三年前に『馬鹿じゃないの』と言った相手が嫌いだったので、気づいても黙っていた
カタカタとキーボードを叩き、別窓で開いたメールを読みながら、空室のマス目を埋めていく。
ルーティン化した作業の手が、ある一件のメールでぴたりと止まった。
「……あれ?」
予約は5月1日、2日、3日、29日、30日。
思わず画面を見直す。
(うっかりしたんだな)
すぐに上へ報告して確認しなければならない。早くしないと部屋が埋まってしまう。
そう思ったところで、備考欄の文字が目に飛び込んできた。
『大海案内所のKさん扱い』
途端に胃のあたりがきりりと冷たくなる。
わたしはキーボードからそっと手を離した。
画面を見つめたまま心の中でつぶやく。
(わたし、この人は嫌いだ)
会ったことはない。
ただ三年前、一度だけ電話で話した。
それだけで心の底から嫌いになった。
三年前、新卒でこの部署に配属されたばかりのころだった。
まだPC操作に慣れておらず、今よりもずっと電話でのやり取りが多かった。
コール音が鳴り、緊張しながら受話器を取る。
用件自体は何の変哲もない内容で、無難に終わるはずだった。
けれど通話の最後、相手は名乗った。
『――で、ダイアンのKです』
ダイアン。
聞き慣れない響きに思考が止まる。
「ダイアン……?」
『はい、ダイアンです』
「失礼ですが……ダイアンというのは、どのような……」
『だから、ダイアン!』
受話器の向こうの、あからさまにいら立った声に心臓が跳ねた。
「少々お待ちくださいませ……!」
『ちょっと、何言ってるの! ダイアンよ、ダイアン!』
半泣きになりかけたわたしの様子を察したのだろう。
隣の先輩がさっと一枚のメモを差し出してくれた。
そこには殴り書きで『大海案内所』と書かれている。
「あっ……かしこまりました。大海案内所のK様ですね」
『最初からそう言ってるでしょ。馬鹿じゃないの』
心臓が嫌な音を立てた。
ボールペンを持つ手が緊張で震える。
「申し訳ございません……」
『あやまればいいってものじゃないでしょ』
そんな言葉の暴力を何度かぶつけられ、ようやく通話が終わった。
受話器を置いたときには、手が小刻みに震えていた。
先輩が申し訳なさそうな顔で肩を叩く。
「ごめんね。この人、ちょっとうるさい人だから……。略称を教えてなかったわたしが悪かったわ。うちの社内では、大海案内所を『大案』、名津山案内所を『名案』って呼ぶの」
確かに知らなかったわたしが悪い。
けれど、今でも思う。
あのとき、『大海案内所のことです』
と一言言ってくれれば、それで済んだ話だった。
それを新人の無知を責めるように、
『馬鹿じゃないの』
と吐き捨てたあの声。
逆恨みと言われたら否定はしない。
けれど、先回りして気を使う必要もない。
メールにはしっかり日程が書かれている。
わたしはそのまま予約表のマス目を埋めた。
そして問題の日、どうやら運よく当日キャンセルが出たらしい。
フロントの肝を冷やしながらも、部屋が準備出来て、お客様は全員何の問題もなく宿泊できた。
その後、こちらから大海案内所へ問い合わせを行った。
調べた結果、KはまだPCに慣れておらず、タイピングにも不慣れだったらしい。
ようやく送ってきたメールだったという。
そして、あちらの予約台帳には、4月29日からの連泊として記載されていたそうだ。
デスクで報告書を眺めながら、わたしはお気に入りのマグカップに口を付ける。
ふう、と息を吐いた。
心の中に沈んでいた小さな澱みが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。




