1.手違いと言われたところ
それは、いつもの風景だった。
ごった返す駅のホーム。隣には、もう何年なんて考えるのも面倒くさい、腐れ縁の彼女。
二人で笑いながらホームまで階段を下りて、乗り換えに時間がないから、混むのを覚悟で、乗換駅の階段付近の車両まで移動する。
その時、ホーム端にいた人がよろけてホームから落ちそうになっているのを目敏く彼女が見付けた。あっと思ったときには彼女は近くにいた人をすり抜けて、その人の手を取っている。ちょっと恰幅のいい男性。彼女一人では無理な体重だ。
慌てて私も彼女を追ったが、彼女の必死さが天に届いたのか。なんとか男性のバランスを取らせることに彼女は成功していた。
ほっとしたのも束の間、今度は彼女がバランスを崩し、仰向けにホームから線路に向かって落ちていく。
「ダメっ」
慌てて私は彼女を助けるために走り寄る。なんとか彼女の体の端を掴むけど、腕一本で人一人の体重を支えるのはきつい。
それでも必死に彼女をホームに引っ張り上げたとき、けたたましい音に気が付いた。
ハッと思ったときには、電車は眼前まで迫っていて、体勢を立て直すなんて無理。
だから私は顔だけを彼女に向けた。彼女もこちらを見ていて、これから起こる惨事を理解しているようで、すっかりとその表情は青ざめていた。
「ざまを見なさい」
私は唇だけでそう言って、次の瞬間、ものすごい衝撃とともに意識が飛んだ。
彼女とは、生まれたときから一緒にいた。いわゆる幼馴染というやつだ。
優しいと言えば聞こえはいいが、彼女の優しさは常軌を逸していて、私は何時も気が気じゃなかった。
「危ないから気を付けてよ」
何度そう言ったか知れない。それでも彼女は大丈夫と言って、私の言葉を聞き入れてはくれなかった。
誰かのためにあなたに死んで欲しくないの。
そう言いたかったけれど、そんなことを言うと、きっと彼女は、悲しげな顔をして怒るだろうと分かっていたから、それだけは言わなかった。
だから、あの時の彼女の顔を見て、私はほんの少し溜飲が下がる。
「私の気持ち、分かったでしょう」
ずっとはらはらと見つめていた私の気持ち。
いつかあなたが、ああなるんじゃないかと、ずっと怯えていた私の気持ち。
大丈夫なんて言わないで、もう少しだけ考えて。
この後どうなるのかを私は知りようもないけれど、これで少しは彼女も、自分の身を顧みてくれるだろう。
それだったら、まあ、死んだ甲斐があるというものだ。
そんな風に、過去に思いを馳せながら、私はなにやらぶつぶつと響く声をずっと聞いていた。
「どうするよ」
「どうするったって」
「予定外だし」
「でもこのままって訳にもいかんだろ」
「だからそれをどうしようって話でしょう」
男女入り交じった声は、なにやら困っているようで、何となく、今までの経験上関わり合いになりたくないなと、私は、未だ寝ている振りをしている。
「やっぱり一番は、……」
「それしかないか」
「調整面倒だなー」
「元はと言えば、……」
「まあ、なっちまったもんは仕方ないし」
不穏。不穏すぎる。このまま寝ていたら私はいったいどうされるんだ。なんか、ものすごく適当、かつ勝手に何かを決められている気がする。とにかくこのまま、ここにこうしていると、とんでもないことになりそうな予感がして、私はゆっくりと体を起こした。
「本人居るところで、私の身の振りの相談ですか?」
眼を開けてみると、そこは、私の寝ていた台以外は何もない真っ白な場所。ちなみにまだ私はそこから体を起こしているだけの状態だ。私が見ている方向には、男女5人ほどいて、皆一様に似たような白い服を着ている。それが、行儀悪く座り込み、半円を描いてなにやら話し合いの真っ最中のようだった。
私の声に気が付いて、全員がびくりと背を震わせ、互いを小突き合い、なにやら責任を押しつけようとしているようで、とうとう一人の女性が立ち上がる。
もっとも、女性はその中で一人しかいなかったのだが。
「お見苦しいところをお見せしてしまって、ごめんなさい」
柔らかに笑った女性は、白いゆったりとした服を静かにゆらしながら、私の方へと向き直る。年の頃は二十半ばだろうか。私とほとんど変わらない気がするが、その容姿は、私は足元にも及ばない。絶世の美女というような圧倒する美しさではないけれど、内側からにじみ出る威圧感のようなものが、ほんの少しばかり幼い顔立ちをしているにも関わらず、その女性をただ者ではないと知らしめていた。
「自分が死んだという自覚はある?」
女性はゆっくりと、私に問いかけた。
死んだか死んでないかと問われれば、あれで生きていたら奇跡としか言いようがないと答えるしかない。
ブレーキがかかりきらず、勢いのほとんど死んでいない電車に頭からはね飛ばされたのだ。これが体全体と言うのであれば、はね飛ばされた位置によってはもしかしたら、という可能性もあるかも知れないが、頭となると、どう考えても頸椎が逝っているだろう。
「まあ、あれで生きていると思えるほど人生楽観的にはなれないですね」
とりあえず、私はそう答えると、女性は苦笑を浮かべた。
「まあ、思いっきり頭からいってたからね」
改めて人に言われると、何となくムッと来る。別に頭からいきたかったわけじゃない。出来れば上手く生き残りたいとはちらりと思っていた。状況的にそんな事は完全に無理だったわけだけど。
まあ、それに関して、別段心残りもないから、怒りを感じることもないけど。
「それでね。本当はあそこで死ぬのはあなたじゃなくて、彼女の方だったの」
実際死んでいるのは私だというのに、実は彼女だったとはいったいどういうことだ。
さすがにこの状況は無視していたが、ここまで来ると少し混乱してくる。私の死は、まだ死として認識されてなくて、彼女と入れ替わる羽目になるとでも言うのだろうか。
「ちょっとまって。まさかこれから私と彼女が入れ替わるとかそんなことはないのよね」
私はいやだ。彼女の死を恐れてずっと生きてきたというのに、やっとそれから解放されたのに。
「それはないから安心して。 いや、それが出来ないから私たちは困っているんだけれどもね」
ほとほと困り果てたというように、女性は言った。
「まあ、あの世界では、修正なしで、君が歩むはずだった道を彼女が歩くから良いんだけどさ」
目の前の女性よりは少し年嵩の男性が、溜息混じりにそう言った。もっとも、だらしなく座り、頬杖を突いている姿は、目の前の女性より到底年上とは思えない。そんな態度を見て、女性が咳払いをすると、男性は慌てたように正座した。
万国共通女性は強いものらしい。
「私たちにとって、あなたの死は予定外。でも、あなたにはまだ生きなければならない時間が残ってる」
「それを彼女が生きるんじゃないの?」
自分の分を彼女が行きてプラマイゼロで良いんじゃないの?
そう思っていると、女性はゆるゆると首を横に振った。
「残念ながら、それは無理なの。生きる年数って言うのは、魂に刻まれていてね。彼女は生きなくてはならなくなったから、書き換えをすることで、今回は、対応したんだけど、あなたの分は、どうにも出来ない。生ききらなければ、死ぬことも出来ないのよ」
「それは、彼女は、死ぬ予定で、ゼロになっていたから、書き足せたけど、私の場合は、まだ生きる分が残ってるからいじれないって事?」
「簡単に言うとそうかしら」
柔らかに女性は笑う。
ああ、面倒くさいことになってきた。
大仰に溜息を吐いて、目の前の女性を見れば、開き直ったらしい私の姿に、ほんの少しだけくすりと笑った。
「もしかして、転生してやり直すとかですか?」
面倒だなと言うのがありありと見れる態度でそう言うと。
「あら、察しがいいこと」
ふんわりと、女性は笑った。
ああ、やっぱり面倒くさいことになってる。
「それでね。生き直すわけだから、今のあなたを消すわけにはいかないのよ。消してしまったらただの転生でしょう」
そう言われて妙に納得する。私の人生が残っているのなら、確かに、このままやり直すのが筋というものだろう。しかし、この言い方だと赤ん坊からやり直すという事か。
「さすがに今の年の状態でどこかに自然発生なんて不自然でしょう。木の股から生まれるわけにもいかないし」
何となく、妙に生々しい物言いをしてくれるけれど、言い分は納得いく。
「それで」
「少なくともこちらの不手際というのもないでもないし、あなたの意見も少しは取り入れようかしらと」
「要望を聞いてくれるわけですか」
場合によっては悪くない提案ではあるわけだけど。こちらに有利な提案を出してくるという事は、なにやらあちらには色々と後ろ暗い何がありそうな気がしてしまう。
それは出来れば気のせいであって欲しい事柄ではあるんだけれども。
「そうね。生まれ変わっても女が良いわ。このままの記憶を引き継ぐなら、性別が違うのは何かとややこしそうだし」
男に憧れがないわけではないけれど、この意識のまま男をやれる勇気はない。うっかり男にときめいてしまったらどうする。女にときめいてもノーマルだと思えない自分が居そうでいやだ。だいたい、アブノーマルだった場合私はどっちだ。
「後は、容姿は普通が良いわ。絶世の美女とか大変そうだし。ああ。あと、貴族はいや。これもなんか、色々と巻き込まれて大変そうだし。あ。でも、肌と髪は手入れをしなくても綺麗なのがいい」
「それだけ?」
にっこりと笑って女性が問いかける。
「後は好きにしてください。あ。後一つだけ」
そう。これが重要だ。
「私の意識はあるんですよね。そして、それは絶対になくてはならない」
「ええ」
「だったら、私の意識が浮上というのかな、するのは自我が芽生えた頃にしてください。それと、私の人格ごと、知識という範疇で、普段と切り離せるようにして貰いたいです」
私の言葉に、女性は不思議そうな顔をする。
「意識を切り離すって言うのは、二重人格みたいなものかしら」
「二重人格というか、幕一枚隔てて、触れないように切り替えられるって言ったらいいのかな。多分、私自身の意識と知識が邪魔になるときがあると思うんです」
「だいたい理解したわ。それ以外は本当に良いのね」
最終確認のようなその言葉に、私は思いつくこともないので頷いた。
「では、いってらっゃい。謙虚なあなたに一つプレゼントをあげるわ」
女性の言葉に、私は、声にならない悲鳴を上げた。
いやでも、地位もない。美貌もないなら、きっとたいしたことにはならない。はず、だよね。だと言って。
茫洋として、私は世界を眺めた。
私の記憶にあるのは、あの白い場所と白い服を着た男女。
「う、あ」
上手く回らない舌に、私はやっと自覚する。
生まれ変わったのだと言う事を。