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闇の中

「さすがだよ。やっぱりアイトは天才だ」

「まったくだな。長いことこの世界に身を置いているが、お前ほどに理性と執念を兼ね備えた人間を私は見たことがない」


 知らない誰かが何故か自分を褒めてくれている。普通ならば困惑するしかない状況だが、不思議なことに懐かしいという気持ちが胸の中を埋め尽くしていた。

 しかし直後、左足に何かが当たった。瞬間、木製の彫像が地面に叩きつけられて砕け散るイメージが脳内を支配し、実際の体も左足を起点に砕け始めていた。

 体は硬直し、視界は崩れ行く自分をただ捉えている。肉体を壊す謎の効果は全身へ伝播し、一切の抵抗を許さぬまま肉も骨も関係なく腐り落としていった。

 数秒に過ぎないことを恐怖が延々と引き延ばす。完全に胴体が失われ、崩壊が脳へとたどり着いて彼の意識を奪い去り――


「はぁっ」


 奈落へ落ちるようなおぞましい浮遊感とともに、少年は飛び起きた。はっきりと不快な汗の粘り気が感じ取られ、息を落ち着かせながら理解できたことは、自分は悪夢を見ていた、それだけだった。腹の奥底に重い鉛が沈んでいるような感触が、気怠さを増幅させる。


「なんだったんだ、今の」


 最初の聞き覚えのない声はいい。謎の人間が現れることなど、夢ならばたまによくあることだ。次にやってきた、見覚えのない光景が問題だった。

 ただの悪夢と切って捨てるには、凄まじい臨場感を放っていた。実際に起きた出来事の再放送のように詳細で、自分の体が硬質的にバラバラと砕けていくこの世のものとは思えない痛みが今もはっきりと蘇ってくる。

 

 そして襲い来る苦痛とは対照的に、自分を取り巻く状況に関して何一つ思い出せなかった。

 少年は紫色のカーテンがついている小さな天蓋付きベッドで寝かされていたが、こんなベッドはアニメや漫画の中でしか見たことがない

 部屋を飾る調度品にしても、ヨーロピアンで稠密な意匠が施されたマホガニー製の収納や机が、荘厳な雰囲気を醸し出している。多少の傷はあるものの、それすら過ぎた年月を匂わせて味わい深い印象へと昇華させていた。

 自分の家で役割を果たしている家具類はもっとシンプルで、犬が椅子の足を嚙んだりしていたから、ボロボロというのが正しい評価だ。

 挙句の果てに、ベッドの向かいには暖炉が据え付けられている。こんなものが日本の一般的な家屋にあるわけがなく、今いる場所が洋風の豪邸であることが察せられた。


 悪夢が招いた不快感は困惑へと遷移する。少年は眠る直前まで自分が何を行っていたのか覚えていなかった。いや、記憶はあるにはあるのだが、とても遠い過去のことのようにうろ覚えで、時系列が分からない。昨日のことでもおかしくないハズの中学校へ向かう通学路の光景が、霞みがかってぼやけている。本来の日常がとても遠くに感じられた。


 ここは一体どこなんだ?俺は一体何をしていて、なんでこの部屋で眠っていたんだ?


 分からないことは尽きない。だが「これだけ格式高い部屋を使わせてくれているのだから家主は悪い人じゃないだろう」と推測し、被せられていたタオルを除けながらベッドを降りる。まだ悪夢の影響が残っているのか、視界に違和感を覚えて思わず下を向き、荒い息を吐く。そこで全裸の自分を目撃し慌てて除けたばかりのタオルを腰に巻いて、それから部屋を探索し始めた。

 あんまり荒らしちゃ悪いかな、と少年は遠慮し部屋を眺めて回るだけだったが、おそらく使って居なかった部屋なのだろう、至る所に薄く埃が積もっていた。


 この家に住む誰かに話を聞くのが一番早いな。家人を探すため少年は部屋の外を探索することに決めた。

 真っ白に塗られたドアの奥もまた、元居た部屋と同じく豪華な家具が使われている部屋。しかし今度は生活の気配がありありと感じられた。

 開け放たれたままの収納には女性の服が大雑把に畳まれた状態で詰め込まれており、ベッドの傍らでは何十冊もの本が乱雑に置かれて山を作っている。机の上には紙束がいくつも積み上がっており、整理しようとした痕跡とそれを諦めた痕跡が同居していた。


「すげぇ性格が伝わってくるな」


 掃除したい欲をぐっと抑え込み、少年は次の場所へ進むため新たなドアノブに手をかける。断りもなく他人の部屋に長居するのはあまり気分が良くない。

 ドアをゆっくりと押し、開けようとした時――


「うぉっ!」


 ドアの反対側から強く引っ張る力が伝わり、無防備な体はそれに抗えるわけもなく、バランスを崩して奥へ倒れ込んだ。何が起きたのか理解する間も無く、ただ「きゃぁっ!」とドアの向こうにいた誰かの甲高い悲鳴が脳へ飛び込んでいった。遅れて衝撃がやってきて、洗濯機の中でシェイクされているような感覚が全身を襲う。

 そのとき、ふっと息を呑む音がした。


「よかった。目が覚めたんですね」


 誰かが喜び勇んだ声で少年に話しかける。

 だが、やばい。さっきの衝撃で、腹の奥底で眠っていた化け物が目を覚ましたらしい。


「どうかしました?もしかして、打ち所が悪かったとか⁉」


 黙りこくったままなことに危機感を抱いたのか、誰かは少年の顔を覗き込む。目だけで気配の方を流し見ると、心配そうな表情を浮かべているバイオレットの瞳を持つ少女と目があった。

 助けを求めよう。逸る気持ちに押され口を開いた瞬間、

「オゥェェェエ!」

 少年は盛大に吐いた。



「いやいや、しょうがないですから。あんまり気にしないでくださいって、ね!」


 少女はそう言って少年を慰めながら、タオルで吐瀉物を拭き取っていた。


「すみません、ありがとうございます……」


 蹲りながら少年は返答する。蹲っているのは二つの理由で立ち上がれないからだった。

 一つ目は精神に甚大な被害を受けた所為。ゲロを吐いたときに、飛び散った飛沫が思いっきり少女のロングスカートを汚したのを目撃してしまっていた。もう気まず過ぎて視線を合わせられない。

 もう一つは、少女が拭き取るのに使っているタオルはさっきまで少年の腰に巻き付いていたということ。つまり彼は今全裸であり、股間のモノを隠すためには蹲るしかない。

 それが精神へ更にダメージを加える。不幸中の幸いと言えるのは、滑らかな板張りの床に吐き出したものはすべて液体だから拭き取るのにさほど苦労はしなさそう、くらいか。

 なんだか自分がトイレの躾がなってない大型犬のように思えてきた。あんなに可愛くないわ俺。


 少女は胃液と混ざって黄土色になった液体をあらかた拭き終えると、遠慮がちに少年へ話しかける。


「あの、服を持ってきてたんです。よかったら着てください」

「是非に」


 少年は顎を床にぶつける勢いで伏せた状態から顔を起こす。実際ぶつけて少し痛かったが、この気まずい状況を抜け出せると思うと痛みなど気にならなかった。


「あっちに置いてるので。私は後ろ向いてますから」


 少女の指さす方向にはビリヤードテーブルがあり、その上に衣類が乗せられてあった。少年は素早く立ち上がるとすぐさま身に纏う。

 サイズは少しだけ小さく、くるぶしや下腹に服の裾がひらひらと当たっていた。


「ごめんなさい、これ以上のサイズは無くて……」

「謝らないでください、むしろこちらがごめんなさいと言わなきゃいけない」


 人のゲロを拭き取って服まで用意してくれた人に文句などつけられるはずもない。

 少女は安心したようで、「お父さんを紹介しますから着いてきてください」と言って背を向けたあと、弾かれたようにまたこちらへ向き直る。長い、赤みがかったセピアの髪が空中で踊る。


「お名前、聞いてもいいですか?あっ私はイザベル、イザベル・クレイグです」

「俺はアイト……アイト」


 そこまで言って、アイトは自分の苗字を思い出せなかった。数秒必死で悩んで、中二病時代の二つ名「神讃寺皇斗」が脳裏をよぎってから、ようやく思い出す。


「入江だ、入江アイトです。入江の方が苗字で……」


 説明しながら、薄気味悪いものをアイトは感じていた。

 目の前にいるイザベルは髪と瞳の色、彫の深い顔立ちといいヨーロッパ系の人なのだろう。それは何もおかしなことではない。日本にだっていろんな人が住んでいる。


 ではなぜ、俺は日本語で相手は英語で喋っているのに会話が成立しているんだ?


 アイトの英語力は中学二年生程度。優等生だったとはいえ、その程度でネイティブの会話を聴きとることなんて不可能だ。

 なのに彼女の言葉が、まるで当然のように理解できる。違和感なく、言葉に含まれた微妙な意味合いすら逃さずに。イザベルの方も問題なくアイトの日本語を聞き取れているようだった。

 というかここは日本で俺は見ての通り日本人なんだから、普通は片言だったとしても日本語で話しかけないか?


 浮かび上がる疑問は尽きず、思考の沼から抜け出せなくなっていたアイトだったが、イザベルの声が彼を現実に引き戻す。


「どうしました……?もしかして、また吐き気が⁉」

「あ、そういうのじゃなくて、ただちょっと考え込んでただけです。体調は全然大丈夫」


 俺がおかしくなっているのか?もはや理解不能な事象が多すぎてアイトの頭はこんがらがっていた。整理する時間が欲しい。

 アイトはイザベルを促して、その背を追った。ボールがランダムに散らばったままのビリヤードテーブルの脇を通り過ぎ、壁に飾られた数枚の絵画を眺めながら歩く。

 二人はすぐに白いドアの前で立ち止まる。イザベルがこちらを見て、


「ここがリビングです」


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