9話 お父さん、何もない。
「もう、なんで私が」
「ほんと、ごめん」
ミーティアに半分引きずられながら、路地の奥から戻ってきた。
足を踏み出すたび、背中から腰にかけて鈍い痛みが響く。
通りは驚くほど変わらない。
──さっきまで命懸けのやり取りをしていた場所と、同じ世界とは思えなかった。
人々は普通に行き交い、誰もこちらを気に留めない。
世界は何事もなかったような顔をして流れている。
「陽介さん!?どうしたんですか?あと、どなたです?」
セーナさんの声で、現実に引き戻される。
「この変態おじさん、よろしく」
「変態!?」
「紳士です、腰抜けました」
「えぇ!?と、とりあえず、家まで連れていきますね」
「セーナさん、ごめんね」
「一体何があったんです?額も血だらけですし」
ミーティアが耳元へ顔を寄せる。
近い。
息がかかる。
「さっきのことは誰にも言わないで」
囁く声は低く、静かで、感情がない。
怒っているわけでも、脅しているわけでもなかった。
「次は、死ぬ」
ただ、事実を伝えているだけ。
背筋が、勝手に震えた。
「それじゃ」
そう言い残し、ミーティアは人混みの影に溶けていく。
その背中が見えなくなるまで、俺は息を止めていた。
……分かってる。
あれは完全に俺が悪い。
無職なのに、でしゃばったからだ。
何の力も、職業もないのに。
後先を考えもしないで。
やっぱり俺は、こっちの世界でも、モブなのか。
「ちょっと、やんちゃしちゃった」
苦し紛れに笑ってみた。
たぶん誤魔化せてないけど、こんな言葉しか出てこなかった。
「歩けますか?」
「大丈夫、大丈夫」
「セーナさん、あの花ってないよね?」
「今は…ないですね…家にもないです」
……ないの、まじか。
胸の奥に不安が広がる。
強がっちゃったけど、家まで歩けるか?
「がんばって歩きましょう」
セーナさんの声は変わらず、優しくて、なんだか申し訳なくなってくる。
「…帰るか」
ベビーカーに手をついて、恐る恐る一歩踏み出す。
……あ。
一歩目はいけた。
でも、次怖っ。
ゆっくりと二歩目を踏み出す。
……よし。
これなら、なんとか行けそう。
傍から見たら、手押し車で歩いてるおじいちゃんや。
情けねぇ。
でも、今の俺は、これに頼らないと歩けない。
ぎっくり腰じゃないと思うんだよ。
びっくりしすぎただけなんだ。
三十六にもなると、不意の動作でつること、増えるのよ。
ほんと、体って正直。
◇◇◇
陽は落ち始め、どこかで鳥が甲高い声で鳴いている。
風が吹き抜け、じんわりかいた汗に冷たさを残していく。
家に近づくにつれて、腰の痛みは増していった。
なんでだよ。
さっきまで何とかなってたじゃん。
くそ、痛え。
一歩踏み出すごとに、体中に電気が駆け抜ける。
気を抜いたら、そのまま膝から落ちそう。
がんばれ、俺、がんばれ。
あと少しなんだ。
「唸るほど痛いんですか?」
「痛くねえ、気合いだ、気合い」
やぁっっっっっと着いた、マイホーム。
「本当に大丈夫なんですか?」
「大丈夫、なんとかなる」
自分に言い聞かせるように返事をした。
「何かあったら、言ってくださいね」
「うん。今日はありがとう。それじゃ」
ドアの閉まる音がやけに大きく聞こえた。
やべぇ、腰激痛。
これはあかんやつや。
希を両手に抱え、ハイハイ。
床が冷てえよ。
希、ぐっすり寝てるね。
今、お父さん、すごくがんばってるよ。
お見せできる格好じゃないけど、これが今の精一杯。
クッション、遠ぉ……。
家の中なのに、目的地までが遠いよぉ。
人をダメにするクッション。
もうダメになっちゃってる人間が使ったら、どうなっちゃうんだ。
まじで痛すぎる。
クッションに身を預ける方法もわからない。
誰か、回復魔法ください。
ようやく落ち着くところ、発見。
このクッションに回復効果あればいいのに。
希は気持ち良さそうに寝息を立てている。
まったく、こっちの気も知らないで…。
クッションに沈んだまま、天井を見つめる。
耳鳴りがするほど静かだ。
聞こえてくるのは、希の寝息と自分の鼓動だけ。
梁の影が夕陽でゆっくり伸ばされていく。
俺は動けないまま、ただそれを見ていた。
……なんだよ、これ。
俺は異世界に来たんだろ。
もっとこうさ、親切な神とかいてさ、チート能力で無双するとか、俺強えぇぇってするんじゃないの?
異世界ものってそういうのでしょ?
それなのに……。
現実より残酷で。
現実より逃げ場がなくて。
現実より“力”が求められる世界。
今日まで俺は何をした?
何を残せた?
向こう見ずに行動して、たまたま助かって、腰壊しただけだろ。
無力。
この世界は“優しいだけ”の人間を、何の価値もない存在として扱う。
それが分かった。
……じゃあ。
俺は、この世界でどうやって父親でいればいい?
職業を手に入れる?
家族を支える?
ぼーっと、天井を眺めていても、答えは出ない。
ただ、これまで積み上げてきたものが全て失われたことは、確かだった。
希の泣き声がリビングに響いた。
窓から差し込む夕陽が、床の上で四角く広がっている。
このタイミングか…。
腰を庇いながら、ゆっくりと体を起こす。
少し動いただけで、体の奥に鋭い痛みが走る。
オムツか。
それとも、ごはんか。
「ちょっと、待ってね〜」
返事はなく、泣き声が続く。
オムツ、じゃない。
離乳食いくか。
キッチンに立つ。
スプーンを持つ手が思ったより震える。
深く息を吐いて、椅子に腰を落とす。
「はい、あ〜ん」
よかった、食べてくれてる。
半分くらい口から出てるけど。
「おいしいか?」
返事はない。
だけど、喜んでるっぽいし、おいしいのかな。
この子は俺が弱いとか、無職とか関係ない。
ただ今ここにいる俺を見ているだけだ。
また一口、スプーンを差し出す。
希の小さな手が俺の袖を掴んだ。
力なんてほとんどないはずなのに、やけに離れがたい。
ぐちゃぐちゃだ。
机も、服も、俺の人生も。
だけど、今、この時間は不思議と悪くない。
これからのことは何も分からない。
考えても、答えは出ない。
それでも。
俺はスプーンを差し出した。
何もなくても、父親でいるために。




