焦がれていたか。
なにより、模擬戦とはいえ、槍を交わし合う姿は何よりもしっくりきて。
彼の心底楽しげな闘志むき出しの表情が、東和にいた頃よりも、数段輝いていることを。
無意識でも、ずっと彼の面影を追い続けてきた美琴だからわかる。
仙次郎は探し続けた人を見つけた。
美琴の入る余地などどこにもない。
なにより、あの二人の間に入り込めないと理解してしまった。
美琴は、深く長くため息をついた。
身が裂けそうな胸の痛みが治まるわけではない。
無自覚だった想いを自覚してしまった今、仙次郎とリグリラをまともに見られるかというとそんなわけがない。
だから、せめて冷静に折り合える時間が欲しいと、逃げてきたのだった。
『お姉ちゃんは、このことをわかっていたのでしょうか』
きっとわかっていたのだろう。
記憶の中にある姉が仙次郎に向ける瞳に、リグリラのような色はなかった。
姉である真琴は、大社入りを果たしただけあって、恐ろしくさとい。
もしかしたら、美琴に留学を勧めてくれたのも、美琴の恋心を見抜いていたのかもしれない。
『……それは、とても恥ずかしいのです』
かあと勝手に熱くなる頬に、わき上がってくる落ちつかなさに、もだもだと震える。
美琴が頭を振えば、耳と髪がひんやりとした空気にさらされたことで、少しだけ気が落ち着いた。
略式だが、背筋をただし、瞑想にはいる。
巫女や守人の修行の一つだったが、ごちゃごちゃになった心を整理するにも丁度いい。
この胸の痛みを消すには何ヶ月も瞑想が必要だろう。
だからせめて、リグリラと、仙次郎の顔を見ても、逃げ出さないくらいには落ち着けたいと、意識を底に沈めて凪にした。
森の中、というのは実に瞑想に向いている。
木立のざわめきと、濃密な魔力の流れに身を任せれば、自然と意識は薄れていくのだ。
そうすれば、余計なことを考えずにすむ。
と、反射的に狐耳が動いた。
ぱち、と瞳を開けた刹那、嵐のような強風が吹きすさぶ。
急速に近づいてくるのは、まがまがしい敵意の気配。
警戒度を一気に引き上げて首を巡らせれば、上空から翼を広げてこちらを急襲しようとするものを見つけた。
美琴よりも大きな翼を広げている猛禽は、その翼にふさわしく強大だ、
鋭いかぎ爪とくちばしを備えて、やたらと大きい目玉をぎょろつかせている。
ここまで魔力が感じ取れることからして、おそらくは幻獣だ。
この距離で視認できるほど大きいのであれば、美琴を軽々とかぎ爪で持ち運べることだろう。
地上の獣に襲われぬように木に登ったが、空からの脅威については油断していた。
ほぞをかみつつ、びりびりとしたプレッシャーにひるまぬよう気を確かに持つ。
今から地上へ避難したとしても、落ちていく途中で捕まるだろう。
美琴はならば、と地上を目指して降りていくかたわら、迎撃のために空いている手を差し出した。
『”おいでませ”』
巫女の杖は所有者の呼び声に応じて飛んでくるよう、あらかじめ術式が施されている。
この程度の距離ならば一瞬だ。
地上に置いてあった美琴の杖が、呼び声に応えて高速で飛来する。
手に収まれば、この程度の幻獣は美琴でも抗しきれる。
だが、そのとき、幻獣が口を開いた。
『ケエエエエエェェ!!!!』
不気味な奇声が耳に響いた瞬間、すさまじい衝撃に襲われて美琴の視界がぐんにゃりとゆがんだ。
まるでぐるぐると回転したあとのような平衡感覚のおぼつかなさに、吐き気をもよおしつつ、これがあの幻獣固有の魔術だと気づいた。
杖は何とか手にとれたものの、飛び乗った枝からは、ずるりと落ちた。
おそらく、幻惑系の魔術だろう。
声によって生物の三半規管を乱して、釘付けにしたところを襲う狩りの知恵。
人一倍耳のよい獣人であるとはいえ、やすやすとはまってしまったことに、美琴は焦燥に満たされた。
平常ならば問題ないが、視界も体もまともに利かない中、この高さから落ちれば、美琴でも無事ではすまない。
なにより凶悪な羽音がもう間近に迫っている。
唇をかんだ痛みで、飛びかける意識を保ちつつ、手にある杖を構えたが、いつもより集中ができない。
間に合うか、そう思ったとき。
割り込んできたのは、なじみのありすぎる匂いだった。
視界を覆うのは、灰色の影。
思ったときには体をさらわれていた。
「破ァッ」
『ケエエエェエエエエェ!!!』
東和、独特の呼気とともに繰り出された衝撃が美琴の体を揺らす。
同時に、怪鳥の奇声が……いや断末魔が響いた。
そうして軽い着地音とともに、地に降り立ったことを知り、おぼろな視界に、灰色の髪と、自分のとは微妙に形の違う耳が見えた。
たぶん、すごく心配そうな顔をしているのだろう。
いつだってそうだったから。
『大丈夫か、美琴』
案の定、心底案じるように声をかけてきた仙次郎に、美琴は泣きそうな気分になって、ぎゅっと眉間に力を入れたのだった。
『平気、です』
かろうじてそれだけ言い返した美琴は、仙次郎の腕に抱かれたままなことに気づいて、急に落ち着かない心地になった。
想いを自覚してしまった今、それが非常に恥ずかしい。
いそいそと腕から逃れれば、まだ、まともにたつことができずに、その場にへたり込んだ。
また吐き気が襲ってくる。
『おい、美琴どうした!?』
『あの鳥の、魔術を受けてしまっただけです』
慌てる仙次郎が肩を抱いてこようとするのを制して、美琴は愛用の杖を握りなおすと、己と、周囲の魔力の流れを感じ、杖に通した。
『祓い給え 清め給え』
略式の祓い言葉を唱えれば、たちまちはかない燐光となった魔力が美琴を押し包み、怪鳥の魔術が打ち消される。
ようやくまともになった五感に息をついて、隣を見れば、少し驚いたような仙次郎の灰色の瞳と目が合った。
『なんですか』
『いや、略式の祓えだけで解呪ができるほどなんだなあと』
感心した風の仙次郎に、少し照れたものの、複雑な気分で眉をひそめて見せた。
『いったい何年たっていると思っているのです。仙にいがいた間から巫女の修行は始まっておりましたし、そのあとも成長せずに巫女になれるほど、修行は甘くはありません』
『そうだったな』
懐かしそうに目を細める仙次郎から視線をそらした美琴が、血臭に振り返れば、そこには首を切り落とされて事切れる、怪鳥の幻獣がいる。
その傷の断面は見事の一言で、紛れもなく危機から救ってくれた証であった。
いくら腹立たしくとも、どれだけ胸に渦巻くものがあっても、それは、言わなければならない。
自分の浅慮さと、不覚をとった屈辱に狐耳をへたらせながら、美琴はちいさく、本当に小さく口にした。
『ごめん、なさい』
ぎゅうと、杖を握る手に力を込めて俯けば、その頭に大きな手が乗った。
そのままなだめるように軽くたたかれる。
耳をかすめず、さりとて痛くない絶妙な力加減のそれは、懐かしい仙次郎の手だった。
『わかっているんなら、十分だ』
とがめるでもなく、甘えさせるでもなく、ただ淡々と認めて成長を促すその優しさに、泣きそうになる。
こう言うところが、好きだったのだ。
ああでも、好き”だった”と、思ってしまうのだ、もう。
黙り込んでしまった美琴に、仙次郎が少し途方に暮れたような顔をして、思いついたように言った。
『そうだ。ロック鳥は肉食だが、ちゃんと処理すればうまいんだ。持って帰ればネクターが料理してくれる。術を使えば腹が減るんだから食べるだろ?』
明らかに美琴を慰めようとする言葉に、すこし気恥ずかしい気分と、決まり悪さに肩を落とす。
『仙にい』
『なんだ?』
『とりあえず、血と内臓を抜きましょう』
それでも食の質を落とす気はない美琴は、半眼で提案したのだった。
ロック鳥の体長は仙次郎ほどはあったものの、彼は難なく担ぎ上げた。
代わりに美琴が周囲を警戒しながら、来た道を戻っていく。
あらかじめ警戒していれば、美琴でも十分対応できるし、仙次郎が反撃に出るための時間稼ぎはできる。
ざく、ざく、ざく、と茂みをかき分ける音だけが響く。
すでにロック鳥から血臭はほぼしない。
あの場で美琴が祓い、体内から全ての血を抜いたからだった。
「魔を祓う」という性質の魔術であるが、同時に洗浄という面でも非常に有用なのは東和の巫女の間では周知の事実だ。
その効力は、洗濯物のシミ落としにこっそり使われたりするほどである。
むろんあまり推奨されないが、野外で狩りをしたときは非常に便利だった。
美琴は少し後ろを歩く仙次郎の気配を感じながら、ぎゅっと杖を握る。
昨日、あれほどの拒否反応を示してしまった手前、さらに恋心を自覚してしまった美琴は、今更どんな言葉をかければいいか、わからなかったのだ。
だが、仙次郎は美琴が話しかけない限り、口を開かないだろう。
そういう気がした。
それに、美琴だって、聞きたいことがある。
たぶん、みんなのところに戻ったら、聞けなくなるから、今が一番いい。
『仙、にいは』
口にして、背後の仙次郎が耳をそばだてたことが感じられて、気恥ずかしさを覚えながら、前を見たまま続けた。
これは、美琴が次に進むためにも、必要なことだ。
顔は、見られたくなかったから、この距離も都合がよかった。
『あの荒御魂のほうが大事なのですか』
東和にいるよりも、姉の――自分と過ごした月日を捨ててもかまわないと思うくらい、追い求めるのが大事でしたか。
その答えに関しては、もうだいたい想像がつく。
それでも、明確に言って貰わなければ踏ん切りがつけられなかった。
足は止めず、歩きながら、仙次郎の答を待っていると。
『悩んだよ』
そんな、答が返ってきて、美琴は思わず足を止めた。
『何度も悩んだ。だが、それでも彼女に会いたかったんだ』
硬質な、絞り出すような声音。
その苦悩が透けて見えてしまうような。
最後は家族の元に残るのではなく、焦がれる人を探すことを選んだのだとしても。
苦悩の種になれるほどには重い存在だったと、そういうことだ。
『いいわけ、ぐらい、してください』
こぼれた言葉に、返事はない。
知っている。
こういうときの仙次郎はごまかしも、言い訳もしないのだ。
『寂しかったのだけは、わかって』
『ああ、ごめんな』
それで、終わりにして。
美琴は振り返ることはせず、また歩みを再開した。
頬を、熱いものが流れ落ちる。
仙次郎が、息をのむ気配がした。
『美琴……』
『仙にい。お肉を、地面に、置いたら、許しませんよ』
嗚咽の混じる声のまま、先んじて言えば、仙次郎の気配がわずかに遠ざかる。
こんな、みっともない顔、見られたくないから。
今の言葉で、心はほぐれたりはしない。
この痛みも、すぐにはなくならないだろうけど。
これで、すこしは楽に息ができそうだった。





