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褐色耳娘さん。  作者: san
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請われるままに赴いたその先で







 エステル一人が先にと退出した後、のんびりと食事を続けるアトロの姿があった。それに従うのはボフミール老とベラヤーナ嬢だけで、下女たちも全てさがらせている。

 カチャカチャとアトロがフォークを動かす音だけが響く中、商会の首脳部の間で何とはなしの会話が続けられていた。話題は当然数刻前までここでなされていたエステルの今後について、である。

 最初に口火を切ったのは、アトロ家の全てを任されているベラヤーナ嬢だった。下女を全て下げてしまったので、今は自らが甲斐甲斐しく雇主の世話をしている。

 「アトロ様がお考えになられた事である以上、私が立ち入る事ではありませんが……」そう前置きした上で、それでも、とベラヤーナ嬢は自らの職務上、どうしても気になることを雇主に問い質すことにした。



「どこのどちら様に花を贈られるおつもりなのかは存じませんが、いかにも明日というのは性急に過ぎませんか?」



 「ベラヤーナ、差し出がましい事を!」そう叱責するボフミール老をアトロは片手で遮った。老番頭を沈黙させておいて、アトロは先を促す。



「エステルは確かに名花になる素質を持っております。本物の女となった今では見てくれも最上級です。ですが、それだけです。魔術や遺跡あさりの荒事に長けてはいますが……」



 ベラヤーナ嬢は再び繰り返した。「ですが、それだけです」と、小さく首を振る。

 内面は男の――それも彼女の言う通り、冒険者あがりのがさつな男性そのままである。受け入れる側の条件がどのようなものかは知らないが、あのエステルを今のまま送ったのではかえって商会の信用を堕とす事になるのではないか。

 そしてベラヤーナはこうも言い換えられる。今のままではそうだが、時間を許されるのであれば本物の名花へと仕立てあげてみせる、と。その自負がこのアトロ商会のプライベートを支えてきた女傑には違いなくあった。 


 アトロはベラヤーナ嬢が差し出したナプキンで口を拭うと、赤や緑の色も目に鮮やかなブドウを盛り付けた大皿へと手を伸ばした。丸々として、うずらの卵ほどもある粒にかぶりつくと、口中いっぱいに広がる芳醇な甘味に目を細めた。



「いや、確かに、ベラ、お前の心配はもっともなことだ」


「でしたら……!」


「だがな、この際、エステルでいいのだ。と言うよりエステルこそがより適任、そうなるのではないかとわしは思っておる」


「それは……どういう……?」


「ふむ。ベラ、考えてみろ。見目麗しく、お前がいうように贈答に適した名花であればエステルでなくとも十分だ。またそうであるなら、とうにこの件は片付いていると思わんか」


「……ではアトロさまは……エステルにはエステルにした出来ない何か別の……?」



 美しい女性を贈答品として懇意にしたい相手に送るという行為は、上流社会においてしばしば見受けられる。当然送られる女性は美しいだけでなく、教養であったり料理や家事全般の能力なども求められる事が大半だ。

 エステルに関して言えば、外面はケチのつけようがないほどに完璧だ。知識教養においても及第点以上であろう。問題は何かと問えば、その育ちの悪さだけになるのだろう。

 だがそんなエステルでこそだという。誰に送るかは知らないが、アトロはこう言った。「さる高貴な方」だと。高貴であればあるほど求められる条件は高くなり、まして出自や育ちにこそ傾注すべきはずなのに……


 そこまで考えて、ベラヤーナ嬢ははっとある事に思い至った。もしかしてエステルには内偵のような任務を与えるつもりだろうかと。

 そう考えたベラヤーナ嬢は、決心するとその考えを素直に口にしてみたのである。



「もしやとは思いますが……内部工作に使うおつもりですか……?」



 口に出してからベラヤーナ嬢は素早く二人の表情を盗み見た。しかし、彼女の雇主はあくまでも笑みを崩さずうまいうまいとブドウを口に運んでいるだけであるし、義父は両手を身体の前で軽く組んだまま宙を見つめて身動ぎしない。ある意味、いつも通りの景色であり、彼女の言葉に反応した風もなく何も読み取れなかった。

 試みが失敗したとベラヤーナ嬢は落胆して肩を落とした。彼女程度のカマかけにボロを出すような二人ではない、そういう事だった。


 だが、それで彼女は一定の得心がいった。すなわち、返答がない事が答えなのである。

 真意が謀略であるにせよ、なんにせよ、これは彼女の本分にはないのだ。義父が冒頭に叱責したのも、だからこそなればだ。

 

 であるなら私は与えられた職務を全うすべきか。そう決着をつけたベラヤーナ嬢は話題を転じる事にした。



「では、アトロさま。お相手となるお方の好みなどございましたらお教え頂けませんか?そのように仕立てますので」


「いや、特にない。全てベラに任せる。良いようにしてくれ。明朝の出立までに済ませておいてくれればそれで良い」


「かしこまりました。ではアトロ商会からの贈り物として恥ずかしくない名花に仕立ててあげてご覧にいれます」


「楽しみにしている。先方を骨抜きにしてしまうくらいで頼む」



 「では、私は準備がありますのでこれで」恭しく一礼してみせると、ベラヤーナ嬢の巨体は驚くほどの静かさで扉の向こうへと消えたのだった。

 義理の娘を見送って、それまで沈黙していた老番頭は開口一番にアトロに非礼を詫びた。「立場も弁えず出来すぎた真似を」と深々と頭を下げる。アトロはそれにもひらひらと手を振って応じると、その代わりといっては何だがと冷えた麦酒を所望した。

 昼の残暑の熱はすでに消え去って、明り取りに開かれた窓から吹き込む夜気は肌寒い。とはいえ常温で温くなったものよりも冷えた方が美味かろう、というわけである。


 やがてボフミール老に運ばれた盃を口元に運んで、アトロは冷やした麦酒などというひと手間も金もかけたその味を堪能した。口元に残る白い泡を舐め取って満足げに一息つく。



「前々からご相談申し上げていた案件とはいえ、エステルをもってあてるとは正直、驚きました」



 満足しきりな主人の様に、我が事のように口元をほころばせてそう言う。

 この鉄面皮が微笑むところなど、この世界において自分以外見たことがないのではないか。リヒャルトとボフミールのやり取りを思い起こしたアトロがそんな事を考えながら



「まあ、あんな姿になってしまったからな。一応、わしの不手際のせいでああなってしまった以上、責任もそれなりに感じておる。だからといってタダ飯ぐらいを養い続ける余裕も商会にはない、だろう? だからこその落としどころというわけだ」


「なるほど。失礼ながら消去法の末の苦肉の策か……とも思いましたが、たしかにどこの馬の骨ともわからない女を探してくるよりよほど信がおけます。ランニングコストもかかりませんし、存外に適任やも知れませんな」


「正直を言えば、だ。ボフミール。ゆくゆくはお前の後釜にとすら考えていたくらいなのだ。能力に関しては問題はない、わしはそう信じておる」


「相も変わらずえらくエステルを買われておるのですな。ですがあえて反論させて頂けるのであれば、あれは貧乏が板につきすぎております。目先の利に惑わされるきらいがございますゆえ、商売人としての才覚は旦那さまが信じてらっしゃるほどではないかと存じますが」


「……損して得取れがわからんやつだからなあ。常に自分の利ばかり優先していると、周りは敵だらけになるのだが……ま、冒険者あがりでこすっからく生き抜いてきた経緯を考えればしょうがないとも言えるが……」


「さらに言えば人の好き嫌いが激しすぎます。損得勘定はうまくやるようですが、そのくせ感情面を優先させる場面が多々ございます。儲けを口にするのであれば、私情を徹底的に排するぐらいのプロ根性がないと。それでは言行不一致であると、人の信用は得られません」



 ボフミール老はあくまでも手厳しい。手厳しくもあるが、確かにそれが事実でもあった。

 

 実年齢はともかく、エルフとしてはエステルはまだ若い。時間の経過がそのまま人格形成に結びついていないのが少々不甲斐ないとも言えるが、ともかく未熟なのである。二人の商売人にはあらゆる経験値が不足しているように見受けられた。

 ただ、幸いにも種族的寿命を考えれば、商売人として熟成するまでの猶予期間は人間のそれに比べて無限とも言える。あくまでも本人の意思次第ではあるが、伸びしろは大きいのだ。今は未熟でも時間がそれを解決してくれる、アトロはそうふんでいるようだ。



「エステルは時間を味方につけているのだ、人間の間尺に合わせて焦る必要もない。お前にしてもまだ向こう十年は健在で商会を支えてくれるのだろう?ならば、それまでにものになればそれで良いのだ」 



 「旦那さまはこの五十を越えた老人にまだ十年はしっかり働けと仰せであられる。なんとも人使いの荒いお方だ」ハハハとボフミール老は小気味良くなまず髭を揺らした。口でこそ非難しているものの、どこか満足そうな笑顔であった。

 アトロに仕えて十数年。バストールに本拠をおいて商売人として活動しだしたアトロが、二十を僅かに過ぎた若かりし頃より共にあった老練な戦友だ。あと十年と言わず、雇主が望むなら気力尽き果てるまで商会に仕える覚悟のボフミール老にとってむしろ望むところなのである。  



「ま、なに、お前だけに限った話じゃない。エステルにしてもそうだが、投資した分くらいはしっかり回収しておきたいものだ。積極的に減価償却を済ませておくに越したことはない」


「確かに。左様でございますな」



 再び、鉄面皮と呼ばれて久しい老人が、それでも主人の前だからか、あくまでも控えめに笑って見せるのだった。







 


















 次の日の朝早く。

 朝もやの中を四頭建ての馬車が駆けていた。アトロ商会を出発してひた走る馬車に乗車するのは、よそ行きを身に纏った豪商アトロと、これまたベラヤーナ嬢の手によって着飾られたエステルの二人だけである。

 御者台にボフミール老の縁に当たる男を座らせただけで、それ以外には護衛の一人も共にしていない。あくまでも極秘裡の内にと考えるアトロの意向を受けて、ボフミール老が心を砕いた結果であった。

 それこそ当初はリヒャルトとその部下に護衛をという意見―― 一部、というか積極的に該当者から――も出されたのだが、エステルに対しての執着っぷりと、それよりなにより当事者の口の軽さを鑑みると速やかに棄却されることになった次第だ。


 女体化してより何かとうざったい同僚と顔を合わせずに済むというのは、エステルにとっては大変喜ばしいことではある。であるが、だからといって今の彼の気分がたったそれだけで晴れるはずもなかく、この朝から厚く垂れ込めた雲のようにすっきりとしない。

 

 エステルは唇を尖らせて腕組みすると、「あーもう、スカートの裾ってなんでこんなにうざったいんだ!」と、対面して座るアトロにはばかることなく居心地悪そうに足を何度も組み直していた。

 当たり前だがずっとズボンを履いて生きてきたエステルにしてみれば、このスカートなるものを着用するということは彼の百年を超える人生においてでさえ初体験である。スカスカと風通し良く頼りないし、その丈に関わらず常に覗き込まれているかのような感覚がつきまとう。しかも歩こうとすれば足元にまとわりついて歩きにくいことこの上ない。

 男の衣装と違ってとにかく意識があちこちに散って落ち着かないのが彼を苛立たせていた。

 このひらひらとやたら露出が高いわりに機能的でない服も、カカトが高くて足運びも満足にできずに不格好な姿を晒す原因になるヒールも、全てがエステルは気に入らず、頬をハリセンボンのように膨らませてむくれていた。


 最初こそ「エステルたん、行儀悪いよ」と一応たしなめたアトロだったが、牙を向いて睨みつけてくる悪友にいい加減諦めてしまったようだ。

 それどころかイタズラ心が騒いだか、ご機嫌ナナメのエステルに対して今ではなにかとちょっかいをかけている有様だった。



「せめてスカートが短ければなぁ、パンツとまでは言わんがおみ足を心ゆくまで堪能できるのに」


「とかしれっと言いながらずり下がろうとするな! ちゃんと座れ! 視点が低い!」


「いいじゃない、別に。スカート長いんだから」


「生理的になんか怖気立つんだよ! ああもう、そんなねめつけるように人の足元を見るんじゃない! 鳥肌がたつ!」


「じゃあそのざっくりと開けた胸元を……」


「うわあ!? 余計悪いわ! もう見るな、目をつぶってろ! だから、大人しく座ってろっちゅーのに!」 



 スカートの裾を引っ張るやら、大きく開いた胸元を隠すやらでエステルはその対応におわれた。

 首から下げた借り物の大きなルビーのペンダントが、その豊かに実った双丘の谷間で飲み込まれるところもつぶさに観察できるほど胸元は大きく開いている。油断するとこぼれ出るのではないかと心配するほどのきわどさだった。

 

 この衣装をあてがわれた時、はじめエステルは頑なに固辞した。こんな恥ずかしいものを着て人前に出れるかと。だがそこはベラヤーナ嬢の有難いお言葉で以下略となる。

 

 ついでに言えば、アトロが見えない見えないと残念しきりなパンツに代表される下着に関しても実は一悶着があった。

 ごわごわとして大雑把な作りの男物の下履きとは違って肌触りの良さくらいしか褒めるところを見いだせない、えらく小さな三角系を二つ繋げた白い布切れを手に、エステルはわなわなと震えていた。 



「こっ、こっ、ここここここんなはれんちなっっ! なんだよこれ! こんな隠せない面積の方がどう見ても広い下着なんてはく意味があるのかよっ!?」


「あららー、エステル、あんた勘違いしてないかい? 隠せるかどうかなんてどうでもいいんだよ。だってそれ、殿方に披露していかに劣情をもよおさせることができるかどうかの勝負下着なんだからね」


「もよおさせてたまるかぁぁぁぁぁぁぁ!」



 大上段から、ぺしーっとぱんつを床に叩きつけるエステル。こんなもの! こんなもの! と手にした枕を何度も振り下ろすと、肩で大きくふうふうと息をついている。

 「あらあら困ったねぇ」そう、ちっとも困っていなさそうな口ぶりのベラヤーナ嬢だったが、やおら箪笥の引き出しのひとつをひっこ抜くと、ならばとばかりに次々と代替え案をエステルの目の前に放り出した。



「それが嫌だとすると……こっちの穴が開いてるやつとか、透けてるやつ。もしくはこのヒモ状のものになるんだけど……」


「わがまま言ってすいません! わたし、やっぱりこの白い最初のやつでいいです!」


「あら、そうかい? そんな地味なのでいいのかい? 残念だねぇ、あたしゃこっちのハート型のキラキラしたあだるてぃーなやつを……」


「わ、わぁ! この白いのわたしにピッタリー。ウレシイナー、アハハハ!」



 白い小さな布切れを後生大事に抱え込みながら、再び死んだ魚のような目からどうどうと涙を流すエステル……と、まあそんな一幕もあったわけで。


 スカートの丈はエステルの命懸けの哀願もあってひざ下に落ちついた。これでよもやアトロの目に触れることなどあろうはずもないが、その下にあるのは例のきわどい女物の下着である。

 エステルにすれば、あれを着けてるところを見られるというのは耐え難い恥辱だ。それだけに、エステルとしてはからかわれているとわかっていながらも、必死にアトロの視線から身をかばおうと奮闘していたのだった。


 ちぇーと子供のように口を尖らせるアトロの興味をそらすべく、エステルはやや強引にでも話題を転じる事にした。 

 今更であるのだが、口にしたのは至極当然な疑問だ。



「そ、そういえばさ、アトロ、アトロ。そろそろ教えてくれないか?」


「何を?」


「ゎ、わたしが仕える事になる相手が誰なのか」


「ふむ。やっぱり気になるか」


「当然だろ!? ならない方がおかしいって」


「ふむ……」



 あごを太い指でなでつけながら何やら神妙に思案にふけったアトロだったが、次に口を開いた時、彼から飛び出したのはエステルにしてみれば明後日の方向を向いていると思える言葉だった。

 それは「このバストールの成り立ちの物語を知ってるか?」だったのであるから。

 質問に質問で返されてエステルは「は?」と漏らしたきり一瞬反応できなかったが、重ねて尋ねられるとそれを不服に思いながらも彼が知りうる限りの昔話を思い起こしていた。


 確認されている最も古い歴史は八百年ほども過去に遡るもので、大まかに最初の二百年、間に百年、最後の五百年とそれぞれ三つの時代に分けられる。前バストールと呼ばれる二百年は北方で当時隆盛を極めた帝国領の一部として、後半の近バストールと呼ばれる五百年が今に続く代々のバストール公による自治時代のことである。

 さて、ここでアトロの言うバストールの成り立ちの物語と言えば百人が百人がして思い浮かべる、中間期の百年――失われた時代と呼ばれる――まさにその時代に起きた出来事を指すものだ。

 それは強大な帝国の一辺境域であったこの地方を、実力でもってもぎ取っておよそ百年に渡って君臨した闇の御子なる大仰な二つ名で渾名される魔王の存在と、それを見事打ち破った今のバストール公へと連なる勇者の物語であるのだ。

 五百年も昔のことだがおとぎ話ではなく事実である。そう誰もが信じて疑わないし、それを指し示す証拠もいくつも存在している。



「でも、よちよち歩きの子供ですら知っているような、そんな手垢がこびりついたサーガとなんの関係が?」


「うん、まあ、なあ……」



 順を追ってバストールの歴史を請われるままに説明してみせたエステルだが アトロの返事は曖昧として要領を得ない。

 のらりくらりとはぐらかすアトロに苛立ちを募らせ始めたエステルだったが、そうこうしている内に馬車はやがて目的地へと辿りついたようだ。扉越しにかけられた御者の声に頷くと、エステルの追求を放り出してアトロはさっさと降りてしまったのだった。

 そんなアトロの態度にぶつぶつと文句を口にしながらも、エステルも後を追って馬車を出ようと身を乗り出して「おい、待てよ……」と言いかけて目の前の光景に言葉を失った。

 「さる高貴な方」に面会するために馬車を走らせていたはずだが、いざ目的地について目にしたのはかつてのエステルが飽きるほど通いつめた、冒険者の故郷ともいうべき光景が広がっていたのだった。


 わずかに吹く生温い風にもびくともせずに粘度を保って留まり続ける薄い霧。その霧の切れ間から動物の肋骨のように突き出た朽ちかけた尖塔や、自重に引かれて瓦礫の山の一歩手前にまでなっている家屋の群れ。

 めくれ上がった荒れ放題の石畳からは雑草が人の腰の高さにまで伸びており、それらの過去においては街と呼ばれていたものを取り囲む城壁も、湯をかけた角砂糖のように崩れていた。

 バストールを中心に活動をした冒険者であれば必ず一度は訪れる場所。大陸の冒険者であれば一度は耳にしたことのある場所。近バストール時代以前においてこここそがバストールと呼ばれていた前バストール遺跡群であった。


 現在のバストールより西へと旧街道を馬を数時間も走らせると辿り着けるそこは、人間が安全に生活できるエリアに最も隣接しているにも関わらず、最大級の危険とそれに見合うだけの財宝が眠る遺跡として有名だ。

 中央にあると言われる古城を中心に放射状に危険度が下がっていくために冒険者の力量に応じた探索が可能で、ある種、大陸の冒険者の登竜門のような存在である。事実、エステルの冒険者としての記念すべき初仕事もここであった。


 そんな場所に護衛も伴わず馬車をつけたアトロは、まるで自分の庭であるかのようにはっきりとした足取りで一軒の廃屋の門をくぐった。エステルは戸惑うばかりだが、雇主を単身こんな場所へ送り出すわけにもいかず、慣れないヒールに苦戦しながらもその後を追う。

 アトロはエステルの小声での呼びかけを全て無視すると、庭を抜けて玄関からロビー、そして突き当たりの螺旋階段の脇にある小さな木製のドアをひねって暗い階下へと続く階段を躊躇なく降りていった。

 アトロの手に携行ランタンが携えられているだけの小さな灯りを頼りに、かつんかつんと単調な靴音だけが狭い通路に反響する中、百段を超える階段を降りた先で二人を出迎えたのはそれ自体が黄金で出来た重厚な両開きの扉であった。

 月桂樹に二匹の蛇が絡み合うレリーフ。無数に表面のそこかしこに掘られているのは古代ルーン文字。そしてドアノブが本来ある位置には手の平サイズのくぼみがあるのみ。


 そこでようやくアトロはエステルを振り返った。胸元から金のチェーンで吊り下げられた、こちらも純金の薄いプレートを取り出しながら、えらく神妙な面持ちでアトロは語りだした。



「これは古代魔法ゲートがかけられている魔法の扉でな。――ほれ、あのくぼみにプレートを押し当てて開くとそれに応じた場所へと繋がるという仕組みだ」



 エステルは目の前でひらひらと揺れるプレートに視線が吸い付いた。

 精霊魔術師であるエステルには魔道の知識がそれほどあるわけではない。それでも古代魔法ゲートが今は失われてしまった大魔法であるという事実は知識として得ている。

 お目にかかるのも初めてだし、現存しているなど夢にも思わなかった。アトロの言うことが事実であるなら、このうすっぺらい手の平程度のプレートでさえどんな価値があるのか想像もつかない。



「で、ここからがお前に関わる本題なのだが……この扉の先にお前にお仕えしてもらいたいお方がおられる」



 「ちと、特殊なお方でな」アトロはそう前置きした。

 その時ざわり、とエステルの冒険者としての勘が騒ぎ出していた。お尻の上あたりから背骨を駆け上る粟立つ不快感。冒険者としていくつも死線を経験するたびに研ぎ澄まされていった感覚だ。



「ゆえあってお住まいの宮殿に縛られ続けて動けないでいるのだ。そこで先方からの依頼でな、魔術の知識があって教養も備えた者を一人従者としてよこしてくれないかと前から頼まれておったのだ」


「……お、おい……アトロ?」


「それも闇属性の影響を強く受けた女が良い、そう言われてな。頭を悩ましているところに……ほれ、お前が今回のようなことになったのでこれ幸いかと思った次第だ」


「なんか凄まじく嫌なフラグがばしばしとするんだけど……アトロ? い、一応、その高貴なお方の名前……聞いてみたり確認してみたりしちゃっても……い、いいかな? なんて」

 


 冷や汗を垂らしつつ後退するエステルの目の前で、アトロは首から下がっていたプレートをゆっくりと黄金の扉のくぼみへとはめ込んだ。

 途端、ルーン文字に赤い光が灯り、彫り物に過ぎないはずの二匹の蛇がうねうねと蠢いた。互いが互いの尾を食んで八の字を象ってぐるぐると加速していくと、ルーン文字の光が扉全体に乗り移ってまばゆく発光しだした。

 ふぃーんと低周波音を発しつつ、やがてゆっくりと扉が内側へと開かれていく。



「――ぉい、おいおいおいおい! まさかまさか、本当に!?」



 エステルはこれ以上ないほど目を大きく開いたまま、扉の向こうに広がった光景に愕然とした。

  

 底冷えのする暗く冷たい等身大の石が積み上げられた壁。それに支えられた見事な曲線を描くアーチ状の天井からは、乗ってきた馬車ほどの大きさもあるシャンデリアが吊り下げられて、陽の光となんら変わらぬ魔法の灯りを周囲に振りまいていた。

 十メートル以上もある高さから壁を伝い落ちる旧帝国と前バストール年代記をモチーフにした赤色のタペストリーは何本にも及び、天井から床へと這わされたのち支流が大河へと寄り集まるように合流して、長方形の部屋の中央を縦に貫く真紅の道になっていた。


 その真紅の絨毯がまっすぐ行き着く先、扉から最も離れた位置には惜しみなく宝石や金銀細工をあしらった背もたれの高いthe throne――玉座がある。

 その玉座に足を組んで気だるそうに腰掛ける人物を目にとめた時、エステルははっきりとそれが誰であるかを確信した。


 静脈が浮き上がりそうな、万年雪のように白い肌。あごのラインで綺麗に切り揃えられたボブカットはプラチナをそのまま溶かし込んだような白金色。

 一度見たら二度と忘れる事ができない、強く強く人の心の深層部分に刷り込まれる中性的な美貌と溶鉱炉のように明々と燃えるルビー色の瞳。

 年の頃でいえば十五にも満たないあどけなさすら残る風貌ながら、この隠しきれない圧迫感はどうだろう。ヘカーテの魔力の波も大概であったが、こちらも規格外だ。堂々と玉座に収まる姿には威風すら感じられて、思わず膝を降りたくなる。

 そしてその感覚は恐らくは正しいのだ。あの短い節々と女体化して細くなった自分の指よりもさらに華奢に見える繊手だが、エステルの想像通りであるとすればそこから放たれるのは人知を越えた暴力であるはずだ。 


 エステルは知らず生唾を飲み下すと、横にいる雇主と視線を交わした。エステルの胸の内を忖度して、アトロの二重にたるんだ顎がゆっくりと上下して頷いて見せた。



「こちらが失われた百年においてこの地を治められた魔王、闇の御子ベルナトッド・バス=アークデュレ・ブリューチェク。旧帝国においてその人ありと謳われたベルナトッド大公殿下であらせられる」



 エステルは心ここにあらずといった様子で、アトロの言葉を右から左へと聞き流していた。他にも何事か言っているかも知れないがまるで頭に入ってこない。ただ、そのベルナトッドという名前と燃える双眸だけがぐるぐると頭を駆け巡っている。



 闇の御子ベルナトッド。百年に渡ってバストールに君臨したこの地に潜む全ての魔物の王。

 

 気づけば片膝をついて臣下の礼をとるアトロの横で、エステルは呆然と魔王の真紅の双眸を受け止めて突っ立っていた。

 魔法の光を跳ね返して白々と輝く白皙に、エステルは時間を忘れてただただ心を奪われているのだった。





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