魔宮を守護する者
「ヒスの超古代文明とその考察、トコ・ニャー写本、スーラ=エィノ断章……」
アトロ邸の前庭の中でもスペースを広めにとってある交易品の受け渡しが行われるカウンター。
そこでエステルが目の前に山と積まれた本の一冊一冊のタイトルと、その目録を照らし合わしはじめて一時間半。まだ明るい三時過ぎに始めた作業だったはずだが、いつしか日が傾き始め、そろそろ本格的な闇と夜気が周囲に忍び寄っていた。
安価ではあるがその香りにも明度にも難のある魚油を使ったランタンが照らし出す灯りを頭上に掲げ、エステルはぶつぶつと作業に没頭していた。
エステルがアトロのもとを離れて闇の御子の従者になって早ひと月余りも経ち、残暑厳しい中を旅したあの街道には早晩霜が降りていた。バストール周辺域、大陸中央部に一足早い、長い凍期が訪れようとしているのだ。
例年通りの豪商アトロの精霊魔術師エステルであったなら、年末に向けて増加の一途を辿る雇主の仕事を手伝って、忙殺される日々を過ごしていたに違いないが、今のエステルは従来の任を解かれて別のより困難な任務についている。
その任務の一環として、彼はここを訪れている。
生活基盤はすっかり旧バストールの地下迷宮の最新部――魔王の居住区にあるのだが、週に一度だけ、日曜の休日に彼はアトロの邸宅を訪れて顔を出すよう義務付けられているのだ。
その際にエステルは前の雇主に対しては監視対象の現況報告を、現雇主のためには物資の買い入れとその搬入手続きを言い渡されていたのである。
前者のスパイ活動においては、幸運なことに取り立ててこれといって報告することはない。
早い段階で魔王との間に一定の信頼関係を築けた――と、エステルが一方的にそう考えているだけだが――おかげで、幸運にもベルナトッド少年の胸の内を知る機会を得たわけで。現状のまま両者の関係が保たれるのであれば、魔王に翻意はありえない、そう結論づけていた。
無論、エステルの正体とアトロの真意をある程度看破した魔王がそれを逆手にとって……などという可能性も否定はできないわけだから、それが早計であると言えなくもない。
だが、少なくともこのひと月。つかず離れずではあるが、ずっと魔王と共に暮らしてきたエステルは、あの少年のいう事を信じてやりたい、そう思うようになっているのだった。
「ハルパーの魔道士っと……これで、全部だな」
最後の一冊。重厚な装丁が成された暗灰色の書籍を左から右、確認済みのエリアへと移動させて小さく息をついた。金色の視線を横へと流すと、四桁に達しようかという数の古書がうずたかく積み上げられている。
紙媒体はこの世界にあってまだかなり貴重である。しかも魔道書と呼ばれるような奇書はなおさらだ。これ自体がすでに宝の山で、この全てを換金しようとすると金貨何十万枚になるのか想像もつかない。
それを求められるままに世界中から買い集めることができるアトロのお大尽っぷりも凄いが、さらっとそれを買い取れてしまう魔王も大概だ。
エステルはその本を含めた、食料――地下迷宮で生活するにあたって、主にエステルに必須である。魔王は不老不死であるため基本的に食事は必要としない――などの受け取りにサインをすると、カウンター向こうにいる担当の男と簡単な手続きを済ませた。
食料その他の生活物資は月曜の朝早くに旧バストール遺跡群の端にある、いつもの崩れかけた廃屋に置いておくこと。運び込む者は毎回違う者をあてること。それからこれらの件に関することは「絶対絶対絶ー対にリヒャルトに一切なにも知られてはいけない!」こと。などなど。
女体化してしまったエステルとリヒャルトの関係を知るその使用人からは、念を押した際に苦笑いを浮かべられた。「エステルどのも大変ですね」と。
「まったくだよ」とため息まじりだが真摯に頷いたエステルは、また来週と約束してから肩にかけていた一辺三十センチほどの黒革のショルダーバックに次々と本を放り込んだ。
やがて一千冊にも届こうかという本の全てをバッグへ収めると、それを肩に、フードを目深に足早くエステルは商会をあとにしたのだった。
現バストールの城壁の外側には日ごとにじわじわと外へと向かって広がり続けている、小路が入り組んだゴチャゴチャした区画がある。
そのスラム化に片足をつっこみかけている、お世辞にも治安が良いとは言えないエリアで経営されている場末の大衆食堂は通称『冒険者の酒場』などと呼ばれていた。
城壁内に比べてガラが悪いと言われているが、大通りに面した店に出入りする客質はその中でもマシな部類に入る。
郊外に広がる大農園で働く小作人や、小さいながらも自分の耕作地を持つ貧乏百姓。大河バルトシュで生計をたてる漁師たち。親方のもとで鍛冶や細工の技術を学ぶ下級職人。他にも大陸道をゆく大道芸人や踊り子、吟遊詩人。規模の小さい交易商などカタギな職種に就く人たちが主な客層だからだ。
ところが一歩裏通りに足を踏み入れると話は変わる。いかがわしい連れ込み宿や売春宿、素性の怪しい故買商や奴隷商人たちの店が軒を連ね、悪名高い盗賊ギルド、ないしはその息のかかった真っ当ではない人間たちが徘徊する異世界が広がっているのだ。
その中で、『冒険者の酒場』と名を冠されるほどである肝心の冒険者たちはどのような世界の住人なのかというと、実はそのどちらでもない、二つの世界を行き来するグレーゾーンの人種だったりする。
合法、非合法問わず、請われればあらゆる手段を用いて問題を解決するなんでも屋なのだ。
ただ冒険者たちの名誉のために断っておくが、何も彼らの仕事内容が後ろ指をさされるようなものばかりではない。リヒャルトたちのような傭兵家業に就いている者も多くいるし、危険な遺跡や秘境の探索者もいる。それこそサーガの題材にもなるような、強力な魔物を討伐する華々しい英雄譚が生まれる可能性があるのも冒険者という職業ならではだ。
それでも、それらを差し引いても半分裏稼業である事実には変わりないかも知れないが、一般民、ひいては国やそれに属する正当な筋にも暗黙の了解を得たある種の必要悪である、というのがこの世界の常識であり事実だった。
そんな冒険者たちにとっては、報酬に支払われる金銭の多寡こそが全てと言っても過言ではない。
彼らは右手に僅かの良心と、左手に金といった物欲を常に天秤にかけて決断を下しており、リスクと良心とに比して左手が大きく傾けば、それは晴れて冒険者にとって真っ当なお仕事となるわけだから現金なことこの上ない。
金銭に関しては人一倍嗅覚鋭い彼らの飯の種が転がっている場所というのが、先にも述べた『冒険者の酒場』と呼ばれる場末の食堂であり、だからこその通称なのである。
夕方から明け方まで、夜毎賑わうその界隈に『黄金のつるはし亭』という名の店があった。
バストールでは真っ先に名を挙げられるほどの有名店で、北西にある銀竜山脈出身のドワーフ女将が切り盛りするその店は、多種多様な人間で連日混雑する繁盛店だ。
古今東西の上から下までの情報が集まるその店を発生源に、ここしばらくの間に爆発的に広がったあるひとつの噂がある。
当初は冒険者の中でも旧バストール遺跡群攻略を生業にする者たち、その狭い範囲で連日熱っぽく議論されていたのが日を追うごとに拡散していき、最後には冒険者の枠に収まらない人々にまで伝播していった噂とは
「旧バストールにおいて最近とみに魔物の活動が活発化しているが、それはいよいよ魔王の復活が近いからであるらしい」
「すでに魔王の再臨は成されている。その証拠に魔物が溢れ、眠っていた遺跡設備が稼働をはじめている」
「特にこのひと月ほどは城門にたどり着くことすら難しい。それ即ち、魔王の軍勢がその勢力を強めているにほかならないのではないのか」
などといったものである。
しかし、この程度であれば前例がないというわけではない。
実際に魔王が封じられた終焉の地でもあるわけだし、この手の終末観を伴う噂は頻繁に人々の口にのぼるもので、むしろ「またか」と呆れられて終わるのだ。
むしろ人々の関心を集めているのはそれらのようにありきたりな噂ではなく、確かな目撃証言や遭遇談といった厳然とした事実に基づく情報として交換されている話題にこそあった。
この時点でエステルはそれについては何も知らない。
魔王の側仕えとなってからはなおのことだし、それより前に女体化してからというもの、可能な限り他人との接触を避けたために、冒険者としては重要なファクターを占める情報収集が疎かになっていたためでもある。
なんでも良い。もし、ひとつでもそれを匂わす情報を得ていたのであれば、彼の足がかつて冒険者時代に通い慣れた『黄金のつるはし亭』には決して向いていなかっただろうと思われる。
いや、知らなかったからこそ、ここを訪れたわけであり、今晩ここでそれを知る機会を得たというのは幸運であったのかも知れない……
時刻は宵の口。
給仕のおばさんがかろうじてトレイやジョッキを片手に通り抜けれる程度に混雑した店内。『黄金のつるはし亭』もいよいよ混雑しだした時分だ。
詩人たちが奏でる葦笛にリュート、冒険者や仕事帰りの男どもの歓談で騒々しい中、それに負けじと上質な革鎧を身につけた一人の小柄な少女が声をあげて周囲の耳目を集めていた。
麦の穂が日差しにきらめくような、黄金色の髪をべっ甲のバレッタでまとめあげて、ややつり上がった切れ長の目も相まって勝気で闊達である事をより強くイメージさせる風貌だ。
荒くれどもに混じって、その喧騒に負けじと声を張り上げるのは、お世辞にもお優しいとはいえない負けず嫌いな性質からなのだろうか。だが、それが彼女の魅力においては概ねプラスに作用しているように伺える。
そして、確かにそれも十分印象的ではあるのだが、この場合はそれよりもつんと先の尖った耳とアイスブルーの瞳、そして不敵な笑みを浮かべた美貌をこそ冒険者たちは鮮烈に記憶に焼き付けられているに違いなかった。
やや尖った、それでもエルフよりも丸い耳が森の民の血を半分受け継いだ証となって、仕立てのよい刺繍いりの外套を羽織る軽装の少女がハーフエルフであることを観している。
ただし、小柄で華奢な身体だからといって少女に該当する年齢であるとは限らない。元来、人よりも一回り見てくれが幼く見える種族だし、エルフ半分とはいえどの種族と比べても長寿になるのだ。
この酒場で目の前にいるハーフエルフ少女と年かさで勝負できるのは、カウンターの向こうで元気よく働くドワーフ女将ぐらいかもしれない。
――それに、エルフである俺もか。案外、女将もおれも彼女も似通った年齢か、もしかして年上だったりしてね
カウンターで食事をするエステルは、元気いっぱいに声を張り上げるハーフエルフの口上を背中越しに聞きながら、絞ったオレンジにゆずの香りが爽やかなジュースを口に運んだ。
先ほどからこのハーフエルフの少女が熱っぽく説明し続けているのは、旧バストール遺跡探索の同行者――パーティメンバーを募っており、その仕事内容の説明である。
それも彼女の口ぶりから伺うに、どうやら相当の実力者を求めているようで「大外から進入して一直線に城門に迫り、城内になだれ込んでやろう!」そう語気を荒げていた。
旧バストール遺跡群は現バストールと同じように、ダウンタウンエリア、城壁、城壁内街、旧バストール城門、旧バストール城内、大地下迷宮とふたつの分厚い城壁を挟んだ四つのエリアから構成されている。
各エリアを繋ぐふたつの門扉には強固な魔術で施錠されており、該当するマジックキーなるものが無ければ通過することは不可能だ。それで、肝心のマジックキーはというと、それ以前のエリアのどこか、強力な魔物が守る財宝に紛れ込んでいるという塩梅だ。
ダウンタウンエリアから奥に進むほどに危険度は天井知らずに増していくために、ひとつ目どころかふたつ目の門を目指すという彼女がメンバーを募集するクエストは、かなりの難易度であることが伺える。
ちなみにおおよその目安であるが、遺跡群でも入口周辺部からダウンタウンエリアは駆け出しや若葉マークの外れたばかりのメンバーでも十二分に攻略可能で、ひとつめの門を抜けることができて一人前、そんな風にベテランたちには揶揄されるほどだ。
ところが城壁内街に入ると一気に世界が変わる。中堅層はもちろんのこと、老練の者たちが混じった編成であっても潰走させられる危険性が出てくる。
そして城壁内街を凱旋通りに沿って進むと見えてくるふたつめの門、魔王が封じられている旧バストール城の大正面門。
これを抜けた先には掛け値なしのこの世の地獄が広がっている。大陸に名の知れた冒険者たちを幾百人と飲み込んできた人外の魔宮、それが旧バストール城主である魔王ベルナトッドの居城エリアなのである。
その魔王の居城に挑んだ末に得られた成果らしい成果と呼べるものとなると、二十年ほど前にも遡る必要がある。
東の学術都市に本拠をもつ魔術師ギルドからの調査名目で派遣された手練が、ことごとく半壊したというものが最も記憶に新しい。
それも六人ひとパーティを十二、一ダース分七十二人を送り込んだものの、五十人余りの犠牲を払ってまで得た情報が「どうやら魔王は依然として地下深くに封じられたまま。健在であるようだ」という散々なものだが。
笑い話で済ませられるはずもなく、かといってリベンジを果たそうと真っ先に手を上げる気概も失われたまま、それ以降いずこの公的機関においても、魔王の居城については手を触れ得ざるべきものとして公然と無視し続けている有様だ。
確かに当初の目的であった調査としては大失敗であったのかも知れない。しかし、生き残りたちが持ち帰った物的な戦利品に関しての功績は大であり、その影響力は計り知れないものがあった。
旧帝国金貨やプラチナ貨は数えるのも馬鹿らしい膨大な枚数にもなり、その他宝飾品も大都市の美術館ですら収まりきらない数に及んだのである。
それになにより、今なお原理不明、再現不明、何から何まで得体の知れない、その数も百をゆうに超えるマジックアイテムを見つけ出し、戦利品とすることに成功していたのだ。
今なお高価ではあるものの、確実に普及しだしている『紙』や、痩せた土地でも大量に実をつける『ウーショ芋』。手で触れる距離かと錯覚してしまうほど、遠くの物が近くに見える『遠見の筒』。信じられないほど軽く、腐食しない素材でできた『スティンレースの剣』などその枚挙に暇がない。
そのいずれもに破格の値がつき、王や大貴族、教会や魔術師ギルドなど、つけられた値に相応しい対価を支払うことのできる、限られた者だけが手中に収める品物となっている。
それら旧バストール城内からしか発見されないマジックアイテムを『魔王の遺物』と呼ばれ、列強の王がどれほどの黄金を積み上げることになっても手に入れたい垂涎の一品と目されているのだ。
大金持ちどもを軒並み虜にするだけ代物があの魔王の城には眠っている。
冒険者たちを駆り立てる理由としてそれで十分であり、ハーフエルフの少女はそれこそを訴え続けていたのであった。
「マスター、ローズティーと……うーん、簡単につまめるものを頂戴」
削り出しのカウンターに勢いよく銀貨を数枚おくと、その少女は断りもなくエステルのすぐ隣の席へと腰をおろした。
ちらり、と、黄金色と薄氷色の視線が交わされると、どちらからともなく「どうも」と会釈をする。
どうやら遺跡ツアーの勧誘は終わったらしい。肩ごしに振り返れば、入口すぐそばにある掲示板に、彼女が貼りだしたと思われる依頼内容を取り囲んで吟味する人垣が見える。
「おねえさん、南方出身? ……って、うわ。もしかしなくても、ものすごい美人!?」
直近から軽やかな声でそう訊ねられてエステルは視線を戻した。カウンターに肘をついた少女が、身を乗り出すようにしてエステルの顔を覗き込んでいる。
今のエステルは全体をゆったり覆うよもぎ色の外套に、日よけのつばがついたヘッドスカーフをまとっている。少女はその衣装と浅黒い肌の色から南方出身とあたりをつけたようだ。
後半の美人のくだりは、食事のために露出させた素顔を少女がまじまじと覗き込んだ末の感想である。
エステルとしては、美人などという評価に対して素直に嬉しいだとか、それに類する感情をもてるわけがない。
男に戻りたいと考えているわけだし、なによりその『傾国』の美貌のおかげで余計なトラブルを招き入れた回数の方が多く、うんざりさせられているのだ。
それだからこその変装であると言える。
南方出身の女性に見えればこの顔すら覆い隠す全身衣装も、浅黒いダークエルフの肌も珍しいものではないし、同じ南方出身のアトロの邸宅に出入りすることにも疑問を持たれようがない。
今は食事のために顔を隠すベールを外している状態だったからばれてしまったが、そんなものはたまたまで、概ねここまではエステルの思惑通りに変装は功を奏している。
「ありがと」エステルはそう当たり障り無いように応じると、少女から視線を逸らして食事を再開させることにした。
自分の立場を鑑みれば、エステルの裏事情を知らない他人とはあまり接触を持たない方が良い。立ち位置が魔王側であるのは間違いないわけだし、どのように弁明したところで理解してもらえるとは思えない。余計な誤解を生む未来図しか想像できないのだ。
しかし、どうやらエステルの「ありがと」を好意的に解釈したらしい。大いにハーフエルフの少女の関心を買ってしまったようで、エステルよりも一回り小さな白い手が目の前に差し出された。握手を、というわけらしい。
少女の手を、ついでその持ち主へと視線を移すとにっこりと微笑まれた。黄金色の髪とハキハキとした物言いもあって、人懐っこい笑顔がひまわりを連想させる。
「エルハートよ。苗字はなし。エルって呼んでくれたらうれしいな」
「……あ、あー……そう?」
「あなたは?」
「…………ぇ?」
「だから、あなたは? 名前?」
「……ん、んんっ、ごほ、ごほん……え、えっと……なんで?」
「え? だってアタシ、名乗ったし?」
「………………」
「……おりょ、無口キャラ?」
「……エステル?」
「なんで疑問形? ――ま、いいや、ほい、握手握手」
なにゆえ見ず知らずの人間といきなり自己紹介しあわねばならんのか、と甚だ疑問に思わないでもないエステル。強引で一方的に今も交わされているシェイクハンドと満面の笑顔のハーフエルフ少女エルとを交互に眺めやる。
エステルの胸の内は徹頭徹尾「空気よめよ、うざがってるんだよ! ほっとけよ!」ってな具合になるのだが、相手の方は歯牙にもかけていないようで「自己紹介完了! さぁ次のすてっぷだ!」と獲物を見つけた猛禽のごとく目がらんらんと輝いている。
「アタシ、バス遺跡の奥へ行きたいんだけどさー。なかなか良さそうな人見つかんなくってさー」
「……知ってる。聞こえてたよ。苦戦してるっぽいな。――ところでな? わたし、ごはん……」
「そうなんだよー。聞いてよー、もー。でさー。なんかもー旧バス城入りたいって言うとみんな尻込みするんだよー。なんだよー、お前、それでも冒険者かよーって感じ」
「……しょうがないんじゃないか? 城内って言えばこの国でもトップクラスの実力者でもないと生きて帰れるかどうかも覚束無いし。――でね? それより、わたし、今ごはんを……」
「そうなんだよねー。でもね、みんなが口を揃えていうにはさー、今は城内に入るのも難しいって話なんだよー? なんでかわかるー?」
「あ、ああ、そうなんだ。なんでだろうなー。わかんないなー。――でさ、わたし、さっきから食事中なんだけど……」
「あ! あーあー、ごめんねー、アタシったら。てれぱしー? でれかしー? そういうの無くってさー」
「ごめんごめん」と片目をつむってすまなそうにして見せるエル。「ようやく理解してもらえたか」と、エステルが再びスプーンを動かしだそうと前を向いたその矢先。
カウンターの向こうからドワーフ少女がにこやかなスマイルと共に、ローズティーとスライスした燻製のハムをたっぷり乗せた青野菜のサラダ、それに薄切りパンに蜂蜜を塗ったものをハーフエルフ少女の前に並べだした。
ごちそうの山を前にエルが目を輝かせつつ「おいしそー」と、個性の欠片もない感想を脊髄反射で吐き出す。
「さ! じゃあアタシの分も来たことだし、これで遠慮はいらないよ! エステル、仲良くいっしょに食べよっか!」
「……なんでそうなるんだよ……一人で食べようよ……つーか、いきなり馴れ馴れしすぎとか思わないか?」
「えー、なんでー? 仲良く食べようよー、大勢で食べると美味しいよー? せっかく仲良くなれそうなんだしさ。細かいことは気にしたらダメだよ!」
「気にしようよ! っていうか、わたしの反応のどこをどう見たら仲良くなれそうって思えるんだよ!?」
「そんな冷たいこと言わないでさー。いいじゃんいいじゃん。だってなんかエステルって強そうっていうか、役に立ちそうっていうか、そんな気がするんだよねー。アタシの勘って結構当たるし。ぶっちゃけ、最初にチラ見した時から決めてたんだよね。魔術師欲しかったし」
内心ギクリとするも、努めて平常心を装ってエステルは前を向いたまま視線だけを横のエルへと向けた。
「……なんで……魔術師だって思うんだよ……?」と恐る恐る訊ねる声がかすかに震えている。エステルの方から食いついてきたことが嬉しかったのか、エルは嬉々として
「見た目がそれっぽかったから! ――っていうのは冗談でー。んー、正直、半信半疑でもあったんだけど……決め手はそれ。そのブレスレットとリングかな」
はっとしてエステルは自分の手元を袖で隠した。左手首にはマングローブの根が這い回っているかのような蔦が絡まった意匠のミスリル銀のブレスレット。右手中指にあるのはシンプルな銀製台座に大ぶりのオニキスをあしらった指輪。
両方とも普通の宝飾品ではない、魔王ベルナトッドから支給された旧バストール城の地下で生活する上で必要不可欠なマジックアイテムだ。さらに言えば、エルには見えてはいないが左耳のピアスとチョーカーも同様だったりする。
エルはそれらを指差しながら言う。「それって、マジックアイテム――それも『魔王の遺物』クラスのものよね」と。エステルのこめかみのあたりを汗がたらりと伝った。
その反応をみとめたハーフエルフの少女の口元が、にんまりと意地悪そうに三日月を引き伸ばした形に歪められた。
「んふふー。腕輪に指輪、それも遺物クラスの魔術師系。それを扱うってことは、かなりの実力の持ち主だと思うんだけど……どう?」
「……だから、遺跡探索に付き合えって?」
「ピンポン。実はさ、ちょっち困ったことになってるんだよねー。さっきも言いかけたんだけど、今って城内に入るのすっごい厳しいのよ。なんでかっていうとさ、すっごい強力なガーディアンが第二の門を守ってるんだって」
「……ガーディアン?」
「そそ。かなり有名な噂なんだけど知らない? このひと月ほどの間に現れた、旧バストール城門を守る謎の仮面女魔剣士のはなし………………どったの? 急にテーブルに突っ伏して?」
テーブルの上にある料理をのせたお皿もお構いなしに、上体を投げ出してダイブするエステル。よもぎ色の袖がトマトケチャップで汚れている。
いきなりテーブルに顔面からのめり込んだエステルの肩をつつきながら、眉根を寄せるエルの視線がまるで不審者でも見るようだ。
魔剣士――魔術と剣術の、全く別系統の修練を必要とするふたつを極めた者にのみ許された称号で、それが即ち他称であるならば相応の実力者であるという良い証明にもなる。
およそ魔剣士なる称号を戴くもので公的に確認されている人物は、現存する者では片手もいない。過去を振り返ってみても二十名とおらず、記録に残る範囲でもっとも強力な存在であったのは魔王を打ち負かした勇者、初代バストール公『聖剣使い』であろうか。
それほど稀有だと言われる実力をもつ、仮面で素性を隠した女魔剣士なるものが、ひと月ほども前から旧バストールに跋扈しているという。
その正体についてはありとあらゆる推論が成されたが、現在、冒険者たちの中で最も支持されているのが魔王軍の残党、ないしはその亡霊めいた存在ではないか、というものだ。
ちなみにではあるが、エステルはその謎の仮面女魔剣士の正体について耳よりな情報を持っていたりする。
「闇属性魔法の、それもかなりの使い手らしいんだよねー」
「ぎくっ!」
「しかも、ダークエルフだってさー」
「ぎくぎくぎくっ!」
重ねていうが、エステルはその謎の仮面女魔剣士について、その正体に迫れること請け合いの情報を握っていたりもする。
……つーか、ぶっちゃけ、それ、多分、おれだし……
「どしたの? なんか汗がすごいよ? だいじょぶ?」と、エルは固まったままピクリともしないエステルを気遣わしそうに伺う。
そんなエルの心配をよそに、エステルの桃色の脳細胞はフル回転して自問自答を繰り返していた。
この一ヶ月に渡って自分がしてきた仕事が、よもや市井ではそんな風に受け止められて噂にまでなっていたとは。「どうしてこうなった!? 何を間違えた!?」と傍目にも狼狽している。
魔王ベルナトッドの下に赴いてからのエステルの仕事といえば、買い出しと物資搬入を含むアトロ商会とのつなぎ役が主であった。
それ以外ではというと、その時々に、ケースバイケースでベルナトッドやアトロから雑事を頼まれるのだが、その中ですでに定番化している仕事がある。
それがベルナトッドに代わって、エステルができる範囲で遺跡を管理するというものだったのだ。
遺跡の管理には魔物や宝箱の配置に、それこそ清掃なんかの雑用も含まれるのだが、その中でも星空のテラスで少年魔王の心の一端に触れたエステルが特に腐心しているものがある。
それが「悪意あるものの城内への侵入は絶対に許さない!」と握りこぶしも固く大正面門にて歩哨に立つことであった。
いくら旧バストール城内が危険極まりないとはいえ、『魔王の遺物』や金銀財宝が眠っていると知れている以上、それが冒険者たちに対しての絶対の防壁になどなりえない。事実、エステルが城門を堅守する以前には、それこそ何度となくベテラン攻略班の侵入を許していたのだ。
二十年前の魔術師ギルドの大調査隊を含め、これまでは運良く場内をうろつくベルナトッドを発見されることはなかったのだが、それもあくまでも運が良かっただけだ。
もし、とエステルは想像してしまう。
素肌にシャツを纏っただけのベルナトッドが寝ぼけたまま、ジュースを求めて回廊を歩く姿を。
お目当ての厨房にたどり着くその寸前、曲がり角から現れる髭面のむさくるしい男たち。
月光に陶器のような白い肌を青く染めたこの世のものとは思えない少年の姿に、男たちの分厚い唇から獣のような欲望の吐息が吐き出され、毛むくじゃらの腕が何本も伸び――
「ぬああああああっ! そんなことを許してたまるかぁぁぁぁぁぁ!」
唐突に頭を抱え込むと、どちんどちんと額をテーブルに打ち付けるその姿に、さしものエルも身体ごと引いている。
それだけではない。その様子をかなり遠巻きに見守るその場にいる者たちの間からも「美人なのに、もったいない……残念系か……」などというヒソヒソ話が交わされているほどだ。
魔王に忍び寄る危険はいかなるレベルであろうと排除する。してみせる!
つまるところ、いつのまにかエステルの中に根付いた、忠誠心の皮をかぶった邪な独占欲が結果として謎の仮面女魔剣士を誕生させていたわけである。
問題はそれが当人の意図したものではなかったというだけだ。
全身を突き刺す痛い視線にエステルが気づくには、それから更にもう数分必要だった。
かなり気まずい沈黙のあと「てへへ」と照れ笑いしつつ
「すまん、エル! わたし、急用思い出したから!」
と、勘定を済ませてそそくさと席を立つ。
その一言で我に返ったエルの声が、『黄金のつるはし亭』を足早にあとにしようとしているエステルの背中に跳ね返った。
「良かったら明日の朝来てよねー! 三パーティ、十八人編成でいくつもりだからー! 絶対に城門超えできると思うからー!」
遺跡の管理も城門の守護も、最初は頼まれたことだとはいえ最後は納得の上に自発的にやっていることだ。言い訳などないし、後悔もない。ただ、少し驚いただけである。冒険者たちから――現バストールの人々からそんな風に評価されているとは夢にも思わなかったのだから。
ハーフエルフの少女エルからもたらされた情報によれば、自分はどうやら魔王のしもべだと認識されているらしい。すっかり悪役が定着しているようだ。
まったくもってそれについて否定できないのが、残念と言おうか何と言おうか……
ふ、と知らず笑みがこぼれる。
ハーフエルフ少女の元気な誘いを置き去りにして、エステルは帰路を急いだ。
「三パーティ、十八人編成でいくつもりだからー! 絶対に城門超えできると思うからー!」とのセリフが脳内でリフレインする。
それはつまり、エステルが旧バストール城門の守護を預かってから初めて団体客の予約が入ったことを意味するのだ。
やや強引すぎる出会いであったとはいえ、エルを思えば決心もにぶるかもとエステルは一瞬危惧したのが、そんな事はどうやら杞憂であったようだ。
彼の心を支配して離さない、真紅の双眸と白金の美貌を思い起こせば、全てが瑣末事であるよう思えた。それに冗談混じりだが「私に仕えるという事は、神の道に背くことになるのだが、それでもか」と投げかけられたその言葉に、はっきりとイエスで応じたエステルの気持ちは今も変わりないのだから。
エステルは決意も新たに夜道をゆく。
旧バストールの方角を向くその足は、自然とその速度を早めつつあるのだった。