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三年前に『馬鹿じゃないの』と言った相手が嫌いだったので、気づいても黙っていた

掲載日:2026/06/06

 


 カタカタとキーボードを叩き、別窓で開いたメールを読みながら、空室のマス目を埋めていく。


 ルーティン化した作業の手が、ある一件のメールでぴたりと止まった。


「……あれ?」


 予約は5月1日、2日、3日、29日、30日。


 思わず画面を見直す。


(うっかりしたんだな)


 すぐに上へ報告して確認しなければならない。早くしないと部屋が埋まってしまう。


 そう思ったところで、備考欄の文字が目に飛び込んできた。


『大海案内所のKさん扱い』


 途端に胃のあたりがきりりと冷たくなる。


 わたしはキーボードからそっと手を離した。


 画面を見つめたまま心の中でつぶやく。


(わたし、この人は嫌いだ)


 会ったことはない。


 ただ三年前、一度だけ電話で話した。


 それだけで心の底から嫌いになった。


 三年前、新卒でこの部署に配属されたばかりのころだった。


 まだPC操作に慣れておらず、今よりもずっと電話でのやり取りが多かった。


 コール音が鳴り、緊張しながら受話器を取る。


 用件自体は何の変哲もない内容で、無難に終わるはずだった。


 けれど通話の最後、相手は名乗った。


『――で、ダイアンのKです』


 ダイアン。


 聞き慣れない響きに思考が止まる。


「ダイアン……?」


『はい、ダイアンです』


「失礼ですが……ダイアンというのは、どのような……」


『だから、ダイアン!』


 受話器の向こうの、あからさまにいら立った声に心臓が跳ねた。


「少々お待ちくださいませ……!」


『ちょっと、何言ってるの! ダイアンよ、ダイアン!』


 半泣きになりかけたわたしの様子を察したのだろう。


 隣の先輩がさっと一枚のメモを差し出してくれた。


 そこには殴り書きで『大海案内所』と書かれている。


「あっ……かしこまりました。大海案内所のK様ですね」


『最初からそう言ってるでしょ。馬鹿じゃないの』


 心臓が嫌な音を立てた。


 ボールペンを持つ手が緊張で震える。


「申し訳ございません……」


『あやまればいいってものじゃないでしょ』


 そんな言葉の暴力を何度かぶつけられ、ようやく通話が終わった。


 受話器を置いたときには、手が小刻みに震えていた。


 先輩が申し訳なさそうな顔で肩を叩く。


「ごめんね。この人、ちょっとうるさい人だから……。略称を教えてなかったわたしが悪かったわ。うちの社内では、大海案内所を『大案ダイアン』、名津山案内所を『名案メイアン』って呼ぶの」


 確かに知らなかったわたしが悪い。


 けれど、今でも思う。


 あのとき、『大海案内所のことです』


 と一言言ってくれれば、それで済んだ話だった。


 それを新人の無知を責めるように、


『馬鹿じゃないの』


 と吐き捨てたあの声。


 逆恨みと言われたら否定はしない。


 けれど、先回りして気を使う必要もない。


 メールにはしっかり日程が書かれている。


 わたしはそのまま予約表のマス目を埋めた。


 そして問題の日、どうやら運よく当日キャンセルが出たらしい。


 フロントの肝を冷やしながらも、部屋が準備出来て、お客様は全員何の問題もなく宿泊できた。


 その後、こちらから大海案内所へ問い合わせを行った。


 調べた結果、KはまだPCに慣れておらず、タイピングにも不慣れだったらしい。


 ようやく送ってきたメールだったという。


 そして、あちらの予約台帳には、4月29日からの連泊として記載されていたそうだ。


 デスクで報告書を眺めながら、わたしはお気に入りのマグカップに口を付ける。


 ふう、と息を吐いた。


 心の中に沈んでいた小さな澱みが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。









いつも読んでいただきありがとうございます!


誤字、脱字を教えていただくのもありがとうございます。

とても助かっております。

楽しんでいただけましたら、ブックマーク・★★★★★をよろしくお願いします。

それからもう一つ、ページの下部にあります、「ポイントを入れて作者を応援しよう」より、ポイントを入れていただけると嬉しいです。

よろしくおねがいします。


書籍を出すことができました。

挿絵(By みてみん)




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