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3/3

事実

 その部屋は他に比べて一際大きいという訳ではなかったが、中央に食卓が鎮座しておりいかにもリビングという印象だった。食卓は四つの椅子に囲まれており、そのうちの一つには初老の男性が座っていて、紅茶を飲みながら茶色の装丁を施された本を読んでいる。


「パパ、お兄さんが目覚めたよー」

「おぉ良かった。意外と早いお目覚めだったね」


 初老の男性は顔を上げ、アイトに向かって微笑んだ。小さな所作の節々から温厚さが漏れ出ているような人だった。

 アイトはしずしずと歩み寄って挨拶する。


「入江アイトです。よろしくお願いします」

「これはご丁寧に。ベネディクト・クレイグです。こちらこそよろしく」


 ベネディクトは向かいの椅子へ座るようアイトへ促す。アイトは言う通りに座り、イザベルは着替えに行った。


「気分はどうだい?寒気とかがあるなら遠慮なく言って構わないよ」

「いえ、問題ないです。もう元気ですから」


 さっき吐いたからすっきりした、とは言えなかった。

 ベネディクトは安心したようで、


「紅茶飲むかい?苦味がなくて飲みやすいよ」

「いただきます」


 ベネディクトは机の上に伏せてあったティーカップを一つ取り紅茶を注ぐ。差し出された紅茶に口をつけると、まろやかな味以上に暖かさを強く感じられた。思ったより体が冷えていたらしい。

 紅茶を飲んでいる間にイザベルがリビングへ戻ってきて、ベネディクトの横に座る。それを契機にベネディクトは新たな話題を切り出す。


「気に入ってもらえて良かったよ。それでいくつか質問があるんだけど……」


 ベネディクトはより笑顔の輝きを強めながら


「アイト君はどうして、砂浜で倒れていたんだい?」

「はい?」


 アイトは驚き、口をぽかんと開く。


「俺、砂浜で倒れてたんですか?」

「そうなんですよ!」


 イザベルが上擦った声で話の続きを引き取り、


「多分、海から流れ着いたのかなぁ。ほら、さっき吐いた時水っぽかったじゃないですか。多分、あれは飲み込んじゃった海水だと思います」


 筋の通った説明を聞くことでアイトは更に混乱する。曖昧な記憶とはいえ、目覚める直前は学校か家で過ごしていたものだと考えていた。なにか見落としはないか、必死で記憶を攫ってもやはり掬い上げられるのはいつも通りの日常だけだった。


「すみません、俺も全然分からない……自分の家は内陸にあるから海なんてあり得ないはずなんですけど」


 三人して腕を組んで悩みだす。埒が明かない、と思ったアイトはとりあえず自分の中にある疑問を全部ぶつけることにした。


「えっと、ここっていったいどこなんですか?地名とか……」

「ここはウルスラ島の、ウィードヒルですね」


 食い気味なイザベルの返答にピンと来ず、視線を彷徨わせるアイト。およそ日本の地名ではない。

 見かねたベネディクトが助け舟を出した。


「地図を持ってこよう。確か、奥の部屋の棚の上に置きっぱなしのはずだ」


 その言葉を聞いた瞬間イザベルが勢いよく立ち上がり、


「私取ってくる。足悪いんだからお父さんはじっとしてて」


 かつーん、と何かを蹴とばす気の抜けた音を立てながら走り出す。見送った後にベネディクトへ向き直ると、彼はため息を吐き呆れていた。


「まったく……十六にもなるのに全然落ち着きが無くてね。思い込みが激しい、とは少し違うんだけど、脳と筋肉が直結してるからすぐ行動に移してしまう。」

「そんなもんじゃありませんか?俺の友達にもそういう奴はたくさんいたし、それがどうしようもない悪癖ってわけじゃないでしょうし。というか、足、良くないんですか?」


 アイトは質問した。ベネディクトは確かに、容姿こそ老境へ差し掛かっていると言って差し支えないが、同時にとても活力的に見える。休みの日に近所の公園でランニングや体操をやっていそうな男前なおっちゃん、というのがアイトの率直な感想だ。


「あぁ、悪いというよりね」


 ベネディクトは両手で自分の右足を抱え、机の縁にかける。


「ないんだよ、右足が」


 左手がゆったりとしたズボンの裾を捲っていく。飛び出したのは太腿だけで、丸くなった終端には縫合の跡が走っていた。かつての傷口を覆う皮膚は元通りの滑らかさへ再生しているが、やはり形はどうしてもアイトの目には歪に見え、痛々しい感触を連想せずにはいられなかった。

「その、なんで右足が」


 動揺しながらも尋ねるアイトに、ベネディクトは豪快に笑って、


「これでも昔は陸軍にいてね。わしのところにたまたま砲弾が飛んできて、それで吹き飛ばされてしまったのさ。あ、砲弾だけにたまたまね」


 全然面白くない親父ギャグを愛想笑いで受け流そうとしたアイトだったが、果たして本当に笑顔を浮かべられているのか、自信はなかった。

 結局のところアイトは現代日本という平和な世界しか知らず、平和学習などで戦争経験者の話を伺うことはあれど、百聞は一見に如かず。ベネディクトの無くなった足こそが何よりも激しくアイトの感情を揺さぶった。

 それからベネディクトは自身の陸軍時代の思い出を懐かし気に語り始めたが、間を置かず戻ってきたイザベルが話をぶった切る。


「パパ、机の上に足を乗せないで」

「いや乗せてはいないから、引っ掛けてるだけ」

「いいから。あと茶化しにくい話を武勇伝みたいに話すのはやめて」


 反抗期の娘の強い口調には逆らえず、ベネディクトはしょんぼりと足を降ろす。


 イザベルが持ってきた地図はかなり巨大で、紅茶のカップを移動させて机の全面を使っても収まりきらないくらいには大きかった。英語で大陸や地域の名前しか書きこまれていないシンプルなもので、イギリスを通る子午線を中心に据えており、日本が端の方にあることはアイトにとって少し新鮮だった。

 大分年季の入った地図のようだった。紙は古くなって赤茶けており、虫食いこそないが縁の部分は小さな裂け目がいくつも入っている


 なんというか、大昔の海賊が残した宝の地図みたいでちょっとワクワクするな。 

 そんなくだらない妄想を巡らせるアイトを余所に、イザベルは探し出した地図のある一点に指を振り下ろす。


「ここが!ウルスラ島です!」


 そこは何もない大西洋のど真ん中だった。


「指で隠れてる指で隠れてる」


 ベネディクトがそっとイザベルの指をずらすと小さな島の形が現れる。なるほど、ここがウルスラ島か。


「いやおかしいだろ」


 心の声が思わず漏れる。


「どうおかしいんだい?」

「俺が住んでるのはここです」


 アイトは少し歪な日本列島を指先で叩く。位置的には地球のほぼ反対側、と言って差し支えない。

 こんな離れた場所に俺がいるわけない、とアイトは言いたかったが、イザベルらが嘘をついているとも到底思えない。むしろこれまでに感じた数々の疑問を考えると、不思議と納得いくような気がした。


「不思議なこともあるもんだね。一応聞くけど、気を失う前に船に乗ってた、とかはあるかい?」

「いや、そんなはずはないです……どれだけ頑張っても思い出せるのは家の近所だけで、どう考えてもこんな場所に流れ着いたりしない」


 ベネディクトはうーんと唸り、


「もしかしたら記憶を失っているのかもしれない。アイト君の身に何が起こったのか知る術はないが、例えば、船に乗っている時に強く頭を打って海に落っこちてしまった、ならそれなりに納得いく理由になれるだろう」


 記憶を失っている。その仮定はアイトが抱えていた疑問の一部にぴったりと嵌って、大きく頷いた。記憶が明瞭でないのも自分の苗字をなかなか思い出せなかったのも、俺が記憶を失っているせいで本来はずっと前の忘れかかった記憶を直近のものと勘違いしているから、かもしれない。


「アイト君。君、いくつなんだい?」

「十四です」


 唐突に投げかけられた質問に淀みなく答えたアイト。そこに介在するものはなく、ただ自明のことを答えたつもりだった。

 だが二人の顔は一気に驚きを湛えはじめる。


「アイト君、あそこに置いてある姿見で自分の姿を見てみるんだ」


 二人の表情に釈然としないものを感じたアイトだったが、言われた通り、部屋の端に置かれている鏡の前に立って自身の全身を眺める。そして愕然とした。

 シルエットが明らかに自分の知っている自分と異なっていた。平均身長を上回ることのなかった上背は、比較対象がなくとも一目で分かるほどに成長している。細く頼りなかった四肢は薄くも硬い印象を与える筋肉の層で支えられ、丸みを帯びて幼さを残していたはずの顔つきは引き締まって鋭さとも呼べる雰囲気を持っている。


 少年というより、青年という言葉が似合う容姿だった。


「誰⁉」


 どう考えても自分でしかない。俺は確かにこの体を自分と認識しているし、大きく容姿が変化していても随所に自分の面影が残っていて、客観的に考えても成長した自分であることは疑いようがないのだ。


「やはりね。今の君は多分、二十歳前後といったところかな。だいたい五年……記憶の欠落があるとみていい」


 強烈な事実はアイトの自己認識を揺さぶる。軽く考えていた記憶喪失という概念が急激に膨張しリアリティを持って襲い来る。失われたであろう自分の人生に思考を縛られ、ベネディクトの冷静な分析をほとんど聞き取れていなかった。狼狽を隠せず、フラフラとした足取りで食卓に戻り座りなおす。


「訳分かんねぇ」


 体を椅子の背に投げ出して天井を仰ぎ見る。自分の知らない変化が決定的だった。

 未知の場所、謎の言語に加え変わってしまった自分。あまりに多い理解不能な事象がアイトの許容量を上回り、涙がぽつぽつと流れ落ちる。またみっともない姿を晒して、それが情けなくて嫌な気持ちだけがリフレインする。何もかもから逃げ出したいが、立ち上がるほどの気力も無かった。


「アイト君、気――」


 ベネディクトが声を掛けた瞬間、くぐもった低音が鳴り、その後居間は静寂に包まれた。中身を全部吐き出して空になった胃からの苦情だった。

 途端にアイトは全部が馬鹿らしくなって、人形のようにカクンと首を戻す。滲む瞳を必死で堪えながら、乾いた笑い声を漏らす。


「すみません」

「いや、いいんだ」


 ベネディクトはまた穏やかな微笑みを取り戻し、


「ご飯にしよう。腹を満たして、まずは元気を取り戻そうか」


 そう言うとベネディクトは自身の足元を探り出したが、すぐに怪訝な顔を浮かべて周りを見渡し始める。しばらくするとある一点を見つめ、釣られたアイトもそちらへ視線を向けると、少し遠くの壁の傍に義足が転がっていた。 

 あぁ、イザベルが地図を取りに行ったときに蹴とばしたのだろう。

 ベネディクトも同じ考えなようで、


「イザベル、何回も言うようだけど落ち着いて行動するようにして」

「急ぐことの何が悪いの」


 反抗期の娘は自分視点では謂れのない叱責に反抗心をむき出しにしたが、父親に頭を掴まれ視線を義足の方に向けられると、


「ごめんなさい、取ってきます」

「分かってくれたらいいさ。自分で取れるから」


 ベネディクトは義足の方へ腕を伸ばす。いやそこからはどう考えても届かないだろ、と訝しむアイトの耳に鼻歌のような静かな呟きが吸い込まれていく。 

 そして呟きの旋律に呼応するように、そよ風に吹かれる落ち葉のように義足は浮かび上がった。


「え?え?えぇ?」


 義足はゆっくりと空中を移動してベネディクトの開かれた右手に収まる。

 また訳の分からないことが増えた。けれども浮遊する義足は自分に一切関係のない怪奇現象な分、アイトの思考は完全に止まった。


「これはわしの魔術だよ。地元の伝承を使ったやつでね、魔力を込めた物体を対象へ必中させるのさ。今回で言えば、魔力を帯びた義足を自分の右手へゆっくり命中させた」


 その言葉でアイトの脳内には、これまでの疑問と憂鬱を全て隅に押しやれる「異世界」という都合の良い単語が浮かび上がっていた。



よろしければ私めに評価ポイントを恵んでくだせぇ

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