表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
褐色耳娘さん。  作者: san
1/17

はじまりは呪いから。

 えー、先ずはこのページを開いて下さった事に心よりのお礼を。その上で楽しんで頂けましたなら、作者はモニターの前で小躍りするかと思います。たぶん。


 使用上の注意としまして、この作品は完全無欠の不定期更新です。褐色娘さん成分が不足したら更新する、などという有様です。ご容赦頂けるよう切に願っております。




 いくつもの罠をかいくぐり、数多の魔物を退けてたどり着いた迷宮の最深部の一室。

 地下十数メートルにあっても風化という現象は起こりうるものだろうか。角が崩れて軽石のようになったみすぼらしい石の台座に、大きな持ち手のない古めかしい壺が安置されていた。

 肉厚で、表面に図形化された四足歩行の獣の絵らしきものが描かれている。年代物であろうが簡素としかいえないその壺では、好事家たちの興味を引くような代物とは思えない。

 

 その壺を前に男が一心不乱に何やら呪文めいた祈りを捧げ続けていた。

 年の頃なら四十絡み。突き出たお腹に、やや寂しくなりつつある頭髪。ゆったりとした貫頭衣に施された精緻を凝らした装飾も、その短い指にいくつもはめられた松明の明かりに煌めく色とりどりの指輪も、男が裕福であることを物語っていた。


 面積の広がった額に脂汗を滲ませて祈祷をはじめてかれこれ三十分。  

 よくもまあ、飽きないものだ。

 男の耳に届かないよう、小さくため息と共に独りごちた均整の取れた長身の青年は、体の前で腕を組むとその背を迷宮の柱に預けた。にかわで黒く塗り固めたレザーアーマーがじゃり、と硬い音をたてる。

 

 総髪と同じ緋色の瞳を少し離れた小太りに注ぐ青年の名をエステル。

 大きく尖った耳、類まれな魔術の才をもつエルフの戦士である彼はいわゆる冒険者だ。

 

 冒険者とは金次第で、合法、非合法を問わずどんな荒事であろうとも引き受ける者たちのことだ。

 その荒事の中には魔物退治や遺跡探索といった命の保証が出来かねる危険なものや、おおっぴらにできないような汚れ仕事も含まれている。

 ゆえに社会において最下層に位置する奴隷といった人種や、犯罪者、ならず者といった食うに困った者が多いのだ。

 過去の度重なる戦で孤児となったエステルも、食うために仕方なく冒険者に身をやつしており、チャンスさえあればより真っ当に食っていきたいと思っている一人だ。


 そんな彼だが、ちょっぴりの幸運に涙ぐましい努力、精霊魔術と呼ばれる才能に長けたおかげで今日まで生き延びることができた。

 その運と能力を高く評価したアトロ――目の前で拝み倒している中年――が彼の雇主であり、その依頼を受けてはるばる地下迷宮へと足を踏み入れていたというわけである。 


 

 「北にあるアスラクという寒村からさらに山奥へとわけ入った所にある迷宮の最深部まで護衛してもらいたい。ワシとお前の二人旅で報酬は金貨十枚だ」 



 請われてエステルは地図を思い描いて算盤をはじいた。

 今いる街から北へ三日、その後街道を外れて山道をもう半日でアスラクだ。そこから山へと恐らく獣道を行くことになる。別段、賊が出るだの魔物が出るだのといった噂は聞かない。せいぜいが熊か狼か、道中はそうそう危険もないだろう。

 まるきり一般人であるアトロは戦力として考えられず、完全にエステルの力量のみに成否がかかっているわけだ。成功を疑うわけではないが、万全を期すなら護衛は多い方が良いに決まってる。


 だがしかし――


 報酬の金貨十枚は破格だ。

 銀貨十枚もあれば三食に湯浴みも付いて、おろしたての真っ新なシーツの上で一晩を過ごせる。それがこの護衛を成功させれば、そんな悠々自適な暮らしを百日も過ごせる計算になる。

 

 ただそれも一人で依頼を受けて総取りになればの話だ。頭数が増えれば当然、切り分けられたパイの二等辺三角形がどんどん鋭いものになってゆく。

 それはちょっとごめんこうむりたい。

 

 かくして五日ほどの片道の旅程を、エステルは一人で護衛することにした。

 迷宮の奥で何をするかは聞いていなかったが、それはおいおいわかることだろう。残り半分、きっちり仕上げて見せる。

 あと半歩という所で失敗した冒険者を数多く見ている。エステルは改めて気を引き締めたのだった。

 

 

 「……しかし、長い儀式だな。――アトロ。何をやってるのか知らないが、まだかかるのか?そろそろ迷宮を出ないと山を降りる前に真っ暗になってしまうぞ?」


 

 得体の知れない儀式ではあるがアトロの依頼だ。邪魔をするのもはばかられたが、帰りに要する時間を逆算するとそうも時間に猶予はなさそうだ。

 そう考えたエステルは思いきいって声をかけてみたが、肝心のアトロは前を向いたまま振り向こうともしない。


 ――何をそんなに?

 

 意を決してエステルは歩み寄ると、盛んに上体を倒したり起こしたりを繰り返すアトロの肩に手を伸ばした。「おい、聞いているのか」と。

 なおも身体は前を向いたままで、流石に小うるさげにじろりと視線だけよこす。


 

 「まあ、待て。直に済む。黙ってそこで見ていろ」

 

 「直にってどれぐらいだ? さっきも言ったが、帰り道で夜になるのは避けたいんだが」

   

 「どれぐらいかかるかはっきりとはわからん。壺に聞いてみてくれ」


  

 そう言ってあごで壺を指し示すアトロ。それで興味を惹かれたエステルは、改めて壺とこの迷宮に来訪した目的をアトロに尋ねる事にした。

 

 「ジニーを呼び出そうと思っている。そして、あれがその壺だ」と、そう説明を受けた時、エステルはめまいをおぼえた。

 風の精霊の最上級種であるジニーというよりも、いわゆるランプの魔神という通称の方が有名だ。古ぼけたランプを男がこすると煙と共に巨漢が現れて、男の願いを三つ叶えるというあれだ。

 この話はまんざら全てが嘘でもなく、気まぐれな風の王が呼び出した人間の願いを叶えたり、力になったという逸話は古い文献にも書かれている。

 ただし、先に述べたがジニーは気まぐれだ。呼び出された時の気分次第でどちらにでも転ぶのだ。呼び出されたジニーのご機嫌が凄まじくナナメだったとしたら――


 エステルは身震いした。不吉な考えを追い出そうと頭をふる。



 「おい、馬鹿なまねはよせ。精霊魔術師でもないお前がジニーなんて呼び出せるわけがないだろ?」


 「その点に関しては問題ない。あの壺は失われた古代の秘宝、イフリートボトルなのだ」


 

 風の王ジニーと双璧をなす炎の精霊の最上級種イフリート。それを収めた――というとイフリートに怒られそうだが――ボトルというわけだ。だがこの場合はイフリートのみを指すわけではない。

 イフリートボトルといえば各属性の精霊王と直接交信を可能にする、先史文明の魔道士たちによって作られた精霊召喚用マジックアイテムの総称だ。

 なのでアトロが祈りを捧げ続けているあれは、ジニーボトルという方がより正解になる。


 呼び出される精霊王たちの力は強大で、とても人間が制御しきれるものではない。当然その存在が確認され次第、大きな街の――ここらで言えば東の学術都市にある魔術師ギルドの本部倉庫に封印されてしかるべきものだ。 

 そんな危険極まりないものでアトロは偉大なるジニーを呼び出そうとしている。


 

 「まてまてまてまて! 余計あぶないじゃないか。やめるんだ、今すぐに!」

 

 「い・や・だ! こいつを見つけるのにワシがどれだけの金と時間を費やしたか! 何がなんでもやり遂げて願いを叶えてみせるぞ!」


 「願いって……アトロ、金も地位も人並み以上に手に入れただろ? もう王侯貴族じゃないってだけじゃないか。この上まだなにを望むんだ!」

 


 これ以上は贅沢というもんだ。両手に盃を持った状態で、新たに別の盃を欲するなら今手にしているどちらかをはなさなければならない。そんな言葉があるのを知らないのか。

 年若いエルフにアトロは押し黙った。ぐぬぬ、と歯を食いしばって睨みつける


 

 「――なあ、わかってるんだろう? 魔術の訓練を受けてない者にジニーを召喚できるかどうかくらい」

 

 「わかっちょる! しかしだな!」


 「はぁ……、いつにもまして頑固だな。なあ、何が望みだ? 何がそこまで……」


 「嫁さんだ!」


 「…………は?」



 勢いよく中年から吐き出された思いもよらない一言に、エステルはあんぐりと顎を落とした。

 エステルの目の前で禿げ頭がみるみる朱色に染まっていく。どうやら自分の一言に照れているらしい。



 「お前の言う通り金も地位も名誉も手に入れた! だが嫁さんだけはまだ見つからん! ワシはそれをジニーに叶えてもらうのだ!」


 「……い、いや、嫁さんって……アトロならどうとでもなるだろう?」


 「どうともならんからジニーに願うんじゃないか」



 金でなびくような女はこちらから願い下げだし、商売女なぞ家に入れる気にもならん。つまり金や地位をエサに嫁さんを釣り上げたくはない。アトロはそう豪語した。

 エステルにすれば、その金も地位も男としての魅力のひとつなんじゃないかと思う。その二つを持たない彼には羨ましい限りのお話だ。

 

 では、そのアトロ自身が生涯をかけて追い求めてきたその二つを否定したとして、あとに何が残るのか。アトロのてらてらと光る頭から爪先まで、エステルは何度も視線を往復させた。

 ――その結果、頭に思い浮かんだキーワードは三つ。

 

 中年。

 ハゲ。

 デブ。


 エステルは思わず目頭を抑えた。何やら熱いものがこみ上げてくる。

 アトロ、強く……生きてくれ……と、思わず依頼主であることも忘れて、肩をぽむと叩きたくなる。


 

 「なんだ、その哀れみの目は! どうせ、ハゲだのデブだのおっさんだのと小馬鹿にしているんだろう!」


 「イ、イヤ、ワタシ ソナコト 思ッテミタコト アリマセンヨ?」


 「なんで片言なんだ! 大体きさまはワシに雇われておるんだ。雇主の言う事は素直にはいはいと聞くもんだろう!」


 「いやいやいやいや、それとこれとは別だって。精霊魔術師として、素人にそんな危ないものを扱わせるわけにはいかないって」



 アトロにしてみれば大枚はたいての嫁さん探しの総仕上げだし、エステルにしてみれば精霊魔術師として依頼主にこんな危険な橋を渡らせるわけにはいかないのだ。

 それからも、「やり遂げる」「だめだ」の押し問答が繰り返された。尤も、押し問答だったものがだんだんと子供のけんか地味たものに変わり果てつつあったのだが。

 

 人間の中年とエルフの青年が「贅沢いうな、中年」「リア充にわかってたまるか、爆ぜろ」と、互いに舌を突き出し合っている、まさにその時である。


 圧迫感すら感じる石造りの天井の上には数トンもの土砂が積み重なっているはず。そんな四方を分厚く囲った地下の一室に一陣の風が吹き荒れた。台座に置かれた壺から放射状に広がった異質な風が、部屋に厚く降り積もっていた埃を吹き飛ばす。

 アトロとエステルは顔の前に手をかざして風よけとした。片目をつむり顔をしかめて壺を見やれば――もくもくと壺から黒煙が立ち昇り、渦をまいたそれが目の前で瞬く間に人を形作っていった。



 「やったぞ、本当に成功するとは!」「ほんとにジニーを!?」



 片方は喜びを爆発させ、もう片方は驚きと焦燥に駆られてた唸りをあげた目の前で。

 沸き立った雲は白い繊手になり、豊かに盛り上がった乳房になり。大きく胸元を切れ込んだレースに縁どられた豪奢な宵色のドレスになった。

 百八十センチ近い長身のエステルが見上げるその先で、漆黒の髪を結い上げて頭上に戴くのは長い上顎と下顎からのぞく獰猛な乱杭歯。顔一面に黒い獣毛をびっしり生やしたその異相は犬そのもの。

 宵闇を統べる異形の貴婦人は、二人が想像していた風の王ジニーではなく、童話にも登場する夜の女神ヘカーテであった。

 

 じろり、と白目部分のない漆黒なだけの瞳が下へと動いて二人を睨みつけた。ナイフのような牙の列の隙間から漏れ出た声は、まさしく鈴を鳴らした妙齢の女性のものだった。



 「下郎、妾の眠りを妨げるには何ぞ正当な理由があってのことであろうの?」



 見えない触手が幾本も伸びてきて、身体にまとわりつくかのような粘り気のある声。

 見ればアトロはその場で、ははーっと両手を前に投げ出して平伏した姿のままぴくりとも動かない。

  

 精霊魔術の使い手であるエステルにとっては――ジニーにしてもそうだが――宵闇の精霊で最上級にあるヘカーテは神にも等しい存在である。羽を広げた孔雀のように、ヘカーテの後背から黒々とした魔力のプロミネンスが吹き上がっているのが感じられると、アトロの横に並んで平伏したくなるほどだ。

 人間よりも圧倒的なまでに格上の霊格。威圧感と恐怖がエステルを捉えて離さず、身動ぎどころか息をすることさえ意識しなければ難しいほどだ。


 

 「なんてものを呼び出しやがったんだ! おい、アトロ! しっかりしろ! どうするんだ、これ!」



 ありったけの力を右手に込めて動かすと、倒れ伏したままの依頼主の肩を掴んで引き起こした。

 ぷはぁ、と広角から糸をひいて顔をあげるアトロ。どこか目が虚ろで焦点があっていない。訓練を受けていない者が強烈な魔力を短時間に浴びて意識が朦朧とする――魔力酔いの症状だった。エステルは目を剥いた。

 

 ――まじか! ヘカーテを呼ぶだけ呼んで、あとはまる投げか! どうしろってんだ!


 起きろとアトロの身体をゆするエステル。その二人を眼下に収めた宵闇の女王は、くぅと一声いなないた。睨みつける双眸になにやら危険な色味が増していっているようだ。

 無理矢理よびだされて不機嫌になりだしてる。これはまずいとエステルはアトロを放り出すと、二度の深呼吸の後に精霊語で交渉を試みることにした。



 「宵闇の女王よ、すべての闇を統べる女神よ。火急のことであったとはいえ、かような地下にお呼びだてしましたこと、まずはお詫びさせて頂きます」


 

 ほう、と感心したようにヘカーテの黒いビー玉のような瞳が愉快げに細められる。



 「賢しげに精霊の言葉を口にするかと思えばドライアードより伸びた枝葉か」


 「――は。その縁は絶えて久しく、なにぶん耳障りなことかと思いますが、此度はご容赦を」 

 

 「人の言葉を耳にするより何増倍もましというもの。それはよい。――して、妾を呼んだからにはそれなりの理由があろうの?」


 「……は」 

  

 「よし。して、なんじゃ」

 

 「……は……」


 「は、ではない。なんじゃと聞いておる」


 「は、は……」 



 エステルは首肯したままぴくりともしない。というより、できないでいた。ヘカーテを呼び出したのは目の前でどろんとした目でお花畑のチョウを追いかけている中年なのだ。

 ただ頭を垂れ、片膝をついた状態で傍らのデブの名前を小声で呼ぶのみだ。起きろ、なんとかしろ、願いを言うんだろ、と。さかんにそのたるみきった腹を指でつつきながら。


 「エルフよ」と、抑揚をおさえた声が頭上から降ってきてエステルはびくりとした。首関節の油でもきれたのか、ぎりぎりと音をたてながらゆっくりと視線をあげていく。

 見下ろすヘカーテと見上げるエステルの視線が交わされた。持てる意志の力を振り絞って、エステルは笑顔を作った。ひどく歪んで頬の筋肉がぴくぴくしてはいるのだが。



 「もしやとは思うが……なんの用立てもないというのではあるまいな……?」


 「いえ、いいええ、決してそのようなことは!」小声で「おい、アトロ、おきろ! おきろって!」 


 「なればはよう申せ。――それともやはり……」


 「いいえぇ! そんなことはございませんっ! あるわけがないでしょうっ!?」少々声を荒げつつ、ハゲ頭をぺちぺち叩きながら「おきろおきろ! おきてください、まじおねがいします!」



 女王の御前であることも忘れて、アトロの肩を両手でがくがくゆさぶるエステル。その度に人形のようにアトロの頭ががっくんがっくんと前後するも、目はうつろで「あー」だの「うー」だの意味をなさない単音が漏れるばかりだ。

 しばし二人の漫才を無表情に睥睨していたヘカーテであったが「エルフよ」と再びその名を呼んだ。


 

 「召喚にはしかるべき手順があり代償が支払われること、存じておろうの?」



 エステルにとってはその言葉は最終通告にも等しかった。「おまちください! どうか釈明の余地を!」と訴えるも、ヘカーテはならぬ! と一瞥をくれたのみである。

 召喚の手順は稚拙極まる。それどころかいくら秘宝に頼ったとはいえ、精霊魔術の使い手ですらない素人召喚。召喚の確たる理由すらなく、当然のように代償も用意していない。

 

 エステルの全身を嫌な汗が流れた。

 力なき者が精霊と交信すればどうなるか。

 ある者は精霊界と呼ばれる異界に連れ去られ、神隠しにあった。ある者は生気と若さを吸い取られ、枯れ果てた老人となった。またある者は呪いで豚やハエになった。

 

 精霊魔術師として確固たる地位を築き上げたエステルは、決して力なき者などではない。下位精霊であれば魔力の続く限り使役してみせる自負もある。

 だが、闇の精霊の女王ともなると話は別だ。エステルをして、というよりこの世に最上級精霊を思う様に使役できる人間など存在しようはすがない。だからこそ、精霊魔術師は修行中に折に触れて師匠からくどいほど説かれるのだ。自然を敬え、精霊を甘くみるな、精霊王の慈悲にすがれ、と。

 一代で財をなした傑物とはいえ、術師でないアトロにはそれがわかっていなかったのだ。どれほど大それたことであるかと。


 いまさら依頼主の無知を責めようが、報酬に釣られた自分の運命を呪おうが後の祭りである。



 「エルフよ。汝には呪いをかけることとする」



 氷塊がエステルの背中を滑り落ちた。唇をかんで弁明したい気持ちをねじ伏せる。ここで迂闊に異を唱えてさらに女王の機嫌を損ねると、どんな悲惨な未来へと切り替わるかしれたものではないからだ。

 どんな類の呪いかは及びもつかないが、呪いですませるということは命まではとらぬということでもある。

 自然現象としての闇だけでなく、人の心に巣食う闇をすら統べる残酷な女王の処置が比較的寛大なうちに手を打つが賢明だ。


 襟元をひらけ、との命に無言のまま従う。ボタンをはずす指先が震えてままならない。猛烈なめまいに襲われつつも、すべてのボタンを外し終えてヘカーテの前へと首筋をさらけ出した。

 白い美しい繊手がのびて、それとは不釣り合いな人差し指の先の黒いカギ爪がエステルの鎖骨の下あたりにめりこんだ。焼きごてを押し付けたような、じゅうっという音と共にタンパク質が焦げる臭いがあたりにたちこめる。

 歯を食いしばってエステルはたっぷり五秒を耐えた。ゆっくりとヘカーテの指先が遠のくにつれ、焼け爛れた傷痕がぐにぐにと生き物のように蠢いて変形する。単なる刺し傷が満月のように真円の黒いあざになり、蝶になり、コウモリになり。

 一時の間をおいた後、小さな黒アザはすさまじい速度で胸から全身へと広がっていった。爆発的に増殖する細菌を見ているかのように、見る見るうちに白い肌が浅黒く染められていく。

  

 エステルは両手で自分の肩をかき抱いたまま、激痛にのたうちまわった。爪が皮膚を破って肉に食い込むほどに。

 眼前で必死の形相で転げまわるエステルの上にヘカーテの耳障りな甲高い哄笑がふりそそぐ。

 「ホ  ホ  ホ  ホ  ホ  ホ 」と。 



 「エルフよ、汝に宿っておる精霊力を代償として頂くぞ。火も水も土も風も、もはや汝の友にあらず。当然、ドライアードとの縁もないものと知れ。されどこのままでは、あまりに憐れ。代わりに妾との誼を結ぶことを許そう」


 

 ヘカーテのアギトが大きく開かれ、ぞろりと赤黒く長い舌が顔を出す。黄色い獣の牙が小刻みに震えていた。笑っているのだ。



 「その浅黒い肌は妾の眷属、ダークエルフの証じゃ。これからは闇のみを友とたのみ生きるが良いぞ、ほほほほほ」



 「暇つぶしにはなったの」けたたましいほどの笑い声が後を引かせながら、獣面の女王の姿が陽炎のように薄れていく。再びあるべき精霊界に帰っていくのだ。

 埃にまみれ、激痛にのたうつエステルは横倒しになったままでそれを見送るしかできなかった。

 

 影が薄くなり、輪郭がぼやけてついには室内に満ち溢れていた黒々とした闇のプロミネンスを引き連れて、ヘカーテは壺の中へとその姿を消した。

 その段になってようやくエステルは耐え難い苦痛から解放された。仰向けのまま大きく胸で息をひとつ吐き出すと、それから上体を起こして頬をつたう汗を拭う。


 えらい目にあった。全く、アトロのやつめ。

 肩ごしに見やればトドが仰臥している。生きてはいるようだ、規則正しくお腹が上下している。


 まあ――だが、生きてるだけでもめっけものか。

 両足を投げ出した状態で、しげしげと女王に変えられた両手を見つめる。白かった肌がものの見事に浅黒いものにかわっていた。



 「ほんとにダークエルフになっちまったのかー……ふぬぁっ!?」



 ぽつりと感想めいた独り言を呟いた瞬間、驚いて口元を手でおさえた。

 


 なんだこの高い声は。と、いうか自分の声だったのか、今のは!



 唖然と自分の手に視線を落とす。その時、はらりと額と頬に長い髪の毛が落ちかかった。緋色ではない、ヘカーテと同じ青みを帯びた烏の濡れ羽色。

 片手で口元、もう片手で艶のある黒い毛先をつまんで視線をあらぬ方へとさまよわせた。数分の茫然自失。


 やがて、がば、と振り返ると四つん這いの姿勢のまま、猛スピードで部屋の隅に置いてある自分のナップザックへと駆け寄った。ずだ袋のように見えるが冒険者として旅をする上で必要不可欠な、雑多な道具を放り込んだエステルのほぼ全財産だ。

 焦る手で留め金をはずし、中身をひっかき回す。やがて指先が冷たく硬いお目当てのものを探り当てた。エステルは勢いよくそれを引っ張り出す。

 

 小さな丸い手鏡。手鏡といっても金属を磨き上げた無骨極まりないもので、華やかさとは無縁の丈夫さだけが取り柄だ。

 震える手でそれを胸の前へ。瞑目して大きく深呼吸したあと、両手で手鏡を顔の高さにまで跳ね上げた。

 顔を紗に構えて、のりでくっついてしまったように開かない目を片方づつゆっくりと開けてゆく。


 果たしてそこでエステルが目にしたものは。

 


 「――誰だ、おまえ……」



 鈍く光を跳ね返す手鏡の中で、黒髪の女ダークエルフが顔いっぱいに困惑を貼り付けてこちらを見つめていたのだった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ