交換日記
昭和の通信手段は電話。一家に一台の固定電話でした。
夕暮れの寒風を切り裂いて、私は愛車のヤマハ・パッソルを走らせていた。
カウルに貼り付けたYMOとゲルニカのステッカーが、街灯の光を反射してキラリと光る。
お気に入りでデコった私の愛車。でもさすがに寒さにはかなわない。
ボリュームたっぷりのソバージュヘアをヘルメットに押し込み、マフラーを鼻まで巻いていても、
冬の夜風は容赦なく体温を奪っていく。
授業が終わったら学校の図書室に直行。志望校である京都の大学の赤本と格闘。
17時に下校して国道沿いのファミレスで息つく暇もなくウェイトレスのアルバイト。
自称・優等生の理系女子である私の毎日は、分刻みのスケジュールで動いている。
社宅の駐輪場にパッソを停め、隣で将棋倒しになっていた社宅の子どもたちの自転車を「よいしょ」と直して並べ替える。
校則違反のパーマ頭と原付を乗り回しているせいで、学校や周囲からは「筋金入りの不良」なんて白眼視されているけれど、私はただ、髪のセットや移動にかかる時間を有効活用したいだけの至って真面目な17歳なのだ。
階段を上り、社宅の我が家のドアを開ける。
「ただいまー……」
冷え切った体と、D判定の模試結果に気持ちが塞ぐ。
(あーあ、こんなとき、マサくんの声が聞けたら一発で元気になれるのになぁ……)
文化祭で出会った、京都の大学生の彼。
小柄で浅黒い肌につり目、笑うと並びのよい真っ白な歯に思わず目が眩んでしまう、爽やかイケメンのマサくん。
後夜祭で恥も外聞もなく私から猛アタックし、マサくんはクリスマス前に彼女と別れて、晴れて私とおつきあいを開始した。私にとって生涯唯一の戦利品だ。
その時、居間の黒電話が、リ-ン!リーンと鳴り響いた。
時計を見ると、夜の10時を回っている。
電話の側に座り込んでTVを見ていたお母さんが受話器を取った。
「はい、もしもし……あら、こんばんは。ちょっと待ってね。――よしこ! ビルマから電話!」
「えっ!?」
私はカバンを床に放り出し、お母さんから受話器をひったくるようにして耳に当てた。
「もしもし! マサくん!?」
『……え? よしこ? 今、お母さん、ビルマから電話って言わへんかった?』
受話器の向こうから聞こえたのは、待ち焦がれた彼の声。
けれど、そのトーンは心なしか低く、ひどく困惑しているようだった。
『ビルマって何や。どないなってんねん』
「あ……」
やってしまった、と思った。
我が家では、お母さんが「あの風貌はビルマ人みたいやな」と評して以来、
マサくんのあだ名は「ビルマ」で定着している。
まったく、お母さんてば、変な渾名を付けんといてほしいわ。
しかも本人に筒抜けになるなんて。
「あ、いや! お母さんの言い間違いや……!」
『いや、絶対言うたで。「ビルマから電話」って。俺の名前、ヒロマサやん。
どこでどう言い間違えたらビルマになるねん。何か他に意味あるんちゃうんか?』
マサくんの声が、どんどん神経質に尖っていく。
普段は優しい彼なのに、学生運動の団体活動で神経をすり減らしているせいだろうか。
せっかくマサくんが社宅まで来てくれても、1階に住む意地悪な寮母さんも、
「よしこちゃんを変な活動に巻き込まんとって」と
見かけるたびに塩をまく勢いで追い返すそうだ。
「そんなんちゃうって、ただの言い間違いや――」
『納得いかんな。何隠してんねん。俺、
そういう政治家みたいに誤魔化されるんが一番嫌いやねん』
会話は完全に空回りし、険悪な沈黙が流れる。
納得いかないことは、とことん突き詰める。
私はマサくんのそういうところをリスペクトしているが、
時々、面倒くさい。
その時だった。
「おい! 今、何時かわかっとるんか。」
突然、背後から地を這うような怒鳴り声が響いた。
振り返ると、パジャマの上にモコモコのガウンを着たお父さんが、般若顔で仁王立ちしている。
そして私から受話器を奪い取り
「高校生の娘に電話していい時間ちゃうやろ!常識のない、ええ加減にせえ!
二度と電話してくんな」
お父さんは言いたいことだけ言って、受話器をそのまま黒電話のフックに叩きつけた。
「お父さん! 何すんねん!」
「うるさい! 馬鹿娘。さっさと寝ろ!」
私は悔しさと悲しさで涙が溢れそうになる。
自室に駆け込んでベットに飛び込みたいところだが、
2DKの社宅には自分の部屋も、ベットも無い。
最悪だ。
せっかくのマサくんからの電話だったのに。
ろくな会話もできないまま、二度と電話してくんなって。
本当にかかってこなくなったら、お父さんのこと、一生恨んでやる!
とりあえず連絡方法を何か考えないと。
学生運動の活動が忙しいマサくんと、勉強とアルバイトに忙しい私が
電話で話すとしたらどうしてもこの時間になってしまう。
でもこの時間は確実にお父さんがいるので、
かかってきたら問答無用で切るだろう。
途方に暮れて机の引き出しを開けると、鍵付きの小さなノートが。
去年のクリスマスにアルバイト先の先輩から貰ったものだけど、
日記を書く習慣がないので、そのまま引き出しに入れっぱなしだった。
電話がダメなら、文字で伝えればいい。
お互いの家は少し離れているけれど、郵送か、あるいは
彼がこっちに来るときに手渡せばいい。
これならお父さんに怒鳴られることも、誰かに聞き耳を
立てられることもない。
私とマサくんだけの、秘密の通信。
『マサくんへ。さっきはごめんね。お父さんが怒って切っちゃいました。
実は、話したいことがたくさんあります――
まず、さっきの電話のビルマについて。。。』
1984年、2月。
私とマサくんの「交換日記」は、こうして始まった。
(よしこが彼の「二股」や「本命の存在」に気づくのは、もう少し先のお話――)
実話を元にした覚え書きです




