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褐色耳娘さん。  作者: san
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旌旗翩風




 



 褐色の手が離れたと同時に、下から伸びた青白い手がシミターを掴む。

 エステルの影溜まりがスライムのように伸び縮みを繰り返し、やがてむくりと立ち上がって影が巨像を形成していった。



「待ちわびたぞ、友よ」



 今の時代には少々大仰な、だが流暢な旧帝国語が場に居並ぶ者、全ての頭の中に直接響く。

 エステルが一夜漬けで真似た勇ましい物言いなどとは比べ物にならない、年季の入った本物の武人の声音。

 

 やがて闇一色が幽鬼を模した厳めしい甲冑へと姿を変えると、今度は黒を追い出すかのように次々と各所に色がさしてゆく。

 襟元に。

 袖口に。

 白銀のシミターを握りこんだ繊手と同じ色、漆黒のパレットに病的な青白さが配色されていき、そして最後に魔王ベルナトッドと同じ白金色が、ゆらりと立ち上がった長躯の頂きに花開いた。

 閉ざされた両眼の目尻から目尻まで達する刀痕。旧バストール領主ベルナトッド大公の異母姉にして魔王の騎士、『旗手ドロテア』がそこにいた。


 いつもは小脇に抱えられている白皙だが、今日は行儀よく本来おさまるべき所に鎮座しているためか、より人間らしく見える。そのせいだろうか、かなり非常識な現われ方をしたにも関わらず、冒険者たちにそこまでの驚きを以て迎えられてはいなかった。

 いよいよ小癪なダークエルフが投入した伏兵のお目見えか、と猜疑の目を向けられはしたが、よくよく見れば完全武装の女戦士が一人だ。その程度で済んだと、むしろカミーロなどは、ほっと胸をなでおろしている。


 ところが場違いではあるが安穏とした空気が流れ始めた頃、最後衛としてパーティの生命線を預かるメインヒーラー、『秩序ある男神』ジャン=ルカの一言によって戦慄が走った。正しく漆黒の女騎士の正体を言い当ててしまったのである。

 彼の信奉する『秩序ある男神』の教義を簡潔に表現するならば、人として正しいあり方を全うすること、これに尽きる。そこだけ聞けば耳触りがいいのかもしれないが、人としての正しいあり方などという曖昧なシロモノをどう定義するのかという問題がつきまとう。

 それを彼ら信徒たちは「男神が定めたルールに沿ったものこそが真理なのだ」などと、これまた後々にどのようにでも解釈できる論法を展開しておいて、その実には信仰する神様に責任の全てをなすりつけていたりする。

 ともあれ、そんな偏屈さにおいては他の教義の追随を許さないそれによればだ。不死者アンデッドなどという不浄な者共は決して許さざるべき存在として、親の仇であるかのように憎悪している。

 そして怨敵の顔は決して忘れないものである、というわけらしかった。


 かくして青年神官が明かした名については聞いた者が我が耳を疑い、それからさざめきとなって静かに浸透した後に、恐怖と驚愕がない交ぜになって爆発飛散したのだった。

 恐怖に慄いて青ざめる者。それでもこの期に及んで命と富を天秤にかける打算的な者。茫然自失のあまりへたりこみ、信ずる神の名を口にするだけ者。そして、そんな仲間を叱咤激励する者。

 夜ふかしをする子供を戒めるために親たちに利用されているほどに有名なお伽噺の住人の登場に、大正面門前は一瞬にして狂乱の坩堝と化したのである。


 エステルは右往左往するその有様に「ま、だろうなー」と半ば本気で同情しつつも、しめしめこの隙にとばかりに古代魔術師がかけた『静寂の呪文』の範囲からちゃっかり離脱している。

 背を丸めて抜き足差し足で遠ざかる残念ダークエルフの背中に小さくため息をつくも、ドロテアは突き刺してあった白銀のシミターを引き抜くと、逆手のカイトシールドを高々と掲げて吠えた。



「数多の戦場に散っていった古強者どもよ!」



 雷鳴が轟いた。

 女の身でありながら腹の底にずしりと響く戦士としてのドロテアの声だ。その大音声に冒険者たちは元より、エステルですら目と口をOの形にして固まった。

 前者はなぜ『静寂の呪文』の効果範囲であったはずなのに、盲目の騎士はそんなことなどお構いなしに声を張り上げられるのかという疑問のため。後者はその答えを知ってはいたものの、実際にその効果を目の当たりにしてここまでインチキ臭い能力だったのかと呆れ返っているのである。

 

 『デュラハン』は人型の魔物の中でもずば抜けた近接戦闘能力を有している。その上で、高レベルアンデッドにありがちな『魔法的ではない、通常の武器では傷つかない』だの、『倒されても半幽体アストラルボディであるために一定時間で復活可能』などというチート極まりない特殊能力保持者なのだ。

 ドロテアもその例に漏れず、さらには魔王ベルナトッド手作りの『幽鬼の戦装束』なる全身鎧を身にまとう事によって、ありえない魔法耐性も得ている。装着者に絶対魔法防御アンチマジックプロテクションの加護が付与されるだけに留まらず、周囲数メートルにそれよりもやや見劣りするも同様の効果を及ぼすフィールドを展開しているのだ。

 果たしてその効果たるや刮目すべし。たった今、目の前で展開されたままである。

 魔王が保持する魔力を注いで造り上げられているため、これに対抗できる魔力を有した術者など、今の人間社会にそうは存在しない。それは単純な力比べで、魔王の魔力とそれを打ち破りたい術者の魔力を比較、後者が大きければドロテアの対魔法障壁を押さえ込むことができるわけだ。。


 そしてその結果はご覧の通りである。『静寂の呪文』の効果はドロテア登場と共にきれいに霧散してしまっていた。


 ちなみにドロテアはこの魔鎧の効果に大満足である。

 絶対魔法防御アンチマジックプロテクションはどのような魔法であろうとも好悪の判断なく拒絶する。つまり、対象者にかけられた回復の呪文等ですら遮ってしまうわけだ。従って本来は使いどころの難しい諸刃の剣であるはずなのだが、このドロテアにとっては必ずしもそうではなかった。


 

「敵も味方も有無を言わさず魔術インチキなしの純粋な真っ向勝負に臨めるというわけだ! なんて素晴らしい! やはり戦いとはかくあるべきだな、うんうん!」


「空気も読まずに手当たり次第に巻き込むまんまん気じゃないか! ……なんてはた迷惑な脳筋なんだよ……」



 と、得意満面のドロテアを前に、えもいわれぬ虚脱感に襲われたエステルが投げやりに呟いたのもまた事実であった。


 ――話がそれた。

 ともあれ、こうして容易く静寂を打ち破ったドロテアは、エステルとの打ち合わせ通りいよいよ台本通りに本領を発揮することにしたのである。



「古強者どもよ! 汝らが振り仰ぐ旌旗はこれにあり! 汝らが轡を並べる陣列はこれにあり! 今こそが剣を取って集う時ぞ!」



 張り裂けんばかりに声を張り上げるドロテア。その広い肩ごしに数万の螢光が乱舞したかと思うと、数瞬とおかずに凝縮して、やがて大きく風をはらんではためく巨大な戦旗へと変じた。

 真紅に染め上げた下地に白檀の王錫。その王錫を中央にすえて身をからませあい、向き合うのは二頭のワイアーム。旧帝国にあって皇帝をも輩出した武断の家、大貴族ブリューチェクの制式戦旗を模したアストラルフラッグであった。

 

 なおも「集え!」と叫ぶドロテアの呼びかけに地下より応じる者たちがあった。

 泥濘をかき分けて、生い茂る草いきれの海に浮かび上がるのはかつての戦陣に散っていった戦士たちである。筋と皮ばかりになった干からびた手に泥で汚れた剣を握り、洞穴のような昏い眼窩に生者に対する怨嗟の炎を灯した亡者の群れ。

 時を追うにつれ数を増す死せる戦士たちが、今やこの広場に溢れ出さんばかりだ。


 『旗手ドロテア』。その二つ名の由来がこれで、クリエイトアンデッド、もしくはサモンイビルスピリットと呼ばれる不死者を召喚する術である。

 それを彼女は魔術に頼ることなく、無制限に、呼吸をするようにいとも簡単に行使できるのだった。

 

 お伽噺にはこうある。

 「城壁の上から松明を掲げて見やれば、一面彼方までをも埋め尽くす数万の死者の群れ。そして白亜の城壁に攻め寄せるその陣頭には、星々より青く煌めく旌旗が雄々しく翻っている。夜闇よりも濃い帳がバストールに亡者の軍勢を率いてきたのである」と。

 

 むせ返るほどの臨場感でもって、五百年前にこの地の兵士たちが味わった絶望感が冒険者たちを襲った。

 伝説は事実であったのだ。冥府の門が開かれて、そこからは際限なく魔王の兵が吐き出されるのだ。

 

 

「……う、うわっ、うわぁぁぁぁぁ!」



 断末魔の叫びに、茫然自失になっていた冒険者たちは我に返った。

 見ればエステルとドロテアを迂回するように外縁部を進んでいたスカウトの一人が、十を超える亡者たちに群がられている最中であった。

 いくら敵は下級のアンデッド兵であるとはいえ数が数である。現バストール屈指の手練を以てしても背中に目がついているわけでもなし、包囲されればどうしょうもない。さらに敵は疲労も消耗もしなければ、痛みも感じず恐怖もないのだ。

 

 図らずも次の犠牲者がそれを証明することになった。

 二人目のスカウトが目の前の亡者兵の腹腔に剣を突きこんだまではいい。問題はそれを抱き込まれたまま崩れ去られたことだ。徒手となって愕然とした所に周囲から何本もの手が伸びて、たちまち地面に引きずり倒されたのである。


 男の悲鳴に舞い上がる鮮血が重なり、赤黒い血だまりが殺到する死者の足元に静かにひろがってゆく。

 ドロテア出現からものの五分も立たずに二名が脱落し、仲間の悲惨な最後を目の当たりにした三人目のスカウトが恐慌状態に陥って背中を見せた途端、袈裟斬りにされている。

 最後のスカウト――虎髭の無口な男だけが何とか窮地を脱して、カミーロ、ディマジオ以下二名の戦士が構築した剣の壁に参加した。五人の現バストール屈指の冒険者が、その卓越した剣技で防波堤を築いているおかげでどうにか前線は維持できている状態だ。

 だがそれも現在進行形な話だ。いずれは過去形となるだろう事は五名全員の共通認識であった。


 伸ばされる死者の手を必死の形相で切り払い、後退しながら互いに目でそれを訴え合う。何か手を打たなければ命はない、と。

 そして、その一手は自分ら戦士ではなく後方に控える魔術師たちに他はなく、ならばこそ、そのための時間を稼がなければいけない、と。

 奇しくもその一手のために時間を稼ぐという思惑が、エステルと冒険者たちとの間で逆転したわけでもあった。


 そうして、中衛として後ろに詰めていた三人の戦士も列に加わり、八人で半円状の壁になって一体どれだけのアンデッド兵を切り伏せただろうか。

 ついに彼らの希望の一手が『秩序ある男神』の神官、ジャン=ルカから放たれた。


 プリースト、クレリック――癒しの術を主体に、パーティを支える神官職にある彼らのもうひとつの顔が魔を打ち払う、エクソシズムにある。

 ことアンデッドに対してはその急先鋒として先駆けを務めることが多く、先述したが、『秩序ある男神』の神官である彼は他のどの教義よりも熱心に不浄なる存在の覆滅に熱意を傾けてきている。

 それだけに決断も早く、誰に命令されることもなく神官の秘術――ターン・アンデッドを発動されたのである。 


 ばくんっ!と炸裂音がして、青年神官の掲げた両手の先の空間に直径三十センチほどの白球が浮かんでいた。

 宙をたゆたい、緩やかに明滅を繰り返しながら放射状に陽光に似た光のカーテンを振りまくのは対アンデッド呪文、聖なる光ホーリーレイである。

 その力は邪悪なるものの視界を白く灼き、肌を焦がす。効果はてきめんで、まるで神の威光を畏れるがごとく亡者が後退りを始め、我さきにと背中を見せだしていた。中には耐え切れずその場で崩れ落ちて土に還る個体までいるほどである。

 見ればこちらは流石に逃げ出そうとはしないが、ドロテアもカイトシールドを掲げた影の下で忌々しそうに神官の技を食い入るように睨みつけていた。


 死者の軍勢の足が止まった。

 その事実に無言で頷き合った冒険者たちは、聖なる光の援護射撃を背に受けつつ、再度の前進を開始させたのである。

 降り注ぐ陽光を受けて動きの鈍ったアンデッド兵が、泥人形のように八人の手によって刈り取られていく。先刻とは逆の光景が展開されていた。

 一体屠って一メートル。もう一体でさらにもう一メートル。

 失地を回復するためにカミーロたちは剣をふるって、太古の兵士たちを次々と元いた冥界へと送り返していったのであった。



 ――しかし、エステルめ。どこまでも狡猾なやつ。



 と、盾の下でドロテアは新しく出来た友人の手管を評価した。事前になされた打ち合わせ通りに戦況が推移している事に驚きを隠せない。ここまで読んでいたか、予想以上にやる。と、感心しきりだ。

 確かに現況は再び冒険者どもに傾きつつあるように見える。所詮蛮族とタカをくくってはいたが、その判断は誤りだったようだ。たったあれだけの手勢でよく頑張って持ちこたえている。

 ――だが、それだけだな。と区切ってドロテアは残忍に笑う。 

 


「成程、ターンアンデッドは定石だ。だが、惜しむらくは我が悪辣な魔剣士どのの注文通りの一手に成り下がってしまっている」



 おもむろにドロテアは右手をゆっくりと差し伸べた。地面と水平に、しなやかに伸ばした人さし指を不倶戴天の敵である『秩序ある男神』神官に向けると死の宣告を口にした。「汝の魂は我が物である(your soul is mine)」と。

 『旗手ドロテア』と言えばアンデッドの召喚能力が真っ先に連想しがちだが、彼女も歴とした『デュラハン』である。代名詞『フィンガー・オブ・デス』も当然備えている。

 彼女の指先から飛び出した禍々しい黒霧はが蛇のように宙をのたくって奔ると、狙いを違わず青年神官に取り付いた。剥きだしの袖口から侵入して腕に張り付くと、螺旋を描いて這い上がって心臓の位置までに黒々とした痕を残したのである。

 

 苦悶の表情を浮かべたジャン=ルカが、胸を抑えたままその場でうずくまった。二つ名持ちのドロテアのは通常よりも強力だ。カウントダウンも短いし、その間も断続的に苦痛に苛まれる。とても何かの作業に従事できる健康状態ではいられない。

 術者の集中が切れたことでホーリーレイの効果が消え去って、死者の軍が息を吹き返した。再々度の反転攻勢――今度こそ打開策が見当たらない――に冒険者たちの表情にも絶望がありありと浮かぶ。

 

 満足そうにそれを督戦するドロテアの脳裏にエステルの言葉が蘇った。



「ドロテアが『旗手』の力を使えば必ずヒーラーがターンアンデッドを行う。そいつがパーティで最も高レベルのメインヒーラーだ。そいつを叩いてくれれば勝ちは揺るがない」



 「くくく……」ドロテアは内より溢れる笑いを咬み殺すのに苦労するほどだった。

 愛する弟を守ると宣言した同僚の能力を見極めるために、請われるままに動いてみはしたが結果は予想以上であったと言わざるを得ない。少々小細工を弄しすぎていると思わないでもないが、慎重に幾重にも罠を張り巡らして実行する忍耐力とその準備に労を厭わない姿勢はむしろ高評価だ。

 聞けば女体化の呪いによって本来の実力の半分以下だそうだが、能力低下を見事に経験と工夫で補ってみせている。過大も過小もない正しい自己分析による保有する戦力の確認。その上でドロテアやベルナトッドにもそれを打ち明けて、足らない部分の助力を願い出れる素直さ。

 「全てにおいて及第点以上、いや掘り出し物なのかもしれぬな」そう思えるからこそドロテアの笑みはより深くなるのだった。


 本音を言えば、久方ぶりの近接戦闘を堪能したかったと思わないでもない。

 大酒飲みの目の前にコップを並べて飲むなというようなものだ。伴う苦痛は並ではないが、我慢するだけの甲斐はあった。そう満足げに歩を進めた褐色の背中を見送った。

 

 いよいよ最後の総仕上げに取り掛かるようだ。ドロテアに戦端を任せて下がった間に召喚し終えた精霊を従えたエステルがそこにいた。

 すでに最終局面に達したようだ。冒険者たちは今もなお地獄から這い出し続けている兵たちに囲まれて、効果的な反抗手段も見いだせないまま方位殲滅の憂き目にあいつつある。十五人で意気揚々と乗り込んだ面々も、今では半分以下にまで打ち減らされていた。

 『塔の騎士』カミーロ、『双刀』ディマジオに虎髭のスカウト。それにエルハートが加わった四人が円陣で剣を振るい、その中央にもはや虫の息のジャン=ルカを抱きかかえるサブヒーラー、以上六人だけである。それ以外のメンバーは尽く死者の津波に飲み込まれ、貪られてしまっていた。

 エステルはドロテアに命じて一端攻囲を解かせると、再度冒険者に対峙することにした。



「覚悟は承知の上のこととして、あえて提案させてもらおう」



 「……何をですか」苦り切った口調はカミーロのものだ。無数の手傷を負い、息も荒い。疲労困憊、満身創痍。その二文字が似合うほどにパーティは疲弊しきっていた。

 それは彼だけではなく、この場に居合わせる全員がそうなのであるが、ただエルハートだけは無言のまま変わらぬ圧で気丈にもエステルを睨み返している。

 「それは……命だけは助けて貰えると言うことですか!?」悲痛に声を搾り出すサブヒーラー。それを受けてディマジオの目にわずかだが生気が戻ったが、エステルは無言のままで首をふってそれを否定した。

  


「このまま亡者どもの手によってベルナトッド殿下の陣列に加わる栄誉に属するか、自らの意思でそれを望むか、をだ」


 

 それはいずれにせよ死刑宣告である。無残に引き裂かれて亡者となり果てるか、あるいは――である。

 冒険者たちは疲れた頭のまま、挫けそうになる心にムチを入れて思考をフル回転させていた。何かまだ打つ手がないかと。

 生に執着して最後まで諦めきれない、生き汚いのも人間の証のひとつである。例え、事態がすでにどうにもならない状況にまでなっていたとしてもだ。


 真っ先にそれを受け入れたのはサブヒーラーである。生きながら引き裂かれた古代魔術師の末路を目の当たりにした彼は少しでも楽な最後を望んだ。

 同じ神官職として決して邪悪に屈することはないだろうジャン=ルカが、今しがた一足先に呪いで旅立ったために、裏切り者との謗りを受けないで済むということも彼の判断の背中を押している。

 


 「それで……どうすればいいんですか……?」



 血の気を失って蒼白の表情のサブヒーラーが、ものを言わなくなった青年神官を石畳に横たえてからふらりと立ち上がった。

 かつての同僚でもあったろう、サブヒーラーの幽霊のような痛々しさにエステルは内心身を切られる思いであった。だが、袂は分かたれたのだ。そう言い聞かせて努めて無表情を装うと、こちらへと手で招いた。

 促されるままに歩み寄るサブヒーラーに、向かい合う形でエステルの傍に控えていた精霊も進み出た。真っ新なケープで頭部を覆い隠し、爪先までも同じ純白のドレスで装った女であった。

 女のか細い両手が伸びてきて、一瞬、ギョッとしたサブヒーラーだったが、エステルの無言の圧力に屈したか恐怖に震えながらも受け入れた。

 ひやりと冷たく湿った手。

 両肩を女の細腕とは思えない万力で固定されたサブヒーラーの目の前で、ケープに隠されていた女の顔が顕になっていった。

 能面のような硬質な無表情に、目があるはずの位置には黒々とした洞穴がふたつ。絶えずそこから血ともつかない赤黒い液体をたれながしながら、やがて口が押し開かれて耳を塞ぎたくなるようなうめき声が漏れ出した。


 泣き女のバンシー。真なる精霊名は『彼岸に咲く凶姫』。

 その正体は大陸西方にあったという群島国家の姫クリエタ=マーリナ。彼女が愛し合っていた恋人との仲を諦めて、家のために嫁いだ政略結婚の先で夫の手によって息子もろとも無残な末を遂げたものだと言われている。

 そしてその能力は、自らも身を投げた深く昏い嘆きの底なし沼に哀れな犠牲者を引きずり込むというものである。沼に引きずり込まれた者で無事帰還できた者はおらず、冥界に続く一方通行路だという学者もいる。

  

 とぽん。という、失われた命に反比例して小さな音だけを残してサブヒーラーの躰はバンシーの足元から広がる黒沼に消えた。

 その光景に残された一行は言葉を失うばかりであった。

 

 それでも、である。

 エステルの提案を受け入れれば、このまま戦って終わりを迎えるよりもよほど楽な最後を迎えられることは確かに証明されたわけだ。 

 互いに視線を交わし合い、自分に言い聞かせるように何事か呟いて頷くと、カミーロと、以外なことにディマジオも次いですんなりと選択を受け入れた。

 自己犠牲の精神に溢れるカミーロなどは「自分の命と引き換えに仲間だけは……」などと提案しかけたが、結局は思いとどまった。自意識過剰も過ぎるか、と自嘲した。

 ディマジオの方はやってもしょうがない事に労力を割くのは馬鹿のやることだ、とばかり早々に諦めてしまっている。憑き物が落ちたかと思うほどさっぱりした顔をしており、それどころか軽々しく「ま、お仲間になったらよろしく頼むぜ、おっぱいちゃん」とエステルを引きつらせたほどである。

 そうしてやはり踏ん切りがつかないのか、思案顔のカミーロの背を押しつつも、ディマジオはさっさと沼へと身を沈めてしまったのであった。

 

 これで残るは二人。

 スカウトとして最後の一人である虎髭はやはりむっつり押し黙ったまま、腕組みしたままでこのクエストの主催者でもある――エルハートの最終決断を見守っている。


 怒気をはらんで燃え盛るアイスブルーの瞳が、一段高い位置の黄金色の瞳を睨みつけていた。

 傷つき、万策尽きてなおハーフエルフの少女の心は折れていなかった。






  

ワイアーム。

体長十メートルを超える個体も存在するドラゴンの一種。その姿は翼をもつ蛇そのもの。炎の他、毒霧のブレスを吐く個体もいる。知能は低く、魔法は操らない。

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