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【シリーズ】亡き姉が残した「生後8ヶ月」の娘を引き取った俺と家族になってくれませんか?

私の世界の中心も、ずっとあなただったから。

作者: 文月ナオ
掲載日:2026/02/12


 二月の冷たい夜風が、マフラーの隙間から入り込んで首筋を撫でた。


「お疲れ様でしたー!」


 同僚の先生たちと挨拶を交わし、保育園の門を出た私は、思わず身をすくめた。


 来週はいよいよバレンタインデーだというのに、今年の冬は例年よりも寒さが厳しい気がする。


 冷え切った両手をこすり合わせ、白い息を吐き出した、その時だった。


「お疲れ、陽菜」


 暗がりから、ふいに温かく、低い声が聞こえてきた。


 驚いて顔を上げると、少し離れた場所に停まっている黒いセダンの横に、見慣れた長身のシルエットが立っていた。


 街灯の光を反射して、銀縁の眼鏡がキラリと光る。


「奏太くん!」


 有馬(ありま)奏太(かなた)


 私の幼馴染であり、現在は都内の法律事務所で働く若手弁護士だ。


「どうしたの? こんなところで」


 私が駆け寄ると、彼は少しだけ眉を下げて、困ったように優しく微笑んだ。


「どうしたの、じゃないでしょ。……今日、遅番だって言ってたから、迎えに来たんだよ」


「えっ? わざわざ?」


「うん。冷えるでしょ。ほら、早く乗って」


 奏太くんはそう言って、助手席のドアを開けてくれた。


 スマートなエスコートに、胸の奥がトクンと鳴る。


「ありがとう。……でも、奏太くんだって仕事帰りなんでしょ?」


 彼が着ているのは、仕立てのいいストライプのネイビースーツだ。


 ネクタイは少し緩められているけれど、一日中難しい書類と睨み合っていた疲労が、その端正な横顔にうっすらと滲んでいる。


「俺は全然疲れてないよ。……ほら、足元冷えるから」


 彼は助手席に私を座らせると、ふわりと温かいブランケットを私の膝に掛けてくれた。


 車内は暖房が効いていて、心地よい温かさに包まれている。


 そして、彼特有の清潔なシトラスの香りが、優しく鼻をくすぐった。


「はい、これ」


 シートベルトを締めようとした私の手に、温かい紙コップと、小さな可愛い紙袋が押し当てられた。


「ん? なにこれ」


「ホットココア。あったまるから。それと……駅前のショコラティエで買ってきた、バレンタイン限定のボンボンショコラ」


「ええっ!?」


 私は思わず声を上げた。


「これ、予約しないと買えないやつじゃん! 仕事帰りにフラッと買えるわけないよ!」


「……たまたま昼に外出した時、キャンセル分が出たとかで売ってたんだよ。陽菜、チョコ好きでしょ? 疲れてるみたいだったから、甘いもの食べて少しでも休んでよ」


 奏太くんは前を向いたまま、少しだけ早口で答えた。


 でも、私は知っている。


 彼はそんな偶然に頼るような人じゃない。


 きっと、わざわざ私のお気に入りのお店をチェックして、昼休みの貴重な時間を削って、私のために買ってくれたんだ。


「……ありがとう、奏太くん。すっごく嬉しい」


 私がココアを両手で包み込むようにして微笑むと、彼は「どういたしまして」と小さく呟いて、車を発進させた。


 ココアが甘くて美味しい。


「美味しい」


「良かった」


 彼は微笑んで自分の飲み物を飲む。


「それ、ブラック?」


「うん。陽菜も飲む?」


「……飲めないの知ってるくせに」


「はは。苦いの駄目だもんな」


「……レナおばさんに、似ちゃったかなぁ」


 レナおばさん。


 私の大好きな人。


 お父さんの妹で、今はアメリカの超大手の企業の部長をしてる。


 私の憧れの人。


「あの人、バリバリのキャリアウーマンでエスプレッソとか飲んでそうなのに」


「え〜? どんなイメージ?それ」


 他愛もない会話で、笑い合える関係性。


 それが私と、彼。


 元から知り合いだった彼と私の両親。


 私の養子縁組をした時に久しぶりに会って、また意気投合。


 それからというもの、すっかり仲良しで、その影響もあって物心ついた頃から私は奏太くんと一緒にいて。


 それが、当たり前みたいな存在。


 安心できる……大好きな人。



 ◇◆◇



 滑り出した車窓から、夜の街のネオンが流れていく。


 温かい車内と、隣にいる彼の存在。


 それだけで、一週間の疲れが嘘のように溶けていく気がした。


 奏太くんは、いつもこうだ。


 私が疲れていると、何も言わなくても迎えに来てくれる。


 私の好物を完璧に把握して、先回りして用意してくれる。


 言葉は多くないけれど、その行動の一つ一つが、お姫様を扱うように優しくて、丁寧だ。


 でも。


「……ねえ、奏太くん」


「ん?」


「あのさ、来週の土曜日って……空いてる?」


 私は、膝の上のチョコレートの箱を見つめながら、思い切って口を開いた。


 来週の土曜日。


 2月14日。


 バレンタインデーの当日だ。


 実は、彼に渡すための手作りチョコの材料を、もう買ってある。


「土曜? ああ、今のところ仕事の予定は入ってないけど」


「本当!? じゃあさ、水族館、一緒に行かない?」


 信号待ちで車が停まる。


 私は彼の方を向き、期待を込めて見つめた。


「す、水族館?」


「うん! クラゲのイルミネーション展示がすごいらしくて。……ずっと、行きたいなって思ってたんだ」


「ク、クラゲ……」


 二人きりで。


 バレンタインのデートとして。


 その言葉は、恥ずかしくて口に出せなかったけれど、私の意図は伝わっているはずだ。


 奏太くんは一瞬、目を丸くして私を見た。


 そして、なぜかスッと視線を逸らし、ハンドルの上で指をトントンと叩き始めた。


 その耳の先が、少しだけ赤くなっているような気がした。


「……ごめん」


「え?」


「その日は……ちょっと外せない用が入るかもしれない」


「……そうなの?」


「うん。……そ、その、ちゃんと準備しておきたいことがあってさ」


 奏太くんは、申し訳なさそうに、バツが悪そうに言葉を濁した。


「そ、そっか。仕事だもんね、仕方ないよね! ごめんね、急に誘っちゃって」


「ちなみに陽菜は……その日、なんか他に予定とか、入れたりする?」


「えっ? ……どうかなぁ……。多分、何の予定も入れないかな」


 私は慌てて笑顔を作り、前を向いた。


「……そ、そっか。……ごめん。でも、絶対に連れて行くから」


「うん。また、今度、ね」


 青信号になり、車が再び走り出す。


 車内には、気まずい沈黙が降りた。


(……断られちゃった)


 膝の上のチョコレートの箱が、急に重たく感じられた。


 奏太くんは、昔は私のことを「陽菜ちゃん」と呼んで、私の後ろをくっついて歩く可愛い男の子だった。


 いつの間にか背も抜かされて、難しい試験にあっさりと合格して、立派な大人の男になってしまった。


 そして今では、私を完全に「手のかかる幼馴染」か「守るべき相手」のように扱ってくる。


 こうやって送り迎えをしてくれたり、甘やかしてくれたりするのは、幼馴染としての「保護者」の延長でしかないのだろうか。


 こんなに優しくしてくれるのに。


 肝心な一歩は、決して踏み込んできてくれない。


(……私、手作りチョコ、どうしよう……)


 窓ガラスに映る自分の顔は、情けないくらいに落ち込んで見えた。




 ◇◆◇




 翌日。


 私は実家のリビングで、クッションを抱えながら深いため息をついた。


「……はぁぁぁぁぁ」


「ため息つくと、幸せが逃げるんだってさ?」


 キッチンから、お母さんが、コーヒーのいい香りと一緒にリビングにやってきた。


「何かあったの? 陽菜」


 お母さんは、テーブルにコーヒーカップを置きながら、優しく微笑みかけてくる。


 私はクッションに顔を埋めたまま、くぐもった声で答えた。


「……奏太くんに、デート断られちゃった」


「えっ!? 誘ったの!?」


 お母さんが目を丸くして、私の隣に座り込んだ。


「うん。来週の土曜日……バレンタインだから、一緒に水族館行かないって誘ったのに。準備があるからって、断られちゃった」


 私は体を起こし、昨日の夜の出来事をポツリポツリと話し始めた。


 曖昧な理由で断られたこと。


 最近、なんとなく一定の距離を置かれているような気がすること。


「……私、ずっと子供扱いされてるのかなって。数ヶ月年上のくせに頼りないから、ただの『世話の焼ける幼馴染』としか思われてないのかな」


 言いながら、また悲しくなってきて、コーヒーの湯気を見つめた。


「チョコ、渡したかったのにな……。奏太くん、弁護士になってからすごく忙しそうだし、私みたいな子供っぽい幼馴染に構ってる暇、ないのかも」


 弱音を吐く私を見て、お母さんは少しだけ考え込み、それから、ふふっと小さく笑い出した。


「え? お母さん、なんで笑うの?」


「ごめんごめん。……ふふ、似てるなぁと思って。優真(ゆうま)と」


「え? お父さんと?」


 私はリビングの奥にある書斎の扉をチラリと見た。


 今日はお父さんは、書斎にこもって仕事の資料作りをしている。


「全然似てないよ。お父さんはもっとこう、感情で動くタイプじゃん。でも奏太くんは冷静だし、隙がないし」


「そうね。でも、根本的な不器用さと、好きな人の前でだけ空回っちゃうところは、そっくりだと思うけどなぁ」


 お母さんはコーヒーを一口飲み、懐かしそうに目を細めた。


「あのね、陽菜。……お母さんも昔、優真のことで一人で空回りして、勝手に絶望してたことがあったんだ」


「お母さんが? 絶望?」


 あんなにラブラブで、私の目から見れば完璧な夫婦にしか見えないのに?


「うん。……レナおばさんに、すっっごいヤキモチ妬いてたの」


「ええっ!?」


 私は思わず大きな声を出してしまった。


 レナおばさんは、お父さんの実の妹だ。


 顔だってお父さんにそっくりで、間違えようがないと思うんだけど……。


「なんでレナおばさんに!? 顔見れば妹だってわかるじゃん!」


「ふふ、笑っちゃうでしょ? でもね、お母さん、レナおばさんが優真の『恋人』だって勘違いしちゃって……。優真の部屋から朝、ゴミ出ししてるのを見ちゃって、もう優真とはお別れなんだなぁって、一人でずーっと絶望してたのよ」


「あ、ありえない……」


「必死すぎて、周りが見えなくなってたのかもね。……恋は盲目ってやつかな?」


 お母さんは少し恥ずかしそうに頬に手を当てた。


「『もう終わりだ』って絶望してた私の裏でね、優真とレナおばさんは『どうやって誤解を解いて、どうやって私の不安を取り除くか』って、必死で作戦会議してたんだって。笑っちゃうよね」


「……作戦会議」


「そう。優真も不器用だから、直接言うのが恥ずかしくて、すごく遠回りな方法で一生懸命考えてくれてたの」


「不器用!? あのお母さん好き好きの万年脳内お花畑のお父さんが!? か、考えられない……」


「ふふ。今でこそそう見えるけど、優真は昔は有馬さんに負けないくらいのエリートだったんだよ? 私は陽菜に心をバキバキにへし折られたあとの優真しか知らないけど、レナおばさんは昔の優真を感情のない悲しい仕事マシーンって言ってた」


「なんか色々気になるけど……奏太くんのお父さんと同じくらいのエリートとか……私に心をバキバキに折られたとか、仕事マシーンとか……。私のお父さんの話じゃないみたい……」


 お母さんは、私の手をそっと握った。


「だからね、陽菜。……奏太くんもきっと、陽菜のために何かを『準備』しているんだと思ってみたらどうかな?」


「私のための、準備……?」


「そ! 避けられているんじゃなくて、彼なりに、陽菜を最高に喜ばせるために一生懸命考えている最中なのかもよ? 今の陽菜は、あの時の私と同じかもね?」


 お母さんの言葉に、私の心臓がトクリと跳ねた。


「不器用なところはパパに似てるけど……準備に念を入れすぎちゃうところは、有馬さんに似ちゃったのかもね」


「……奏太くんが、私を喜ばせるために……?」


「そうよ。だから、もうちょっとだけ、信じて待ってあげてみたらどうかな?」


 お母さんは優しく微笑んで、空になったカップを持ってキッチンへ戻っていった。


 一人残された私は、自分の手のひらを見つめた。


 奏太くんが、私を避けているんじゃない。


 私に隠れて、何かを準備してくれている。


 そう思ったら、胸の奥にあった冷たい不安が、少しずつ温かい期待へと変わっていくのを感じた。


 私は立ち上がり、自分の部屋へと向かった。


 机の引き出しを開け、一番奥にしまってある古いアルバムを取り出す。


 表紙をめくると、そこにはたくさんの思い出が詰まっている。


 私がお父さんとお母さんの『娘』になった時の写真。


 初めて立った日、幼稚園の入園式、運動会。


 そして、ページが進むにつれて登場回数が増えていく、眼鏡の男の子。


 高校生の頃のページで、私の手は止まった。


 夕暮れの公園で、制服姿の私と奏太くんが並んで写っている写真。


 少しだけ距離を空けて座る二人の顔は、どこか幼くて、でも真剣だ。


 あの日のことは、今でもはっきりと覚えている。


 私が、自分の存在意義に押し潰されそうになっていた、あの日のことを。



 ◇◆◇



 高校二年生の秋。


 私は、夕暮れの公園のブランコに座って、地面に足を引きずっていた。


「……はぁ」


 ため息をつくたびに、自分の心の嫌な部分が吐き出されるようで、でも結局は肺の中にまた黒い感情が溜まっていく。


「どうしたの、そんな顔して」


 隣のブランコに、制服姿の奏太くんが座った。


 彼の手には、コンビニの袋が提げられている。


「ほら、これ」


 袋から取り出されたのは、私の好きな桃のサイダーだった。


「……ありがと」


 私は受け取って、プルタブを開けた。


 炭酸の甘い刺激が喉を通るけれど、気分は晴れなかった。


「……ねえ、奏太くん」


「ん?」


「私ってさ、運がいいよね」


 奏太くんは自分の缶コーヒーを開けようとしていた手を止め、私を心配そうに見た。


「……急にどうしたの? 何かあった?」


「だってさ……私、お父さんとお母さんの、本当の子供じゃないのに」


 生物の授業で「遺伝」について学んだ日だった。


 ふと、自分がこの世界に存在している理由の心許なさに、足元が崩れ落ちるような感覚を覚えた。


「本当の子供じゃないのに、私を一番に愛してくれる。おじいちゃんも、血の繋がった弟の達也より、私の方を甘やかしてくれる」


 自分が置かれている環境が、あまりにも恵まれすぎている。


 それは幸せなことなのに、同時に恐ろしかった。


「私、ただ運が良くて、優しい人たちに拾われただけなんだなって。……もし私が可愛げのない子供だったら? もしお父さんが引き取ってくれなかったら? 私なんて、誰からも愛されない、価値のない人間になってたかもしれない……」


 ポツリポツリと、心の奥底に沈めていた泥のような感情を吐き出す。


「……私、本当はここにいない方がよかったのかな。みんなの優しさに、甘えて生きてるだけなんじゃないかって……」


 口に出した瞬間、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。


「幸せでいることが、そんなにいけないこと?」


 奏太くんはその指先で、スっと私の涙を拭ってくれた。


「幸せだから、怖いんだよ。幸せだなって思えば思うほど、私の中で……色んなものが消えていく気がする」


「本当の両親のことは、なんにも覚えてない。声も、顔も、仕草も」


「まだ幼かったんだから仕方ないよ」


「でも、覚えていたかった。本当のお父さんは私が産まれる前に死んじゃったって聞いた。でも……本当のお母さんは、私が産まれてからも、私と生きてたんだよ」


「……うん」


「最期は……車から私を守って死んじゃったけど……。私に愛情を注いでくれてたのに、私はその人のことをなんにも覚えてない……! 自分だけ幸せな気持ちばっかり貰って、その幸せで、前の幸せをどんどん上書きして……! 大切なことを忘れてる!」


 自分でも嫌になるくらい、卑屈で、最低な言葉だ。


 止めたいのに。こんなこと言いたくないのに。


 止められない。


 どんどん出てくる。


 涙と一緒に、嫌な気持ちが出てくる。


「……良いじゃん」


「え……?」


「その涙が答えだろ?」


 奏太くんは私のほっぺたに手を当てた。


 冷たくて、私の火照った顔と、熱くなった頭が冷える感じがした。


「本当の両親を想って涙を流せてるなら、陽菜の心の中にはまだその人たちが生きてるってことだよ。覚えてなくても良いじゃん。忘れても良いじゃん。自分には、大切な人がいっぱいいる、それだけ覚えてりゃ、いいんだよ。きっと」


「……奏太、くん……」


「……全くさ〜、バカだよね、陽菜って」


 呆れたような、でも、どこまでも優しい声。


 顔を上げると、奏太くんが眼鏡の奥の目を細めて、私を真っ直ぐに見据えていた。


「…………バカって言わないでよ……」


「はは。ごめんごめん。……でもさ、陽菜」


 彼は缶コーヒーをベンチに置き、私の前に立った。


 夕日を背にした彼の影が、私をすっぽりと包み込む。


「親父が言ってた。仕事しか取り柄がない堅物だったあの優真おじさんを毎日定時退社男に変えた陽菜は凄いって」


「俺の親父だってそうだ。俺にはやたら厳しいくせに、陽菜の前ではただの甘いおっさんになるし。達也だって、口では文句言いつつ、陽菜の言うことには絶対服従でしょ?」


 彼は一歩、私に近づいた。


「陽菜は運が良かったって言ったけどさ、そんなの、ただの偶然で片付くわけない。……運なんかじゃないよ」


 奏太くんの手が伸びてきて、私の頭にポンと置かれた。


 熱を帯びた、優しい手つきだった。


「周りを巻き込んで、みんなを夢中にさせる。……『愛されること』はさ」


 彼は、少しだけ照れくさそうに、でも確信に満ちた強い声で言った。


「陽菜の、才能だよ」


「……才能……?」


「うん。努力や計算なんかじゃ手に入らない、陽菜だけの特別なスキルだ。……だから、自分を卑下しないで」


 奏太くんは、私の髪を優しく撫でた。


「陽菜が笑ってるだけで、みんな救われてるんだからさ。……自信、持ってよ」


 その言葉が、私の心に深く、深く沁み込んでいった。


 才能。


 愛されることは、私の才能。


 私がここにいていい理由を、彼はこれ以上ない言葉で、優しく肯定してくれた。


「……奏太くんも、私の笑顔に救われてるの?」


 涙声で尋ねると、彼はフイッと視線を逸らした。


 耳の先が、夕日と同じくらい赤く染まっている。


「……当たり前だろ? 俺、毎日陽菜に救われてる」


 その不器用な優しさが、たまらなく嬉しかった。


 あの日の夕暮れ。


 桃のサイダーの甘い匂いと、奏太くんの大きな手のひらの温もり。


 そして、夕日を背にして、ニコッと、恥ずかしそうに笑う彼の顔を、私は一生忘れないと思う。


 私が彼を意識し始めたのは、間違いなくあの日からだった。




 ◇◆◇




「はぁ……」


 ベッドに寝転がって大きなため息をつき、ぼんやりと天井を見つめていた時だった。


 枕元のスマホが、短く震えた。


 画面を見ると、通知が一つ。


『今通話できる?』


 心臓が、トクリと大きく跳ねた。


 奏太くんだ。


 私は慌てて体を起こし、震える指でフリック入力する。


『うん』


 送信した直後、画面が通話の着信画面に切り替わった。


 深呼吸を一つして、通話ボタンを押す。


「……もしもし?」


『ごめん、陽菜。バレンタインなんだけどさ、やっぱり行こう』


「えっ?」


 電話口から聞こえてきた言葉に、私は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。


『……陽菜がまだ行きたいって思ってくれてるなら、行きたい』


 彼の声は、少しだけ息が上がっているように聞こえた。


 それに、どこか照れくさそうにも。


「でも……いいの? 外せない用事があるんじゃ……」


『あ、いやそれは……! も、もう大丈夫! もう大丈夫になった! 用事、全部済ませたから!』


「そうなの?」


『うん。だから、そこは心配いらない!』


「……私、行きたい。奏太くんと」


『よし、じゃあ決まりだ!』


「……うん!」


 しばらく通話してから切った後、私はスマホを胸に抱きしめ、ベッドの上でゴロゴロと転げ回った。


「んん〜〜〜〜!!」


 よかった。


 本当によかった。


 安堵の波が押し寄せてきて、口元が勝手に緩んでしまう。


(……でも、用事って、何だったんだろう?)


 ふと疑問がよぎったけれど、すぐに首を横に振った。


 まあ、いっか!


 奏太くんと一緒に水族館に行ける。


 手作りのチョコを、渡すことができる。


 それ以上の幸せなんて、今の私には必要ない。


 私はベッドから跳ね起きると、勢いよく部屋のドアを開け放ち、階段を駆け下りた。


「お母さーん! 水族館デート行けることになったよー!」


 リビングに飛び込むなり、大声で報告する。


 すると、テレビを見ていたお父さんが、ガバッと勢いよく立ち上がった。


「えっ!? デート!? 誰と!?」


「優真、落ち着いて。……良かったね! 陽菜!」


「えっ! 誰!!」


 キッチンから顔を出したお母さんが、パニックになっているお父さんの背中をポンポンと叩きながら、私に向かって満面の笑みでウインクをしてくれた。


 私は大きく頷き、もう一度スマホの画面を見つめた。


 胸の奥が、甘い期待でじんわりと温かくなっていた。




 ◇◆◇




 スマホを耳から離し、通話終了のボタンを押したあと、自室のデスクチェアに深く背中を預け、長く、深いため息を吐き出した。


「……あ……危なかった……!」


 無意識のうちに、心臓が早鐘のように打っていた。


 デスクの上には、ノートパソコンと、数枚のプリントアウトされた用紙が散乱している。


 俺はその中から一枚の紙を手に取り、安堵の笑みを浮かべた。


「ぬふふ……!」


 印字されているのは、陽菜が行きたがっていた水族館の『バレンタイン・プレミアムナイトパス』の予約完了画面だ。


 バレンタイン当日の夜、限られた組数だけが水族館の特等席を貸し切り状態で楽しめるという、伝説級のプラチナチケット!!


 陽菜が水族館のクラゲ展示に行きたがっていることは、かなり前からリサーチ済みだった。


 だから、このチケットをサプライズで用意して、完璧なシチュエーションで彼女に想いを伝えるつもりだった。


 しかし、このチケットは想像を絶する競争率で、俺が予約サイトにアクセスした時にはすでに「キャンセル待ち」の状態だった。


 そんな中、車の中で陽菜から直接「一緒に行かない?」と誘われてしまった。


 俺の計画では、チケットを確保した上で俺から誘うはずだったのに!


 あの時、もし「行く」と答えてしまえば、一般の混雑したルートで回ることになる。


 それではダメだ。


 一生に一度の、大切な告白をする日だ。


 陽菜を最高に喜ばせるために、絶対にあのプレミアムな空間を歩かせたかった。


 いや、一緒に歩きたかった。


 だから俺は、「外せない用事(キャンセル待ちのチケット争奪戦)」があると言って、不器用にも誘いを断ってしまった。


『また、今度、ね』


 そう言って無理に笑った陽菜の、傷ついたような顔が脳裏に焼き付いて離れなかった。


(……俺って、本当にバカだ)


 完璧なシチュエーションにこだわるあまり、一番大切にしなきゃならない彼女の心を不安にさせてしまった。


 親父の血を引いているせいなのか、恋愛においてどうにも「計画性」を重視しすぎてしまう。


 ここ最近ずっと、仕事の合間を縫って水族館の予約サイトに張り付き、キャンセルが出ないか秒単位でリロードを繰り返していた。


 そしてさっき!

 奇跡的に一枠だけ出たキャンセル枠を、執念で勝ち取った!!


 それがあまりにも嬉しくて、早く陽菜を元気に戻してあげたくて、通話をせがんでしまった。


 あと、単純に陽菜の声が聞きたかった。


「……待たせてごめん、陽菜……!」


 チケットの用紙をデスクに置き、俺は立ち上がって両腕を突き上げてガッツポーズをした。


 ……よし! やるぞ! 俺は、陽菜に想いを伝えるんだ!!




 ◇◆◇




 2月14日。


 バレンタインデー当日。


 私は、待ち合わせ場所である駅前のからくり時計の下で、落ち着かない気持ちで立っていた。


 冬の風は冷たくて、吐く息は真っ白になるのに、体の中は熱を出したみたいにポカポカしている。


 少し背伸びをして買った、淡いブルーのワンピース。


 お母さんに手伝ってもらって、いつもより時間をかけて丁寧に巻いた髪。


 そして、コートのポケットの中には、昨日の夜に完成させた手作りの生チョコが入っている。


 可愛いリボンが潰れないように、何度もポケットの上からそっと確かめてしまう。


 待ち合わせの15分前だというのに、心臓はずっと早鐘を打っていた。


 周りには、待ち合わせをしている様子のカップルがたくさんいる。


 その誰もが幸せそうで、なんだか私まで胸が苦しくなってくる。


「陽菜」


 不意に、すぐ耳元で低い声が降ってきた。


 ビクッと肩を揺らして振り返ると、息を呑むほどかっこいい奏太くんが立っていた。


 いつもはビシッとしたスーツ姿が多いけれど、今日は上質な黒のタートルネックニットに、ロング丈のチェスターコートという、大人っぽい私服姿だ。


 眼鏡の奥の瞳が、少しだけ照れくさそうに揺れている。


「ごめん、待たせた?」


「ううん! 私もちょうど今来たところだから! それに、待ち合わせの15分前だし!」


 私が焦って笑顔で答えると、彼は少しだけ眩しそうに目を細めた。


 そして、私の頭の先から足先までを、ゆっくりと愛おしむように見つめる。


「すごく、似合ってるね。綺麗だ」


「えっ……ありがと……」


 そんな風にストレートに褒められるなんて思っていなくて、顔が一気に熱くなる。


 幼馴染だから、今まで何度も一緒に遊びに出かけたことはある。


 でも、今日は特別だ。


 バレンタインの水族館デート。


 ただの幼馴染のお出かけとは、明確に意味が違う。


「冷えるね。……手、貸して」


 奏太くんはそう言って、コートのポケットから出した自分の右手を、私にスッと差し出した。


「えっ……」


 戸惑いながら私の左手を重ねると、彼がギュッと強く握り込んでくる。


 指と指が絡み合う、恋人繋ぎ。


 ドクン、と心臓が大きく跳ねて、喉の奥がキュッと鳴った。


 彼の大きな手が、私の冷え切った指先をじんわりと温めてくれる。


 そして、彼は私と手を繋いだまま、その手を自分のコートのポケットに入れた。


 あったかくて、心までホワホワする。


「は、はぐれたら危ないから。それに……こっちの方があったまるよ、手」


 前を向いたままの奏太くんの耳が、夕日に照らされているわけでもないのに、真っ赤に染まっているのが見えた。


 懐かしい感覚がした。


 幼い頃、お父さんと一緒に買い物に行って、手袋をした私の小さな手に、お父さんが息をハーッと吹きかけてあたためてくれた時のような。


 お父さんとお母さんに手を握られて、ポカポカになった時のような。


 彼からは……二人と同じ優しさとあたたかさを感じる。


 ……だから、そばにいるだけで安心できる。


 強く握られた彼の手から、不器用な優しさと、隠しきれない緊張が直に伝わってきて、嬉しくてたまらなくなる。


「……はぐれないように、しっかり握っててね。私、すぐ迷子になっちゃうから」


 私が少しだけ力を込めて握り返すと、彼の手がさらに強く、私の手を包み込んだ。



 ◇◆◇



 私たちが向かったのは、最近リニューアルオープンしたばかりの大型水族館だ。


 駅から10分ほど歩いて館内に入ると、思っていたよりも人が少なかった。


 バレンタインだから、もっとカップルでごった返していると思っていたのに。


「あれ? なんだか空いてるね」


「こっちのルートだからだよ」


 奏太くんが案内してくれたのは、一般の順路とは違う、少し薄暗いガラス張りの通路だった。


 ゲートの前に立っていたスタッフさんに、奏太くんがスマホの画面を見せると、恭しくお辞儀をして通してくれた。


「えっ? ここって……」


「バレンタイン限定の、プレミアムナイトパス。……どうしても、ここを陽菜と一緒に歩きたかったんだ」


 彼が少しだけ誇らしげに、でもどこかホッとしたように笑う。


 通路を抜けた先には、息を呑むような光景が広がっていた。


「わあ……! すごい……綺麗……!」


 巨大な半円形の水槽の中を、無数のクラゲたちがフワフワと優雅に泳いでいる。


 水槽のブルーの光と、室内に投影されたプロジェクションマッピングが連動し、水族館全体がまるで宝石箱のように幻想的に輝いていた。


 静かな波の音を模したBGMが、心地よく響いている。


 しかも、この広々とした特別な空間にいるのは、私たちを含めて数組のカップルだけだ。


「これ、予約するのすっごく大変だったんじゃない……?」


 私が驚いて見上げると、彼は「まあね」と短く答えた。


「キャンセル枠を取るために、ずっとパソコンに張り付いてリロードしてた。……だから、あんな風に一回断っちゃったんだ」


「えっ……」


「チケットが確定してないのに、中途半端に『行く』って言えなくて。陽菜を悲しませたのに、かっこつけて……本当に、ごめんなさい」


 奏太くんが、繋いだ手に少しだけ力を込めて、申し訳なさと後悔の入り混じった顔で謝る。


 あの夜、電話越しに聞いた『用事、全部済ませたから』という言葉の裏で、彼がどれだけ必死になってくれていたのか。


 すべてが繋がって、胸の奥がギュッと締め付けられた。


 私のために。


 私を一番喜ばせるために、彼は必死になってこの特別な空間を手配する『準備』をしてくれていたんだ。


 なんて不器用で、優しくて、愛おしい人だろう。


「奏太くん……ありがとう。私、すっごく幸せだよ」


 私が心から笑いかけると、彼はフッと安堵したように息を吐いた。


 そして、少し舌を出しながら照れた顔で言った。


「えへ。良かった」


 それが、可愛くて可愛くてもう。


 えへって、なに。ずるいよ。


「……あっ。ほら、あっちのクラゲも見に行こう」


 奏太くんが照れ隠しのように話題を変え、私の手を引いた。


 私たちは手を繋いだまま、幻想的な海の世界をゆっくりと歩く。


 青く光る水槽の前に立つと、水の揺らぎが私たちの顔を青く照らす。


 肩が触れ合う距離。


 繋いだ手から伝わる、トクトクという脈の音。


 隣にいる彼が、時々愛おしそうに私を見つめてくるたびに、心臓が溶けてしまいそうだった。


 そして、エリアの一番奥。


 ひときわ大きく、美しいメインのクラゲ水槽の前に辿り着いた時だった。


「……陽菜」


 並んで歩いていた奏太くんが、ふと立ち止まった。


 彼に引かれるようにして、私も足を止める。


「……ん?」


 奏太くんが、ゆっくりとこちらに向き直った。


 その表情は、今までに見たことがないくらい真剣で、静かな熱を帯びていた。


 彼は、繋いでいた私の右手を、自分の両手で大切そうに包み込んだ。


「本当は、もっと早く……かっこよく言うべきだったんだけど」


 奏太くんの言葉が、静かな水族館の空気に溶けていく。


「高校の時、言ったよね。愛されるのは陽菜の才能だって」


「……うん」


 覚えてるよ。


 だってその言葉は、私に生きる自信をくれた魔法の言葉だから。


「俺は、誰よりもその才能に惚れてる。……ずっと前から、陽菜のことが好きだった」


 奏太くんの真っ直ぐな瞳が、私だけを映している。


「ごめん。言うのが遅くなった。ずっと好きだったのに、言えなかった」


 嘘のない、真剣な眼差し。


「……奏太くん」


「俺の世界の中心には、いつも陽菜が居たのに」


「世界の中心が、私……?」


「……そうだよ。俺の世界は、陽菜を中心にして回ってる」


「もう、陽菜との幼馴染はやめたいんだ。俺は、一人の男として、恋人として……陽菜の隣にいたい」


 真っ直ぐすぎて、美しすぎて。

 その瞳の引力が、何より強すぎて。

 吸い込まれる。


 彼の言葉に、彼の瞳に、彼の、世界に。


「……俺を陽菜の隣に立たせて」


「かな……」


 私が名前を呼びかけた時、彼は私の涙を指で拭ってくれた。


 気付かなかった。


 涙が出ていたことが。


「わぁー!」と、数組のカップルから歓声が上がる。


 きっと、クラゲが凄いパフォーマンスを見せているんだと思う。


 けど、そんなものも私の目には入らない。


 今はもう、彼しか見えない。


「もう、世界の中心の陽菜を憧れて見ているだけは嫌なんだ。ダメかな?」


 きっとこの涙は、この世界で一番、嬉しくて、幸せな涙だ。


 そして私のこの胸の中にある気持ちに、名前をつけるとするならそれは……。


「……ふふっ」


「な、なんで笑うの?」


「……だって、私の世界の中心も、ずっとあなただったから」


「陽菜……」


「私も、奏太くんのことが好き。……大好き」


 その言葉を聞いた瞬間、奏太くんが大きく息を呑むのがわかった。


 私は、空いている左手でコートのポケットをごそごそと探り、可愛いラッピングの小箱を取り出した。


「あのね、私からも、お願いします。……これ、渡したかったの」


「チョコ……?」


「うん。手作りの、生チョコ」


 奏太くんの手に、小箱を押し付ける。


「水族館に誘ったのも……本当は、今日、これを渡したかったからだよ」


 私が上目遣いでそう告げると、奏太くんの顔が、今まで見たことのないくらいクシャリと崩れた。


 余裕なんて一切ない、限界を迎えたような表情。


「……反則だよ、それ」


 彼は小箱をコートのポケットに突っ込むと、両手で私の腕を引き寄せた。


「わっ……!」


 強い力で、胸の中に閉じ込められる。


 シトラスの香りと、彼の少しだけ上がった体温が、私をすっぽりと包み込んだ。


「……ありがとう。嬉しい。嬉しすぎる」


 耳元で囁かれる低く甘い声に、背筋がゾクゾクと震える。


 トクトクと激しく鳴っているのは、私の心臓の音なのか、奏太くんの心臓の音なのか、もうわからない。


「……奏太くん、くるし……」


「ごめん。……でも、もう離せない」


 少しだけ腕の力が緩み、彼が顔を離した。


 至近距離で、視線が絡み合う。


 彼の瞳の奥に、長年抑え込んできた、爆発しそうなほど熱い感情が渦巻いているのがわかった。


「……陽菜」


「ん……っ」


 私を呼ぶ甘い声に答えるように、そっと目を閉じる。


 次の瞬間、彼の柔らかい唇が、私の唇に優しく重なった。


 触れるだけの、甘くて、少しだけ不器用なキス。


 ずっとじれったかった私たちの距離が、ようやくゼロになった。


 私たちが重なり合ったその瞬間。


 まるで二人を祝福するように、水槽の中のクラゲたちがフワァッと眩く光を放ち、水面を幻想的なブルーに染め上げた。


 そして、また歓声が上がる。


 みんなはクラゲに夢中。


 美しく煌めくクラゲの水槽の前でキスをする私たちのことなんて、誰も見ていない。


 私たちには、私たちしか見えていなかった。


 それで良かった。


 だって今の私たちの世界は、私たち二人が中心になって回っているから。




 ◇◆◇




 佐伯家のリビングには、異様な緊張感が張り詰めていた。


「……」


 ソファに座るお父さんは、腕組みをしたまま、眉間に深いシワを寄せて黙り込んでいる。


 その顔は、見事なまでに引きつっていて、額にはジワリと冷や汗が浮かんでいた。


「ふふっ。優真、それなんなの?」


 隣に座るお母さんが、クスクスと笑いながらお父さんの膝をポンと叩く。


「父さん、昨日から一睡もしてねーんだぜ? 夜中にリビングウロウロして徘徊してたし。どっちが結婚の挨拶に来たんだか」


 一人掛けのソファでスマホをいじっていた弟の達也が、ニヤニヤと意地悪そうに笑った。


「う、うるさいっ! 達也、お前は黙ってろ! 陽菜の一大イベントなんだぞ!」


 お父さんが真っ赤になって怒鳴る。


 そんなカオスな家族のやり取りを前にして、私の隣で背筋をピンと伸ばして座っているのは、ダークスーツをビシッと着こなした奏太くんだ。


 付き合ってから半年。


 幼馴染ということもあり、私たちの関係はとんとん拍子に進んだ。


 いや、正確には「奏太くんが、すさまじいスピードで外堀を埋めていった」と言うべきだろうか。


 有馬の血を引く彼は、私の将来のライフプランから新居の候補、さらには数十年後までの貯蓄計画までを完璧にまとめた分厚いファイルを作成し、今日この日の『結婚の挨拶』に臨んでいた。


 彼の足元には、凶器になりそうなほど分厚いそのファイルが入ったアタッシュケースが置かれている。


「優真おじさん、詩おばさん。……いえ、お義父さん、お義母さん」


 奏太くんが、居住まいを正し、深く頭を下げた。


 緊張のせいか、いつもは冷静な彼の声が、少しだけ上ずっている。


「陽菜さんとの結婚を、お許しください」


 ピリッとした空気が、リビングを包む。


 長い、長い沈黙。


 お父さんは、震える手でテーブルの上のマグカップを持ち上げようとして、カタカタと音を鳴らした。


 持ち上げられたマグカップは震え、中からはコーヒーがチャプチャプと零れてくる。


「……か、奏太くん」


「はい」


「……君は、昔から頭が良くて、有馬の息子で、隙がなくて……。うちの能天気な娘には、もったいないくらいの男だ」


 お父さんの言葉が、絞り出すように響く。


「でもな。……親にとっては、娘は世界で一番の宝なんだ。血が繋がっていようがいまいが、俺の、俺たちの、大切な娘なんだ……!」


「はい」


「……陽菜が選んだ君なら、文句は言わない。でもな……陽菜を泣かせたら、俺が許さないからな。陽菜が泣いていいのは、嬉しい時だけだ」


 プルプルと震えるお父さんの目から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。


「ふふ。優真、その涙はなに?」


「……嬉し泣き」


 ポロポロと泣きながら、お父さんは私と奏太くんを真っ直ぐに見つめている。


「はい。……俺の人生すべてをかけて、絶対に幸せにします」


 奏太くんの声には、一片の迷いもなかった。


 お父さんは泣きながら「うんうん」と何度も、ものすごい速度で頷いている。


「奏太くん。困ったことがあったらいつでも私たちを頼ってね」


「はい!」


「……もぉ〜、お父さん泣きすぎだってば!」


「だってさ……! あんなに小さかった陽菜がさぁ……!!」


 お父さんがついに限界を迎えて号泣し始め、お母さんがクスクス笑う。


 騒がしくて、温かくて、大好きな私の家族。


 ふと隣を見ると、奏太くんがホッとしたような、それでいてこの上なく幸せそうな笑顔で私を見つめていた。


 私は彼の大きな手を、そっと握りしめる。


 彼もまた、私の手を強く握り返してくれた。


 これからの人生、きっと色んなことがあると思う。


 でも、この手さえ離さなければ、私たちは絶対に大丈夫だと思える。


 だって私には、愛される才能と、それを全力で守ってくれる彼がいるから。


「奏太くん……」


 お父さんが奏太くんの手を握り、真剣な眼差しで見つめる。


「え? な、なんですか?」


「君に、引き継ぐよ」


「引き継ぐ? なにを?」


「『陽菜幸せ計画』……さ」


「えっ?」


「お、お父さん? なにそれ?」


 私が困ったように視線をお母さんに送ると、お母さんは笑いを堪えていた。


「あとは任せたからな! 俺の役目はこれで終わりだ!」


「は、はあ……」


 奏太くんが困ったようにこっちを見てくるけど、私も意味がわからないので困ってます。


「詩、これからは俺たちの時間だな」


「……もう、優真ったら」


「ちょっ! ちょっとなに! 何甘い空気になってるの!? 娘の前でやめてよ! そ、それに奏太くんもいるんだから!」


「お手本だよ。お前たちも俺と詩みたいなベストカップル目指すんだな」


 私は小声で奏太くんに言った。


「こうならないように気を付けようね」


「いや、素敵な夫婦だよ」


「え、そっち側?」


「陽菜のことを愛してる気持ちは、お義父さんたちには負けないけどな」


「〜〜〜〜ッ!!」


 こうして、始まったらしい。


 お父さんから受け継いだ『陽菜幸せ計画』第二章が。






最後までお読みいただき、ありがとうございました!


こちらの前作にあたる短編

『亡き姉の「生後8ヶ月」の娘を引き取った俺と家族になってくれませんか?』

そして、その短編をさらに深堀りした連載版

『亡き姉が残した「生後8ヶ月」の娘を引き取った俺と家族になってくれませんか?』をご覧になってくださった方に改めて御礼を申し上げます。


本編短編、連載版も、セリフなどが違っていたり、連載版を読んだ方が短編を読んだら少しニヤリと出来たり(看病イベント、連載版は優真視点ですが、短編は詩視点)などありますが

世界観の厚みが違うので、連載版(全29話)を読むことが抵抗のない方なら、お時間のある際にお読みいただくと、更に没入度が高まるかもしれません。


今作も短編の中では割と長めですが、ここまでお読みくださった皆様には本当に感謝しかありません。


本編短編の方も、同ジャンル月間1位にさせていただき、連載版の方も完結済みの同ジャンルで月間1位にさせていただきました。

皆様の応援のお陰です。


私は基本的に異世界転生モノばかり投稿していて、現実世界恋愛の方は投稿数が少なめではありますが、とても楽しく書いています。

現実世界恋愛ジャンルにおいて、私のような異物を受け入れてくださった、心の広い皆様には感謝の言葉しかありません。

今後も、こちらのジャンルで時たま更新出来ればなと思っておりますので、その際にまた皆様と巡り会えましたら。

その時を楽しみにしております。

ここまでお読みいただき、私の作品を見つけていただき、本当に、ありがとうございました。

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