小林さん
あてもなく歩き続けながら、承一は従兄弟を頼ってみようか…と考えていた
ただ、従兄弟は少し遠い町に住んでおり体力の無い響子と子ども達を連れて行くには無理があると思い悩んだ
また、頼るにしても職場が遠くなる
どうしたものかと考えあぐねていた
妻の具合が悪いと嘘を言って早退したので多少のバツの悪さはあったが、ひとまず職場へ行こうと決めた
嘘(実際嘘では無いが…)をついたことはしっかり謝って、なんとか響子と子ども達に食事を与えて少しでも休ませたい
それが何よりも最優先事項だった
そんなことを考えながら歩いていると、前から見覚えのある男が歩いてくるのが見えた
お互いを認識出来る距離まで近づいた時、その男が右手をあげて
「承一!」
と笑顔で足早に駆け寄って来た
今は独立しているが、半年ほど前まで同じ職場で働いていた先輩の小林さんだった
『ご無沙汰してます。こんな所で小林さんに会うとは驚きました。仕事かなにかで?』
と、問うと
「ちょっと用があって職場に行ったんだが、久しぶりに会えると思った承一がおらん言うし、奥さんと子どもに手土産だけでも届けて帰ろうと思ってな〜」
そう言いながら承一の持つ手一杯の荷物を幾つか手に取り持ってくれた
何を聞くわけでも無く、何も言わず…ごく自然に。
響子達も軽い会釈を交わし、男同士の会話をBGMにテクテクと歩き続けた
「なぁ承一君よ〜。ワシ腹減っとんねん。うどんの1杯くらいご馳走するから付き合ってくれへんか?奥さんや子ども達もどないですやろ?行ってくれますか?」
響子が少し返答に困って承一を見上げると、すかさず
『ご馳走してもらわんでも小林さんの誘いは断れませんね〜行きましょ』
店に着くと、すぐさま小林さんがサッと椅子をひき響子とマキを座らせて荷物を座席に置いた
そして、別のテーブルに承一と向かい合って座った
世間話をしていると、うどんが運ばれて来た
小林さんが立ち上がり、響子の元へと向かい
「イサム君やったかな?抱っこさせてもろて良いか?ワシは猫舌やからすぐには食べれへんねん。奥さんと…マキちゃん?やったかな?ゆっくり、たくさん食べるんやで」
と、ニコニコしながら有無を言わさずイサムを抱き上げ自分の席へと戻った
慌てる承一をも制止して、先に食べろと言ってイサムをあやしていた
「それはそうと承一君は今から何処へ行くんや?」
『ちょっと職場へ行こうと思ってます』
「おーそうか。それはちょうどええわ!ほな、仕事の話は職場へ行ってからゆっくり話そうか〜」
『仕事の話ですか?』
「まぁええがな。それより腹ごしらえや!しっかり食べ」
小林さんが猫舌ではないことを承一は知っている
承一は急いでうどんを駆け込むようにして食べ、イサムを抱いた
イサムにうどんを食べさせながら、愛娘が亡くなった時に駆けつけてくれた時のお礼と、その後に挨拶にも行けなかったことを詫びた
「気にすることない。それどころや無かったやろ。そんなことよりまたこうして一緒にご飯食べて、話せてる。それだけで十分や」
小林さんが、いつの間にやらあっという間にお会計を済ませていて、承一はイサムを抱きながら手一杯に荷物を持とうとしていると
「かさ張る荷物は俺が持つから子どもをしっかり抱いとけ〜どうせ行く先は同じや〜。あ、マキちゃん!しんどかったらいつでも言いや!おっちゃんが抱っこしたるで」
またもやニコニコとした朗らかな笑顔で荷物を手分けして持ちながらマキをも気遣ってくれていた
恥ずかしそうに照れながら響子の後ろに回ったマキの手を引くと、マキは響子の顔を下から覗きみてニッコリと微笑んだ
マキのこんな穏やかな笑顔を見たのがとても久しく感じられた
『先輩すみません。ご馳走になりました。』
響子もお礼を言うと続けてマキもつたなくお礼を言った
「今度はもっと美味しいもん食べに行こうな」
マキの目線まで視線を落とし腰をかがめながら指切りをした
小林さんは終始笑顔だった
お腹が満たされたことでお腹にも足にも力が入り、幾分足取りも、心までも軽くなった気がした
職場に着くと、工場長が少し驚いた様子で即座に事務所へ案内してくれた
小林さんが
「承一の家に向かう道中で会いましてね、ちょっとご飯食べて一緒に私も戻って来ましてん。さっきの話の続きもあるし、ひとまず奥さん子どもは休ませてあげてもらいたいんですけど、いけますか?」
事務所の奥にある休憩用のスペースに荷物を下ろし、響子と子ども達に、ゆっくり横にでもなって気楽に過ごすようにと告げ、カーテンと扉を閉めた
承一が今日はすみません。と言おうとした所で工場長が間髪入れず
«響子ちゃん随分やせ細って…大丈夫か?それであの荷物…家を出たんか?行く宛てはあるんか?»
と矢継ぎ早に問いかけてきた
承一は静かに
『行く宛ても無いのに、我慢の足らん私は嫁と子どもを連れて家を出ました』
«そうかぁ…まぁ小さい町やから、噂で色々聞いたりしてるけど、人の言うことやからどこからどこまでがホンマの話かわからん。せやけど響子ちゃん…ここまでやと思わんかった。こんなん言うたら悪いけど…お義母さんちょっとどころか、やりすぎや。キツいわ。承一君も苦労が耐えへんな。気丈に振舞ってんのはわかってて正直、承一君も倒れへんか皆心配しながら見守ってたんや»
『私は心配要りません。ただ、今日の早退理由の嘘はほんまにすみません』
«そんなことは心配せんでええ。奥さんと昼寝でもしてくれたらええ思ってたくらいや»
工場長のこの言葉で堪えに堪えていた承一が泣き崩れた
小林さんは口を挟むことなく黙ったまま、ことの成り行き見届け、工場長はもらい泣きしながらインスタントコーヒーをいれた
承一が少し落ち着いた所で、冷めたコーヒーを3人で飲んだ
そのタイミングで小林さんが
「実は工場長にはもう話はしたんやけど、承一君さえ良かったらウチへ来て働いてくれへんか?引き抜きになるやけど、今聞いた話では住む所も必要やろ?ウチに空いてる部屋がある。職場はここのままでもウチに来てもらうのも、この際どっちでもええ。考える時間も必要やろうから…まずは、安住の地が先決やと思うんやけど来るか?決して広い部屋でも無いけど、家族で暮らすにはそんなに不自由は無いと思う。1回見てみるか?」
藁をもすがる気持ちで
『はい』と即答した
「ほな、善は急げや!まずは承一君が見て、奥さんと相談し!行こ!」
早速、動き出した小林さんにつられて勢いで工場長までもがついて行くことに。
向かっている途中で、工場長が
«なんで俺ついてきてるんや?»
素っ頓狂な言葉に触発されて3人で腹を抱え声をあげて笑った
今の職場から歩いて10分ほどのところだった
独立する際、住込みも受け入れる予定で3棟だけ従業員用の住居を建設した
3棟のうち、2棟は独身若しくは2人用。1棟だけファミリー用に設計されていた。
たまたまこのファミリー用に入居(入社)予定だった家族が諸事情により入社しなかったことで空いていたのだ。
外観も内装も申し分無かった
だが、承一の悩みの懸念は住居費だった…
嘘か誠か…小林さんの話では3ヶ月の猶予の後、給料から天引き(支払い)の措置をとっていると言う
工場長が、すかさず
«悩むことは無いんじゃないか?通うにしても、ここで仕事をするにしても、御の字ちゃうか?»
との言葉に背中を押され、引っ越すことを決めた
事務所に戻って休憩スペースを覗くと、響子もマキもイサムも気持ちよさそうにスヤスヤと眠っていた
住む場所が決まって、ホッとした承一も全身の力が抜けドッと疲れが押し寄せてきた
気がつくと、小一時間ほどソファーで眠っていて慌てて飛び起きた
事務所のデーブルの上には果物や、惣菜等の食べ物が所狭しと並んでいた
職場はまだ稼働時間だったにも関わらず、承一が眠りについたのを見た工場長が、今日は皆早じまいにして、帰る者は帰って良し、残れる者は残って引越し祝いを兼ねた新しい門出をお祝いしてやろうと提案したのだ
承一の同僚をはじめ、かつての響子の同僚や先輩が率先して残ってくれ、準備したご馳走だった
その間、小林さんはお布団一式を準備し、新居に運び入れていた
帰った者は、有難いことに1人も居なかった
この日ばかりは昔話に花が咲き、泣いたり笑ったりしながら お茶目でお喋り好きな響子に戻っていた
承一も響子もお酒が苦手な(飲めない)ことを皆知っていたのと、幼い子どももいたので、ジュースやお茶で乾杯し、久々に賑やかで楽しい食事を堪能した
そろそろお開きとなったところで一斉に片付けが始まり 荷物運びも手伝ってもらい、小林さんの案内の元
新居へと向かった
新居へ着くやいなや、やっぱり響子はまた泣いた
置いてきたお義母さんのこと。亡くした愛娘のこと。皆の心暖かい優しさに包まれて今ここに居ること。あんなことやこんなことが思い出され複雑に絡まり、言葉では表現できない罪悪感や感謝に、涙した
後に母(響子)は、この日を境に、人間として息を吹き返した忘れられない瞬間で、岐路であった。
あの日、父(承一)が手を引いてくれなければ今の私は存在しない。と…
一筋の涙を流し、アコに思い出話をした一幕である