闇の御子ベルナトッド
ビョルケル朝フランセーン、一般には旧帝国と呼称される、その一辺境域であったこの地をかつて百年にわたり支配した者の名は魔王ベルナトッド。闇の御子とあだ名される若干十五歳の少年だ。尤も、その見てくれと実年齢には大河バルトシュ以上の開きがあるのは言うまでもない。
その魔王として旧バストールに君臨する以前のベルナトッドの様子を伝えるモノは実のところ多くはない。彼が生まれながらにして魔王という特異な存在であったかというと、様々な意見が出たのだが、現在はある推論が主流派を占めていた。
それは旧帝国において過去に皇帝も輩出した大貴族、大公ブリーチェク家からの出自なのではないかという説である。
しかしながら、彼の出自であると目されている旧帝国貴族ブリーチェク家も絶えて久しく、それどころか公式な文献によればあのベルナトッドは存在していないのだ。その代わりと言ってはなんだが、同名の別人がかつては存在していた事となっていた。
そのベルナトッドなる人物であるが、眉目秀麗で大変聡明な人格者であったらしい。ただ惜しむらくは、これといって秀でた功績を残せぬまま若くして流行病に倒れた、そう帝国公文書には記されている。
これ以降、ブリーチェク家は元より、旧帝国領内におけるどの文献や口伝を調べてもベルナトッドなる名前が登場することはない。
ただ、興味深いのはそのベルナトッド大公殿下が病没したのと期間を空けず、魔王ベルナトッドがバストールの地に現れた事である。
二つを繋げる明確な物証はなにひとつ残ってはいないが、歴史学者のみならず、実しやかに人々はありとあらゆる噂を口にしたのであった。
そしてここに民間伝承の、それも吟遊詩人たちが安酒が売りの大衆酒場で朗々と歌い上げる一節、さらにその一部で聴衆との間に交わされる問答の中に興味をひくものがある。
「ザ・スーン、レギオン、ベルナトッド。いにしえの三賢人はそれぞれ望むものを天上の神々から授かったが、それはなんぞや?」
「ひとりが求めたものは果てし無き真理への求道者の道。もうひとりが求めたのは白痴こそなべてであるというその事実の体現」
「では最後の一人が求めたものは?」
「掲げたその手に渇望したのは人の身にあって望みうる全てを」
「然り、然り。然して彼は望みを叶えるべく、その身を相応しいものに変えたるなり……白金の御子はその身を闇に潜め……千万の闇を統べたもう……」
「おいおい、エステル、膝を付け、膝を」
横のアトロにスカートの裾を引かれて我に返ったエステルは、慌ててその場に片膝をついて首肯した。
心臓がばくばくと早鐘をうっているのは、おとぎ噺の住人と現実に遭遇したためか。興奮しているのか、わずかに体温も上昇しているようだ。
遠目からもわかる雪のように白い肌と、燃えるように赤い瞳。この世の美なる全てのものがあの玉座の一画に押し込められている。
エステルは視線を逸らして俯いた姿勢のままであるのに、なぜか脳裏に浮かぶありありとした魔王の容貌に心がざわめくのを抑えられなかった。
「――アトロ」
二十メートルもあの玉座まではあるだろうか。
その距離を感じさせないほど、大きな声ではないが、単語の一節におよぶまで聞き漏らしようのない明瞭な言葉が玉座から発せられた。
「はっ」
「本日出向いた用向きはなんだ、申せ」
はからずも横のアトロと比較するとよくわかる。変声前の少年よりもなお透き通った透明感あふれる声質。
質量を持たない軽やかさで魔王の口から放たれた言葉が、この薄暗く重厚な石畳の上を隅々に至るまで染み渡っていく。
「かねてより賜りましております、ご情誼に対しましてお礼というにはいささかではありますが……」
「前置きは良い、簡潔に申せ」
「は。では口幅ったい物言いで失礼しますが、先達て殿下が所望された者をこれに連れ立ってございます」
「……ほう、それか」
魔王が組んでいた長い足を解くと、するりと滑るように優雅に立ち上がる。
なおも周囲に放ち続ける威圧感こそ凄まじいいものの、目に見える魔王はアトロとほぼ同じ百六十センチ程度で青年になる前の少年のものだ。線が細く胸板も薄い分、似たような年の少年よりも小さく見えるかも知れない。
ふわり、と風が動いた。
そうとしか知覚できなかったのだが、実際には垂れた前髪を払って熱をもったエステルの頬をなでたのは小さな少年の手である。
先ほどまであの離れた玉座にいたはずなのに、どのような術を用いたのだろうか。気づけば膝を折るエステルに魔王の影が重なっていた。
つつ……と陶器のように滑らかな指先が流れてエステルの顎をつまむと、強引にぐいと上を向かせる。
途端、視界いっぱいを埋めつくした深紅の双眸に、エステルの心臓は一瞬だが活動を停止させられた。視線をそらすどころか、瞬きすら許されず「……ぅ、ぅぁぅ」と口の端から小さな呻きを漏らすだけがエステルに許された精一杯だった。
「名前は」
「は、エステルと申します」
「アトロ、お前には聞いておらぬ。――名前は?」
そう重ねて尋ねられて、エステルは朦朧とする中で夢中で「……エス、エステルです。エ、エステルと申します」とうわ言のように自らの名前を繰り返した。
そうか、とエステルの反応に満足そうに目を細める魔王。「エステルと申すか。なるほど、良い名だ」ゆっくりと咀嚼して飲み下すように何度かその名前を繰り返した。
今あるこの世界の誰にも成し得ないほど流麗で美しく発音されたエステルという名。魔王が口にしてくれた自分の名前は、今はじめてこの瞬間に命を宿すことになったのだ!そうエステルは確信していた。
その証拠に、少年がその名を口にする度に、きゅうっと胸の奥の何かを万力で締め上げられる感覚を覚えて、それがエステルには身をよじりたくなるほど堪らない。
やがて、ゆっくりと顎から離れてゆく小さな手を、エステルは名残惜しそうに目で追った。その様子に再び小さく微笑むと、大丈夫だとばかりにもう片方の手をエステルの頬へと添える。
安心しきった表情で、再び添えられた魔王の手を自らの両手で大事そうに押し包むエステル。
上気した頬。潤んだ金色の瞳。何よりもあの満ち足りて自然とこぼれている微笑み。
これがあのエステルか、完全に女そのものではないか。
アトロはこのダークエルフがエステルであると、目の前で見ていてさえ信じられない思いだった。
やがて奇妙だがどこか淫靡な臣従の包容は終息に向かった。
エステルの頬を撫でていた手が離れて下へと向かうと、するすると手馴れた様子でドレスの胸元をはだけさせてゆく。
いつものエステルであれば、不埒な手がそのように狼藉を働く前に持ち主に鉄拳をお見舞いしていたであろう。だが、今はその鉄拳はなりを潜めてさせるがままに、あろうことをその手の動きを受け入れたかのように重ねられていた。
恍惚として見上げるエステルの長い耳の横を抜け、魔王が膝まずいて露わになってシャンデリアの光を艶やかに反射する肩へ、直に褐色の肌へと唇を落としていく。
触れるか触れないか、軽い接触にエステルの背中をぞわりと何かが駆け上がった。
びくりと肩が跳ねて「ふぁ……」と漏れる声が艶かしい。
「――エステル。今日よりお前は私のものだ。身も心もその魂まで私のものだ。私が良いというまで未来永劫、私だけに仕えるのだ――誓えるな」
「……は、はい、エステル。誓えます。この身、髪の毛の一筋に至るまでベルナトッドさまのものです……」
「私に仕えるという事は、神の道に背くことになるのだが、それでもか」
「……はい、どのような結末を辿る事になろうやも、後悔は致しません。わたしをずっとあなたのおそばに……」
よろしい。
エステル、お前のすべてはわたしのものだ。
大きく頷いた魔王ベルナトッドは、エステルの背中へと手を回すと少年のものとは思えない強い力でかき抱いた。
それから大きく口を――いや、アギトを開くと長く伸びた犬歯を深々とエステルの肩へと突き立てたのである。
「う」と痛みに耐える悲鳴が一度だけ漏れたが、うっすらと涙をためて焦点の合わない目も、だらしなく開いた口元にも、エステルの表情のどこにもそれを嫌がるサインは見て取れない。
それどころか伸ばした両手で膝まずいた自分よりもやや高い少年の首にすがりつく様は、結果としてさらに魔王の牙をせがんでいる、そういう風にさえとれるのだった……
「――と、いう展開を考えているんだけどさ。アトロ、お前はこの筋書きどう思うかな?」
「さて、殿下にはまこと才がおありなのですなあ。あ、いや、失礼しました。このアトロめにはそれの良し悪しはわかりかねますが……ただ……」
「ただ……なんだ? アトロ、お前とわたしの仲だ、なんでも忌憚なく言って貰えると嬉しい」
「いや、ただ……そう殿下に都合よく事が運びますかな? あー、いや。そもそもですな、当人、エステルを前にして計画の全てをひけらかすのはどうかと思いますが……」
「……うぁ……そ、そうなの? そうなってるの?……え? 何? この人が……?」
「……………………なんだこれ」
エステルはただひたすら困惑していた。
――少し前。
二人が入室するや否や玉座を駆け下りた魔王ベルナトッドが小気味よく快足を飛ばして駆け寄ると、とろけそうな笑顔を携えて禿げ頭とハグをした。
「アトロ、ぐっじょぶ、ぐっじょぶだよ! こないだの差し入れ最高! 特に<実録!水着おねえさんの誘惑!>がもうたまんないよ!」
「さすが殿下、お目が高い! <夏休み、従兄弟のおねえさんとの帰り道>も近日中にはお届けできると思いますぞ!」
「さすがだ、アトロ。さすがすぎるよっ!」
などとのたまい合った挙句、男同士の硬い握手をがっつりと交わしたあたりでエステルはもういっそ帰ってしまおうかと真剣に悩み出したほどだ。
その後も、久闊を叙すると言うには大層レベルの低い、むしろ独身男の事情をまざまざと見せつける会話の成れの果てに、冒頭の展開へと至ったのである。
「これが……?」と急に物怖じして、でっぷりと肉ばかりついたアトロの背中に隠れるようにこちらを伺う魔王に
「左様です、殿下。これが前から望んでおられた者で名をエステルといいます」
いきなりなされた紹介に、エステルは慌ててお辞儀をした。勢いよく上体を折ったために、背中でまとめられたポニーテールがぴこんとはねる。
魔王はといえば、先ほどの活発さなどどこへ消し飛んだか、もじもじと上目遣いでアトロの影からエステルを伺うばかりである。「よ、よろしく……」という声もか細く、あとが続かない。
じつと見上げる視線を受け続けることに耐え切れなくなったエステルは、「ちょっと失礼します、殿下」とたまらずアトロの袖を引いて部屋の隅へと逃げ込んだ。
荒々しく袖を引かれたアトロが、なんだなんだと憤慨するのを遮ってエステルは事態の説明を求めた。
「どういうことだ!? ちゃんとわかるように説明しろ!」
「説明も何も……あのお方がお前のお仕えする相手、ベルナトッド殿下だ」
「ベルナトッド殿下って……お前、あれ魔王じゃないか! ってゆうか、あれ本当に魔王なの!? 子リスのようにつぶらな瞳でもじもじ見上げてくるからなんかもうたまらないんだけど!?」
「魔王に相違ない。わしが保証する。伝説どおりの凄まじい力の持ち主だ。――というか、なんだお前、わしにもリヒャルトにもなびかんと思ったらショタっ気持ちだったのか?」
「そんな趣味はない! 断じてない! 今はダークエルフだけど、エルフの矜持にかけて誓う。オ、おぉわたしは男だぞ? 男の子を好きになるわけがないだろうっ!」
「どこの世界にそんなばいんばいんの男がいるよ……まあ、良い、とにかくだ。お前はお傍にあって何くれとなくあの方の代わりに働いてやってくれればそれで良い」
「働いてやってくれって……わたし、家事とかそんなのできないぞ?」
「その点は安心しろ。ハウスキーパーだのメイドだのの仕事は他に担当者がいる。お前に頼むのは別の事だ」
「殿下は先の勇者との戦いでここ、旧バストール居城の地下深くに封じられてしまっておいででな」と、アトロはそこでようやく今回の件についての詳細を説明しだした。
魔王ベルナトッドは大層な本の虫だ。大魔道士でもあるだけに知識欲が半端ではなく、勇者一行に封じられたのを良いことに引きこもり具合に拍車がかかって、五百余年も読書をして過ごしてきたのだという。
地下の二十ある書物庫の全てを平らげてなおもおさまりがつかず、かといって飢えを満たすべく活字を求めて外へ出ることもかなわない。封印のせいで居城とその周辺域のわずかが彼に許された活動範囲なためにだ。
どうしたものかとほとほと困り果てて頭を悩ましていたその矢先、遺跡探検に訪れて壊滅状態に陥ったとあるパーティにベルナトッドは遭遇した。
そのパーティにいたのが、故郷に錦を飾るべく一攫千金を夢見てこの地に足を踏み入れた、若かりし頃のアトロとボフミール老なのであった。
以降、二十数年。
魔王とこの商人の間には奇妙な誼が結ばれ続けている。
「わしはそれから殿下の御ために書物はもとより、望むものをこの力が及ぶ限り差し入れておるのだ」
えへんと胸――だかお腹だかわからないが――をそらすアトロにエステルのジト目が突き刺さる。
「……書物って、エロ本じゃないか……」
「そういうもので無聊を慰めることもある、というわけだ。いつもそうだというわけではない、本当だぞ? なんだその目は! 断っておくが良い趣味をしておられるのだぞ、殿下は! わしのコレクションを継承するに十分すぎる資格をだな……」
「おすそ分けかよ! 継承させるなよそんなもの! っていうか元々はお前の趣味なんじゃないか!――ああもう、なんだろうなー、この展開……単なるエロ親父がエロ本を男の子に差し入れてるとか、もう誰得なんだよー……」
「誰得って……エステル、想像してみろ、殿下があの素敵スマイルを浮かべて大事そうにわしの本を抱えるさまを……ほれ、素晴らしいじゃないかっ!」
「黙れ、変態。気色の悪い笑顔を浮かべるな。……あー、もう、お前に嫁さんができないの何でかっていうの、今更ながら再確認させられたよ……」
エステルは頭を抱えた。事実は小説よりも奇なりとは言えども……
ちらりと背後を振り返る。少し離れた場所で二人のやり取りを伺うベルナトッドと視線が合った。途端、小首をかしげつつもおずおずとぎこちなくもはにかむ魔王。
ぐはー……なんだか知らんがずきりと胸にクルー……
慌てて目をそらすと、豊かな胸に手を当てて深呼吸を繰り返すエステル。
「落ち着け、落ち着け、あれは小動物的な可愛さであって、絶対に男の子が可愛いとか思ってないからな、うんよし、大丈夫だ。ついでに人の字も飲んでおこう」
ひょいぱくひょいぱくと、手の平に書かれた人の文字を飲み込む背中をアトロが生暖かい目で見つめていた。
なんだかんだと言い訳しているが、お前も殿下の魅力にやられつつあるんじゃないかと……
僅かに二十年程度で大陸道の要地であるバストールで一、二を争う豪商に成り上がったアトロの人生における勝因は主に二つある。
ひとつにこの魔王ベルナトッドと友好的な内に出会うことができた事。もうひとつに、それを自らの栄達に密接に結びつけることができる才覚を有していた事であった。
当時、南の赤砂国から岩塩や香辛料などの南国特産品をバストールに運び込む交易商だったアトロは、とある友人の頼みで旧バストールの遺跡へと足を踏み入れていた。
その結果は先にも述べた通り散々なものとなったわけだが、そのお陰でアトロは魔王の知遇を得ることが出来たわけであるから、人間万事塞翁が馬とでも言うべきなのだろうか。とにかく人生はわからないものである。
それから二度、三度とバストールを訪れる度にベルナトッドの元を訪ねたアトロは、やがて魔王のある力を知る機会を得た。それは魔王がこの地にある魔物の全てを統べる存在である、という話が誇張でもなんでもなく事実そのものであったという点だ。
魔王は五百年前の勇者一行との戦いに敗れた。だが、完全に魔王を討ち滅ぼせなかった勇者はある意味での呪いをかけるようにしてこの地に封じることにしたのだ。
こうして旧バストール遺跡群の中心部、かつてのバストール城の地下迷宮の奥深くに縫い止められる形になった魔王なのだが、勇者側にとって封印は思わぬ嬉しい誤算を生み出した。この地でその後も生まれ続けたあらゆる魔物の全てが、なぜか遺跡群の内部にのみ生息し続けて、外にある人間の生息域を脅かすことがなかったのである。
どのように強力で危険な魔物であろうとも、魔王を守護するかのように旧バストール遺跡群を離れない。この事実を確認した勇者たち、またその子孫である代々のバストール公は封印を守護するような形でほど近い場所に新たなバストールの街を築いたのだ。
少々話がそれた。
ともかくアトロは魔王からその話を聞くと、ある事実を確認した。
この近辺の魔物の全ては魔王の支配下にあり、命令なくば遺跡群から一歩も外へは出ないという事と、逆に命令さえ下せば遺跡の外へと魔物を送る事ができる上にそれをある程度はコントロールできるという事を。
重ねてくどいほど確認して言質をとったアトロは、喜び勇んで新バストールへと駆け戻った。戻るやすぐにボフミールに手伝わせて持てる資産の全てで馬車を揃え、その護衛の兵となる冒険者たちを商会付きとして生涯雇い続けると確約していった。
こうしてアトロは大陸で初めての、いや人類史上初となる大陸道をフル活用した運送会社としての事業を始めたのである。
大陸道の要衝バストールに本拠を構え、人や物資や情報を大陸の隅々にまで行き渡らせる。その目論見は見事にあたり、その後数年でアトロの名を知らぬ者がいないまでの地位をバストールの地に確立させる事に成功した。ここにアトロの野望はとりあえずの日の目を見たわけである。
アトロが運送事業を成功させた理由に、運送費の低コスト化が挙げられる。
それまでの交易といえば商人たちが独自に冒険者や傭兵を雇入れ、命懸けでより安全と言われる大陸道を進むというのが一般的というよりも唯一の方法であった。当然運ぶ荷物が奇貨であったり、道中が危険であればあるほどそれに対して支払うコストが跳ね上がるわけだ。
アトロはそこでまず食い詰めて街に溢れていた冒険者を雇い入れることにした。仕事があろうが無かろうが、危険度の多寡に限らず一定の給金を月の決まった日に能力と出来高に応じて支払う、「比較的安全に安定した生活を送ることができる」というこの雇用形態で冒険者たちを飼い慣らしていったのである。
こうして安定した護衛力を確保したアトロは、相場よりもずっと低い運賃をまず実現させた。
だが、安いだけではこれほどまでアトロが成功を納める事はできなかっただろう。
そこで例の「バストール周辺の魔物は全て魔王の支配下に置くことができる」という裏の条件が効果を発揮するというわけなのだ……
「お、お前っ! それじゃバストール周辺で護衛いらないんじゃないか!?」
「声が大きい」そう窘めたアトロは、エステルの問にゆっくりと頷いてみせた。
「殿下が操れる魔物が危険の全てであるというわけではないからな。熊や狼なぞどうにもならん。一定の護衛は必要だが……ま、概ねお前のいう通りではある」
「で、でも、わたしもリヒャルトも前に護衛の任で大なり小なり魔物の襲撃を受けたことがあるぞ……?」
「安全すぎては護衛の意味がなくなるからな。顧客の不安で食わせてもらってる立場としてそれは困るというわけだ。ついでに言えばいつも安全では護衛の士気にも練度にも関わるだろう? さらには護衛の能力として最低ラインを維持するためのふるいにもなるというわけだから一石二鳥、いや三鳥だな」
「……自作自演だったのかよ……」
「それで顧客には低価格と安全を、冒険者や傭兵には給金を提供できるのだからな。どの方面からも文句が出ることなく八方丸く収まる上策だと思っているぞ?」
「……なあ、もしかしてさ……過去に二匹目のドジョウを狙った便乗商会がわずかの期間で倒産してたけど……あれって……」
「あくまでも初めの内は紳士的に交渉したぞ? ……まあ、尤も? うちとの提携を断って運送事業に乗り出したとしても、魔王の加護なくば上手くいかないのは火を見るより明らかだからな」
「……おま……襲わせたな?」
「本当に人聞きの悪い事を言うやつだな。魔王の加護が無かった、そう言ってるだろう?」
商売人として儲けのためならかなり冷徹に算盤を弾くと思ってはいたが……ここまで悪辣に知恵が回る上に実行できるとは
エステルは目の前でにっこりと無邪気な笑みを浮かべる禿げ頭に、空恐ろしいものを感じていた。
ある意味、魔王をすら飼い慣らして商売に結びつけているわけだ。あのボフじぃが心酔するのも頷けるし、ベラヤーナ女史やエロ髭といった曲者ぞろいの面々をまとめ上げるその辣腕を改めて認めざるを得ない。
――尊敬はするがあまり真似はしたくないな、というのがエステルの正直な今の感想である。
「さて、だ。これでお前にもベルナトッド殿下が商会にとってどれほど大事な存在であるかわかっただろう?」
エステルは俯き加減で何度も小さく頷いた。
大事どころの話ではない。もし魔王にそっぽを向かれでもしたら、商会がこれまで通りに商売をすることなど恐らく望めないのだ。
アトロの、商会のこれまでのやりようを初めて耳にしたわけだが、良心の呵責がないのかと非難されれば戸惑って咄嗟に言葉をつげないというのが正直なところだ。
お世辞にも後ろ指さされない方法とは言い難い。だが、戦争孤児として出発して冒険者として身を立ててきたエステルにとっては、「なんだ、その程度か」に落ち着くのである。
この世界を生き抜くのは生易しい事ではない。事実はどうあれ、誰もが「その程度」のことは必要手段と割り切っている、そうエステルは考えているのだ。
「そこでお前の任務だが、殿下の側付きとしてわしとの間を今まで以上に密接に保ってもらいたい」
それにはベルナトッドの意向に極力沿うようにすることが含まれる。
「その上で――」すっとアトロの目が細くなり、顔から表情が消えた。
「ベルナトッド殿下を監視しろ。どんな小さなことでもいい、事あればわしに報告するのだ」
無論、そんな自体にならないようにエステルにはせっせと軌道修正に励んでもらう事になるわけで、それこそが最善の方策であるはずだ。
「伝説の魔王と正面切って対峙できるなどとは恐れ多くて夢にも思わないが、だからといってむざとやられてやるほどお人好しではないからな。卑小な人間の身としてはせいぜい足掻かせて頂こうと思っているわけだ」
アトロはそう言い放つと、どこまでも不敵に笑みを浮かべた。
「さ、内緒話しはこれで終いだ。殿下をこれ以上待たせては失礼にあたるぞ」
エステルはアトロに促されるままに、真紅の絨毯を踏みしめて新しい主人の元へと向かう。
その先で、件の魔王がぎこちなくはあるが、それでも見た目相応の少年らしく愛らしい微笑みをエステルへと向けているのだった。