第44話 とある双子の仲直り
俺は気温七度の寒空の下、屋上のフェンスに背中を預けて座りこんでいた。
今日の天気は曇りだ。太陽が覗く隙さえ見せない灰色の雲のお陰で、さらに寒く感じる。風も冷たく鋭い。耳が痛くて仕方がないが、それはやせ我慢でどうにかするとする。
俺は寒いのが嫌いだ。とにかく嫌いだ。冬はやはり暖房の効いた暖かい部屋でぬくぬく過ごすに限る。炬燵があれば尚いい。
それなのに、なぜ俺はこんな寒い屋上にいるのか。その理由は、兄貴と喧嘩したからだった。
いや、はっきり言って、あれは喧嘩とは言えないだろう。兄貴は喧嘩したと思いこんでいるだろうが、それはとんでもない誤解だ。
とは言えど、兄貴が頭を冷やさないことには、仲直りは成立しない。だから俺はじっと兄貴の怒りが治まるまで待っている。
だが念のために言っておくが、俺は兄貴が仲直りを提案するのを待つために、こんな所にいるわけではない。ここにいるのは、単純に居場所がないからだ。
教室は兄貴がいるから駄目だ。俺の顔を見た瞬間に機嫌が急降下するから。
だとしたら保健室か? ――いや、養護の先生と語らうだなんて死んでもごめんだ。
それとも職員室か? ――いやいや、論外だろう。授業に出ないのに学年首席な俺は、教師陣からしたら嫌味な生徒でしかない。庇ってくれるのは、精々担任の吉永か校長くらいなものだ。
そんな思考を重ね、俺は結局一番安全な屋上に居座ることにした。一応学校指定のダッフルコートと母さんの手編みマフラーを着用している。
だが、それでも寒いものは寒い。
人と接するのを極端に嫌う俺は、兄貴と違っていつも爪弾きにされる。だから兄貴がいない時は
、誰もいない場所を好む。俺にとってこの屋上は、寒いが居心地の良い場所だ。
俺はそこで、暇潰しに兄貴がなぜ怒ったのかを考えていた。いや、実際は考えるまでもないことなのだが。兄貴が怒るのは仕方がないだろう。
……だが、一言だけ兄貴に言いたいことがある。
「――これだけは流石にないだろう……」
俺は誰も応えてくれない寒空の下でポツリとそう呟いた。
俺の視線は、いつの間にか数メートル先の扉ではなく、手元に移っていた。俺の左手に乗っているもの。それは、先週兄貴が俺たちの携帯を水没させるに至った原因のもの――子猫のストラップであった。
これはこの間、兄貴が美術館の売店で購入したものだ。……なぜ展示されていた絵とは関係ないものを買ったのかは謎だ。おそらく、単純に可愛いと思ったからだろう。兄貴の思考はやはり読めない。
俺は、この銀色のプレートに貼られた黒い子猫のストラップを握りしめた。そしてまた呟いた。
「……普通、男子高校生がこんなものを学生鞄に付けるか?」
俺の問いかけに応えてくれる奴は、当然ながらいない。我ながら虚しいものだ。ふと溜め息をついて空を見上げた。空は変わらず曇っている。
なんだか、寒いのに暑い気がする。頭は痛いし、体全体が重い。喉まで痛くなってきた。そういえば、朝から熱っぽくて、兄貴に心配されてたんだったか。そしてその後すぐに喧嘩したんだったな。
「……寒い」
もう一度空を見上げてみると、真っ白の綿のようなものが降ってきた。それはどう見ても、初雪だった。
「……これは、まずいな」
俺はそう呟いて、フェンスを支えにして立ち上がろうとした。だが、うまくいかずにまたズルズルと定位置に座りこんだ。
どうやら、本格的に風邪をひいたらしい。仕方がない。四限の授業が終わったら、父さんに電話かメールをしよう。あと四十分ぐらいかかるが、それも仕方がない。
俺は猛烈に眠くなって、思わず瞼を閉じた。顔に雪がかかるが、そんなこともどうでもよくなってきた。とにかく眠い。だから寝よう。
俺は本気で寝ようと、意識を飛ばそうとした。
――が、
「―― 一夜!!」
扉を乱暴に開ける音と、聴き馴れた兄貴の声が聴こえた。
「一夜!! 一夜!! 大丈夫!? 死んでないよね!? 生きてるよね!?」
「――うわ、一夜!? お前大丈夫か!?」
慌てて俺のもとに駆け寄って来て、俺を抱き寄せる兄貴と、遅れてやって来た父さんの驚いた声が、殆ど同時に聴こえる。だが、俺は二人のそんな声には応えられなかった。口を開く気にもなれないぐらいにダルくて、眠かったからだ。
そうして黙ったままでいると、兄貴は不安になったのか、激しく俺を揺さぶった。起きろと言いたいらしい。
これでは落ち着いて寝れないので、俺は仕方がなくうっすらと目を開けた。すると、兄貴の泣きそうな顔と、心配げに顔を歪めた父さんの顔が見えた。
「……あに……き」
「一夜、ごめんね! 僕が悪かったよ。もう無理にストラップを付けろなんて言わないから、早く家に帰ろう」
兄貴は半泣き状態でそう言うと、力の入らない俺の体を背中に背負って立ち上がった。
……そんなことして大丈夫なのか、兄貴。俺は兄貴と違って鍛えてるから、体重もそれなりにあるんだぞ。
「お、おい、千夜。お前大丈夫か? 俺が背負ったほうがいいんじゃないのか?」
「……う、大丈夫……。頑張る……」
兄貴は気丈にもそう言ったが、少しふらついていた。これでは背負われている俺のほうが恐くて仕方がない。頼むから父さんに任せてくれよ。
「……身長縮むぞ」
「え、それはやだ!」
ボソリとそう言ってやると、兄貴はあっさりと父さんに俺を受け渡した。父さんはかなり呆れた様子だったが、文句一つ言わずに俺を背負った。
……良かった。こっちのほうが安定感があって安心だ。
俺は心の中でそう呟いて、ほっとした。
「……にしても、お前ら、喧嘩してたのかよ。どうりで一緒にいないはずだよ」
父さんのその言葉に、兄貴はしょんぼりと肩を落とした。どうやら、かなり落ち込んでいるらしい。
「うん……今思えば、何であんなくだらないことで怒っちゃったんだろ。ごめんね、一夜」
「……」
俺は悲しげにそう謝る兄貴に、何も言わなかった。別に怒っていたわけではない。単に眠かっただけだ。
だがこれでは兄貴が可哀想なので、俺はこう言ってやった。
「……帰ったら、ホットコーヒー一杯」
「……え?」
意味が分からず困惑げな兄貴に、俺はもう一言付け加えた。
「兄貴のコーヒーが一番旨い。これでチャラだ」
それを聞いた兄貴は、今日一番の輝かんばかりの笑顔を見せた。
***
結論を言おう。俺と兄貴は、難なく仲直りをした。兄貴はどうやら、自分のせいで俺が風邪ひいたのだと思い込んでしまったらしい。
そのお陰で俺は、翌日までひたすら兄貴の甲斐甲斐しい看病を受けることになった。はっきり言ってうざかった。そして面倒くさかった。
だが兄貴があまりにも嬉しそうにしていたものだから、結局俺は大して抵抗しなかった。
この一連の出来事に関して、母さんはいつものポーカーフェイスでこう感想を述べていた。
「千夜は私と冬夜さんの息子なのに、どうしてこんなにも無邪気な子に育ったのでしょうか。危なっかしくて見ていられません。大体、何なんですかその喧嘩は。三年ぶりの兄弟喧嘩がそんな馬鹿馬鹿しい理由だなんて、小学生ですか? 一夜、貴方は色々と責任重大ですよ」
……生まれて初めて母さんの日本語が理解できなかった。
母さんはやはり、俺よりも兄貴のほうが心配らしい。それに関しては俺も同感ではあるが、なんだか複雑な心境だった。
微妙な表情でベッドに横になっていた俺に、母さんはこう付け加えてもいた。
「貴方は千夜を甘やかしすぎです。もう少し厳しくすべきでしょう。優しくするだけが愛情ではありません。それを肝に命じていて下さい」
母さんはそこまで言うと、満足した様子で俺の頭を撫でた。
……前々から思っていたのだが母さん、頭を撫でるの好きだよな。
とにかく、そんなこんなで俺たちの三年ぶりの兄弟喧嘩は幕を閉じた。
そしてその翌日、つまりは俺が風邪をひいてから二日後の今日。俺は兄貴といつも通りに登校し、久々に教室にいた。
そんな時、窓際の席にて机に突っ伏して寝ていた俺に、ある人物が近づいてきた。
「――よお、一夜。千夜と仲直りしたんだってな。おめでとう」
「……」
そいつは、二日前の昼休みに、俺に会いに来た奇妙なクラスメイト――関口比呂であった。
関口はつい先日の席替えで、兄貴のすぐ前の席になった奴だ。容姿は良くも悪くも平凡。黒髪のツンツン頭で、目は一重で少し小さい。身長もそんなに高くはないな。
そんな普通の外見をした奴だが、意外に面倒見が良く、基本ステータスの常識を兼ね備えた貴重な人材だ……と、兄貴は言っていた。
そんな平凡男関口は、なぜだか楽しそうに笑いながら、たまたま空いていた俺の隣の席に腰かけた。どうやら俺と話す気らしい。物好きな奴だな。うちのクラスの男子の殆どは、俺には話しかけないというのに。
「なあ、結局お前らの喧嘩の原因って、千夜が買った猫のストラップを、鞄に付けるのをお前が嫌がったからなんだってな。それって、お前は別に悪くないんじゃないか?」
「……」
関口は、先日の俺の「俺が悪い」発言に疑問を持っているようだった。確かに、関口の言い分はもっともだろう。だが、俺はそれでも自分にも落ち度があったと思っている。
「……あれは、兄貴なりのプレゼントだったんだよ」
「……え」
俺が渋々そう答えると、関口は心底意外そうに目を見開いた。
「なんだよ、普通に答えてくれるじゃねえか。普段からそうやって話せよ」
「……」
関口はニヤニヤと笑いながらそう言った。なんかムカつくな、こいつ。
「思ったんだけどさ、お前ら双子って、何でそんなに仲良いんだ? 俺にも弟がいるけど、いっつも喧嘩ばっかりだぜ?」
「……」
お前の基準に俺たちを当てはめてんじゃねえよ。
さらにイライラしてきた俺は、軽く怒りをこめて関口を睨んだ。すると関口は、一瞬驚いた表情をしたが、すぐに一転して苦笑した。
「ごめんごめん。別にお前らがおかしいだとか、そういう悪い意味で聞いてるんじゃないよ。そうじゃなくて、純粋にスゴいって思っただけだって」
「……」
関口は手を何度か振ってそう言った。
「よくさ、"喧嘩するほど仲が良い"って言うだろ? でも、それって嘘じゃないけど本当でもないよな。だって――」
関口はまるで自分のことのように、嬉しそうにこう続けた。
「――お前ら、喧嘩してなくても仲良いじゃん」
どうやら関口は、本当に感心しているらしかった。表情がどことなく輝いていて、俺の返答を今か今かと心待ちにしている様子が見てとれる。
俺はそんな関口と、何かとトラブルメイカーな兄貴を重ねた。なぜだかこの二人が妙にダブって見えたのだ。
仕方がない。兄貴の話し相手になってくれた礼も兼ねて、応えてやろうじゃないか。
俺は机に突っ伏していた体を起こして、やっと関口の顔をきちんと見た。相変わらず期待に満ちたその顔を一瞥すると、こう言ってやった。
「俺たちは双子だ。いつも繋がってるんだから、当然だろ?」
第9章終わり