2話 お父さん、やっぱり魔物は怖い。
カーテンの隙間から差す光で目が覚める。
体が重い。
気も重いし、心も重い。
月曜日の朝より気だるい。
窓の外は薄紫色の空が広がり、リビングに湿った土と草の匂いが流れ込む。
異世界さん、昨日はクソとか言ってすみませんでした。
ちょっと自暴自棄だったんです。
つい、言い過ぎちゃっただけなんです。
職業ください。
……もらえるわけないか。
昨日の夜は枕を濡らした。
常温の氷枕みたいに、だるんだるんになるくらい泣いた。
リビングの窓から見える景色は、どう見ても異世界。
夢だと願っても、昨日までの現実を映してくれない。
まぁでも、気持ち切り替えなきゃな。
「おはよ」
「おはよう」
「陽介、大丈夫?」
理沙の声はいつもより少しだけ柔らかかった。
朝の光に髪が透けて、微妙な表情の変化までわかる。
俺のことを気遣ってくれているんだな。
「まぁ、やるしかねぇな。今日から家のこと、俺がやるわ。今まで任せっぱなしだったし」
「一体、どうしたの?」
「ほら、理沙は魔道士じゃん?多分ギルドの依頼で忙しくなる。サポートするよ」
「ありがとう」
照れたように俯く理沙。
その表情には、どこか心細さも混じっている。
理沙のために何をすれば良いのか、正直わからない。
本当はすごく心配だ。
理沙は大学卒業してから、ほとんど働けてないし、ちょっと抜けてるところもある。
できるなら、隣にいてやりたいけど。
子どもたちのことも考えないといけないしな…。
まずは、あれか…。
「とりあえず、朝メシ作るわ」
キッチンに立つと、現実が突き刺さる。
食べられそうなものは、ジャムとパン、それにパインの缶詰、固まったカレー。
冷蔵庫は全滅。
水も災害用が少し。
このままじゃ、あっという間に詰みだな。
早めになんとかしないと。
今日、ギルドで情報集めないとな。
そんなことを考えていると、床をドタバタと駆ける音。
「ママ!今日から異世界だよ!」
子どもたちがリビングに飛び込んできた。
足音が木の床に反響して、テーブルが揺れる。
一気に賑やかになった。
「そうだね、葵は楽しみ?」
「うん!もちろん!」
「…私も!」
理沙は俺に気を遣っていただけだったか、そうか。
やっぱりワクワクするよね、異世界だもん。
本物の杖とか槍とか、あるもんね。
「お父さん!見て!剣から水出てきた!」
「お風呂持ってって!」
待て待て待て、床びしょびしょじゃん。
あの受付、何てもん渡してくれてんだ。
剣を握ったままの湊を抱っこして、浴室へダッシュ。
手を離した瞬間、水はピタッと止まった。
「もう一回持ってみて」
あれ?出ない…。
なんで?何きっかけ?
「気をつけて持とうな……じゃあ、朝メシ食うか!」
「うん!」
異世界での初めての朝食。
メニューはしょぼいけど、テーブルは昨日よりもずっと明るい。
家族みんなの笑顔だけで、無職の俺には十分すぎる“救い”だった。
床、びしょびしょだけど。
◇◇◇
今日はもう一度ギルドに行かないといけない。
色々説明するとか言ってたしな。
「じゃあ行くか、ギルドに」
「行ってきます」
「行ってきまーす」
あ、やべ。
希のオムツ忘れた。
「先に行っててくれ。オムツ取って行く」
「あたしが希を抱っこしてるよ!」
葵が胸を張って言う。
もう立派なお姉さんだ。
いつも助けてくれて、感謝してるよ。
「葵、ありがとな」
オムツも残り少ないな。
こっちの人たちは、どうしてるんだろ。
それも、探さないとな。
オムツにお尻拭き、一応、多めに持って行くか。
「きゃーーー!」
耳を刺すような悲鳴。
急いで外へ飛び出した。
「どうした!?」
「パパ、あれ……」
葵が指差す先には、巨大な影。
マンモスのように湾曲した牙。
地面を抉るほど太い前足。
野太い鼻息が白い蒸気となって噴き出す。
イノシシというか、もはやモンスター。
この世界にはあんなのが普通にいるのか?
だとしたら、相当危険な世界だぞ。
でも悪いな、俺がハンターだった頃、お前みたいなやつを何万匹と狩猟してきた。
傾向と対策は頭の中に入っている──。
「デカイノシシ!こっちだ!」
上着を脱いで、わざと挑発するように構える。
手が微かに震えているが自分でもわかった。
でも、立ち向かえるのは、俺しかいない。
イノシシの赤い目が俺を捉える。
牙が光り、地面を掻くたび振動が伝わる。
──来た!
地面の揺れが足の裏に直接響く。
鼓膜の奥に衝撃が伝わる。
突進してくる。
土煙が舞い、枝の折れる音が耳朶を打つ。
思ったよりずっと速い。
ギリギリまで引きつけ──全力で、緊急回避!
風が裂くように抜けて、すぐ横を牙が通り抜けた。
重力に引き寄せられ、全身で荒い石畳みのざらつきを感じる。
避けれた。
避けたけど、もう体が追いつかない。
息があがる。
足がもつれる。
圧倒的、運動不足。
スタミナゲージは、きっと赤色。
何度も避けれる気がしない。
何かないか。
打開策──。
「理沙!魔法だ!魔法をこいつに撃て!」
「魔法って…どうやってやるのー!?」
「杖構えて!何かそれっぽいこと、呪文!」
イノシシが再び地面を掻く。
さっきよりも低く、深く。
予備動作が段違いに重い。
─また来る!
牙が迫る。
飛び避けようとした時、脇腹に火の棒を突き立てられたような痛み。
「くっ……」
シャツの下がじわじわと温かくなる。
「理沙!早く!」
「何、唱えればいいのーっ!」
理沙の声が裏返っている。
今にも泣きそうになっているのがわかる。
「何でもいい!サンダーなんとか!とか、なんとかボルト!とか、それっぽいやつ!」
イノシシが三度踏み込む。
地響きが腹の底を揺らす。
この一撃は避けきれない。
もう終わりかもしれない。
「ええっと……さ、雷鳴の鳳梨ッ!」
杖の先で青白い光が凝縮され、空気ごと捻じ曲げるような轟音が鳴り響く。
草木の影が揺れ、空気中のエネルギーが一点に集中する。
解き放たれた青白い閃光がイノシシを吹き飛ばした。
地面に叩きつけられた衝撃が家々を揺らし、土煙と焦げた匂いが周囲に広がっていく。
張りつめていた緊張が途切れ、全身から力が抜けた。
「助かった…」
理沙も力尽きたように、その場にへたり込む。
額に汗、頬が赤く、息が荒い。
勝てた…のか?
鼓動はまだ戦っているかのように速い。
「みんな、大丈夫か?」
「パパ、怖かったぁぁ…」
葵は涙ぐんで、希をぎゅっと抱きしめていた。
湊は…見えない敵と戦っている。
「みんな、無事でよかった」
安堵を口にした瞬間、理沙の顔が固まった。
「陽介、血出てる…」
脇腹が脈打つように熱い。
視線を落とすと、シャツが赤く染まっている。
「大丈夫、かすり傷だ、心配すんな」
「シャツ真っ赤だよ?絆創膏と着替え、取ってくる」
「悪い、頼む」
シャツを捲る。
思ったより傷の範囲は広く、深い。
絆創膏じゃダメだな、これ…。
「大丈夫ですかー!」
一人の女性が駆け寄ってきた。
長い栗色の髪を揺らし、手には布と光を宿した花。
「よかったら、これ使ってください」
「あ、ありがとうございます」
「…うわぁ、痛そう」
「大したことないですよ…すいません、この花ってどう使えば良いんです?」
「えっとですね、こんな感じで振ると…」
花弁から黄緑色の光の粉が舞う。
ほんのり温かい風が傷口に触れると、痛みがすっと引いていった。
不思議だ。
これも魔法なのだろうか。
「あとは、この布を巻いてください」
「ありがとうございます。あなたの名前は?」
「セーナって言います。家、隣です。……お父さん、相当無茶しましたね。家の窓から見てましたよ」
「……お騒がせしました」
「いえいえ、というか、すごいですよ!生身で立ち向かうなんて!」
「家族を守るのに必死で…」
「なんだか、かっこいいですね。家族のために一生懸命で。私なんて…」
「まぁ、職業とかないんで」
「えっ、ニートゥーなんですか!?すごいですね!私も見習わないと」
「もしかして、あなたも?」
「…はい、今日もこれから学校に行くんです。職業開発学校に」
「絆創膏と着替え持ってきたよ…って、どなた?」
「お隣のセーナさん。助けてくれた。セーナさん、妻の理沙です」
「理沙です、陽介を助けてくれてありがとう」
「そんなそんな…魔法も見てましたよ!私、あんなの見たことないです!」
理沙よ、そんなに謙遜しなくていいぞ。
あの魔法は確かにすごかった。
呪文はちょっと変だったけど、君が初めて使った魔法は俺の脳裏に焼きついている。
その時、葵が泣き崩れた。
「葵、どうした?」
「パパ、死んじゃうかと思ったよぉ…」
「パパは死なないよ、心配すんな」
「…でもぉ」
「ほら!こんなに元気だっ……いたたた」
「本当に大丈夫なの?」
理沙は相変わらず心配症だ。
でも、理沙も葵も湊も希も、みんな生きてる。
それだけで十分だ。
なんとか助かった。
倒したのは、俺じゃないけど──みんな無事なのが、一番だ。
これまでの日常はすっかり姿を変えて、新しい毎日へと生まれ変わっていく。
それでも、また“変わらない日々”を迎えるためには、やっぱり力が必要だ。
大きく息を吸う。
脇腹はまだ少し痛いけど、立てる。
歩ける。
前を向ける。
「──よし、行くか。ギルドに!」
「本当に大丈夫なの?」
理沙は眉を寄せた。
「血は止まってるよ、あの花すげえ」
守る理由は変わらずある。
だから、進むしかない。
異世界での二日目が荒々しく幕を開けた。
この先、大丈夫かなぁ。




