商会の夜に
迷宮での一件以来この数日におよぶ出来事で、エステルの男としての矜持には蜘蛛の巣のような細かいひびが無数に入っている。それどころか欠けてこぼれている箇所すら見受けられるほど無残な様相を呈していた。
ともすれば、一息吹きかけただけでガラガラと音を立てて崩れそうなそれを(妄想世界に浸って現実から目を背けることで)支え続け、周囲に散らばった(自分に都合の良い解釈という)破片を拾い集めて修復を繰り返す。そんな涙ぐましい(往生際の悪い無駄な)努力の末に精霊魔術師エステルのアイデンティティは辛うじて保たれてい(るように見え)た。
エステルはそっと琥珀色の瞳を閉ざして夢想する。
まぶたの裏のスクリーンに投影されるのは、連続して宙に咲き乱れる花火の中で剣を振るう雄々しかった精霊魔術師としてのかつての自分。
あの頃は良かった……うんうん。
曲がりなりにもアトロに頼りにされ、リヒャルトとは男同士五分と五分で渡り合えていたあの頃。
商会内においても、冒険者としてもバストール周辺域で精霊魔術師エステルとしてひとかどの人物と実力共に噂されていたあの頃。
――だがそれらは全ては過ぎ去った過去の事。
今はどうだろうか。
アトロからは冗談まじりとはいえ愛妾になるよう求められるし、むしろ素っ気無かったぐらいのリヒャルトが一転して、口元のヨダレをぬぐいながら何くれと粘着してくるようになった。挙句はエステル殿と一目置いてくれていた使用人たちまで、「エステルたん、エステルたん」と鼻息荒くスキンシップを試みる始末だ。
世の女性全てがエステルのようなセクハラを受けているわけもないだろうが……男として生まれ育ったエステルには未知の世界だとは言え、現状は少々行き過ぎなんじゃないだろうかと訝しむのも仕方がないのではないか。だとするなら、これもヘカーテから受けた呪いの副作用のひとつだろうか。
「いや、しかし……」ぐるぐるとエステルの思考はゴールすることなくスタート地点とを行き来し続けている。
「ああ、もう、知るか! たまったもんじゃない!」
知らずエステルの口元はへの字に常に歪められていた。
何が起因したものであるにせよ、これらの事柄すべてがエステルの男の部分を深く傷つけてすり減らしていっている事実なのだということには変わりない。
そして今、更に極めつけとして――
「ほら、エステル! いきなり喚くんじゃない! ああ、もう、動くんじゃないよ、もうちょっとの辛抱だ。じっとしてな!」
大きな胸とその下にある第三の丘陵をぼよんと誇らしげに突き出したベラヤーナ嬢の叱責がエステルの背後から飛ぶ。
「ハイ、スイマセンデシタ。ベラヤーナ女史」
ひどく無機的で、抑揚の欠片もない一本調子でエステルは応えた。妄想の国から呼び戻され再び開かれた瞳は完璧に光を失っていて、どこか朝一に並ぶ死んだ魚を思わせる。
なまじ傾国級の美貌なだけに、無表情になるとどこまでも作り物めいて蝋人形のようだった。
そんな心が死んでしまったかのような、なすがままの抜け殻状態のエステルの周囲を、五人の女たちがベラヤーナ嬢の監督の下に忙しそうに動き回っていた。ある者は衣装を用意し、ある者は黒髪を梳り、ある者はエステルの褐色の肌に明るいファンデーションをのせていく。
赤ラタンに精緻な装飾を施した、背もたれを大きく倒して半ば寝転がるように座る形状の椅子にエステルはその長い足を伸ばしていた。ぽっこりとくぼんだ鎖骨の下あたりから、瑞々しい太ももの半ばまでを、鳳凰の刺繍も目に鮮やかなミルク色の大きなタオルで隠す以外は何も身につけていない状態だ。
頭側の下女が白サンゴの櫛を前後させるたびに、引かれたエステルの頭がわずかに動くが開かれた目はぼんやりと光なく瞬きすらしない。
一時間ほども前から今まで。
ここにいる五人とは別の湯女たちに、髪の毛の一筋から足の指の股に至るまで、丹念に磨きぬかれた結果エステルは精神の限界を突破してどうやらコワレテしまったようなのだった。
最初こそ一糸まとわぬ裸体を第三者に見られる事はおろか、腰巻程度の布切れを身につけた半裸の湯女の登場に、叫び声を上げて心身共に拒否反応を示したエステルだった。たが、ベラヤーナ嬢の非常に紳士的かつ温和で友好的な説得のうちに、エステルはものの数分で心身共に陥落してしまったのである。
本音を言えばベラヤーナ嬢の説得を一ミリたりとて受け入れられるはずもない。だが、心の天秤の片方にプライドやら何やらを色々乗せて抵抗はしてみたが、どうあがいてもベラヤーナ嬢の言葉に首を縦にふらなければ自分に未来がないように思えたのだ。
つまるところは自己保身を最優先に考えたわけで。
それは利己的な冒険者としては当然の考え方だ、そうエステルは自分自身を説得した妥協案でもあったのだった。
今この瞬間だけだ、耐えろ、オレ! と気合を入れて歯を食いしばったエステルだったが、その勇戦実らずと言った所だろうか。最近、一部の上流階級のご令嬢方に大人気の石鹸を惜しみもなく使い、泡立った女たちの繊手が褐色の肌を縦横無尽に蹂躙するたびに、「へぅっ」とか「ぴゃっ」という奇声がぐいっとへの字に捻じ曲げられた唇を割って発せられた。
そして、汚れという汚れを拭い去ったその後に鼻通りも爽やかな柑橘系の香油をすり込む段になると、最早エステルは物言わぬ為すがままの人形と成り果てていたのである。
「も……もう、好きにして……」そう呟いて床の一点を見つめるエステルの頬を滂沱の涙が濡らしている。
無抵抗になったそれを好機と捉えたかどうかは知らないが、より作業しやすくなったのはこれ事実。
ベラヤーナ嬢の指導にも熱がこもり、それを受けて働く下女たちの手元も正確無比に、速度をあげてエステルを飾り続けているのである。
「入るぞ」
やがて小さく2度、ノックと共に低い声がドアごしにかけられて、僅かに開けられた隙間から短躯が滑り込んできた。周囲で働く下女となんら変わらない背丈。百六十センチ程度の背丈に白髪頭。それと同じ色のなまずひげ、はれぼったい上まぶたに感情の起伏が乏しい能面の老人は、商会の大番頭ボフミール老その人だ。
ベラヤーナ嬢の育ての親でもある彼は、この地方やアトロの出自である南方とも違う遥か東から流れてきた行商人の末裔らしく、小柄な体躯とほりの浅い顔のつくりが特徴だ。もっとも彼の場合は無表情なのは民族的特性ではなく個人の資質のようで、商会の者たちからは何事にも動じない度胸も評価されて鉄面皮だのと揶揄されている。
「ああ、あのじいさんか。奥さんといる時でも仏頂面で事務的なんだぜ、きっとな。――そうだな、オレが商会を抜けると言えば、ここぞとばかりにニッコリと笑ってくれるやもしれんが、どうかな」
「……なんだ、笑うだけで良かったのか。そうならそうと早くいわんか。それで無駄口叩きの大酒飲みを追い出せるなら安いものだ。笑うだけならタダだからな、いくらでも笑ってやるぞ、ほれ」
部下を前にそう冗談を飛ばすリヒャルトの背後から、いつのまにやら幽鬼のごとく張り付いていたボフミール老。しわがれた口から氷点下の一言が放たれると、口の減らないと評判しきりの髭面は飛び上がって長身を幾重にも折って平謝りしたものである。
そしてエステルにおいてもリヒャルトと同程度には、あるいはそれ以上にこの無骨な老人が苦手だった。謹厳実直を絵に描いたような老人は、ともすれば生真面目なエステルと合いそうな気がしないでもない。だが、現実は二人の関係はそれとは真逆にある。
それというのも、どうもボフミール老は雇主の気まぐれで発案される悪事の片棒を常に担いでいる奴、などと甚だ迷惑な印象をエステルに対して一方的に抱いているようで、なにかにつけ小言と苦々しげな視線がつきまとうのだ。例えアトロに振り回されたのだと主張しても「旦那様の事を本当に思うのであれば一身を賭してお諌めせんか」と聞く耳を持たない。彼の中では主従関係とは不可侵のもので、雇主アトロの正当性はどのような場合にあっても絶対なのだ。
その結果、「有数な精霊魔術師であることは認めよう。だが、残念なことに折角の能力も有用に使われておらん。ゆえにあのリヒャルトめほどではないにしろ、無駄飯喰らいである」というなんとも言いがかりめいた辛口な評価がエステルに下されているのだった。
自分の事を厭う相手をわざわざこちらから好いてやる必要もない。そう考えたエステルは二枚も三昧も見えない壁をもってこの老大番頭に接してきたのである。
好意的感情を伴って苦手意識を持たれている義理の娘とは真逆の印象をもつボフミール老の登場に、エステルは姿勢を正して身構えた。睥睨、そんな言葉がぴったりと似合うじろりとした老人の視線に、エステルは居心地悪そうに椅子に座り直す。知らず手が伸びてバスタオルの裾を掴んで下へと伸ばして、にへらと愛想笑いをするもぎこちない。
「ボ、ボフじぃ……ご、ごぶさたしてます……」エステルが挨拶するも、語尾が自然と小さくかすれた。何も悪いことをしていないというのに、なんだろうこのいたたまれなさは。知らず視線が平坦な老人の顔からそれて壁や床へと注がれている。
一方のボフミール老はといえば、無遠慮にエステルを一蔑して小さく鼻を鳴らしたきりで応じようともしない。彼が言葉を投げかけたのは彼の義理の娘にである。
「ベラヤーナ、十五分でこの者の身支度を整えるのだ。旦那様が夕食をともにさせると」
「あ、はい、義父さま」
「お前にも同席するよう仰せだ」
「私に……ですか?」
「そうだ。確かに伝えたぞ――それと、だ」
「はい?」
「商会内において、まして使用人の前で私の事を義理父さまと呼ぶな。ボフミール様、もしくは大番頭様だ。公私のけじめはきちんとつけるのだ、良いな」
失礼致しましたと慌てて平頭するベラヤーナに無言のまま頷くと、次に針のような細い視線を褐色の肌へと突き刺した。「お前もだ、エステル。二度とボフじぃなどと呼ぶな」そう吐き捨てると、これ以上用はないとばかりにさっさと入ってきた扉から退室した。
完全にボフミール老が見えなくなるまで頭を垂れた姿勢のままだったが、やがて二人はどちらとはなく視線を交わし合うとぽつりと呟いた。
「――だそうだよ、エステル。そうとなれば、とっとと準備しちゃおうかね」
「……そ、そうだな、うん。そうした方が良さそうだ……まだ納得できないけど……」
幽体離脱しかけるほどに嫌がっていた女性としての身支度であったはずだが、この時ばかりはエステルはベラヤーナ嬢の提案に素直に頷くのみであった。
部屋数だけで数十にもなるその一室に、すっかり遅くなってしまったアトロの夕餉の席に同席した顔ぶれは、下働きの下女たちを除けばエステルにベラヤーナ嬢だけで、ボフミール老は上座のアトロの横で彫像のように突っ立ったままだ。
エステルが行くなら俺もとリヒャルトもしきりに参加したがったそうだが、あのうっとうしい髭面はここにはない。恐らくだがあの老大番頭が冷徹一声の下に排除したものと考えられる。
そもそもが、「雇主と使用人が同じテーブルで食事を摂るなど言語道断! 引くべき線は引きませんと!」と、アトロのフランクさ加減に常々口やかましくしてきたボフミール老だ。雇主の下知さえなければ喜んでエステルどころかベラヤーナ嬢さえもを退出させるに違いない。
「また……その話?」
無駄に長いだけのテーブルについたエステルは、先ほどからずっと手にした銀のフォークで手慰みとばかりに川魚料理を何度もつついていた。
大河バルトシュに近いバストールでは川魚料理がメインディッシュになることが多い。ただし、いくつも並べた大皿に料理をふんだんに盛りつける南方出身のアトロの風でなく、今テーブルに並ぶのは一汁一菜を基本に据えた東の方、ボフミール老の風に習ったものだった。
香辛料をふんだんに使った豪華な肉料理をメインにした南方料理でなく、それより遥かに質素ではあるが食べる側の胃に優しい東方料理を供したのは、夜毎の会食のせいで突き出た腹もたるむ雇主の健康をボフミール老が心配したためである。
エステルは、そんな大番頭が心配してやまないアトロが城壁前で言い出した不埒な申し出を思い出していた。いや、思い起こさせられていた、がより正しい。
やや太い、力強いまゆがぎゅっと寄って、自然と表情が険しいものになった。思い出すだけで忌々しい。苛立たしそうにフォークを突き刺す先で、せっかく料理人が腕を振るった川魚の片身がぐずぐずにほぐれていく。
呪いのお陰で精霊魔術師としての実力は大幅ダウン。その上、物理的にはか弱い女体化のおまけつき。
そんな身であるが――だからこそなされた提案であるとも言えるのだが――アトロの申し出には男としても、実力の伴う冒険者としても素直に受けることなどできそうもない。
この世知辛い世の中にあって大手を振って堂々と安穏と暮らせる、そう言えば聞こえいいかも知れないが実際は籠の鳥だ。幾人も下女を侍らせ、用意された邸宅で毎日何をするでもなく自身を囲ってくれた男の逗留を待つ日々。
その自堕落極まりない誘惑の代償に男に差し出すのは、磨き抜いた己自身、その全て。
正妻ならまだしも第三夫人……っていうか、その……セ、セフっ……セフ………………とかなんて……ああああ、ありえないだろ。絶対に。うん、ないないない。
「いやー、うん。正直、冗談半分でもあったんだが、わしもお前がそんなに真剣に考えてくれているとは思いもつかなかったぞ」
「……え?」
「あー、エステルさん? 次からは考えを口に出さないようにした方がいいと思うぞ? その、だだ漏れだ」
「…………………………まじ? わ、わた、わたし口に出してた……?」
「おー、ようやく慣れてきたか。素直にわたしって言えたな、今」そう妙なところで感心しつつも、エステルの問いかけにこっくりと頷くアトロ。
言葉にならず、もごもごと口中で何やらつぶやきながら、見る見る間にエステルの顔が朱一色に染まってゆく。しどろもどろにわたわたと言い訳を繰り返すエステルを遮って、えらく神妙な表情でアトロは言い放った。
「というかだなー、お前……正妻なら良いのか? 前向きに検討してくれるのか?」
「正妻なら良い」止めの一撃ともいうべきその一言は、エステルの耳朶を打つと強かに脳を揺さぶって思考力を奪いさってしまった。
先ほどのあれは失言だった。本当についうっかりと心にもないことを口走った。そうエステルの頭では言い訳のセリフがいくつも並ぶのだが、実際に漏れ出たのは赤ちゃん言葉にすらなっていない音節のみだ。
限りなく収縮した金色の瞳がアトロの後方、何もない空間を捉えたまま微動だにしておらず、それに従うかのようにしなやかな指先に至るまで石膏のように固まってしまっている。
「……お前な……わしの二倍も生きてきてその体たらくはさすがにどうかと思うぞ。いくら初心だとはいえ程があるだろ……」
大きくため息を吐いて、つるつるに禿げ上がった頭にぺたりと手をやるアトロ。側頭部と後頭部に残っていた毛髪を根こそぎつるつるにした張本人を改めてしげしげと眺めやる。
自らが命じて身支度させたことなのだが、この変わりぶりに正直アトロは息を飲んだ。数日前まで彼のプライベートでの頼もしかった悪友はそこになく、目の前にはしどろもどろになりながらも寸分の美しさを損なわないダークエルフの姫君がいるばかりなのだ。
これはベラヤーナ嬢の手腕をさすがと褒めるべきか。密かにアトロが夢に思い描いていた美人像をそのままに、エステルは変貌を遂げていたのだった。
無造作に背中に流されていた艶やかな黒髪は高く結い上げられ、アメジストが目を引く象牙の櫛が留められており、髪をあげたおかげで普段は見えないうなじが露出しているが、そこにもやや派手な造りである顔に施されたものと同様に控えめな落ち着いた色調の化粧がなされていた。
そこから視線を転じれば、唇に引かれた白桃のような色合いの紅も艶っぽく褐色の肌との対比で目を引く。だが、それよりもやはりエステルの美貌を強く印象づけているのは黄金色の瞳である。今は顔を真っ赤に俯いて皿を眺めているだけだが、これがエステル本来が備えている躍動感溢れる光が宿ればどれほど魅力的だろうか。
中身が未だ男性然としているエステル。当たり前だが、言動は男のそれであってしおらしいなんて表現とは程遠い。だがかえってその外と内とのアンバランスさが良い。
――想像してみてアトロは背中がぞくりとするのだった。
思うに任せて手を差し伸べて、腰帯でまとめているだけのゆるやかな楚々としたミルク色のドレスを解きたい。アトロはそんな衝動に駆られていた。
「どうですか、アトロさま。十分すぎるほど化けたと思いますが?」
そんな雇主の胸中を正確に看破したベラヤーナ嬢の言葉にも、「やりすぎだろ……」と呻くように返すのみでその視線はエステルの面上に吸い付いたままだった。
「どうなさいます? 随分とご執心のご様子。なにやらご予定があると聞き及んでおりますが、取りやめにしてご自分のものになさいますか?」
くっくっと喉の奥で愉快そうに笑うベラヤーナ嬢に、はたとアトロの意識は引き戻された。
まるで妄執を振り払うかのように何度も頭を振ると、えらく真面目くさって言い放つ。その口ぶりにもどこか自分を諦めさせようとしている素振りが伺えた。
「いや、それはできん。すでに先方にはそのように使いをやったからな。――いや、よくやってくれた。これ以上ない出来栄えだ。馬子にも衣装というやつかな」
「あら、元よりエステルは素材は良いと思っておりましたよ。ですのでこれは当然の結果です――ところで……エステルを飾った上で先方に使いをと言う事は……どなた様かに名花として贈られるおつもりでも?」
「似たようなものだ。ま、あくまでもエステル次第ではあるがな――おい、エステル、いい加減こっちに帰ってこい。おーい、エステルたーん。早く戻ってこないとその豊満なおっぱいもみしだ……すいません、嘘です」
冗談で身を乗り出して手を伸ばしかけたアトロの禿げ頭を、銀色の軌跡を残してフォークがかすめて飛び去った。エステルが絶対零度の視線を放つその横で、ボフミール老がやれやれと小さく首を振りながらため息をついている。
たらりと冷や汗を頬に伝わせたアトロだが「ま、まあ、とにかくだな」と干上がった舌をすっかり温くなった葡萄酒で湿らせながら話の先を続けた。
「今後のお前の処遇について、ここにいるボフミールと話し合った。それでだが、お前にはひとつ、頼みたいことがある」
「……頼み?」
それは精霊魔術師エステルとして……じゃないんだろうなぁと独りごちるエステルに、理解が早くて助かるとアトロが破顔した。
今まで通りの依頼であればなにもエステルを湯浴みさせて着飾る必要などない。ボフミール老やベラヤーナ嬢に同席させる必要もなく、アトロが口頭で一言頼むといえば二人の間では事足りるのだ。
「明朝、早くにわしと一緒にさる高貴な方に会ってもらう」
「……高貴な方……?」
「そうだ。そして今後お前にはその高貴な方のお付きとして働いてもらいたい――ああ、安心しろ。今までのわしに対するお前の立場そのままに、相手を変えるだけの話だ。何も伽の相手までしろ、なんて求めておらん……おらんよな? ボフミール、それとも臨機応変? すぱっとやっちゃった方がいいの?」
「うわー! うわー! 伽の相手なんてしてたまるか、求められたら死んでやる! 舌噛んで死んでやる! 化けて出てやるぞ! 末代に至るまでアトロ商会を祟ってやる!」
「わーった、わーかった! 冗談だ!……まったく冗談だと言うに……ユーモアのわからんやつめ」
冗談も相手によりけりですわと、本当に楽しそうに目を細めたベラヤーナ嬢がアトロを諭した。能面ボフミール老に至っては悪ふざけのすぎる雇主に小言をいうのを我慢して、苦り切ってしまっている。
今にも飛びかかりそうなほどに牙をむくエステルをなだめてアトロは返答を求めた。
「もし……断ったら?」おずおずとそう訊ねたエステルに、アトロは半分あきれたように
「おい、わがままを言ってくれるなよ、エステル。わかっているのだろう?誼だけでこれまでよりも能力に劣るお前を今まで通りわしのそばで使うわけにはいかん。それでは他の者にしめしがつかんからな。わしの寵愛を求めるのであればまた話も変わるのであろうが、そうではないのだろう。であれば、今のお前ではベラのもとで下働きをするのがせいぜいではないのか?」
それも嫌なら此度の報酬に慰謝料を含めた金銭を渡すから、好きなようにするがいい。アトロはそう宣告した。
今までの付き合いを思えば冷たいとも取れるかも知れないが、元々がアトロに雇われている立場のエステルだ。雇主にこうしろと命じられて否やと言うならよそへ行くしかない。遅いか早いかの違いだけで、いずれ向き合うように迫られるべき局面である。いきなり降って湧いた話というわけではないのだ。
幾通りか予想していた形とは随分と違った展開だが、頭の回転の早いアトロのことだ。今のエステルの能力も十分把握した上でこの仕事を任せられると判断したのだろう、そう考えれば自分の努力次第でどうとでもできる気がする。
それにしてもさすがというか、到着した晩に早くも次の一手を講じたアトロの行動力と決断力には本当に舌を巻く。
「使いをすでにやったって言ったよな?それって……ゎたしがこの話を断らないって前提で動いていたって事だよな?」
「お前がこの話を断った場合、アトロさまは他の誰かをもって充てただけだ。代わりはいくらでもいる。何に期待しているかはしらんが、それだけだ。勘違いするなよ」
相変わらず視線を一点に固定したまま、無表情にボフミール老が言った。アトロはというと出過ぎた大番頭をたしなめるでもなく、苦笑するだけでそれを否定しようともしない。
この話は昨日今日考えられたものではない。全容がどのようなものかはわからないが、すでに立案されて後は誰をもってあてるかというその一点だけにあったというわけだ。そしてそこに条件に合致したエステルがたまたま浮上した、そういうわけらしい。
「商会から出せる条件はこうだ。この話を受けるのであれば、お前が元の体に戻れるよう商会が持つツテの全てを使って情報を集めよう。いいか、集めるだけだ、集めた情報をどう利用するかはお前の好きにするがいい。その上で断っておくが仮にお前が男に戻れたとして、元通りアトロさまのそば周りで以前のように働けるかは此度の仕事の出来如何となる」
大陸道の中央に位置する交易の要、その一翼を担うバストールにおいてアトロ商会の物流に勝るものはない。物だけではなく人も流入するし、その人の口の端にのせられた情報もここバストールに同じように集積し分散してゆく。
その商会に呪いを解く方法を探すと確約してもらう、これ以上のものをこの大陸で望むべくもないようにエステルは思えた。一個人でその方法を探し出すなど比べるべくもなく論外だ。
退路を断った上でプライドを刺激し、それから本命のエサで釣り上げるって寸法だ。しかも面白くないことに、そうとわかっていてもこれを断るほどの悪手はない、か。
――とにかく気に入らない。
大きくため息をつくとエステルはばりばりと頭をかいた。せっかく結い上げた髪型が崩れたと、横でベラヤーナ嬢が落胆しているが、エステルはそんなものお構いなしである。
毒食らわば皿までか。
椅子を引いて立ち上がると、エステルは左手を胸に、右手を軽く上げてアトロに向き直った。商人たちが多く信奉する契約の女神の習いだ。それを受けて立ち上がったアトロも鏡で合わせように左右対称で向き合う。
「わかったよ、しょうがない……や、しょうがなくないんだけど、しょうがない。っていうか、どうしようもなさそうだし……その話、乗るよ。ぅー、なんかもう騙された気がすっごいするんですけど」
「浮かない顔だな、おい。――しかし、聞き捨てならんな、わしがお前を騙した事あるか?」
「今のこのゎ、わたしの身体がまさにその良い証左みたいなもんだと思わない? ああーもう、絶対に今この瞬間も騙されてるよ! きっと!」
「人聞きの悪いやつだな……まあいい。正式に契約はなされたわけだしな。契約の女神もご覧あれ! ってなもんだ! 今更やっぱりやめたは聞かないぞ? いいな? もう遅いぞ?」
「ああああぁぁ、なんだよなんだよその気持ちの悪い笑顔! やっぱり何か企んでるんだろ! やっぱりやめとけば良かったかー、失敗したぁ!」
大人気なくへへーんと鼻で笑うアトロに歯噛みして悔しがるエステル。それを見守るのは、あらあらまあまあと微笑むベラヤーナ嬢とは対照的に渋面のボフミール老。
一部登場人物の性別こそ異なれど、いつかの商会の光景が再び繰り広げられていたのだった。