あさきゆめみじ ゑひもせす
あさきゆめみじ ゑひもせす──浅い夢も見ない、酔ったりもしない
湖面がさざなみを起こしたのは、浮かべた椿の花が揺れたのは、きっと涙が落ちたせいだろうと水姫は思った。しかし、水面に映し出されたその面差しは少しも悲しみに歪むことはなく、以前よりもその美貌が冴えたように思えた。
見る者の血を凍らせるかのような白皙の美貌は常に動かず、慈悲深く見えることも、冷徹に見えることも、憂いを浮かべているように見えることもあった。どの表情にしろ、水姫の美貌を際立たせる以上の役目など果たすわけはないが。
「ミズキ、灯篭流しは終わったの?」
「・・・ツキ。」
不意にかけられた声に湖面から顔を上げると、白い着物を纏った人物が水姫に近付いてきた。
ツキと呼ばれた人物は西洋で言うところの不透明なベールを被り、その顔を覆い隠していた。水姫と深い結びつきのあるこの月姫はその素性を誰にも明かしてはいない。それは誰が決めたわけでもなく、誰に強いられたものでもなく、ましてや水姫が願ったことでもなく、初めて顔を合わせた時から月姫は己の顔を隠してきた。
顔を隠しているのだから顔合わせと言うのもおかしな話だが、水姫から見えていなくとも月姫からはベール越しとはいえ水姫の容貌も、表情も、映し出されることのない感情さえも見抜いている。水姫はそれを初めて会った時から知っていた。何故なら月姫は水姫の鏡のようなものであり、事実、歴代の月姫のように顔を見せることのない当代の月姫は、鏡姫と渾名されるほどだ。それが侮蔑を含もうと、畏怖を込められていようと、きっと月姫は笑うのだろうと水姫は確信していた。何故なら、水姫もまた、月姫の鏡姫であったから。
「灯篭はとっくの昔に流し終えた。御前の迎えが遅い故、椿を流しておっただけだ。」
硝子でできた鈴を振ったような凛とした少女の声が老獪な言葉と沈み込んだ口調で話し始めれば、多くの人間が麗しい容姿との差異に戸惑い、眉を顰める。世話役の年老いた女達や祭主は品がないと決していい顔をしないが、水姫にとっては瑣末な事だ。
けっして強がっているわけでも、反抗でもない。ただ、いつの間にか違う己が出来上がっていたにすぎない。
「首でも流していたと?」
「・・・それは喩えだ、椿は所詮花でしかない。世迷い事を申すな。」
ベールに覆われた月姫の顔は決して見えず、声音も男なのか女なのか分からないくらいか細い。それこそ吐息のような声がやっと聞き取れるくらいで後はくぐもって所々聞こえないことも多いが、水姫にははっきりと分かった。今の月姫は・・・
「そう怒るな、私はミズキの鏡。私を壊したところで現実には何も変わりはしない。そして、それを君が一番よく知っている。」
「・・・。」
水姫は強く目を閉じ、唇を噛み締めた。言われることが分かっているかのような、予想できる痛みに抗おうとするかのような表情を、ベールの向こう側に素顔を隠した月姫が見詰めていた。
「所詮椿は花だ。潔く散ろうが、不吉だろうが、今年咲いて全て落ちたとしても、来年には新しい花を咲かすだけの、我々の気持ちなど知らない植物。」
「分かっている。」
「分かっているのならば感情をコントロールすることだ。水姫ともあろう者にとって。」
白い着物から伸びる掌が、そっと水姫の頬に触れた。あまりに冷たくて、しかし声音からは想像できないほどに荒れた無骨な掌に水姫が閉じていた瞼を勢いよく開けると、輪郭が感じられるほどに顔を近付けた月姫が頬に触れていた手を肩に置いた。
ベールが水姫の体と月姫に挟まれ、顔にぴったりとくっつき、月姫の隠された容貌や息遣いを伝えてくる。
「浅い夢など見ない、夢にも現にも酔ったりしない。ならば不要なのだから。」
水姫の肩に置かれた月姫の手は、肩の筋肉から骨を引き剥がそうとしているかのように強く、強く食い込んでいた。
瞼を開けばそこには見慣れたサイドテーブルとカーテンが見えるばかり。水姫は変わり映えしない景色と同じ内容だということすら分からなくなりつつある夢に辟易しながら寝台を降りた。水姫となってから住むようになった宮の離宮、水姫の部屋に彼女自身の持ち物は恐ろしく少ない。宮には水姫をかしずく為の設備は十二分に整っているが、水姫として選ばれた少女、または少女達に対する配慮は皆無に等しかった。
毎日決まった時間の起床、食事、修学、修練、入浴、睡眠・・・生活の全てを仕切られ、ただ何の目的で祭り上げられているのかも分からない姫を抱いて、宮は今日も静かに沈黙していた。
「おはようございます、水姫。」
「・・・おはよう、月姫。」
水姫の慰め役として、話し相手として、鏡として用意された多くの月姫は、水姫に対する親愛と尊敬、服従さえうかがえる眼差しと微笑みを浮かべながら彼女の傍に侍った。
「灯篭流しですが、本日は一の月が水姫のお好きな柄の灯篭をいくつか選びました。よろしければ見ていただけますか?」
懇願の瞳に個はない。意思はあっても意志がなく、志はあっても心のないその言動が、水姫の精神に障るようになったのは何時だっただろうか。少なくとも、高校から引き抜かれ、攫われるように水姫として祭り上げられたあの日以来、全てにおいて落胆が脳内を支配する水姫にとって、苛立ちとは無縁のものだったはずだ。しかし、その諦観からくる感情の抑制が、最近うまくいかなかった。自分はいったいどうしてしまったのかという問いに、応える者は誰もいなかったけれど。
「わかった。」
何も変わらない日常、何も変わらない水姫、毎年行われる灯篭流し。鎮魂の意味を込めて生きながらに静謐だけを抱く水姫は、その夜も茜色に染まる川辺に灯篭を浮かべる。湖面がさざなみを起こし、灯篭はゆっくりと川の流れに乗って泳ぎ始めた。
静かに流れていた数多の灯篭、それらによって橙色に染まった川原を多くの月姫が遠巻きにしながら見守っていた。
「綺麗ですわ、灯篭も、この川原も、もちろんそれらを作り出している水姫も。」
風に乗って聞こえる遠くの月姫の声に水姫の中で何かが大きく動いた。まるで石の棺の蓋が、内側から押し上げられたかのような重い音と、石材同士が擦れ合うようなざらついた感覚。慣れない内側の胎動に大きく目を見開き、水姫は川を見やった。
「言っただろう、ミズキ。」
「・・・ツキ?」
「水姫に必要ないのだから捨ててしまえ。月姫の近くにいれば、君は感情をうまくコントロールできる。何故なら、月姫にとって水姫は人形であり、水姫にとって月姫はただ反射するだけの鏡。ならば、双方が見ているのは等しく人形でしかない。ならば、不要だろう。」
「・・・ツキ。」
「不要だろう、なのに・・・」
水姫はいつもと様子の違うベールを被った月姫を見詰めた。彼が、いや、彼女が今、どんな表情をしているのか分からない。月姫は水姫の鏡、水姫は鏡に反射した人形。ならばなぜ、こんなにも・・・引き裂かれそうなほどに胸が痛いのだろうか。
「いつまで・・・椿の花を流し続けるんだろうか?」
いつから、いつから・・・水姫が気付いた時には、月姫たちに気取られないように花を流した。できるならば椿を、ないならば季節の花を、そっと袖に隠して灯篭と一緒に流していた。そこに意味などない。ただ、それは切望するような必死さを持って繰り返される事だった。そこに意味などない。水姫にとっても他愛のない、ただの気まぐれ。それ以上の意味など、どこにも存在しないはずだった。そう、どこにも。それなのに・・・。
てのひらを包み込む温かさを感じながら水姫は声を振り絞った。
「そなたは・・・何者だ?」
「・・・。」
「何故・・・泣いている? そなたが言ったのだ。感情をコントロールしろと。なのに・・・」
どうして、それを口にする前に水面が急に水姫に近付き、やがて呼吸が苦しくなった。自分が溺れていることすら認識する間もなく、さして深くもないはずの灯篭を流す川の流れに沈んでいく。数多の月姫たちの悲鳴すら轟々と聴覚を支配する水の圧力には勝てず、散り散りになっていく。
『ミズキ・・・。』
ふと、耳を支配する轟音も、頭の中を支配する混乱も全て打ち払うように声が聞こえた。静かで、優しく、しかしどこか悲しそうなその声を水姫は知っているような気がした。聞いているだけで嬉しくて、愛しくて、大切だったはずなのに、思い出だけでなく、思いだけでなく、忘れていることすら思い出した瞬間に葬り去られていった。
『もう一度会おう。大切な私の水。どうか私の元に辿り着き、思い出し、そして私を──・・・』
ふと、水姫は障子が開けられる音を聞いた。視線を上げれば、見慣れたサイドテーブルとカーテンが見えるばかり。
「水姫、おはようございます。」
「・・・おはよう。」
水姫はのろのろと寝台から立ち上がり、着替えの手伝いを断って姿見の前に立った。
そこに映っているのは、真っ白い髪を背に流した、白い着物姿の女が立っていた。真っ白い髪は月姫たちとあまりに違い過ぎて、水姫はベールを目深に被った。