7話 お父さん、体育はもう無理。
教室の静寂を破った希の泣き声。
きたきた、ミルクタイム。
「希~、準備するから待っててねー」
相変わらず、みんなの視線が痛い。
三十代のおっさんが子連れで来てるの、やっぱり異質だよね。
逆だったら、「なんやねん、このおっさん」って思ってる、きっと。
焦れば焦るほど手元が滑って、おぼつかない。
挙動がバグったNPCみたいな俺に、救いの手が舞い降りた。
「陽介さん、大丈夫ですか?」
……あれ?天使?
「おお、セーナさん。大丈夫、慣れてるから」
慣れている。
実際は“慣れたい”だけど。
三人目なのに、こんなに手間取って恥ずかしいよ。
それを言えない変なプライドもほんとに邪魔。
「私も手伝いましょうか?」
「いやいや、大丈夫だよ」
「大変ですもん、抱っこしてますよ」
本当に優しいお嬢さんだ。
このクラスで浮いてるおじさんに、天からの救援物資や。
サンキュー、神。
「じゃあ、お言葉に甘えて…」
セーナさんは希を軽く抱き上げる。
窓から差す光が、彼女と希を陽だまりのようにそっと包み込んだ。
その姿は、もはや聖母。
「結構、力強いですね」
そうそう、意外とパワーあるんだよな。
かわいい笑顔で全力キックしてくる。
その痛みすら愛おしいんだけどね。
ミルクを作り終えると、希は哺乳瓶を奪うように掴んだ。
「可愛い~!」
「でしょでしょ?一生懸命飲む姿、めちゃ可愛いんだよ」
親バカなのは分かってるけど、仕方ないね。
希はあっという間にミルクを飲み干した。
「思ったより力が強くてびっくりしました」
「ごめんね、ミルクもあげてもらっちゃって」
「全然いいですよ!癒されますし」
マジ天使。
全く、こんな可愛い子に抱っこされて、羨ましいぜ。
俺も赤ちゃんからやり直したいよ。
「このまま抱っこしてるので、お片付けどうぞ」
なんですか?女神ですか?
孤立無援の教室で、君がまさしくオアシスになりそうです。
「そうだ、セーナさん、昨日はありがとな」
「傷は大丈夫なんですか?」
「すっかり元気。でも、あの花がなかったら、やばかったかも」
「無理しないでくださいね」
「そうだ!」
女神がカバンから何かを取り出す。
「もしよかったら、これ」
「これなに?」
差し出されたのは、虹色の小石が数珠繋ぎになったアクセサリー。
窓の光で七色に反射して、天井に色が散った。
「キーストーンっていう、魔法石で作ったお守りです」
「お守り?」
「私の故郷では、赤ちゃんが“良い才能に目覚めますように”って願いを込めて、つけるものなんですよ」
「ありがとう。つけとくわ」
「私、キーストーン手作りしてて、売ったりもしてるんです。あんまり売れないですけど…」
「マジ?これは売れるよ」
手作り感と魔法石が良い感じだけど、売れないの?これ。
その時、扉が雑に開かれ、片腕が義手の大男が入ってきた。
巨体が踏み出すだけで、床が抜けそうなくらい軋む。
「よーし、体鍛えるぞー!冒険者は体力が命だ」
義手には青い石が埋め込まれ、何かに呼応するように脈打っている。
「全員、外出ろ」
生徒の後ろをついていく。
木造の廊下を抜けた先は広いグラウンド。
土の乾いた匂いが強くて、ところどころ雑草が顔を出している。
「まずは、一キロ五セットだ!全力で走れ!」
その指示で生徒たちが一斉に走り始めた。
足音が土を震わせる。
急いでベビーカーを校舎の陰に停める。
「希はここで応援しててな、パパ頑張ってくる」
希は無邪気にバイバイしてくれた。
地面を思いきり蹴り出す。
走るのなんて、何年振りだろう。
みんなからどんどん距離を離されていく。
なに!?一キロ全力疾走だと!?
全員、強走薬飲んでるやん。
速えぇよ。
俺だって、小四から大学卒業までバスケしてたし、ハーフマラソンくらいなら余裕だったんだ。
昔は…。
あ、死ぬ。
しんど。
走るの久しぶり過ぎて、息もつらい。
みぞおちの奥が焼けそう。
気管から笛みたいな変な音する。
やけに汗をかくし、シャツが張り付いて気持ち悪い。
何メートル走った?
十年動かないと、こんなことになるんですか。
心臓が破れそう。
やばい。
何か来てる。
体の奥から、こみ上げてくる。
「すません、トイレ……行ってきます……」
「なんだー?もうギブアップか?」
全てを吐いた。
便器が、だんだんと、揺らいでいく。
顔中をぬるい汗が伝い、体温が下がっていくのが分かる。
もうやだ、元の世界に帰りたい。
ふらふらでグラウンドに戻り、校舎の陰に座り込む。
「希、パパダメだったよ」
通り抜ける風は気持ちいいけど…。
情けねぇ。
「おっさん、大丈夫か?ほら、これ飲め」
声をかけてきたのは、赤い短髪の少年と緑色の髪で丸い眼鏡をかけた少年。
二人とも爽やかな汗をかいて、息は乱れていない。
若いって素晴らしい。
「……悪いな、少年」
差し出した水筒の水は冷たくて、優しく染みる。
「オレ、アッシュ、十六だ。よろしくな」
「陽介、三十六だ。よろしく」
「親父と一緒かよ」
マジ?二十歳で子供持つなんて、すげえな。
「君は?」
「僕はピートです」
「ピート君は何歳?」
「十六です」
「ピート君のお父さんは?」
「…分かりません。五歳の時に捨てられたから」
その言葉の重さが風に沈んだ。
「捨てた!?親が!?」
「…その……無職だったから」
──無職、たったそれだけで人生が左右されてしまうのか。
実の親にすら、見捨てられるなんて、酷すぎる。
そして、そんな理由で子どもを捨てる親……許せん。
「そうだったか…辛かったな」
「まぁ、こっちじゃ良くある話さ。一般庶民では、あんまないけど」
アッシュが補足する。
気遣いが自然で、こいつ絶対いいやつだ。
「ってことは、貴族とか?」
「そうだったみたい」
「そっか、まぁ人生、生きてりゃ色々あるさ。もちろん良いこともな」
風が吹いて、汗を乾かしていく。
「ありがとう…陽介さん」
「てか、おっさんは、なんで職業が欲しいんだ?その歳なら普通に働いた方が良くね?」
痛いところをストレートに突いてくるね。
やっぱりこの世界じゃ、それが普通なのか。
「まぁな。でも子ども小さいし、魔物から家族を守るには、職業いるだろ」
「街入れば安全だけどな」
「いや、街にイノシシ出てるから。昨日も倒したから」
「マジ?イノシシって、イビルボア?無職が倒せんの?」
「倒したのは妻、俺は囮」
「無職が立ち向かうってだけで、すげえよ。見直したぜ」
「やっぱり、街にイビルボア出るなんて変だよ」
「だよな。最近、魔物も増えてるらしいしな」
リズも言ってたけど、やっぱ普通じゃないんだな。
個人的に調べてみる価値があるかもしれない。
「じゃ、おっさんはそこで休んでな、俺らは“小石ロード”走ってくる」
小石ロード?ほんわかしてるな。
「行ってらっしゃい」
二人の背中が小さくなっていくのを見届ける。
振った手の力が抜けた。
いいなぁ、十六歳。
俺にもあんな時があったんだよなぁ。
さっきまで悲鳴を上げていた心臓は、ようやく静けさを取り戻し始めていた。
見上げた空は、雲がゆっくり流れていく。
はぁ、体力終わってるな。
これから毎日ランニングしよ。




