2、というわけで、計量分析してみました、その前に
実は、1で述べたことは今までインターネットで出された疑問をまとめた結果に過ぎません。要は前振りというやつです。
しかし、これらの疑義が提出されている中で今一つパンチに欠けるのは、これらの疑義はあくまで主観に基づいている点が多いということです。
「藤子先生はあんなこといわないぞ」とか、「あの藤子先生らしくないんだよなあ……」というのは、あくまで我々の印象論にすぎません。実は、歴史学や文学の世界でも、「この作品(史料)の書き手は誰なのか」という論争が起こることがあるのですが、その際にも内容の検討や文体といった比較的主観的な見方でチェックをする場合が多かったのですが、ここ百年のうちに誕生したある学問が、最近ではこれらの論争に参加して一定の効果を上げています。
その学問を、計量文献学といいます。
これはなにかというと、要は文章の意味を追うことによって問題になる文章の作者を同定しようという従来の考え方を廃し、統計的に文章を捉えてその特徴に迫ろう、とする学問のことです。
1で述べたことだけでは、どうしても印象論のそしりは免れえません。ということで、計量文献学的なアプローチでこのコピペに迫ってみようと思います。
さて、その前に、問題コピペがどういった風に作られたものなのかを推定しなければなりません。
どういうことかというと、計量文献学で扱うのはテクストの中に含まれる品詞の数や文章の長さ、特定の単語や言い回し、構文の頻出数などです。なので、ほかの人の手が入る(たとえば編集されている、あるいは講演を書き起こしたなど)によっては、使用できる方法論が限られてしまうのです。あのコピペが紙の上に描かれたものなのか、それとも誰かの口にした言葉を誰かがまとめたのか。そこを推定するべきなのです。
結論から申し上げると、このコピペは書き言葉で作られたものだと想像されます。
当該コピペをご覧ください。その中に、『卒なくこなす「人間優等生」』というくだりがあります。喋り言葉にしては今一つ不自然ではないでしょうか。ここで出てくる「人間優等生」なる言葉、字面を見れば意味を類推することはできますが、音だけで聞いたときに即座にイメージしにくい言葉です。また、ほかにも「鬱積」や「資料収集/取材」、「もったいない…」など、書き言葉でないと今一つイメージしにくい言葉(特に後者に関しては、スラッシュ【/】や三転リーダ(…)の存在は書き言葉でしか意味を為しません)がちりばめられています。
そして、そのくせをして、「殻にこもってる」となんとなくフランクな言い回しをしている、といういかにも小憎い演出をしている変な文章なのです。
書き言葉で書かれているのに、なんとなく喋り口調を意識して書いている文章--。
とりあえず、このコピペはそんなヘンテコな面を持っている、不思議なテクストなのだということを、とりあえず念頭に置いておいてください。




