ワタシ エステル イマ アナタ ノ ヨコ ニ イルノ
ご無沙汰しております、sanです。
激務を癒そうと褐色成分補充しに参りました。
……
…………
からり、ころん。
………………――はっ!
手から滑り落ちた手鏡が石畳に転がる音で、エステルの意識は夢の国から引き戻された。
慌てて左右に素早く視線を放ったあと、わなわなと震える手で手鏡を拾い上げてもう一度覗き込む。
……見間違い……じゃない。
一縷の望みにかけて逃避を試みはしたが現実は厳しい。夢オチなどではないようだ。
手の平サイズの鏡面に薄く写りこんでこちらを覗き込んでいるのは、やはり先ほどと変わらず黒髪のダークエルフの女だった。
意志の強そうなやや太めの力強い眉。男だった時よりも線の細い通った鼻梁。その下にはふっくらとした濡れた白桃のような唇が続いている。
そして何よりも目を奪うのは、長いまつげに縁どられたその金色の瞳だ。水晶体に金箔でも貼り付けたかと見まごうほどのそれが、光の加減や見る者の角度によってちらちらと妖しい虹彩をはなっている。
一言でいうなら美貌の人。妖しい、と頭につくタイプの。
美しい女性ならこの世には他にもいくらでもいるだろう。だが、このダークエルフの分類は間違いなく稀有であり、しかも「傾城」の範疇だ。とんでもないことに。
単純だがそう形容する以外に思いつかない。それも陽にやけた南方出身者に多く見られるような浅黒い肌の色も相まって、どこまでもエキゾチックで野性的だ。
エステルはかつては緋色だった艶やかな総髪をかきあげた。生え際から毛先まで、エステルが生まれ育ったこの地方では珍しい純粋なまでの羽濡れの黒だ。当然だが毛染めをした記憶などあるわけがない。
エステル自身の女性の好みといえば深窓の令嬢で、はっきり言えば鏡に映る自分とは百八十度真逆のタイプだ。
妖艶より可憐を好むし、活発で野性的であるよりもお淑やかで花飾りの似合うような控えめな女性がストライクなのだ。その白い繊手を彼の手で力強くひくと手折れるのではないかと心配しなければならない。彼の理想はそんな姫君だった。
――だが。
再び鏡の中の自分を覗き込む。
そこにいるのはお金に厳しく、世間の荒波に揉まれに揉まれた小ずるさを内包したダークエルフだ。
当たり前だが中身をよく知っている。自分で言っておいてなんだが、内面は客観的にはどう評価してもそのあたりにしか落ち着かない。
中はともかく外は美しいか。……まあ、白くはないけど。
――ふと、本当に。
本当に、ちょいと好奇心に駆られてウィンクしたり、舌をだしたりと百面相を試みてみたりする。すると、寸分違わず完璧なまでに鏡面の向こうで再現してみせる女ダークエルフ。
てへ。ぺろ。にこっ。イェーィ。
…………
……自らやっておいてなんだが、これは……
凄まじい虚しさに打ちひしがれてエステルは両手を石畳についてうなだれた。
なんだろう。男として失ってはいけない大事なものが、ひとつ、がぽっと抜け落ちた気がするのは。
「……ま、まあ、それはそれとしてだな!」
わざとらしいまでに陽気に声をはりあげて、エステルはその場であぐらをかいて座り直す。
命までは取られなかったからよかった……とは言うものの、ヘカーテの言葉通りであれば地水火風の四属性も封じられている。これは精霊魔術師として致命的と言わざるを得ない。
ダークエルフらしく闇属性は残してくれたようではあるが、それらの上にこの女体化だ。正直、たまったものじゃない。
エステルは盛大にため息をつくとばりばりと頭をかいた。
――ともあれ。
いつまでも現状のままうんうん唸っていてもしょうがない。混乱する思考は傍らへ置くことにして、エステルはこれからどうすべきかを考えることにした。
この状況判断と切り替えの早さは、命の危険がつきまとう冒険者という職業で生き抜くために、彼が意識して後天的に勝ち得たものだ。
できることとできないこと。すべきこととどうでもいいこと。また未来においては可能だが、今はどうにもならないこと。それらを整理して取捨選択して考えるクセを自然と身につけていたのだ。
確かに「朝起きてみたら女の子になっていました!」なんて状況では慌てふためいて、どうしたらいいかわからなくなってしまうかもしれない。だが今は自分がダークエルフ女性へと、性別どころか種族?ごと変わったしまったその原因がはっきりしている。
原因さえわかればなんとかできる。きっと、そのうちに。
エステルはそう決め付けて、まずはアクションを起こすことにした。
ここは彼が拠点にしていた町から遠く離れた山中にある地下迷宮。それもかなりの深度だ。その地の底から自身は元より、横でぐでーっといい夢みているおっさん共々生還を果たさなければならない。
手持ちのカードは大きく変わり果てたが、彼を取り巻く環境はそのままなのだ。
自分に何ができて、どこまでやれるのか。以前の自分との差はなにか。エステルはそれを把握することからはじめた。
自分とアトロがいるこの広間は出入り口がひとつだけで、そこからL字に長い一本道の通路が続く。他に探索者がいるとは思えないが、踏破してこなかった空間は多い。だから、そこにどんな魔物が潜んでいたのかはわからない。
いるかいないかわからないのなら、いると仮定して用心しておくに越したことはない。
広間の隅に転がる薄焼きの壺をふたつ手にとった。これらは当たりであるイフリートボトルを紛らわせるためのダミーだったのだが、この際せいぜいこれを有効活用することにエステルは決めた。
ふたつの壺を床に落として割ると、その破片を拾い集めてL字の通路の先へ何箇所にもわけてまく。これで明かりのない迷宮の通路を何者かが通ったならば、音でそれを知らせる警報器になってくれる算段だ。
ついでに曲がり角に角度を調整しながら手鏡もおいておく。これは広間に向かって光源が近寄ってきた時に、いち早く気づけることを狙ったものだ。
そのふたつの仕掛けで、ささやかながらも一先ずの安全の確保とした。
それらの作業を済ませると、広間に戻ったエステルは雨よけの厚手の外套を広げた。
ついでに毛布をひとつ取り出して、弛緩しきった出っ腹を撫でているアトロにもかけておく。屋内とは言え地下で、石畳の上に直接寝転がれば体温は奪われる。本来なら下に敷くべきだが、そう長いあいだ眠るわけでもない。ついでにこやつは脂肪もあついし。大事無いだろうと。
幸せそうな禿げ面を苦笑混じりに眺めてから、広げた外套のその上に腰に吊るしていた飾り気のないショートソードを大事そうに置いた。さらにその横へ大小様々な刃物を数本それに並べるようにしてゆく。
戦闘だけを目的としたものではない――勿論サイドアームとしての役割も担うのだが――木を削る小刀であったり調理用ナイフであったりと、用途も種類も多岐にわたる。そのどれもが人の手を離れた未開の土地で生き抜くための冒険者としての必需品だ。
一通り武器を並べ終えると、手早く慣れた手つきでレザーアーマーの留め金をはずし、しめつけていた革ベルトをほどいてゆく。床に置かれたにかわで固められたレザーアーマーが、ぽこんと音をたてた。
通常のレザーアーマーと違って、運動性能を多少犠牲にして防御能力を飛躍的にあげたそれは、金属鎧ほどではないにしてもかなり窮屈だ。命あっての物種と少々の圧迫感を我慢して防御力を選択したエステルだったが、危険な迷宮最深部であろうとそれから解放される喜びは大きかった。
とはいえ、ふうと一息ついて胸元に視線をおろしたエステルは、得られた開放感がそれとはまったく違う理由から発生したのだと思い知らされた。
「――おっぱ……胸のせいか……」
依頼主は昏倒しており、彼以外だれも聞く者のいない地下迷宮だ。言い直さずともよいものを、なにやら気恥かしさを感じてその部位を「胸」と口にした。
その彼の視線を受け止める「胸」は見知ったものとは似ても似つかないものとなってそこに鎮座していた。筋骨隆々ではないにしろ、かつてのほどよく引き締まった胸板など銀河系の彼方に消し飛んで、どこまでも蠱惑的に「たゆゆぅん」などという不埒な擬音を伴う脂肪塊へと化けていたのだ。
何度となく繰り返された洗濯でよれよれになった目の粗い粗末な上着を、双丘が見事な弾力を誇示して押し返している。丸首の襟からのぞく茶褐色の谷間がどこまでも艶かしい。
ぐびり、と知らず喉が鳴った。
すべて自分のものなのだから、三割の知的好奇心と残りすべてを占める性的欲求の赴くままに、こね回すなり、つつきまくるなり、つまみ倒すなり「勝手にどうぞ」状態なのだが、どこか他人行儀めいた様子でエステルは強引に視線を褐色のマシュマロからひっぺがした。
「……ま、まあ、どれほど誇示されようが、神が創りたもうた見事な曲線美であろうが、何故だか拍手のひとつすらおくってやる気がしないな!ハ、ハハハ。な、なかなか、やるではないか。こしゃくなやつめ。今日の所は勘弁してやろうじゃないか 」
何をどう勘弁しようというのか理解に苦しむが、とりあえずエステルは「胸」に関してはそう結論づけて笑い飛ばすことにした。
「平常心、平常心」そう念仏のように呟いて、慌ててあらぬ方へ視線をそらして冷や汗を垂らすその姿は初心という他にない。
「ん……む?なんだ、騒々しい……」
「――む、むむ。ようやく起きたか。肝心な時に寝やがって」
物音で目が覚めたのか、それとも「胸」に反応したのか。後者ならば筋金いりと表彰ものだが、表面上はいつもの冷静さを取り繕って振り返れば、アトロが目をこすりこすり上体を起こしていた。
エステルが声をかけたが未だ片足を夢の園へ突っ込んだままなのか、定まらない視線のまま禿げ頭をさすったり顔をなでたりと忙しいアトロ。
気を失っていた前後の時間をくっつける作業をしているようだ。むう、と小さく唸って半身を投げ出した姿勢のままで、盛んにキョロキョロと周囲を伺っている。
いい気なものだ。お陰でこっちは散々な目にあったというのに。街に帰ったら相応の報いをくれてやる。高くつくぞ、今回は。
彼の受けた仕打ちを考えれば、怒鳴りつけたり声高に非難してもいいくらいにも思えたが、少々溜飲が下がるくらいで銅貨一枚にもならないのだ。危険を金銭にかえてきたエステルはそういう点においては逞しい。
こういうのを奴隷根性というのだろうか。だとしても、こんなのでも雇主であることには間違いなく、彼を無事に家に返して初めて苦労がお金にへと変わるのだ。ここで放り出せば骨折り損のくたびれ儲となる。エステルは、せいぜい言葉通りに金銭面で相応の報いをくれてやることに決めたいた。
どう今回の件を報酬に結びつけてやろうと腹の中で算盤をはじくも表面上は、「しょうがないやつめ」とため息まじりに口中で呟いて、それでもナップザックからヤギの胃袋で作られた水筒を取り出すとアトロに手渡した。
「ほら、水だ。飲め。ゆっくりだぞ」
キョトンとした表情のアトロ。「う、うむ」と手渡された水筒を両手でしっかと受け取ったきり、その視線はエステルの面上で留まり続けている。見れば口もアルファベットのOの字にぽかんと空いたままだ。
凝視ともとれる視線をうけて眉根を寄せたエステルは、アトロから距離をおいて決まり悪そうに座り直した。二人の間にやや開いた微妙な距離が居心地の悪さを示している。
「……な、なんだよ。じーっと見つめて。――あぁ! 魔力酔いで手でもしびれてるのか? もしかして飲ませてくれとか甘えたこと言い出すんじゃないだろうな?」
「い、いや、そうではない。自分で飲める。大丈夫だ。――時に、この毛布はお前が? ――い、いやいや、ちがう。というか、そんなことではないのだ」
「……じゃあ、なんだよ?」
「いや、そもそもの話なのだが……」
「うん?」
「お前は……誰なのだ?」
「………………へ?」
ゆったりと地下迷宮最深部に流れる沈黙。
言葉の意味がとっさに理解できずにエステルの脳細胞は活動停止に陥っていた。
誰って……何を言っているんだこいつは。魔力に当てられて頭の中身が耳からとろけ出たんじゃないだろうな。
アトロは豪商だ。それだけに庶民では口にできないような甘い菓子類もしょっちゅう口にしている。
それだけに脳みそまで砂糖菓子で虫歯になってるんじゃないのか、そう悪意をこめて疑ったエステルだがそこでふと気づいた。そういうアトロの視線がちらちらと自分の顔とそれからやや下方向へ、身体の中の特定の一部分とを往復していることに。
ちらっ。ぐふふふ。ちらちらっ。むひょひょ。ちららっ。ぅひょー、これはまた。うぇへへへへ。
……ぁー、うん。そういえばそうだったか。
今更ながら、エステルは肝心な事を失念していた。
今の彼はアトロがよく知っているエステルではないのだ。鏡に映った彼のどこを探しても以前のエルフの精霊魔術師エステルはかけらも見つられない。傾国の……と表現するに相応しい妖艶な美貌の女ダークエルフがいるだけなのだから。
まとわりつくいやらしい視線に怖気がするが、相手がアトロならそれも仕方ない。飲む打つ買うの三拍子を極めたい、などという直球まっしぐらの欲に背中を鞭打たれて若い頃から頑張ってのし上がった男だ。
何度かアトロの身辺警護として、酒の席やそれに類するいかがわしい場所へも同席した経験がエステルにはある。そのおかげで雇い主の遊び相手の好みなど知りたくもない情報の数々をおぼえていた。
アトロの好みは単純明快。エロイ、キレイ、頭がいい。この三つだ。頭の善し悪しは少し話せば見抜ける、そう豪語するアトロだがこの際それはおくとして、それ以外の二つの条件は今のエステルがピタリと合致する。
そう思い出すと、半ば身の危険を感じてさらにアトロの手の届く距離の外へと座り直した。
「――よよよよよし、わかった。なんだかすごい阿呆らしいが先ず自己紹介からはじめるぞ?」
「うむうむ、先ずは互いを少しでも深く知ろうというわけだな。そうしよう、そうすべきだ、そうした方がいい、そうあるべきだ、そうしなければならないな。――で、名前はなんというのだ? なぜこんな場所におる?家はどこなのだ?」
矢継ぎ早にまくし立てるアトロ。
しかし、なんだその「そうしよう」からの独自の五段活用は。そもそも自己紹介だというのに、自らは名乗りもせずに一方的にアトロが個人的に聞きたいこと浴びせるばかりだ。だいたい初対面だというのにどこに住んでいるかまでいきなり聞くのか。
エステルは豪商である雇主がなぜ妻帯できないか、その一端を垣間見た気がした。
まあちょっとまて。こっちの話も聞けと、サカリのついた牡牛のように突撃を繰り返すアトロを制するエステル。
「自己紹介からだ、と言っている。それとちょっとづつにじり寄ろうとするな、ええい、だから寄るな触るなと言ってるだろうが」
「まあまあ、細かいことはよいではないか。――おうおう、そうだったな。ワシはアトロだ。で、お前は? どこから来た? なんの用でここに? もしかしてワシに何ぞ用向きでもあったか? それとも……ぐむむぅ」
名乗るやいなや、堰を切ったかのように身勝手に口を動かすアトロ。これじゃあ延々と繰り返しだ、話にならんとエステルは手で以て物理的に彼の口の塞いだ。
大きくため息をひとつ。現状では仕方なくそうだが、未来においては違うかもしれない雇主をじとーっと睨みつけた。
「何を勘違いしているかは考えたくもないが……いいか、よく聞けよ? オ、オ、オオオオオオおぉぉおオ!?」
「オレはエステルだ」そう言おうとするが、なぜか「オ」から言葉が続かない。単純明快な意味の文節なはずなのに、いざそれを口にのせようとすると異国の言葉へ翻訳しようとするかのように頭の中にいくつもの単語が飛び交って思考がかき乱されてしまう。
挙句、口をついて出てきた単語は「オ、おれんじ」「オ、オ、おーどぶる」「オ、オ、おまえのかーちゃんでーべそ」などだったりするものだから、アトロの返礼とばかりにジト目に晒されること請け合いだ。
「ちがう、ちがう、そうじゃない。そんな残念な子を見るような目で見るんじゃない! ただ、オ、おぉぉぉ――ッッ!?」
「ただ、オレは……」そう続けようとして、またもやエステルの舌はなめらかさを失った。今度はしびれ毒にでもやられたかのように痙攣して思う様に舌を動かせない。
はっとエステルは口元を抑えた。どこか胡乱げな視線が宙をさまよう。
状況から導き出されるいくつもの答えが単語となって彼の脳裏に浮かんでは消えていた。その中から浮かび上がってきた単語ををすくい上げて、アナグラムのように並びを変えて浮かび上がった事実にエステルは嘆くことになった。
「オレ」か!「オレ」が口にできないのか!
宵闇の女王ヘカーテがエステルにかけたのは女体化の呪いだ。呪いの効力は身体的特徴だけかと思ったら、それには留まらないということか。「オレ」などという男そのものを連想させる一人称に身体が拒否反応を起こしているとしか思えない。
ためしてみても、頭の中では「オレ」「わし」などは通用するのだが、口に出そうとすると途端に舌が回らなくなる。
なんてしょっぱい呪いだよ! エステルはそう毒づいた。
「どうした、大丈夫か?」おっかなびっくり、そんな風におずおずとオトロがエステルの肩に手をかける。どうやら心配してくれたらしい。下心満載なのは変わりないのだろうが。
オレが男だった頃にはこんな風に心配してくれたことなどなかったがな! このすけべめ! と胸中で嫉妬混じりに非難しつつも、エステルは表面上はつとめてにこやかに「大丈夫」とだけ応じた。
それからアトロに改めて向き直ると咳払いをひとつ。「あ、あー、あー」と発声練習などしてみてから、ゆっくりとエステルは生まれて初めての一人称を決意を固めて口にすることにした。
「わたし」はエステルです、と。
「屈辱だ……」と語尾に聞き取れないほどに小さく小さく言葉が続いていた。