王子様狂想曲
1
池の中に入れられているとは考えなかった、教室で落としたハンカチが。
ぷかり、ぷかりと浮かぶハンカチを見て、アプリード・エクスブレイヴは溜息をつく。誰か犯人か分かっているけれども、誰かに言ったりはしない。
突っかかってくる人物は複数いる。複数いる上、実行する人間はその侍女たちであり、各人に一人から二人付いている。
――セーラさんがいくら有能でも、人手足りないよね。
自分に付いている侍女のことを思い出しながら、こういったことを防ぐための妙案はないかと考える。現状、隙を見せないこと以外ない。
アプリードは浮かぶハンカチを眺め、どうやって取るかが今一番重要なことであった。ハンカチ一枚だからといってあきらめるには新しいハンカチであり、物を粗末にできないたちだった。
ハンカチを池から取るとしても、きれいに整えられ、ごみ一つない場所であるので、大きな枝が転がっていることはない。
ここは学校だ。アプリードは爵位持つ父を親とする娘だ。学校関係者を呼びつければ、取ってくれるだろう。出自がどうであれ、彼女の言うことを聞いてくれるはずだ。大事になるだろうけど。
犯人というか、やってほしいとほのめかしたのかアプリードは推測できるし、当たりだと考える。やってほしいとほのめかしたのは、公爵家のグローリム嬢である。
なぜかグローリムは、アプリードを目の敵にしている。アプリードは理由を推測するが、正解かは分からない。本人に面と向かって話せない。かといって、遠回りでも誰かから聞くこともできない。
グローリムは見た目や表向きの性格についていえば、非の打ち所がない。アプリードは「すごい、お姫様ってこういう人を言うんだ」と最初は憧れを抱いた。
一般の評価でもグローリムはほめたたえられている。たおやかで、社交界の新星とか、妻に迎えたい女性だとか言われている。
豪奢に波打つ長く柔らかい金髪、雨上りの空を写し取ったような青いひとみ。華奢な作りの四肢。細面でありながら、頬や唇はふっくらとして血色がいい顔。おっとりとほほ笑み、困惑の顔すら美しい。学校の成績も首位を維持し、あくせくした感じもない。
困っている人を見れば手を差し伸べ、お茶会をこまめに催し人を招く。
寮のサロンの中心にいる人物。
これが曲者だった。
アプリードは新参者で規則等教えてもらう立場にある。明文化されているものはいいが、それ以外のものは見て聞いて初めて分かる。
始めのころは親切だし近くにアプリードもいた。付いていくというより、付いてこられる、世話を焼かれる雰囲気だった。何が気に食わないのか、荷物が一部消えることが多発した。捜すと出てくるので、落としたのかと最初は思っていたが、どうやら抜き取って捨てたということがわかった。
――街のスリよりたちが悪いよ。
彼女たちが犯人だと気付いても、誰にも相談できない。誰に言ったところで、グローリムはいい印象が付いている。アプリードの妄想であり、事実としても排除されるのは確実だ。学校では身分は関係ないというが、政治的なことはあちこちにじみ出ており、公爵の娘より侯爵の娘は立場が弱い。
学ぶ者に身分は関係ないという学校で、入る直前までアプリードも信じていたが、グローリムのおかげで建前を理解した。教師の中には身分はなんて関係ないという者もいるが、あからさまに身分を見て対応する者もある。
結局、成績より身分が重要。女子の学校であるため、花嫁修業の要素も半分はある。
建前の身分は関係ないがあるため、貴族以外の子も入学を許可されているが、寮は別。授業のみ一部、競うタイプではないものが一緒。芸術も競うといえば競うことになるが、あからさまに何かできるものではない、ということだった。
アプリードが聞いたところによると、貴族以外の通っている生徒のタイプは二種類ある。一つは学業専念タイプ。働くための知識を詰め込む。学校の先生や会社の裏方向けの技能や知識に関するものらしい。もう一つは花嫁修業タイプ。この学校を出たとあると受けがいいから。
その手の授業もあるし、礼儀作法もきちんと学べる。この学校だと上流階級と付き合いがあるように見えるというのも重要であった。
上流階級の人物と実際知り合う機会あるかというと、実は少ない。あいさつはしても言葉を交わすことはよほどでない限りないし、覚えてもらうなどなかなかない。何か突出した技術や噂がない限り、貴族の娘たちの目には留まらないのだ。
そんな中、アプリードの存在は浮いている。
貴族であって貴族ではない。庶民であって庶民ではない。
――母さんと父さんの子ではないと思ってたけど、まさか三文小説みたいなことあるんだ。母さんに、侯爵の手が付いて、私を身ごもって、追い出され、父さんが受け入れたって。
ここに来るまでのいきさつが走馬灯のように思い出される。別に死を意識するほどのことではないが、貴族のお嬢様同士のやり取りはつらいものもある。
今は水の中に手を突っ込む。ハンカチが水没していくまで時間があまりない。
――女の子がいないから養女にってUターン。父さんが病気で、母さんぎっくり腰、弟たちはまだ働くには心もとない。お金くれるっていうから頑張ってここにいるけど。
侯爵家の養女としての仕事だと考える。一つずつ目の前の状況を対処していくしかない。袖をまくって手を水の中に入れて、そこまでの距離を測ろうとした。届かないので少なくとも二十センチ以上はある。
――きれいな服着て、勉強して、学校入って。侯爵家の人、そんなに悪い人ではないから、運良かったと思ったよ。でも、人生楽できない。
ハンカチとの距離を測る。
灌木の枝を引っ張って、強度を確認する。手入れが行き届いているおかげで、立派に成長している。
太い枝をつかみ、アプリードは手を伸ばした。無謀だとも思ったけど、試してみる価値はある。
落ちるとずぶ濡れ。
根性と勢いで勝負だ。
手を、腕を伸ばした。あと少しでハンカチに手が届く。
つかんだ。
気が緩んだ。気を付けないとならない。
「そこで、何をなさっているんですか?」
涼やかな小さな声。思わず、アプリードは振り返ってしまった。
「え?」
「危ない」
枝はアプリードの手から抜けて行った。体がかしいでいく。同時に足が岸から滑り落ちているから、踏ん張ることもできない。
――深くないといいな。セーラに怒られるんだよね……どっちにしろ。
何もできないから諦めているし、冷静になってくる。
誰かがアプリードの手をつかんだ。一瞬落ちるのが止まるが、足が止まらなかった。
「うわっ」
「きゃ」
ばしゃーん。
池に落ちた。
予想通り二十センチ以上であったが、深くはなく膝よりは下だ。
ストッキングを脱いでドレスのすそをたくし上げさえすれば、入れた。ぬれる被害は少なかったかもしれない。
今は、全身ずぶぬれで、二人で座り込んでいる。
声の主で、一応助けてくれようとした人物をアプリードは見た。同じ学年のアドゥディラ・ベスグリだ。
「ベスグリさま」
アプリードはあわてた、ずぶ濡れなのだ二人とも。謎の貴族と言われる彼女。それでも美人であり、控え目な性格、失点のない礼儀作法により、グローリムに一目置かれる存在。
アプリードの方が立ちやすかったため、すぐに彼女を立たせるべく手を差しだした。
アプリードのハンカチ以外で、池に膨れた何かが浮かんでいる。小さなクッションのようなもので、針刺しより平たく、大きい。
何かの形を思い起こさせる。
アドゥディラはそれを静かに手にすると、アプリードの手を借りずに立ち上がる。
「エクスブレイヴさま、お怪我はありませんか?」
「い、いえ、助けて下さってありがとうございます……。ん?」
アドゥディラが素早く背を向けたから勘違いかも知れない。浮かんでたあれを考えると、間違いではないかも知れない。
きれいなデコルテが見えるドレスを着るアドゥディラであるが、その胸のふくらみがなかったのだ。
腕を握られたときの感触に違和感があった。
二歳年下の弟よりは大きい。七歳年上の侯爵家の兄よりは小さい。アドゥディラの手のイメージは男だった。
――胸が小さく。たまたま大きい手の方かもしれないし。
そもそも貴族の娘を預かっている学校なのだから、男がいるわけはない。審査だって厳しいし、間違いがあったら学校は存在していないはずだ。
アプリードは岸に向かって歩き出す。通常であれば三歩程度。水を吸ったドレスが重い上に、ヒールが泥に絡まるという事態。転びかかる。
アドゥディラは岸にいる侍女の手を借りて上がる。岸は石で固められており、水面より十センチは高い。
アプリード一人で登るには若干時間がかかりそうだ。
「音を聞きつけたものが来てしまいます。アドゥディラさまは先に部屋に戻ってください。この方はわたくしが引き上げておきます」
アドゥディラの侍女がアプリードに手を差し出すが、アプリードは首を横に振った。
「私が一人落ちたことにすればいいので、ベスグリさまと一緒に行ってください」
彼女を巻き込むのも悪い。そもそも、不注意でこうなったのだ。
「くしゅん」
アプリードはくしゃみを漏らした。立ち去りかけたアドゥディラは池に入った。アプリードの腕を取ると、引きずるように岸に押し付けた。再び侍女の手を借りて上がると、アプリードを二人で引き上げる。
「あ、ありがとうございます」
「わたくしの部屋が一番近いですから、行きましょう」
足早にアプリードはアドゥディラと共に立ち去った。水滴が床を濡らすので、何かあったのはすぐにばれるだろう。
アプリードは不意に目頭が熱くなる。
情けないやら、嬉しいやら。
2
アプリードは部屋に入ってすぐ、はっとした。何か罠があるのではないか。
「御厄介になるわけにはいきませんので、私、部屋に戻ります。ベスグリさま、助けて下さってありがとうございます。お礼は後日……」
アドゥディラはアプリードの手をつかんだ。
「待ってください。泣いているあなたをお帰しするわけにはいきません。ベス、彼女の侍女を連れて来てちょうだい」
「かしこまりました」
ベスはモップを持って立ち去る。水を拭く作業も行うのだろう。
「エクスブレイヴさま、ぬれたドレスのままだと本当に風邪を召してしまいますわ。風呂場で脱いでしまった方がいいですね。ただ、風呂の湯が無いのです」
「いえ、タオルを貸していただければ、自分でできます」
「……エクスブレイヴさま、そこでは困りましたとしておく方がよろしいかと。そもそも、ドレスを一人で脱ぐつもりでした?」
「……あ」
貴族の子女、身分が上になるほど一人で着られない。
一方、アプリードは着にくいもの以外は、独りで脱ぎ着できる。自分でできるのに他人にやってもらうのが気後れであった。
「困らせるつもりはなかったのだけど。わたくしも、独りでできます。わたくしと一緒というのも互いに嫌でしょう? ですから部屋を分けるのです」
アプリードは、分ける理由を考えた。アプリードが嫌いというより、彼女は自分の気にしていることがばれることが嫌なのかもしれない。
「そうですね。ベスグリさま、気になさらないでください。私は誰にも言いません。ベスグリさまは十分素敵です!」
アプリードは風呂場に行こうとした、素直に従おうと考えて。余計なことを言ってしまったのにアプリードは気付いていない。
「待て」
これまでのアドゥディラの声とは異なり、低く、押しごろしたもの。
「何を知って、黙っているだって?」
冷たい視線が恐ろしくもある。街で見かけたチンピラみたいな気がした。何を口走ったかを思い起こしながら、機嫌を損ねたくないので注意して口を開かないとならない。
「大きな声で言ってしまうのは、さすがの私も恥ずかしいのですけど……。気にされているんですよね、胸のこと。水に浮いたので見てしまいました……胸に入れているものですよね……」
アドゥディラは疑うような探るような目を向ける。次第に安堵していく。
頬を赤らめると、うつむいた。
「……本当におっしゃらないでください」
消え入りそうな声。さっきのどすの利いた声はどこに消えたのか。
――すっごく表と裏があるのかしら。
などとアプリードは考えつつ答える。実は自分と同じで庶民出で貴族になったばかりだったとかなどと、想像力豊かに考えていく。
「もちろんです。もっとも、私の言葉に耳を傾ける人、いないと思います」
「エクスブレイヴさま?」
「何でもないです。では、風呂場をお借りします」
風呂場に入ったアプリードは脱がなかった。
親切であるし、弱点の可能性がある胸のパットのポロリもあった。だけれども、隙を見せることは避けないとならない。ドレスを脱いで、逃げられない状態で何か仕掛けられるかもしれないから。アドゥディラと接点がこれまでなかった。彼女はグローリムと接点がある。
先程はタイミングよくすぎた。
侍女のセーラが替えのドレスを持ってくるまでは安心できない。
「くしゅん」
髪の毛くらいは拭こうと、タオルを手にした。状況が分からないため、イライラと鬱々がやってくる。
親切を疑いたくないが、これまで接点ないことを考えると付き合いたくないとも考える。
風呂場の扉がノックされる。
「お嬢様、入ってもよろしいですか」
「セーラ」
アプリードはほっとした。入ってきた侍女のセーラは、見るなり目を吊り上げる。
「なんて状態なんですか! まず、ドレスを着替えましょう」
水を吸って紐が抜きにくくなったドレスや下着を手早く脱がしていく。タオルで体を覆うとアプリードは自分で拭く。その間、セーラはぬれたドレスを袋にしまい、新しいドレスを取り出す。拭き終わったところで、下着をアプリートは着る。簡易なコルセットをつけると、ドレスを着た。後ろのひもを閉じて髪をとかしにかかる。椅子に座らされたアプリードの髪の毛をタオルで丹念に拭く。
「お嬢様、何があったんですか? ベスさんから聞いた話では、池に落ちた物をとって落ちたとのことでしたけど」
「その通りです」
「衛兵にでも頼めばよいでしょう」
「そうすると、騒ぎが大きくなる。そうしたら、彼女たちを喜ばしてしまう」
「……公爵家ですか」
「うん」
セーラが黙った。
「ぎゃふんと言わせたいですね」
「でも、侯爵様に迷惑がかかることもあるから」
「分かっています」
侯爵家に雇われる侍女であり、仕事に誇りを持っている。だからこそ、アプリードがいじめられるのは許せない。許せないけど、家同士のしがらみを知っているから動けない。侍女同士で話すこともあり、弱み握れないかと間者活動もしているとのことだ。
「一番は、王太子妃にお嬢様が選ばれることですね」
ズバリとセーラは言った。アプリードが侯爵家に引き取られた理由は王太子妃探しである。
「……そればかりは、私の力ではどうしようもないんですけど」
「分かっています。少しでもお嬢様のいいところを引き出し、アピールするのがわたくしの役割です」
しかし、ここは王宮ではないので、アピール先がない。
濡れているアプリードは見苦しくない程度になった。
風呂場を出ると、テーブルセットのところにアドゥディラがいる。アドゥディラも濡れたドレスからは解放されている。
ベスはティーポットを持っており、お茶の支度をしているようだ。
「ありがとうございました」
「いいえ、どういたしまして。それより、お茶いたしませんか? 冷えていらっしゃるでしょう?」
「悪いです」
「何が悪いんですか? お時間があるのでしたら、ぜひ一緒に」
アドゥディラの表裏なさそうな優雅な振る舞いに、アプリードの目にじわりと涙が浮く。ひっこめと念じ、何とか一粒こぼれるのだけで済んだ。それを袖でぬぐう。
椅子に座った。
ふんわりとバラの香りが漂っている。アドゥディラの香水だ。教室は各人の香水で充満するので、個人個人の香りは、近づかないと分からない。
アドゥディラの香水は何度か嗅いだことがある。好みのかおりだったので誰だろうとは思っていた。
アドゥディラはちょっと硬めの金髪で、真っ直ぐに伸びる彼女の髪は水分が残るため、しっとりとしている。新緑の瞳が柔らかに微笑む。
「こうしてお話しすることは初めてですね」
「そ、そうですね……」
先程の秘密共有のこともあるし、謎の貴族令嬢という彼女は生粋の貴族であることは間違いないだろう。どこでグローリムとつながっているか分からない。気は抜けない、いくら優しいといっても。
「エクスブレイヴさまは一匹狼だという噂がありますわね。グローリムさまのお茶会も、なかなかおいでにならないとか」
「……たぶん、なじめてないからだと思います」
濁しておこう。彼女がどういう状況にある人物か分からないのだから、事実を言っても仕方がない。巻き込むかもしれないし、言いつけるかもしれない。
お茶会は最近は呼ばれたことはない。入って半年経つが、呼ばれたのは入ってすぐのころ一度きり。それも、彼女のレベルを確かめる為だったはずだ。
彼女自身、お茶会をしてみるということも考えた。セーラと相談の結果、ぼろが出かけないので断念。侍女が数人いるとか、侯爵夫人がいるなら何とかなるかもしれないが。
「わたくしも人のことは言えないんですけれど。グローリムさまが直接招待されても、梨の礫とおっしゃって寂しがっていましたわ」
アプリードは眉をひそめる。もちろん、表には出していないつもり。他人から見ると少し表に出ている。
「私より、一年早くいらしたんですよね?」
「そうです。わたくしも途中から入学しました。グローリムさまがよくしてくださったので、なじめましたわ。そう考えると、わたくし、もっとはやくエクスブレイヴさまとお近づきになれば良かったですわね」
「それは……」
どうだろうか?
アプリードは二つの事を考えた。アドゥディラのおかげで学校に溶け込める自分。一方で、アプリードに関わったことで彼女もいじめられている現在。そうなったら、仲良くしてくれるのだろうか。
「過去は過去です」
ベスがお茶をカップに注ぐ。茶の銘柄を言ったが、アプリードはなんとなく分かる程度。覚えたけど、理解していない状況だ。
「そういえば、グローリムさまたちは王太子妃になるべく邁進するとおっしゃっていましたわ。わたくしは興味ないんですけど、エクスブレイヴさまは?」
彼女はすでに婚約者がいるのだろうか? アプリードは疑問を抱いた。王太子妃を身分の高低関係なく目指したがっているモノだと思っていた。
「……難しい問題です」
「難しいですか?」
「はい。一応、気にはなります。でも、私は王太子を存じ上げません。王太子だってそうです。近付ければいいですけど、分からない問題です」
アドゥディラは目を見開いた。丸くなった目はすぐに細くなり、微笑みに戻る。
「近付けたら、どうするんですか」
「セーラがいるから大声では言えないですけど……素敵な人ならアピールするかもしれません」
「あら? 素敵でなければ」
「アピールするフリです」
「まあ」
「一応、侯爵さ……父には言われていますから」
「折衷案ですか?」
「内緒にしてください」
アプリードは何を話してんだろうと後悔する。彼女が敵に回るのであれば、面白い口実を与えてしまったのだから。侯爵は父親であるのだから呼び方を間違ってはいけない。
「侯爵があなたを養女にしたという話は社交界で憶測付けて飛び交ってます。時期が時期ですので、王太子がらみにあります。養女にした本当の理由を隠しても、隠していないと同じですよ」
「それもそうですね」
途端に居心地が悪くなった。
アドゥディラが何を考えているのかさっぱり分からない。アプリードに嫌味を言うわけでもなく、仲良くしようとするのでもない。とりとめのない話であるのが、アプリードには心地よかった。
「王太子と結婚できなくても、有力貴族と結婚させればいい話ですし。侯爵にとって問題はないんですよね。本当のこととはいえ、本人に向かって言うことではなかったわね。それより……わたくしが王太子を知っているといったらあなたはどうなさいます?」
事実だけど腹立ってきたアプリードは、突然の話に思考が停止した。
「え? そりゃ、お会いしたいです」
「そうですか。それは妃になりたいから」
「さっきも申した通りです。お会いしないと、どんな方かも知りません。ティピカッテさまやベスグリさまは社交界を熟知していらっしゃる。だから、王太子にもお会いしたことがあるとは思います。仕方がないですもの。知り合ってみないと……」
言葉は丁寧に話せていた。しかし、声は荒げる寸前まで来ていた。つかみかからんという雰囲気になっていた自分に気付く。
「申し訳ありません」
「いえ、こちらこそ。変なことを申しましたし、お互い様ですわ。そうだわ! アプリードさまとおよびしてもいいかしら? わたくし、あなたに興味を持ちましたの」
「え? 何の罠」
アドゥディアは驚いた顔になる。セーラが無言で怒っている。
アドゥディアは鈴を転がすような可愛らしい声で笑った。
「ごめんなさい。はしたないとは思いますけど、アプリードさまが面白くて……さっきからわたくし、あなたに失礼なことばかりしている気がするわ。でも、アプリードさまと是非友達になりたい、これは真摯な気持ちです」
「……」
「警戒なさらないでください。わたくしが誰かに意地悪するなら、徹底的に裏を調べ、家ごと落としますわ」
「え」
アプリードは後ろに逃げようとした。椅子に座っているから逃げられないが、アドゥディアの笑顔はすごみもあった。いじわるどころか、復讐や追い落としのレベルなのだ。
警戒するなというけど、安心できない。
「そんなにひどいことをする相手は今のところいないので、安心してくださいな。アプリードさまが社交界について知りたいなら、とことん教えますわ。わたくし、他人を育てたいと思ったのは初めてです」
「それは、私が至らないから面倒見てくれるということですか?」
「そうなりますわ」
アプリードは悩んだ。
ざっくばらんな言い方。信じるに値するなら、彼女の申し出はありがたい。アドゥディラの一挙手一投足は、グローリムに匹敵する優雅さなのだ。彼女の側にいることで、身につくかもしれない。
「先生よろしくお願いします」
立ち上がると深々とお辞儀した。
「あらあら。アプリードさま、ここで頭を下げるのは民や殿方がすることでしょ」
アプリードはあわてる。頭を上げると、ドレスをつまみ、身を傾けた。
「よくできました。アプリードさまが素敵な殿方の心を射止めたら、わたくし大変うれしいですわ」
アプリードは彼女を見る。にっこりと微笑む彼女はどこか不自然だ。手袋しているのは別に変ではないが、学校できちっとつけている人は稀だった。
――別におかしくないかも。手袋もおしゃれの一つだし。手にコンプレックスあるのかもしれないから。
アプリードはアドゥディラに名前で呼ぶように懇願され、約束した。
貴族の友人ができるかもしれない瞬間だ。嬉しいようで怖いような、えもいわれぬ思いが去来した。
3
部屋に戻ってから、アプリードはセーラに説教される。彼女が侯爵家の面子を気にし、アプリード自身を心配している。セーラに叱られるのは嫌だが、仕方がないことである。侍女とはいっても、教育係も兼ねているのだ。それに、貴族の娘として足りていないところが多いのだから。受け入れて、成長するしかない。
説教の後はそれぞれやるべきことをする。
アプリードは明日提出の刺繍。小さい物なので簡単に終わる。
セーラは濡れたドレスの手入れを行う。破れてはいないはずだが、念入りにチェックしている。
「お嬢様は手先が器用ですから、助かります」
「セーラさんの弱点は刺繍だって聞いてびっくりした。ほかは普通にできるのに」
「お嬢様、わたくししかいないからと言って、崩さないでください」
セーラは聞き逃さない。しゃべり方を注意された。
「お付きの人にやってもらっている方、半分くらいクラスにいるんですよ」
「それはそうでしょう。お嬢様はよくこなしていらっしゃいます。学校の授業に関しては、独りでやっていらっしゃって」
「侯爵様には言われたのよ、提出課題、別の人にやらせようって。でも、ばれたら嫌だし。もともと嫌いじゃないし、縫い物も勉強も。だいたい、セーラにでもやらせたら、あの人たちに口実となるから」
セーラは彼女がいじめの対象になっていることを知っている。対策を講じようとはしてくれる。
「そうですね。お嬢様が頑張っていらっしゃるのは、このセーラ、きちんと見届けています。侯爵様に何をおっしゃられても、お気になさいませぬよう」
セーラはアイロンをドレスにかける。布をあて丁寧にしわを伸ばし、襞を出していく。
「お嬢様、ベスグリさまは裏がある方です。親切な方ですし、あの方が言ったことは本当だと思います。また、侍女のベスさんもきちんとしたかたです。ただ、彼女の後見人となっている人物には娘がおりません。養女でも孫娘でもないようです。どこから出てきたのか全く不明です。ひょっとしたら、王太子には双子の妹がいてその貴族が面倒を見ていたという噂だってあります。最近はやっている舞台の影響でしょうけど」
セーラは噂話をアプリードに教えてくれた。
そうなるとアドゥディラが王太子の妹なのか。アプリードは王太子を見たことがないので何も言えない。そもそも誰も知らないから噂なのである。
「王太子が私の好みだったとして、二つのストーリーが考えられるの……考えられますわよ。庶民出だと分かって好奇心を抱かれるか、嫌われるかのどっちかかなって」
「お嬢様……こればかりはなんとも言えないですね。王太子は第四王子な上、社交界に出ていないのです。顔を知っているのはごく一部の人間。本来、王太子になることはなかったのですから」
王太子は第四王子。正妃に生まれたから、血筋で問題にはならない。
彼が王太子になった道のりが不吉さをはらんでいる。
まず、長男が王太子だった。文武両道の温和な王子で人気があった。五年前の冬、ある病が流行した。それにかかってあっけなく死んだ。感染しやすい病気でもなく、風邪をひいてこじらせると発症する程度だった。だから、かかる率は低かった。通常の病気より死ぬ率は高い。それでも発症する率も合わせると低くなる。流行と言っても、大したことはなかった。翌年には「そんな病気あったね」と言われるほど。王太子が死んだから有名になった病気。
次男が王太子に指名された。兄と同様文武両道だけど、出来は良かった。ただ、突っ走る傾向があった。兄と年齢が違いし、弟もあるので目立たないとならないという意識があったのかもしれない。
基本的に分別がある突っ走りだった。亡くなったときは何があったのか、なぜそれをしたのか誰もがいぶかしみ、噂した。呪いか、魔法かと言われる始末。
山で行軍練習していた際、巨大熊に出会った。熊は逃げようとした。何を思ったのか、彼は素手で打ちかかったのだ。いや、はじめは手に巨大な剣が握られていたという。他の者が気付いた時には、素手で戦っていたという。周りの者が手を出せないまま、熊に殴り殺された。
三男は指名されたが、逃亡した。正しくは辞退なのだが、国民には逃亡と言われる。国にいるが、王太子になるより、一貴族として余生を送りたいと十八歳の青年は言った。母親が側室ということもあったし、これまでの流れが気の弱い彼を恐怖のどん底に陥れたようだ。芸術を愛すし、そちらの才能は花開いているようである。王の側室である母は相当がっかりしたようだ。
四男が王太子になって二年。
お披露目はまだされていない。
これまでの王太子の悲惨な状況が忘れられないためだった。また、王太子は幼いからもう少し待ってからということもあった。今年か来年には外に出るとされる。
そんなわけで、王太子は顔は知られない状況。現在、十四か十五歳と言う。
王と王妃の顔は知られているから、雰囲気は想像できる。想像であって、現実は不明だ。
「アドゥディラさまから学べるところも多い。明日になったら、元に戻ってるかもしれない」
「……お嬢様」
セーラはアプリードの寂しげな声に気付いて、言葉を詰まらせた。
「しゃべり方」
「あ」
アプリードが笑顔でセーラを見た。セーラは怒らず、飽きれたという笑顔を返した。
4
翌日、教室に入る。何も変わった様子はない。広く、明るい大きな部屋。
育った家のテーブルより大きい机が並ぶ。教室には二十台の机があるが、生徒の数はそれより少ない。慣れたけれども、貴族の生活は庶民の生活と随分違う。
きれいな服、おいしいご飯。それらを得るために、庶民とは違う苦しみを持つ。
どっちも楽な生き方ではないと理解できた。
さて、グローリムと取り巻きは、いつも通りの彼女を見て不満そうな顔だった。
「おはようございます、皆さま」
「おはようございます、エクスブレイヴさま」
挨拶して、自分の席に座る。固定ではないが決まってしまっている。前の隅だ。後ろはグローリムを中心に埋まっていく。
「おはようございます、皆さま」
「おはようございます、アドゥディラさま」
きらめく髪をなびかせ、彼女は入ってきた。迷うことなく、アドゥディラはアプリードの横の席に来た。
「アプリードさま、おはようございます」
「あ、アドゥディラさま、おはようございます」
「今日の髪型、素敵です」
昨日は最終的に崩れた。いつも同じ編み込みと団子だ。セーラが意識して、リボンやアクセサリーを変えている。
「ありがとうございます。アドゥディラさまの御髪、今日は一段と輝いています。初夏の太陽の輝きのようです」
「まあ、ありがとうございます。そんなに褒められるなんて、いつもと変わらないのに」
手を頬に当て、視線を軽く落とす。恥じらう姿が愛らしさを引き立てる。
「いえ、いつもキラキラしているんです。今日は一段と輝いているんです」
「うふふ。殿方に褒められたら、きっと素敵ね」
アドゥディラはにこやかに椅子に座った。
アプリードは鋭い視線を感じた。どこから来ているかは見なくても分かる。見ないと、どんな顔をしているか分からない。
グローリムは穏やかな顔をしているのに、目だけは違う。
――お世辞でも言ってあげた方がいいのかな、いつも。
ふと、考えた。褒めるということは相手が嫌でも逃げようがない状況なのだ。けなしているわけでなければ、下手なことをすれば褒められている人に非が生じる。やりすぎなければ、褒める行為は好意になる。
褒め過ぎると悪意になる。加減が難しいのも現実。
――そっか……うまくいくか分からないけど、ちょっと考えよう。
この教室で後一年授業は受ける。夏で学校が休みに入り、新学期が始まれば、また一年。
グローリムが結婚して、学校に来なくなるかもしれない。それもで、あの取り巻きの誰かが次のグローリムになる。
それに、貴族社会で生きていくなら、どこかでグローリムと出会う。
――付き合いが長くなる。
嫌いであっても、逃げてばかりではいられない。
前向きなろうと、アプリードは考えた。
5
授業は午前中のみ。
朝の八時から、午後一時まで。それ以降は宿題やお茶会などそれぞれの時間だ。
「アプリードさま、お食事、いかがされるの?」
アドゥディラが尋ねてきた。
「セーラさんが作ってくれたお弁当です。学校、広いですし、外で食べるのが気持ち良くて」
侍女に敬称を付けるなど普通はしない。セーラにも注意されているのに、なかなか直らない。アプリードは無意識のうちにやってしまう。
「ご一緒してもいいかしら? ピクニック気分にもなれて楽しそう」
「今日は、バラ園に行こうと思うんです。先週通った時、そろそろ見ごろだと庭師の方が教えてくださったのです」
貴族の令嬢は庭師に敬語は使わない。指摘する人物はここにはいない。
「まあ、そうなの。なら、部屋に準備しに戻りますね」
「三十分後くらいに迎えに行きましょうか?」
「そうね、そのくらいあれば準備できるかしら」
「あ……もう少し遅らせますね」
「待たせてしまうかもしれないけど、来てもらってもいいかしら? その方が、足並みそろっていいわね」
「はい」
アプリードは寮の手前までアドゥディラと一緒に行き、別れた。別れると足早に部屋に向かう。
部屋に入ると、掃除を終え、休む前のセーラがいた。
「アドゥディラさまと一緒にご飯食べることになったの」
「あら? なら、これはいりませんか」
「いる。お弁当持ちよりで、外で食べようって。お茶の準備くらいしたほうがいいかしら」
「果物がありますから切ります。お嬢様はなさらなくても」
「時間がないし、セーラさん、目をつむって」
「……お嬢様、わかりました。なお、わたしに〈さん〉は不要です」
「すみません」
「謝る必要もありません。両方直してください」
「はい……」
部屋に付属している簡単な流しで、茶の用意とおやつの用意をする。
セーラが果物を切って器に盛る。アプリードは湯を沸かし、保温用ポットの用意をする。沸かした湯で茶を淹れ、保温用ポットに入れた。
三十分後には準備を完了させ、アプリードは出かけた。
アドゥディラの部屋に行くと、ベスが対応に出た。昼食を器に詰め、持ち運びできるようにしてしたという。
日傘を差したアドゥディラと荷物を持ったベスと連れ立って出かける。
出かけると言っても学校の敷地内。
アプリードはふと、自分で荷物を持つとは侯爵家の娘としてありえないと気付いた。セーラも気づいていたかもしれない、こうなること。
置いてこないで、連れてくる方が貴族令嬢としては正しかったのか。
「……どうしたんですか」
アドゥディラが尋ねる。
「え、いえ。侯爵様の娘として、もっと学ぶことあると思っただけです」
「そうですか。でも、そんなに固くならなくてもいいのではないの?」
「でも、アドゥディラさまを見て思ったのです。本当なら、セーラさ……セーラに来てもらうべきだったんだって」
「そうですね。でも、わたくしもひとりで荷物持って出かけてしまうことありますよ? ここは、ベスがいるから、きちんと貴族の子女らしくさせられるだけ」
アプリードはベスをちらりと見る。こげ茶の髪の少女ベスはニコリともせず荷物を持つ。アドゥディラと同じか一歳くらい年上の美少女で、家柄のいい貴族の子女に見える。
「アプリードさま、ここは学校です。できれば一人でできておかしくないところです。貴族以外の方を見てください。あちらは侍女を連れてくることはできません。部屋も二人部屋か四人部屋です」
「そうですね……」
アプリードが本来なら入ることはなかった学校。
バラ園に向かう間に、芝生や木陰があった。庶民の生徒がくつろいでいた。貴族の彼女たちが来たため、緊張している人も多かった。あわてて立ち上がって、あいさつをしてくる。
彼女たちにしてみれば、雲の上の存在がアアプリードたちだ。
一年前まで庶民だったアプリードにとって不思議な現実。
寮から歩いて十五分分ほどで、バラ園に着く。東屋やベンチがあり、そこでご飯を食べたり、くつろげる。
「本当、きれいですわ。あら?」
クラス会でも始めるのかという集まり方だ。
「ごきげんよう、皆さま」
アドゥディラのあいさつに、声がそろって返ってくる。
「ごきげんよう」
東屋にいたグローリムが立ち上がり、主人然とアドゥディラを迎えた。
「アドゥディラさまも、こちらでお食事ですの?」
「ええ、そのつもりだったのです」
「どうぞ、東屋にどうぞ。一人くらいなら入れますわ」
「困ったわ」
「どうしてですの?」
グローリムがアプリードをじろりと見たのだ。その視線の意味を読み取って、アプリードの表情が固まった。グローリムの取り巻きたちの声が聞こえてくる気がする。
「わたくしはアプリードさまと一緒に食べようと来たのです。まさか、わたくしたち以外の方がこんなに集合しているとは思いませんでしたの」
「アドゥディラさま、わたくしたちとご一緒に摂りましょう」
アドゥディラは片手を頬に当て、首をかしげる。困ったわ、というポーズだ。
グローリムはアプリードを見て鼻で笑った。「何考えているの、あんた立ち去りなさいよ」と言われているような気がするアプリードは落ち込んでいく。
「……ア、アドゥディラさま、わたくしのことはいいですから、ティピカッテさまとご一緒されればよいのではないですか?」
アプリードは笑顔を作った。どんな表情になっているのか、アプリードは想像できない。アドゥディラはむっとする。
「アプリードさまは、別の素敵なところご存知でしょう? そこに参りましょう。こちらはわたくしがいなくても、問題ないですもの。お邪魔しましたわ、グローリムさま」
アプリードが返答する間もなく、アドゥディラは彼女の腕を取ると、歩き出した。
「え、ええ?」
ずんずん歩くアドゥディラに引きずられるようにアプリードは歩く。
怒った顔のグローリムの顔を見た、このままではアドゥディラもいじめの対象になってしまうのではないか。
「あなたも、あんな泣きそうな顔で強がるのはやめなさい」
「……え」
「泣き出しそうな顔で、笑おうとして……放っておけるわけないでしょう」
「……」
アドゥディラは怒っていた。彼女の理由にアプリードは驚いた。
「さあ、どこで食べようかしら」
立ち止まってようやくアプリードの腕を離した。
「丘の上。でも、遠いですね」
「丘?」
「学校の西の森の真ん中がちょっと丘になっているんです。遠いから」
「……なら、今日はここでいいわ。ここでも十分ですもの。緑も空もきれい。シートがあるから」
ベスは荷物からシートを出した。ぱっと敷く。
「さあ、ここで食べしょう」
何もない芝生。
青い空と、初夏の風、困惑した街の子がいる。
今までにないご飯の味であった。
アドゥディラは信じていいのかもしれない、この学校の生徒でも。
6
学期末に向けてカリキュラムは進んでいく。
アプリードのクラスは相変わらずグローリム中心に動く。教師も彼女を大切に扱い、他の人を適当にあしらう。
アプリードの物に対して何かすることはなくなった。露骨に空気扱いし、はじき出した。アドゥディラがいる為、無視しきれない。結局、アドゥディラが何者か分からないため、下手に手を出せないのだ。
グローリムを取り巻いても、見返りがたくさんないと分かっているが、離れることもできない貴族の子女は多い。従っているふりをして、適度に距離を置いて置く必要があった。それに、アプリードを表だっていじめると、侯爵家につぶされかねない貴族もいる。公爵が救ってくれるなど期待できない。
一部の人たちは、できればアプリードとアドゥディラにつきたいと考える。公爵の方が強く難しい。うまく世の中を渡ろうと、子女たちも必死だ。
学期末に向けて試験や発表会などイベントが増えていく。進級に関わる大切な時期。貴族の学級は進級できないことはない。だから、試験より、発表会や、その先にあるパーティーに目が向いている。
発表会は、楽器演奏をしたり、刺繍や絵画などを展示するもの。日頃の成果を発揮する重要な催しだ。
アプリードは二か月かけて、刺繍をしている。外ではせず、自室でしかしない。外でも刺繍をしているさまをみせるようにしている。外でやっているのはもちろん、別の物だ。隠されでもしたらたまったものではない。
自室にまで忍び込むということはやられていないから安全だ。そこまでやったら、公爵家の人間でも悪評が付いてしまう。
アドゥディラとお茶を飲むことがアプリードは日課となった。
この日は二人で外でお茶を飲む予定にしていたが、移動中に人が増えた。グローリムが通りがかり、誘わないわけにはいかなくなってしまったのだ。
アプリードは嫌だったが、アドゥディラもいるし仕方がなかった。
「アドゥディラさまはバイオリンの伴奏者を探していらっしゃると聞きました。ピアノですの?」
「ええ。ピアノ以外の方もおりましたら、今考えている曲ではなくとも良いと考えていますの」
狂想曲や幻想曲など、曲の話になった。
アプリードは勉強はしたので、曲名や作曲者を言われると、どんな曲かは分かる。しかし、分かるだけで話についていけない。
「あら、エクスブレイヴさまには難しい話でしたわね」
「ええ、まあ」
「仕方がないですわね。わたくしもバイオリンを披露しようと思うのですが、なかなか曲が決まらなくて」
グローリムは愚かな庶民出のアプリードを適度にからかい、話に戻っていく。
グローリムはアドゥディラを誘っているのだ、発表会のパートナーとして。それだけではなくアプリードをのけ者にすれば、クラスで以前していた憂さ晴らしとしての孤立させることができる。
「歌姫の噂はお聞きになられました?」
「ええ、貿易商フラミンゴ殿のご息女が大変歌がお上手だと聞きましたわ」
アドゥディラは良く噂も知っている。
セーラには噂ももっと気にしろとアプリードは言われ続ける。勉強や課題で手がいっぱいなので、耳を傾ける余裕がない。
グローリムはフラミンゴ氏の娘も仲間に加え、バイオリン二本とピアノとフルートの人を探し、この曲をやろうとまとまる。
フルートなら心当たりがあるとアドゥディラが言う。
これで午後のお茶はおしまいだ。
明日から、独りで過ごすことになる。
アプリードにとって、元に戻るだけだ。楽しい時間を知ってしまったので、寂しさに拍車がかかる。
「ピアノは外部の方に頼もうと思っていましたの。その方が言うには、この学校にもうまい子はいるとおっしゃるの。一番は教えてもらえなかったけど、二番手の子は分かりましたの。その子を誘うおうと思っていますわ」
グローリムが名前を挙げた外部の人間は、作曲も手がける人物だ。半年間アプリードにピアノを教えた人物である。
「一番の方をお誘いしたかったのですけど、お名前は教えていただけなかったの。その方と約束だっておっしゃって」
「何故でしょう」
その理由をアプリードは知っている、当事者であるから。あの人物にも口止めをしたのだ、侯爵夫人が。あるときの侯爵夫人の説教を記すと次である。
「いいですかアプリードさん。譜面通りピアノ弾けるのは非常にいいことです。そこで作曲ができたらなおいいのですが。あなたの場合、教養が少ないのです。いくら覚えられたといっても底が浅いのです。状況に応じて詩をそらんじられる、くらいできればいいのですが。(中略)いいですか、ピアノがうまく弾けるのは武器です。あっと驚かせるためのものです。いいですか、先生がおっしゃる通り、あなたには才能があるかもしれません。しかし、あなたは王太子妃になるかもしれないという道があります。まずはそこです。そこで披露するかもしれないので、練習は怠ってはいけません(以下略)」
一時間ほど水分補給をしつつ、侯爵の妻はしゃべった。
学校に入ってからは練習は紙に書いた鍵盤でやっている。イメージだけで練習になるか分からない。やらないよりましだと考える。
ここで手をあげたい。
侯爵夫人との約束もあるので、一存で決められない。発表会は刺繍があるので、やり過ごせる。
これから学期末まで、午後が寂しいだけだ。
「あら、エクスブレイヴさま、眠ってしまったの?」
グローリムが嫌味たっぷりに尋ねる。
「いえ、ちょっと考え事をしておりました。一番の方でなくとも、うまい方がいらっしゃって良かったですね。学校の行事ですもの、外から招くより、学校の人の方が盛り上がりますわ」
「そうですわ。あなた、知らない、その噂の人物を」
「噂に疎いので」
「そうですわね」
あっさりと退かれる。ムカッとするが、アプリードは仕方がないと内心肩をすくめる。彼女への対応はだいぶ慣れてきた。
7
アプリードから音楽会の話を聞いたセーラが動いた。侯爵家の動きも早く、翌日の午後、侯爵夫人が面会に来た。
アプリードは面会室に入ったとき、お嬢様らしくドレスをつまみ、あいさつする。
侯爵夫人は骨と皮だけに近い、がりがりの肢体の女性。神経質さと青白さが、見る者を圧迫する。少しふっくらしていれば、それなりに美人だろうなとアプリードは考える。
「まあ、見違えるようになったわ。あなた、ピアノ弾きなさい」
「は?」
「そんな声を出すのではありません」
手に持った扇を手の上でパンとならす。
「はい、申し訳ありません」
「あなたは私の娘なのよ。謝ることは重要だけど、へりくだりすぎてはいけません」
「はい」
「ピアノ、弾くか悩んだそうだけど、まだ間に合うなら弾きなさい」
「かくし芸披露していいんですか」
侯爵夫人のこめかみがピクリと動いた。怒らせたとアプリードはびくっとする。
「かくし芸……言いえて妙で腹が立つわね」
「すみません」
「いいこと、ピアノ弾きなさい」
ぴしゃりという彼女に首をかしげる。
「何かあったんですか?」
「王太子が発表会に現われるという噂があるの」
「……」
展示だと作品は王太子と対面するかもしれないが、本人は会えないかもしれない。発表であれば、舞台を見に王太子がいれば、姿を見せることはできる。
「分かりました。アドゥディラさまに伺ってみます」
侯爵夫人が眉をしかめる。怒っているのではなく、考えているときの顔だ。
「どうかしましたか?」
「その、アドゥディラという子、兄弟がいるのかしら?」
「私的なことはあまり伺ったことがありません。ただ、同級生たちも彼女が何者かと噂していることがあります」
「でしょうねぇ。家柄も不明だとうかがったわ。後ろだてが王家に関係する人だというのが引っかかって」
「アドゥディラさまが何者かは別として、見習うところがありますし、仲良くしていただいています」
「そうね、あなたにとって、貴族の友人ができることはいいことね。いいかしら、いじめてくる輩は撃退すべきよ」
「え、あ、ええ?」
どこまで知られているのかとたじろぐ。侍女であるセーラは彼女の目付でもあるので、逐次侯爵夫人に伝わっているはずだ。
「いいですか、身分のしがらみがあるとはいえ、親が直接出てくるなどよほどでない限りないわ。ちょっとしたことで出てきたら、その人の方が恥ずかしいから」
一理ある。上に立つもの、心が狭いと言われると仕事に差し支えあることもある。
「いいですか。ピアノで王子の心をわしづかみにするのです」
「え? そういう話の流れでしたっけ?」
「あなた、十人並みの外見ですし、性格も良くも悪くもないわ。なら、目立つならかくし芸で勝負でしょ」
「……え、ええ?」
「いいこと、頑張りなさいね」
「は、はい、侯爵夫人」
「違うでしょ!」
「はい! お母さま」
「よろしい」
帰る侯爵夫人をアプリードは見送った。
神経質で負けず嫌い。軍隊的なノリがあるときがある。
――はっきり言い過ぎ……まあ、十人並みなだけいいのかもしれない。不細工より。でも、目立たないってことだものね……。
ピアノでどこまで食い込めるのか分からない。アドゥディラが練習する部屋に向かった。
8
音楽練習室は十室ある。そこのすべては埋まっている。発表会の上限が十組だったのはそのためだと分かった。普段近寄らないのでアプリードは知らなかった。
アドゥディラたちが練習する部屋がどこか、教師に尋ねる。音楽の教師は苦笑していた。理由はざっくばらんに話してくれる。
「音楽会に王太子がお忍びで来るかもって噂が昨日までに流れたの。そうしたら、半分埋まっていなかった枠が埋まったわ」
「五組が十組に? 全体の演奏時間は増えますよね?」
「一組ずつを縮めることも検討しているわ。でもまあ、一組二十分だったから、問題ないともいえるのよね。ただし、入れ替えをテキパキやってくれるなら」
お嬢様がそれをやってくれないのは想像できる。
部屋を案内してくれる教師は、普段見ないアプリードに興味があるようだ。音楽は授業で取っていないから。かといって、差し入れを持ってきたようでもない。差し入れを持ってきて、友人たちが音楽練習室でお茶をしている姿を毎日目撃しているから。持ち込みは許されているが、汚すことは許されない。
「グローリムさまがピアノ伴奏者オーディションするってことにしたみたいよ」
決まっていなければ彼女が入り込む余地はある。オーディションしても選んでもらえないかも知れない。昨日噂していた二番手の子にはしなかったようだ。
「緊張します」
「あら、あなた弾けるの?」
「楽譜通りなら」
「興味あるわ」
音楽家の教師はにこやかにアプリードを見つめている。
二人は部屋の前にたどり着いた。拍手が聞こえる。防音しているとはいえ、ある程度は漏れてくる。
ノックして開ける。
「あら? 先生」
グローリムが迎える。教師が一緒だからアプリードを邪険にできない。
「ちょうど伴奏者が決まりましたの。一年下の伯爵家のリーディアさま」
「ああ、うまいもの、彼女」
「あら、あなたは何しに来たのかしら?」
アプリードを邪魔だと思う。
「母が弾いていいと言ったので、立候補しようと思って来たのです。一歩遅かったですのね」
「そうですわ。さ、帰ってください」
アプリードはほっとしたやら、腹が立つやら複雑な思いを胸に抱えた。
「グローリムさま、一度、彼女の演奏を聞いてみたいんだ。ピアノ借りてもいいかしら?」
教師の頼みだ、無下にするのもよくない。しぶしぶ「はい」と答えた。
ピアノのところにアプリードは教師に促されてつく。譜面台にある楽譜は弾いたことがない楽曲だ。題名と作曲者を見て知識を引っ張り出しながら一通り読む。
「さあ、弾いてください。時間が無駄になってしまいますわ」
「少し時間下さい。初めての曲で、イメージがつかめなくて」
「出て行ってください」
「……」
アプリードは何も言えない、ここはグローリムの支配地域だ。
「グローリムさま、わたくしもアプリードさまの弾くのを聞いてみたいですわ。皆さまの演奏を聞いて少し疲れたので、休憩にしましょう」
アドゥディラが提案したため、グローリムはしぶしぶうなずく。彼女や他のメンバーも疲労はしていたのだ。
教師はじっと彼女たちの様子をみている。
十五分して、アプリードはピアノを弾くことになった。
十五分の間、久しぶりに鍵盤に触れた。指の動きを確認して、楽譜を見ていく。
グローリムが近くで嫌味を言っていたが、全く耳にしない。集中力が高い。教師やアドゥディラは感心して見ていた。
「では、弾いてください」
題名や作曲者は分かっている。どういうときに作られた曲かという知識もある。それを動員して、アプリードは弾いた。
祈るように、踊るように。バイオリンや歌が入るので、それに合わせて音の強弱も意識する。深く読めば、もっと違う曲になるだろう。
終わった瞬間、クローリム以外は激しい拍手を送る。先生がアプリードの手を取る。
「本当に、初見なの?」
「はい……」
「こんなすごい子いるなんて。どうして音楽とらなかったの」
「母に止められて」
「まあ! もったいない!」
ピアノ伴奏に選ばれた伯爵家の令嬢は涙を流している。
「わたくし、今回は諦めます、お姉さま」
「な、何をおっしゃるの。この方は使いません」
令嬢の言葉に、グローリムは我に返り言葉を叩きつけた。
「わたくしよりうまいんですもの。わたくし、昨日からずっと練習して、今日挑んだんですの。それなのに、この方は初見でしょ」
「知っていたのだわ」
こういわれたら知らないという事実を伝えるすべはない。
「グローリムさま、この方がおっしゃるように、アプリードさまの方……」
「いいえ、エクスブレイヴさま、出て行ってください。あなたがお上手なのはわかりました」
アドゥディラの言葉を遮って、グローリムは叩ききった。
「アプリードさん、同じ学年の子じゃないけどまだ曲を決めかねているところあるから、そっちに入ればいいじゃない? 私としてはここで捨ててしまうにはもったいないもの。もちろん、君だってうまいのは分かっているわよ」
教師はアプリードを誘い、伯爵家の娘へのフォローも忘れない。
「先生、ありがとうございます」
アプリードはグローリムを睨みつけた、これまでそんな目をむけたことはなかったが、今回は非常に腹に据えかねた。どうしてそこまで嫌われるのか分からないから。
今回うまいとしても、自分のお気に入りの子を決めた後だったから、嫌だったのかもしれない。
――本当にそれだけなのかしら?
「アプリードさん、行こう」
教師についてアプリードは出て行った。
教師はアプリードを連れて、一度教師の部屋に帰った。
「随分意地っ張りよね」
教師はあきれてつぶやく。アプリードが返答に窮していると声が割って入ってきた。
「油断すると、この人が話題をさらうから嫌なんです、たぶん」
アドゥディラが扉から入ってきた。アドゥディラは手にバイオリンのケースを持っている。
「話題をさらう?」
「彼女、侯爵家の養女なんですよ。一年前にお金で買われた」
「え?」
アプリードも教師と一緒に驚く。
確かにお金はもらった。家が貧しくなっていく一方だったから、取引として。働き手であるアプリードが出ていくのだから、当たり前だ。
「下町の娘がここまでお嬢様になっています。注目を集めないわけないですよ、先生」
「……なるほど」
「お金のことだって、彼女をこれまで養育してきたという意味合いであったかもしれません。それでもお金は動いたことに変わりありません。理由はどうでもいいんです。悪く言う人はいくらでもいます」
アプリードの疑問をアドゥディラは素早く解いた。世間での評価は厳しい。利害が絡むと余計に厳しい。
「二年前に、王太子が立ちました。その間に貴族たちが考えたことを基にすれば、何を狙って侯爵が養女を取ったかあきらかです。まあ、同じ穴のムジナですよね」
「権力拡大ね。アプリードさん、いじめられる理由はそこね」
「そうです。グローリムさまはあくまで自分が中心にいたいのです。アプリードさまがいると、油断すると中心から外されます」
「アプリードさんが中心に治めてくれるかもしれないじゃない?」
「それが、アプリードさまのいいところでもある控え目さから、壁作ってしまったのです。親切にあっちがするけど、逃げてしまう。だから中心にいられない」
教師はあららと笑う。
親切にされても距離を置いた。正しいかもしれない。ただ、彼女を慕いすぎると、しっぺ返しが来そうで怖かった。
「たぶん、親切の裏を彼女は敏感に嗅ぎ取って逃げたんでしょう。ただ、貴族社会を分かっていない。逃げ方が下手だったから、追いつめられるのです」
「確かにね。親切を受けつつ、相手を立ててつつどこか逃げる。言い方悪いけど、面従腹背かしら」
「そうですね」
アプリードはしょんぼりする。これまでしてきたことが裏目に出たということか。
「で、それまではそれまで。仕方がないわね」
教師があっさりまとめる。
「そうですね。ところで、バイオリンも必要なところありませんか? わたくし、アプリードさまと一緒に演奏に出たいです」
アプリードは驚く。
「ここまでされて、黙っているのも嫌ではありませんか? わたくし、グローリムさまとはちょっと弾きたくありません。他の方はうまいのですが」
教師はにこやかだ。
「芸術家は違う! 素晴らしい演奏したいという心意気は確かに見たよ。じゃ、こちらのお嬢様方のところにねじ込むとしよう」
教師は二人を連れて練習場の一つに入って行った。すでに何をするかなど決まっていたところに、下級生二人連れて教師が来た。彼女たちは少し困ったようだった。
アドゥディラはバイオリンがうまいと有名だったらしく、あっさりと受け入れられる。おどおどしているアプリードは教師とアドゥディラのお墨付きで仲間に入れてもらえた。
そして、実際に弾いて、ピアノがうまいと理解したので、重宝される。それと、侯爵家の養女の話は聞いていたので、好奇心もあったようだ。
可もなく不可もない彼女はあっさり受け入れられ、練習以外の時も交流が生まれた。
9
発表会が終わると、ダンスパーティーがある。発表会の準備と並行して、こちらの準備もある。
近くにある貴族の男子が通う学校との共同のイベント。そちらも貴族だけではなく、推薦を受けた民の男子も入っている。
ダンスパーティーはプレ社交界とも言われる。
このイベントは人脈を広げるチャンスであり、伴侶を見つけるものである。
人脈と言うのは、参加者が外部の人を連れてくる可能性が高いからである。女子は異性のエスコートが必要であり、男子は女性を伴って参加する。生徒同士でもいいのだが、出会う機会がないのでなかなかそうはいかない。兄弟姉妹がいるのが理想だ。
王太子はこのパーティーに来るという噂。
真実は闇の中。
試験の結果とこのパーティーのことで、学校内は大盛り上がりなる。
盛り上がっていないのは、アプリードとアドゥディラだ。
アプリードは公の場に出たことがないから怖い。パーティーは想像がつかないだけに恐ろしいところである。
アドゥディラは婚約者がいるのではと噂が立っている。だから王太子が出てこようが、他の貴族の男性がいてもなびくことができないのだろう、と。婚約者がパーティーに出てくるのではという推測も教室の中に漂っていた。
アプリードが盛り上がらなくても、侯爵家内はてんやわんやで準備していた。アプリードを交えドレスの新調、髪型やアクセサリーの準備。きれいな服やアクセサリーに興味はあるが、アプリードは乗り切れないので侯爵夫人をはじめとした侯爵家の人間の言うとおりにしていた。
パーティー前は男子禁制の学校に、当日のパートナーとなる異性が来るのも学校内での話題の一つだ。
アプリードのパートナーは侯爵家の長男リビルだ。軍に所属している上に性に合っているだけあって、四角いイメージ。背丈があるだけでなく、筋肉質である。身長差があるため、踊りづらいが、練習しないとならない。
最低限のダンスマナーとして、男性の足を踏まなければいいとアプリードは割り切った。ダンスの種類は何とか覚え、踊り方も覚えても体が付いて行かなかった。
リビルと踊る場合、基本、振り回されていればいい。それでは練習にもならないと分かっているが、どう振り回されるかというのも練習だとアプリードは言い訳をしていた。
「王太子が来るという」
「分かってます、お兄さま」
「誘惑しろ」
「限度あります。大体、音楽会に来ているって話だって本当か嘘か分かりません」
「うむ」
正直に肯定している。
「なんでピアノを許したのかも不明です」
「王太子がバイオリンの名手だと聞いたからだ」
「なるほど。なら、わたくしの友人アドゥディラさまの方に目が行くのではないでしょうか」
バイオリンがうまいなら、うまい方に注目する。
「いや、そうとは限らないだろう。私は音楽はたしなみ程度の男だ。軍でも思うのだが、私が苦手と思っているモノがうまかったり、私を補って動ける人間がいると目に留まる」
「つまり、王太子はバイオリン以外の人に興味を抱くと」
「うむ」
リビルの言っていることをアプリードは理解した。アドゥディラとアプリードの関係もそうである。
「それより、お前、きちんと立って踊るように」
練習が終わった後、リビルが指摘した。振り回されているだけなのは、さすがにばれていた。
10
ダンスパーティー当日、会場となっている屋敷には厳重な警備が敷かれている。普段からの警備に加え、一段と物々しいと感じる屋敷勤めのものもあった。
王太子が来るらしい、という噂に信憑性が加わる。元から噂を知っていた者たちは余計に緊張と期待を持って会場に入る。
リビルと共に馬車で来たアプリードは、警備や王太子の事はどうでも良かった。今、まさにパーティーに出るということが重要であり、頭が真っ白になる寸前まで緊張していた。
会場入り口でドアボーイによる名乗りによって入るわけであるが、しがみつかれている無骨で不器用だと散々言われるリビルですら心配して声を掛けたほどだった。
「いつも学校にいる輩が半分いるんだ。そこまで震えることはない」
リビルの言葉にアプリードはうなずく。確かに女子は通っている生徒であり、知っている顔もあるはずだ。
――逆に怖い。悪口の対象になったりするかも。でも、侯爵夫人が選んだものだし、みんなが一丸となって用意してくれたんだもの、おかしいところがあるわけない。
服装も髪型も問題なしとうなずく。問題は中身だが、こればかりは変わらないので仕方がないので諦めよう。
アプリードはほんの少しだけ緊張を手放し、リビルにしがみついて会場に入る。
視線が集まった。侯爵家の養女に関しては、社交界に知らぬ者はないというじょうきょうだとアドゥディラが言っていたので、興味がある視線だ。飽きられればそれは終わりだと一瞬のことだとアプリードは自分に言い聞かせている。
問題ないと本人は言っているドレスに関しては、実は複数の不安要素を彼女は抱えている。
選んでくれたドレスは胸元が寒い。学校だと、デコルテが開いているドレスを着ていないので、肌が余分に見えるのは恥ずかしいのも加わる。
流行のパーティー用ドレス、侯爵夫人たちに選ばれたのは。
寄せてあげて、締め上げる。ふっくらとした乳房のふくらみを作り、谷間を見せる。腰にはコルセットやバックルで、尻にはふくらみを持たせる。そのため、ウエストは強調される。薄い布を重ねたフリルで、ドレスは埋め尽くされている。
首にはパールとダイアのネックレスをつけられている。胸元に目が行くような作りだ。
髪の毛は普段から団子である。今回のは、頭の頂点に向けて載せ揚げ、リボンや宝石で飾ってある。
どこのだれか分からないほどきらびやかな格好。
会場に入って、キラキラした光は彼女の目を直撃する。
ドレスに宝石が縫いこまれている人もいるし、男性もアクセントがきらびやかな人がいる。
好奇心さえ収まれば、見られることは少ないとアプリードはほっとした。華やかだと思った自分のドレスがおとなしい地味なものに見えるとは想像だにしなかった。
なお、アプリードをエスコートするリビルは軍服の礼装なため、地味だ。勲章や階級を示す飾りがあるので、威厳が非常にある。
「アプリード、踊るぞ」
リビルに引かれて、踊りの輪に入る。
侯爵家の長男が妹となった養女と踊る。話題に敏感な人は見ないわけない。赤の他人ではなく、父親は同じだと知られている。
リビルに振り回されて一曲終わる。
それでも息切れする。
普段以上に締め付けられているため、動きがきつかった。
会場に注目が集まるところがある。リビルもそちらを見て、アプリードを促している。
やけに女性が多い。
グローリムの姿も見つけた。
――すっごく目立つ。お人形さんみたい。素敵だな。
性格や、されたことを考えなければ、見た目は別だ。華やかなドレスの上、華やかな髪型であるが、上品な美しさが際立っている。
「あの男が噂の王太子か?」
「分からない。あれ? 誰かに似ている」
こげ茶色の髪、緑の瞳。きりっとした横顔に見覚えがある。貴族に知り合いなどほとんどいないが誰に似ているのだろうかと首をかしげた。
「気のせいかな。あ、アドゥディラさま」
その男の横にいるのは彼女だ。周りが派手なためか、地味な印象が生じる。それでも、美しい金髪や柔和な笑みは素敵であるし、目を引く。
男は集まった女性たちと踊りだした、複数いるので全員と踊り終わるのはいつだろうか。アドゥディラはにこやかに立っているだけで踊らないようだ。貴族の男性が来て誘っているがやんわりと断っているように見える。
「行って来い」
リビルに言われ、アプリードは意を決し少女の山に入っていく。
アドゥディラをまずは目指した。男はダンスでいないから、彼女にあいさつをするのが先だ。
「アドゥディラさま、ごきげんよう」
「いつ来るかしらと思ってましたわ」
あのこげ茶の男が誰に似ているか気付いた、アドゥディラの侍女であるベスだ。
「ベスさんにお兄様いらっしゃるの?」
アドゥディラは目を一瞬見開いた。いつもの笑顔になり、扇で口元を隠した。何かも隠したのだ。
しばらく付き合っていたので、彼女の仕草の意味がなんとなく分かる。
王太子には妹がいるのではないか、という噂が立っているのをアプリードは思い出す。あの男が王太子なら、ベスはその妹であり王族だ。
しかし、王子に妹がいるなら、正妃の子となるだろうし、知られておかしくない。妃の子ではなくとも半分血が同じでも似るかもしれないが、ここまでそっくりにはならない気がする。ベスと先ほどの男は年齢も同じようだし、髪や目の色も同じだし、顔の造形も似ていて、双子と言って過言ではない。
王太子は正妃の子となっているが、側室の間の子で男の子のみを正妃が自分の子としたのだろうか。
王家のことなど、実際のことは分からない。そもそも人の家のことなど隠されてしまえば分からないことである。
アプリードの推測があちこちに動き回るが、アドゥディラは事実を知っているに違いない。
踊っている男性とグローリムを見る。グローリムの態度から彼は初めて会う人物であるのと、王太子が公の場に姿を現さないということと符合する。グローリムがうっとりと男と踊り終え、未練ある様子から洗礼された所作を持った人物だろうと推測もできた。
本当にこれは王太子なのだろうか?
アプリードは踊りたいという意思表示をするより、考えるのに没頭していた。アドゥディラが彼に目配せしているのに気付かなかった。
アプリードにはアドゥディラに近づいてきたと思っていたが、手を差し出されてドッキリする。
「一曲お願いできませんか」
男の声で、うっとりしていたグローリムが現実に引き戻される。殺されるのではと思うほど鋭い視線がグローリムから来た。
ここでこの男の申し出を断っては、アプリードに居場所はなくなる。踊ることで話を聞くことができるかもしれないので、事実が分かるかもしれない。
「喜んで」
アプリードはドレスをつまんでお辞儀をし、手を乗せた。
エスコートで踊りの輪に入るのだが、彼の先導は柔らかく軽やかだった。リビルの時も力を入れないでアプリードは付いていくが、運ばれている感じが強かったのだ。
アプリードは彼から事実の一部でいいから聞きたいと思った。全てを語ってくれることはないだろうが、少しでも謎が解けるように。
「すごい人気ですね、ベスさんのお兄さん」
彼の眉がピクリと上がった。アプリードの手を支える彼の手が固くなったようだった。
「何故、そう思うんですか」
「初めて見たとき、誰かに似ていると思いました。アドゥディラさまといらっしゃるのを見て、ベスさんだと気付きました。そのことをアドゥディラさまに言ったら、濁されました。だから、ベスさんのお兄さんかと」
彼は小さく笑う。
「足りない部分もありますが、あっています。ジョージと申します、アプリードさま。妹がアドゥディラさまに友っぽいものができたと話してくれていました、あなたのことを」
「あまりいい話されていないでしょうね」
「そうでもありませんよ。あなたという人物を見て、客観的に教えてくれていました。あなたがいつこちらに来るかと、アドゥディラさまと話していたくらいですから」
「……いつから気付いていらっしゃったのですか?」
ジョージは笑って答えない。入ってきたときからだろうかと推測してしまう。
「あのお方は考えたら一直線で無茶をするので、妹とはらはらしていました。さすがに私は学校にまで付いていけませんから妹と連絡を取るのが最良でした」
ジョージの言葉にアプリードは疑問を抱き、想像が推測と共に現実味のない現実に突き進んでいく。
「アドゥディラさまって」
ダンスが終わりに近づいているので、人と話すにはそろそろプライベートなことは終わりだ。周りの耳が気になってくる。
「お上手でしたよ」
「ジョージさんがうまいんです、エスコート」
「ありがとうございます」
互いにお辞儀をして終わる。
今度は私と集まってくる女性たち。
アプリードはアドゥディラと残る。リビルには怒られるかもしれない。
ジョージは貴族の、それも相当な教育を受けている。表に出ていないから知られていないから、下手をすれば庶民の子かもしれない。
「なかなか仲良く踊られていましたね。あの方が手を自分から差し出したので、余計にグローリムさまが嫉妬していますわ」
アプリードは困惑な表情になる。
今はグローリムのことはどうでも良かった。アドゥディラの正体のことが重要であった。
ずっと友人でいてくれるのか、それとも違う道を歩むのか。
「共通の知り合いがいたからです」
「共通の」
アドゥディラは扇で口元を隠した。アプリードを見つめ、思案するような表情だ。
「あなたはどこまで、推測しているのです?」
「何を?」
「いえ、はっきりと申したくないので。今のことは忘れてください」
「アドゥディラさま、ありがとうございます」
不意に謝辞が口をついた。正直に言ったら壊れる関係だと気付いたが、学校での楽しかったことは本当の記憶だ。
アドゥディラが驚いた。
「アドゥディラさまと出会えて、この世界でも生きていけるかもと思えました。あの方とは、仲良くできそうにないですけど。でも、受け入れてくださる方もいると分かりました」
音楽会のことを思い出す。あれは彼女の実力が認められたからだった。しかし、アドゥディラと知り合わなかったら、楽器を披露するという機会は先にならないとできなかっただろう。
「あの、夏季休暇の後も、友達でいてくれますか」
「……すみません。わたくし、もう学校には来ません」
アドゥディラは扇を外した。悲しい顔でアプリードを見つめる。
アプリードは思いのほか大きな声で「え」と漏らしていた。明るい顔していないと周りに不審がられると、内心あわてて表情を取り戻そうとする。分かっている返事でもあった、アドゥディラはもう学校に来なくなるのではないかと。
「でも、手紙のやり取りや会うことはできますわ」
「……そ、そうですよね」
「ええ。すみません。家の事情で、もういられないのです」
「……あ?」
「……どうしたんですか?」
「何でもないです」
不意にアドゥディラの服装で気付いたことがある。
最近は首を隠すような飾りが付いていた。今日は最小限である。
アドゥディラの声がやけにかすれているのだ。
だんだん……だんだん……。
――ま、まさか。そんな物語じゃないし。
声変わりではないかと考えた。約一年前に兄たちができた。その間に次兄が喉仏ができたとか騒いでいた。彼女より二歳年上なのでありうる出来事。
このアドゥディラが男だとして、十五歳くらいなら、声変わりが起こってもおかしくない。
身長だ。
最近やけに伸びたのだ。
学校ではヒールを履いていなかった。池に落ちたときはヒール履いていたが、その後は見たことない。
ジョージの言葉とアドゥディラにある兆候は、アプリードの突飛な発想はあっていると示している気がしてしまった。
友達でいてくれるなら嬉しいが、もう会えないとアプリードは気付いてしまった。
11
夏の間は社交シーズン。
学校も休み。避暑地に行くものから、家で勉強や家業を手伝うものまでさまざまだ。
侯爵家は社交界デビューを来年と定め、アプリードに特訓メニューを敷いた。
ピアノがうまいのは知れ渡った。そこで、お茶会で披露してほしいという人もあるのだ。夫人が連れて、出歩くことが多くなる。
日中がお茶会なら、朝と夜はピアノやダンスの練習。語学をはじめとした勉強も合間に行う。
学校にいる方が楽だった。いや、いじめがないから家は楽もある。
アプリードは手紙を書こうと考えるが、アドゥディラの住まいは分からなかった。後見人という人に届けるというのも一つ案だ。悩んでやめる。
グローリムに会わないので、夫人に連れられてあちこち行くのは意外と楽しかった。嫌味を言う女性もいるけれども、年齢が離れているので気にならない。
時々、年齢が近い男性が同席することもある。どうやら、見合いも兼ねているようだった。気付いたのは数軒回った後だった。
王太子妃になれなくとも、どこかに良縁が築ければという思いもあるのだ。
おかげで人生初の花束をもらった。
しかし、相手の名前を見ても記憶がなかった。夫人に聞くとどこであったかも事細かに教えてもらえた。
これからはきちんと覚えていかないとならないと引き締める。
長いようで短い夏。
侯爵家を上から下に突き上げる事件が起こる。何があったのかは、セーラが笑顔で告げた。
「王家からの招待状が来たそうです。お嬢様と付き添いに夫人をと……」
王太子が妃候補を集めたお茶会だとのこと。
さすがにアプリードも驚いた。驚いたために「冗談ですよね」と切り返し、自分の頬をつねった。
準備期間、他の茶会は制限された。そして、礼儀作法が厳しくなった。王国の歴史も徹底的に復習させられた。
期待が高まる。
王太子でなくとも、それに準ずるくらいの貴族の貴公子も来ているはずだ。王城に上がるのだから、どこかで誰かに見初められるかもしれない。
だんだん、アプリードの熱意はなくなる。侯爵家は準備が進むにつれて盛り上がる。
12
城に向かう。避暑に行く王族もいるが、王太子と王妃は城にいるという。
仮病で逃げたくなってきた。仮病じゃなくてもおなかが痛くなる思いだ。
流行を多少取り入れたシンプルなドレス。髪もきれいに結われ、小さな飾りが組み込まれる。
馬車に揺られ向かう。
育った下町は遠い。
城の中に入る。遠くから見た世界が、目の前にある。
天井が高いし、通路の幅は広い。案内されて歩く城内は、暑くなく風すら通っている。城壁があるから暗い印象があったが、採光が工夫され、意外と暗くはない。
階段を休みながら登る。天井が高い分三階でも階段は長い。アプリードよりも、夫人が疲弊している。
中庭に通された。建物の上とは思えないほど、緑豊かである。建物と建物間にあり、窓が幾つも見える。
空中庭園のような趣だ。
管弦の音が響く方に、夫人と共にアプリードは歩いていく。
結構女性が集まっている。こじんまりしたものかと思っていたので、アプリードはほっとした。
夫人はショックだったようだ。王太子妃に近い人物が呼ばれたと考えていたようだ。
メンバーを見てアプリードはあることに気付いた。貴族の子女と母親という集まりであり、半分近くは学校で見かけた娘だ。
グローリムと取り巻きで一番有力な家柄の二人がいる。先日、ピアノを弾いた伯爵家の子女もいる。
ピアノの彼女はアプリードを見て嬉しそうな顔になった。グローリムはアプリードを見なかったふりをした。
先日音楽会で一緒に演奏した一学年上の人達が集まっている。アプリードを見つけると微笑みと共に手招きしている。
学校以外の人はアプリードが知らない人たち。王家に関わる由緒ある家柄の子女たちだろう。服装や雰囲気に威厳がある。
アプリードは迷いなく、一学年上の集まりに入った。
いろいろな菓子を勧められたり、楽器は練習しているのかとか他愛のない話をする。
「アーリは、色々なところで弾いていると聞いているわ。わたくし、またアーリと一緒に演奏したいわ」
「本当、アーリもディルも上手なんですもの。わたくしもうまいと言われていましたけど、負けられないと思いましたもの」
愛称で呼ばれるのはたまらなく嬉しい。夫人はこの様子をみて、ほっとしてるようだ。
「それより、ディルは呼ばれていないの? このメンバーが来ているならディルもいてもおかしくないわ」
「あなたは連絡取っているの?」
アプリードは首を横に振る。
「連絡先が分からなくて。聞きそびれたのです」
手紙は出せるなど話していたが、連絡先をしらない。相手は知っているから、手紙をくれるなら受け取れる。
「そう、残念ね。あ、王妃様よ」
一同がしゃべるのをやめ、王妃に向かいあいさつする。
「そんなに固くならないでください。今日は、あの子が、ぜひ集まっていただきたいと申したので」
ざわり、と少女たちの気が動く。
この中に好きな人がいるのではないかと考えたからだ。
「楽器のうまい子いて、ぜひわたくしに聞かせたいと、あの子が申したの。楽しみなのよ」
アプリードと演奏会仲間たちは顔を見合わせた。
それ以外の子が嬉しそうにする。演奏するために呼ばれた彼女たち。何もないのに呼ばれた自分たち。なら、好かれているから呼ばれたのは自分たちだろうと考えた。
「ゆっくりしていってくださいね」
王妃はおっとりと言った。そして、彼女のために用意された席に座る。
「でも、ディルはいないのよね」
「ディルはいなくても、わたくしたちのことを評価して、王子の耳に入れてくれた人がいるのよね」
妃になるかは分からない。でも、いい縁があるかもしれない。
歓談する。
王子は現われない。
「演奏を聞かせ下さらないかしら」
請われた。
練習していないけど弾けるだろう。しかし、パート一ついない。そのことを王妃に告げる。
「それでもかまわないわ」
王妃は微笑む。扇で口元隠し、アプリードたちを見た。
アプリードはこの仕草に見覚えがある。貴族の子女がよくやる仕草であるが、扇や顔の角度はそれぞれ違う。まねるとなると、その人物に似せようとする。または、毎日見ているから似るということもある。
やはり、アドゥディラはここにいる。困っているアプリードを悪趣味にも見ているに違いない。
――親切に見えたけどやっぱり性格は悪いのか、貴族って。
アプリードはふつふつと怒りが湧き上がり、それがいい演奏してやろうという闘志に変わる。
アプリードと演奏仲間四人は壇上に上がる。
「お姉さま方、アドゥディラはいますわ」
この会場にと言わなかった。それでも、彼女たちの緊張は少しほぐれた。妹分のアプリードが堂々としているのだから、自分たちが上がるのはおかしいと負けん気が生じたのだろう。
演奏が開始された。
アドゥディラが弾くパートはメーン旋律が多い。だから抜けると、曲をつかむのが難しくなる。
それは杞憂だった。
どこからかバイオリンの音が響き、彼女たちの演奏を支えた。
会場のどこかにいるアドゥディラが弾いているのだろう。いじわるされたといじけた自分が恥ずかしくなっていたアプリードは、楽しみにしてくれた王妃のためにも、精一杯の気持ちを込める。
演奏は楽しい。
演奏が終わったとき、拍手が迎える。この瞬間が忘れられない。
壇上にいるアプリードたちは、入口にいる人物を見て息を飲んだ。
アドゥディラに似た少年だ。
動きやすいズボンとジャケットであるが、上質の生地であり製法であるのが遠目ですら分かった。
手にバイオリンを持っているから、弾いていた人物だ。
「母上、遅くなりました」
はっきりとした声が響く。噂の王太子だ。彼はゆっくりと走って近づいてくる。
王妃にあいさつすると、壇上のアプリードたちにお辞儀した。
アプリードは彼の姿を見て推測通りだったと答えを得た。女装して学校に入っていたということになる。
濡れたドレスの時も一緒の部屋で脱がないというのは、コンプレックスがあるからというより、性別がばれるから嫌だったのだ。完璧な貴族の子女アドゥディラの不自然なところに、このピースははまっていく。
「母上、いかがでしたか」
「本当にこんな素敵な演奏家がいるとは思いもしませんでした。ぜひ、また弾いてほしいわ」
「ピアノは毎日聞けるかも知れませんよ」
「まあ」
アプリードはきょとんとする。
彼はアプリードの横に立つと、バイオリンをピアノの上に置いた。しゃがむとアプリードの手を取る。
「私と一緒に暮らさないかい?」
「え? ええと? 侍女?」
「鈍い」
「……う」
彼は中腰になると、彼女の手に口を近づける。
女性たちが息を飲む。アブリードは逃げたくなる。アドゥディラにそっくりな人物でも、相手は男だ。いや、本人かもしれないけど、確証はない。
もし、アドゥディラであっても、こんなに近くに寄られたくない。
「君は、いろいろ考えてる。たぶん、おおよそあってるんじゃないか、分からないけど。そうそう、水に落ちた君は、重かった」
「なっ!」
これで本人だと確証した、双子のきょうだい説もまだ残してあったが。
王子は膝をついてしゃがむ。
「返答は?」
「失礼なことをいう人は嫌いです」
すくっとアプリードは立ち上がった。頬は膨れている。貴族の令嬢としてはあり得ない表情だ。感情に素直すぎる。
沈黙が流れる。二人の会話は舞台にいる者はかすかに入る。耳が大きくなっている。
舞台の周りには、雰囲気だけ伝わる。アプリードは怒っている。しかし、よく見れば怒られても王子の方は微笑んでいるのだ。彼女の状況が想定内であり、許容されることなのだろう。
正面を向いているアプリードに視線がみな集まる。
侯爵夫人はあわてる。グローリムは嬉しい悲鳴を上げる。
王子は笑う。
「では、誤解が解けるまで、手紙でのやり取りから始めよう。君には連絡先を教えていなかったし、色々迷惑もかけたし」
皆に聞こえるような大きさだ。
「迷惑って……。でも、私、あなたのおかげで学校が楽しいと思えた」
王子はあわててアプリードの口に手を当てた。人前で言われるのは大いに問題があることである。
「嬉しいことを言ってくれたけど、それは秘密にしてくれ」
小声でいい、彼女の口に当てていない手の人さし指を自分の唇に当てた。
アプリードはうなずいた。王子が女装して学校にいたなど、誰にも知られたくないことだろう。噂が立つのは避けられないだろうが、似ているのだからアドゥディラと。
アプリードの手を取ると、王子は立ち上がり、王妃の前にやって来た。
「母上、彼女と結婚を前提に交際します」
王妃はアプリードを観察する。上から下まで。それだけではなく、心の奥まで見透かすような視線だ。
言われた本人であるアプリードは驚いて王子を見る。確かに先ほど「一緒に暮らす」と言っていたのだ。
会場は静かであるのに、ざわめきが聞こえそうな気配だ。彼女たちの心の中は、悲鳴や歓声で一杯だ。
「あら、すぐに暮らしてくれるのではなかったの?」
「いろいろあったため、嫌われる寸前まで行ったみたいです。そのため、誤解を解き、口説き落とすための交際期間が必要となりました」
アプリードは顔を真っ赤にした。
「あなたが何失礼なことをしたかしりませんが、王家に迎えるにふさわしいと思うなら、責任もって口説きなさいね」
「はい、母上」
「あなたは――」
アプリードを王妃は見つめる。
「この子が求婚したという意味が分かりますか」
「え?」
「王太子妃となるのです」
アプリードはうなずいた。王妃に言われて理解しようと一つずつ穴埋めしていった結果、理解した。
青くなる。
生まれながらの貴族でもないし、令嬢として欠点も多い自分が、大きな地位につくという重さを感じた。
「母上、噂をご存知なら、アプリードがやる気になれば、あっという間に役割を演じられる女性になりますよ。私はしばらく一緒でした」
王妃は笑みを深くした。
彼の言葉にアプリードは冷や汗が出る。貴族の令嬢になるのと、王太子妃になるのはレベルが違う。
「確かに。今のこの子を見ていると、一年前まで庶民だったとは思えないもの」
「――と言うわけだ。アプリード……真っ青だ。具合でも悪いのか」
顔を覗きこまれ、アプリードの顔が真っ赤になる。
「あ、えええと、何もないです。よろしくお願いします」
頭を下げる。
はっとして、あわてて頭を上げる。アプリードはドレスのすそを持ち上げてお辞儀した。
「ええ、息子が失礼なことをしたというなら、償わせるわ。あなたとこの子の問題だもの。親は出ないわ」
「は、はい」
上がってるアプリード。身を起こした時、王子の服に手が当たる。
「さて、少し話をしよう」
歓談が再開された。
この瞬間、会場にいる人たちが内心で上げていた、悲鳴や歓声が表に出る。
舞台となっていたところから降り、同じテーブルに着く。アプリードはアドゥディラにからかわれているのではないかとまだ思ってる。
王子が紅茶を彼女の前において、顔を覗く。
「どうしたんだい」
「変。何か変」
「まあ、隠し事多かったからね」
「……ふあ」
正面に顔があったのでアプリードは驚く。
「遅いな。本当に考えすぎなんだ」
アプリードはむっとする。誰のせいで問題が大きくなったのか。
「これで、少しは信じてくれるかな」
アプリードは大きく目を見開く。唇に触れた唇はすぐに離れた。
何が起こっているのか、すぐには分からない。知識としてあっても、したことはないから。
きゃーという声が中庭に響く。
我に返ったときには、アドゥディラは離れていた。椅子に座って、彼女の出方を待つ。
動かないアプリード。
王子以外も彼女の動きを注視する。反応がないのはおかしい。
アプリードは首をかしげる。カップを手にすると、微笑んでお茶を飲んだ。
「……何もなかったことにしなかったか」
王子が指摘した。
アプリードの顔は耳まで真っ赤だ。
「あ、何かされて気がしたから」
「それ、腹立つ」
むっとした顔で、腰を浮かすと、アプリードの唇にキスをした。瞬間ではなく、分からせるほどしっかりと。
「ひゃああああ」
アプリードの悲鳴に王子は笑い、侯爵夫人は青ざめる。
少女たちのさざめきが、壁に反響し、空に昇って消えて行った。
ネーミング辞典見て決めた人物名が珍名もしくはキラキラネームになってしまいました。だからと言って、アップするに当たり変更していないです、書いている間にそういうキャラクターになったので。加えていうと、侍女たちが一般的な名前なのは辞典見ないで付けたからです。