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「あの二人を呼ぶなら結婚式には出ない」と言われたので、両親の席に私が逃がした花嫁たちを招きました

作者: 他力本願寺
掲載日:2026/09/17


 私の結婚式に出席する条件は、二つあった。

 招待した二人の女性を呼ばないこと。かつて彼女たちを逃がしたのは間違いだったと認め、謝ること。

 一週間前、両親から届いた手紙に、私はどちらもお断りしますと返事を書いた。

 そして今日、花嫁の控室で髪を結いながら、その手紙をまた膝に広げている。


 父の太い文字の下には、母の細い字が一行、添えられていた。


『お父さんにきちんと謝って、私たちが出席できる式にしてください。』


 最後の句点まで、見慣れた字だった。

 母は買い物を頼む書き置きにも、私への誕生日の包みにも、この丸い句点をつけた。包みを開く前から中身を当てようとして、何度も笑われたものだ。

 鏡の中で、結い上げた髪が少し傾いている。

 昔なら、母が後ろに立って直してくれた。髪を引かれるたびに私が顔をしかめると、あと一本だから、と言いながら、結局三本もピンを足した。

 私は手紙を伏せ、手探りで一本挿し直した。今度は、両側の高さが揃った。


 少し開いた扉の向こうに、礼拝堂の長椅子が見える。

 祭壇に向かって左の最前列は、花嫁の家族席だ。そこにある二枚の白い席札は、朝、私が係の人に頼んで置いてもらったものだ。

 前夜まで返事を待って、当日の朝にも待って、それでなお、置いてくださいと言ってしまった。


「リネット。入ってもいいか?」

「ええ、どうぞ」


 エリクは扉を開けたところで足を止めた。

 礼装の上着は肩にぴったり合っているのに、いつも工房でつけている前掛けがないだけで、どこか落ち着かなそうだった。


「……似合ってる」

「ありがとう」

「昨日、仕立て台に広げてあるのを見たときとは、ずいぶん違うな」

「人が入ったから?」

「うん。好きな人が」


 最後だけ小さくなった声に、私は返事を用意できなかった。

 代わりに彼の袖口へ手を伸ばす。


「ここのボタン、掛け違えてる」

「それは直してきた。さっき三度確かめた」


 よく見ると、きちんと留まっていた。指先で布を撫でてしまってから手を引くと、エリクの口元が緩んだ。


「触りたかっただけなら、そう言えばいいのに」

「……今日は、ずいぶん口が回るのね」

「今のうちに。あとで何も言えなくなるかもしれない」


 差し出された手に指を重ねると、彼の掌も汗ばんでいた。

 三年付き合ってきた人の、新しいところを見つけた気がした。


 結婚を決めた三か月前にも、エリクはこんな顔で、工房の布を取り払った。

 下から現れたのは、新居用の食卓だった。厚い天板にがっしりした脚。彼は満足そうに角を撫で、私はしばらく黙って眺めた。


「一生使える」

「そうでしょうね」

「何か気になる?」

「これを置いたら、椅子を引く場所がないわ」


 借りた部屋の間取りを紙に描いてみせると、彼は食卓と紙を見比べた。


「……壁に寄せれば」

「あなたはどこに座るの」

「窓の下」

「窓が開かなくなるわね」


 エリクは頭を掻いて、巻尺を取りに行った。

 天板を小さくして、脚の位置も変えた。私は角の飾りを減らしてほしいと頼み、彼はそこだけは少し残したがった。削り屑の積もる床にしゃがんで、二人で何度も図を描き直した。

 出来上がった食卓に向かい合って座ると、今度は彼の膝が私に当たった。


「小さくしすぎたか」

「あなたが脚を伸ばしすぎなの」


 膝で軽く押し返すと、彼も押し返してきた。工房の親方に、試すなら家でやれ、と追い払われたのだった。


 エリクの親指が、私の指の節をそっと撫でた。

 顔を上げると、彼は鏡台の手紙を見ていた。扉の先へも目をやってから、私に視線を戻す。


「式が済んだら、あの食卓で何か食べよう。朝、ほとんど食べてなかっただろう」

「見てたの?」

「パンが一切れ、そのまま残ってた」

「今も、あまりお腹はすいていないの」

「じゃあ、あとで」


 手がゆっくり離れた。


「祭壇で待ってる」


 廊下へ出ていく彼を見送り、私は鏡台の小さな時計を見た。

 針は十時半を少し回っていた。


     *


「リネット、おめでとう」


 係の人に案内されてきたセラは、藤色の礼装の裾を片手で持ち上げていた。もう片方の手には、四角い包みを抱えている。

 ひと月半前に出席の返事をもらってから、会うのは初めてだった。


「ちゃんと眠れた?」

「それ、私から聞こうと思っていたのに」


 笑い合ってから、セラが包みを鏡台の脇に置いた。


「手紙に書いた靴、持ってきたわ。返すのが、こんなに遅くなってしまって」


 布の結び目がほどける。

 中には、私の平底の革靴が揃っていた。つま先の斜めの傷はそのままで、ほつれていた縫い目だけが、新しい糸で繕われている。

 招待状の返事には、あの靴を返しに伺います、と添えてあった。見覚えのある傷に触れたとたん、私は一年半前の冷たい床を思い出した。


 あの日、実家が手配した婚礼の支度部屋で、セラは片方の靴を履けずにいた。

 裾から覗く足が、靴の入口を探しては止まる。


「痛みますか」


 私が膝をつくと、彼女は首を横に振った。


「では、少し緩めましょうか」

「……履いたら、出ていかなければいけないでしょう」


 手にしていた靴を床に置いた。

 扉の外では、花を運ぶ人たちが行き来していた。


「私、結婚はしたくない」


 セラの声は、最後の音が消えそうだった。


「ここを出たら、行けるところはありますか」

「伯母の家。同じ町にいるの。困ったらおいでって……でも、今日いきなり行ってもいいのか、わからなくて」

「確かめましょう。住所を教えてください」


 紙に書いてもらい、伯母への言づてと一緒に使いを出した。

 待つ間、セラは何度も扉を見た。人が通るたびに背筋が伸びる。私は支度の途中という札を掛け、水を注いだ杯を、彼女の手が届くところへ置いた。


「あなたも叱られるわ」

「お水、飲めそうですか」


 彼女は杯を取り、一口だけ飲んだ。

 やがて戻った使いの手には、伯母からの短い返事があった。裏口を開けて待つ、すぐにおいで、とある。

 セラは紙の端を両手で持ったまま、声を出さずに泣いた。


 私は自分の給金袋を取り出し、馬車を頼んだ。御者に行き先を伝え、代金を渡すと、彼は裏通りに車を回してくれた。

 支度部屋に戻る途中、自分の荷物から予備の靴を出した。衣装合わせのとき、セラと足の大きさがよく似ていると話したことがあった。


「こちらを履いてみてください」

「あなたの?」

「ええ。紐で少し調節できます」


 彼女の指は冷えきっていた。私が片方を結ぶ間に、セラはもう片方を自分で結んだ。立ち上がり、床を二度踏みしめる。


「歩けるわ」


 裏口まで一緒に行くと、馬車の踏み段で彼女は振り向いた。


「これ、返しに来るから」

「落ち着いてからでいいんです」


 セラは紙を握ったまま、御者にも伯母の住所を告げた。馬車が角を曲がるまで、私は裏口に立っていた。


「ここの糸、革屋さんに直してもらったの」


 今、目の前のセラが、新しい縫い目を指した。


「勝手に直してしまったけれど、よかったかしら」

「嬉しいわ。ずっと気になっていたところだから」

「仕事の日にも履いていたら、とうとう切れかけて。返す前に、と思って」


 彼女の今の靴は、よく磨かれた茶色だった。裾を持ち上げて片足を見せてくれる。


「伯母の店のお給金で買ったの。最初のお給金ではなくて、四度目のね」

「最初は何を買ったの?」

「寝間着。店で勧められて、一番厚いのを。暑すぎて、秋まで仕舞ったままにしたわ」


 頬を緩めるセラの顔に、つられて私も笑った。

 私は返ってきた靴を自分の足元に揃えた。帰りに履くつもりで鞄に入れてきた靴より、踵の低い、よく馴染んだ一足だった。


「今日、式が済んだら履いてもいい?」

「もちろん。あなたの靴よ」


 当たり前の返事をされて、少し照れた。

 セラは包み布を畳んで片づけ、空いた手で私の両手を取った。


「今日は、おめでとうを言いに来られて嬉しい」

「……ありがとう」


 もう一言、呼び止める言葉が口まで上がった。

 けれど、扉の先の白い席札が目に入ると、続かなかった。


「客席で待っているわ。ゆっくり支度をしてね」


 私は頷き、セラを送り出した。


     *


 父の手紙は鏡台に伏せたままだった。

 その横には、エリクが二人分まとめて置いていった手袋がある。彼のほうに木屑が一つついていて、指で払うと床に落ちた。


 実家の婚礼の仕事を辞めたのは、八か月前。二人目の花嫁を帰した日の夜だった。

 父は帳面を開いて私の前に置いた。花屋への支払い、料理人の手配、貸衣装の費用。中止になっても払う金が、一行ずつ記されていた。


「これを誰が引き受けると思っている」


 数字を見てから、私は顔を上げた。


「だからって、結婚しないと言っている人を、祭壇へ連れてはいけないわ」

「お前が口を出すことじゃない。家同士で決まっていた話だ」

「本人が私に、助けてほしいと言ったの」


 父は帳面を閉じた。その音で、廊下にいた母がこちらを見た。


「客の意向に従えないなら、もうこの仕事は任せられない」

「……わかった。辞めます」


 父の手が帳面の上で止まった。

 私は前掛けを外し、畳んで机に置いた。紐を揃えるのに手間取って、もう一度畳み直した。


 残った仕事を引き継ぎ、預かり金と給金の精算を済ませて家を出た。仕立て店の採用が決まるまで、針仕事の見本を抱えて何軒も歩いた。

 今の店で初めて一着任せてもらえた夜、エリクと二人で菓子を一つ買った。半分にすると、彼のほうが少し大きくて、私が文句を言った。彼は笑って皿を交換した。

 そんな日を重ねて、今日の式の代金を二人で払った。


 手袋を手に取る。

 私はもう実家の帳場へ戻らない。そのことと、母に花嫁姿を見てほしいことが、どうしても一緒に片づいてくれなかった。


 廊下に、足音がした。

 顔が上がる。手の中から手袋が一枚、滑り落ちた。


「ニナ、待って。靴が脱げそうよ」


 扉に現れたのは、娘を追いかけてきたマルタだった。

 私は床の手袋を拾い、そのまま膝を折って、二人を迎えた。


     *


 ニナはマルタに靴の留め具を直してもらう間も、こちらを覗いていた。六歳の髪を結ぶ赤いリボンが、片方だけ上を向いている。


「リネットさん、本日はおめでとうございます」

「来てくれてありがとう。ニナも」


 名前を呼ばれると、ニナは母親の背中から半歩出た。


「おねえちゃん、ほんとの花嫁さんだ」

「ええ。どうかしら」

「きれい。……触ってもいい?」


 おずおずと伸びてきた指の先に、ドレスの裾の小さな刺繍があった。

 どうぞ、と布をつまんで見せると、ニナは花びらを一本の指でなぞった。


「これも縫ったの?」

「そうよ」

「ちっちゃい」


 すぐそばでマルタが笑った。

 その声を聞いて、私は八か月前に、彼女が同じ娘の前で声を抑えていたことを思い出した。


 二年あまり前に夫を亡くしたマルタは、再婚の支度をしていた。娘も一緒に暮らせると聞いて進めた縁談だった。

 ところが式の直前、相手の家から届いた言づてには、娘は親族に預けるように、とあった。


「お話が違います」


 私にそう告げるマルタの唇は白かった。

 足元にいたニナが、母親の袖を引いた。


「わたし、どこへ行くの?」


 マルタはその場にしゃがみ込んだ。


「一緒よ。お母さんと一緒」


 娘の背に手を置いたまま、私を見上げる。


「この結婚はやめます。姉に知らせたいのですが、人のいないお部屋を借りられますか」

「こちらへ。宛先を教えていただければ、使いを頼めます」


 空いていた支度部屋に案内し、近くに住む姉へ知らせを出した。

 迎えが来るまで、マルタは娘と長椅子に並んでいた。ニナが握りしめて皺になった袖を、彼女はときどき、上から撫でた。

 姉が息を切らして入ってくると、マルタは立ち上がった。張り詰めていた肩が一度だけ大きく揺れた。

 私は扉を押さえ、姉と娘に両側から手を繋がれた彼女を見送った。


「リネットさん?」


 呼ばれて顔を上げると、マルタが小さな花束を差し出していた。


「大きいものだと、お荷物になると思って」

「私もえらんだの」


 ニナが母親の言葉に重ねた。

 庭に咲くような白と黄の花が、細い布で結ばれている。受け取ると、甘い匂いがした。


「どの花を選んでくれたの?」

「きいろいの。白いのは、おかあさん」

「二人で作ってくれたのね」


 ニナは満足そうに頷いてから、急にマルタの袖を引いた。


「おかあさん、おなかすいた」

「だから朝、もう少し食べておきなさいって言ったでしょう」


 私は思わず花束で口元を隠した。ついさっき、自分も似たことを言われたばかりだった。

 マルタは気恥ずかしそうに笑い、鞄の中を確かめた。


「姉の家を手伝うようになってから、朝はいつもこんな調子です。出かける前に、あれがない、これがないって」

「リボンはあったもん」

「そうね。リボンは枕の下にあったわね」


 母親が赤いリボンの傾きを直すと、ニナは肩をすくめた。

 八か月前、あの子の問いに返事をした声と、今のマルタの声を、私はしばらく耳の中で聞いていた。


「式の間は、お母さんのお隣で待てる?」


 私が聞くと、ニナはマルタの手を握った。


「うん」


 二人を見送り、私は花束を鏡台に置いた。母親と娘が客席に落ち着くまで、扉は開けたままにした。


     *


 司式者が、準備は整いました、と知らせに来た。

 その後ろにエリクもいた。彼は私のそばの椅子を少し引いて、座っていいかと聞いた。


「あと五分だね」

「ええ」


 返事をしたあとで、私は鏡台の時計に目をやった。

 エリクの膝の上には、受け取ったばかりの手袋が重ねてある。


「少し待ちたい?」

「平気よ。私はもう――」


 先を急いだ声が、途中で止まった。

 エリクは手袋を脇へ置き、椅子ごとこちらへ向いた。


「……わからないの」


 言ってしまうと、息が少し通った。


「待っても、来ないと思う。でも、式を始めたら、本当に来なかったことになるでしょう」

「うん」

「準備をしている間は、まだ少しだけ……」


 鏡台の縁に置いた手の隣へ、彼の手が来た。私は小指を触れさせた。


「あの二人を呼ぶのをやめたいわけじゃないの。ただ、私にもおめでとうって言ってほしかった」


 母が結んでくれた髪も、店の仕事を初めて任されたときの父の顔も、思い出せる。

 それを話そうとすると、喉が詰まった。

 エリクは私の指を握り、少し待ってから言った。


「俺も今日、君と結婚したい」


 彼を見る。


「今朝、工房の前を通ったら、もう皆こっちに向かってた。親方に、お前は遅れるなよって言われた」

「あなた、いつも早いのに」

「そう。だから今朝も早く来た。君の顔を見たかったし」


 彼は私の指から自分の手に視線を落とした。


「こんなに緊張すると思わなかった」

「さっきは、よく喋っていたわ」

「あれで全部使ったかもしれない」


 笑うと、鼻の奥が痛くなった。

 彼の上着の襟元には、私が縫い留めた小さな飾りがある。三日前、試着してもらいながら、式が終わったら外すのが惜しいと話したものだった。

 エリクはもう今日の支度をして、私の隣に座っている。


「十一時になったら、始めましょう」


 私は握った手に力を込めた。


「私も、今日あなたと結婚したい」

「うん」


 彼の肩が、ようやく下がった。

 指をほどく前に、私はその手の甲に唇を触れさせた。エリクが目を丸くする。


「今、それをするのか」

「あとで何も言えなくなるんでしょう。私も、今のうちに」


 彼は顔を伏せて笑い、立ち上がった。

 司式者に予定どおりでお願いしますと伝える声が、廊下から聞こえた。


 私は手紙を折り畳み、鞄に入れた。手袋をつけ、マルタとニナからもらった花束を手に取る。

 廊下へ出る前に、鏡を見た。

 挿し直したピンは、少しだけ頭皮に当たっていた。指で角度を変えると、すっと楽になった。


     *


 十一時の鐘が鳴った。

 礼拝堂の入口に立つと、振り向いた人たちの衣擦れが広がった。

 工房の職人たち。仕立て店で隣の台を使う人。右の最前列にはエリクの両親がいて、彼の母親が胸元で小さく手を振った。

 祭壇の前で、エリクが待っている。


 私は通路を進み、左の最前列で止まった。

 長椅子には、父と母の席札があった。

 自分で名前を書いたときのことを覚えている。母の名の最後の一文字を少し大きくしてしまって、二枚目を書こうか迷った。

 指先を添え、二枚を持ち上げる。


 お父さんにきちんと謝って、私たちが出席できる式にしてください。


 今なら、まだ扉まで見通せた。

 閉じた扉の前には、係の人が一人立っている。私が目を向けると、こちらへ歩いてきた。


「お預かりしましょうか」


 差し出しかけた手が、一度止まった。

 花束を抱き直す。黄色い花が、白い花の間から一本飛び出していた。

 私は二枚の札を揃え、係の人の手に渡した。


「お願いします。あとで持ち帰ります」


 札が長椅子からなくなると、木目に沿って差し込む光が見えた。

 背後で誰かが身じろぎをした。何も置かれていない席の前に立つ自分が、急にひどく目立つように思えた。

 口を開きかける。親が来ない理由から話し始めれば、声は出せそうだった。

 けれど、私は客席の後ろにいる二人を探した。


「セラ。マルタ」


 声は、思っていたより小さかった。

 それでも、二人とも顔を上げた。


「ここへ来てくれる?」


 手の空いているほうで、長椅子を示す。


「一番近くで、見ていてほしいの」


 セラは立ちかけて、座面から少し腰を浮かせたまま止まった。目が、私と長椅子の間を行き来する。


「私が、そこに?」

「ええ。あなたに」


 セラの唇が動いたが、すぐには声にならなかった。

 マルタが娘の手を取って立つ。


「ニナも一緒で、よろしいですか」

「もちろん。三人で来て」


 ニナは母親を見上げてから、私のほうを見た。マルタが頷くと、握っていた手を引いて一歩出る。

 その後ろから、セラも通路に出てきた。

 私は花束を持ったまま待った。マルタの裾を踏まないように歩くニナと、その足元を確かめながら歩幅を緩めるセラが、少しずつ近づいてくる。


「ここでいい?」


 長椅子の前で、セラがもう一度聞いた。


「そこがいいの」


 答えると、彼女はゆっくり頷いた。

 マルタが奥へ詰め、ニナが隣によじ登る。セラも腰を下ろすと、三人掛けにはゆったりした長椅子に、ドレスの裾が並んだ。

 ニナが足を揺らし、マルタがその膝に手を置く。セラは膝の上で握っていた手をほどいた。


「呼んでくれて、ありがとう」


 顔を上げたセラが言った。

 私は返事の代わりに、一度だけ深く頷いた。何か言おうとしたら、今は泣いてしまいそうだった。


 祭壇へ向き直ると、エリクがこちらを見ていた。

 私は彼の隣まで歩き、花束を係の人に預けた。手袋も外して重ねると、エリクも自分の手袋をその隣へ置いた。


「待たせたわね」

「うん。来てくれて嬉しい」


 いつもの声で言われて、今度は笑えた。


     *


 司式者が、あらかじめ届けてある二人の名を確かめた。

 リネット、と呼ばれて返事をする。隣でエリクが背筋を伸ばす音まで聞こえる気がした。


「これからの日々を共に暮らし、互いを大切にすることを誓いますか」

「誓います」


 エリクの声は少し掠れていた。

 私も誓いますと答えた。考えてきた言葉を添えようとして、一度、息を吸う。


「帰ってきたら、一緒に食卓を囲みたいです。嬉しかったことも、うまくいかなかったことも、あなたに話したい」


 最後は司式者ではなく、エリクを見ていた。

 彼は私を見返し、それから前へ向き直った。


「俺も話します。黙って考えているうちに、先に心配をさせることがあるので」


 工房の誰かが小さく笑った。エリクも苦笑した。


「二人のことは、二人で相談して決めていきます」


 私は、隣にある手を指先で握った。

 司式者が穏やかに頷き、指輪の載った盆を差し出した。


 エリクは私の指輪をつまんだが、指に通す直前に持ち替えた。

 小さな輪が揺れている。


「細かいものは得意でしょう」


 私が小声で言うと、彼も小声で返した。


「普段のは、こんなに皆に見られていない」


 笑った拍子に私の肩が動き、余計に指輪が入らなくなった。


「ごめんなさい。止まっているわ」


 腕の力を抜いて差し出す。エリクは一度息をつき、今度はゆっくり、私の指に輪を通した。

 彼の指輪を取るときは、私のほうも指が震えた。彼が掌を下から添え、二人の手で落ち着かせる。

 節を越えた指輪が収まった。大きな手の中に、見慣れない銀色が光った。


「入りましたね」


 司式者の言葉に、客席から笑いがこぼれた。

 エリクが私のベールを上げる。留めたピンに引っ掛けないように、布の端を慎重に持ち上げる手つきがおかしくて、私はまた笑いそうになった。


「そんなに笑うと、難しいんだけど」

「待って。今、ちゃんとするから」


 けれど唇が触れると、笑いは止まった。

 すぐ目の前に彼がいて、指輪をした手が私の手に重なっていた。


 結婚を告げる声に続いて、拍手が起こった。

 左の最前列で、ニナが母親を真似て小さな手を打ち合わせている。マルタは私と目が合うと、笑って頷いた。

 セラは目元を指で押さえてから、両手を合わせた。私が見ていると気づくと、泣いているのを見つかった子どものように笑った。

 エリクの父親が立ち上がり、隣の母親も続いた。後ろの職人たちから、おめでとう、と声が飛んだ。


「おめでとう、リネット」


 すぐ隣からも、聞こえた。


「あなたもよ、エリク」


 答えると、彼は指輪のある手を見て、嬉しそうに笑った。


 式が終わって控室へ戻り、私は礼装の靴を脱いだ。

 革が触れていた足の脇に、赤い跡がついている。持参した履き替えを鞄の奥へ寄せ、セラが返してくれた靴に足を入れた。

 踵がすっと収まった。紐を引くと、履き口が足に沿って閉じる。

 つま先の傷を親指でなぞり、立ち上がった。


「そっちにする?」


 入口で待っていたエリクに、ええ、と答える。


「歩いて帰りたいわ」

「遠回りしても?」

「お腹がすいたから、少しだけね」


 彼が笑って腕を差し出した。

 礼拝堂の外では、ニナが見送りの花びらを両手に持っていた。私たちを見ると張り切って振り上げ、半分を自分の頭にかぶった。

 マルタが慌てて払おうとする。ニナが逃げ、セラがしゃがんで受け止めた。

 笑い声の間を、私たちは並んで通った。

 段差を下りるとき、エリクの腕につかまる。平らな石畳に着いてからも、そのままで歩いた。


     *


 挙式から三日後、父から手紙が届いた。

 食卓に広げると、親戚から欠席の理由を尋ねられたことが、最初に書かれていた。

 続いて、実家で改めて披露の席を設ける、日取りを知らせなさい、とある。

 最後に、あの二人は呼ばないように、と。


 私はもう一枚あるのかと便箋を裏返した。

 白かった。

 結婚おめでとう、という言葉を探していたのだと気づいて、しばらく、その白い紙を見ていた。


 引き出しから便箋を出す。


『私たちの結婚式は、無事に終わりました。

 二人を招かないという条件で、改めて披露の席を設けることはいたしません。』


 そこまで書いて、読み直した。

 翌日からの仕事のことを書こうか迷ったが、ペンを置いた。封筒を閉じ、父の名を記す。


「返事を書いてたのか」


 帰ってきたエリクが、上着を椅子の背に掛けた。

 私は手紙の内容と、自分が書いた返事を話した。


「披露の席には、行かないわ」

「わかった。明日出す?」

「仕事の前に」

「なら、一緒に出よう。俺も早めに工房へ行く」


 私は封筒を、玄関脇の棚へ置いた。

 棚の下には、磨き直された平底の靴と、木屑のついたエリクの仕事靴が並んでいた。


     *


 その晩は、煮込みに入れた芋が少し崩れた。

 私が鍋からよそうと、エリクはパンで皿を拭うようにして、最後まで食べた。


「次も、これがいい」

「次はもう少し早く火を止めるわ」

「このくらいが好きなんだけど」


 意外で顔を見ると、彼は鍋の残りを気にしていた。私は鍋ごと彼のほうへ寄せた。

 食べ終えた皿を重ね、エリクが洗い場へ立つ。

 私も腰を上げかけたが、一日じゅう立ち仕事だった足が重かった。


「今日は、そっちをお願いしてもいい?」

「うん。お茶の葉は、上の缶?」

「そう。私は薄めにして」


 椅子へ座り直すと、ようやく足の裏が休まった。

 小さな食卓には、花束の黄色い花が一輪、まだ残っている。ニナが選んだ花だ。水を替えるために瓶を持ち上げかけて、明日の朝にしようと戻した。


「次の休み、東通りのパン屋へ行かない?」


 水音のする背中へ呼びかける。


「ミートパイが食べたいの。それから布地市にも」

「賛成。ただ、工房に寄ってもいいか。届く木材を見たい」

「見るだけ?」


 エリクの手が一瞬止まった。


「……並べるのも、少し」

「前の『少し』は、昼までかかったわ」

「じゃあ、帰りにする。朝は先にパン屋」

「それなら私も、帰りに付き合う」


 彼が笑って、また皿を洗い始めた。

 窓に映る自分の髪に目が留まる。今日は簡単に束ねただけで、短い毛が頬に落ちていた。

 母に見られたら、櫛を持ってこいと言われるだろうか。

 式の日、自分で挿したピンの感触を思い出す。指で髪を耳に掛け、玄関の棚にある封筒へ、目を向けた。


「リネット、薄すぎたら言って」


 食卓にカップが置かれた。

 エリクが向かいに座ると、膝が軽く当たった。


「また脚を伸ばしてる」

「これでも縮めてる」


 私は自分の足を少しずらし、彼の場所を空けた。

 お茶を一口飲む。頼んだとおり、薄くて飲みやすかった。


「ちょうどいいわ」


 カップを置き、私は続きを話した。


「パン屋ではね、持ち帰りじゃなくて、窓際に座りたいの」


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


リネットたちの物語は、この短編でひとまず完結です。


もし長編として読むなら、皆さまはどのお話に興味がありますか?


・リネットとエリクが出会い、結婚を決めるまで

・セラとマルタが、それぞれの暮らしを取り戻すまで

・結婚式の後、二人が仕事や日々の小さな悩みを分かち合う新婚生活


「この人の話をもっと読みたい」「短編の余韻が好き」など、率直なお気持ちを感想で教えていただけたら嬉しいです。

長編化を考える際の参考にさせていただきます。

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