謎の男
ウルスラ島。最寄りの大陸から千海里近く離れた、大洋のど真ん中にある小さな島。元来は無人島であったが探検家によって発見され、木材や水と言った航海に欠かせない物資を手に入れられることから人が移り住み始めた。それから長い年月を経た現在では長距離航海の際の寄港地、海軍の基地として発展している。絶海の孤島である以上、都会のような先進的で高度に文明的な暮らしは望むべくもないが、ゆったりと流れる時間の中、島民たちは各々の生活を謳歌していた。
そんな平穏と言う言葉をそのまま現実に落とし込んだかの如き孤島。朝日差す黎明の砂浜で少女が一人、歩いていた。
少女は時折しゃがみ、何かを拾う。それらは漂着物であり、少女が小脇に抱える木製のバスケットの中にはかつて船のパーツを構成していた木片、どこか遠くの森から流れ着いた木の実、誰かが捨てた瓶が入っている。本音としては琥珀や龍涎香といった貴重なものが欲しいけれど、貴重なだけあってなかなか見つからない。
少女は別に、島にある数少ない海岸を美しく保ちたいとか、環境汚染が許せないなどの高尚な理由でこの行為を行っているわけではなかった。むしろ嵐の後のゴミが散乱する光景を目にすると嬉しくて堪らなくなる。目的は掃除ではないのだ。
人の手を離れ水上を漂うという事象。その神秘を経ることで、あらゆる存在は神に近づき、魔術的な価値を持つ触媒へ変化を遂げるのだ。
遥か古代、一人の赤子が両親の手によって川へ流された。当時、ある民族が増えすぎることを懸念した王はその民族の男児を皆殺しにするよう布令を出したのだ。運悪くその赤子は該当の民族の元に生まれ、彼を隠しきれなくなった両親は苦肉の策として彼をパピルスの籠に入れて大河へ流した。誰かが拾ってくれるかもしれない、その一縷の望みをかけて。
幸運なことに、その願いは天へと届いた。皮肉にも彼を殺すよう号令をかけた王の娘によって拾いあげられたのだ。
やがて成長した彼は神の言葉を預かる預言者となり、苦難を運命づけられた同胞たちを約束の地へ導いていく。
このような例は枚挙に暇がない。かつて地中海全域を手中に収めた大帝国の始祖は、赤子の頃に双子の弟と共に川へ流された。しかし牝狼によって育てられらたのち、囚われの身にあった先王であり自らの祖父を助け出し自らの国を築く。様々な難敵を打ち倒し繁栄を手にした彼は神となり、現世から姿を消した。
東洋においても、不具の身に生まれた神の子が葦船に入れられて海へ流されるも、たどり着いた地で信仰の対象となった例が存在するのだ。
少女が漂着物を拾うのは、彼女が魔術の研究者だからであった。神との接触以降に発達した近代魔術と言うのは神へ近づく行為、あるいはその身に神を降ろす行為を主に指す。魔術の発動の際、神的な性質を持つ触媒を用いれば魔力や技術でもって行われる手順を一部代替でき、より魔術の完成度を高めることが出来るのだ。
研究として様々な実験を行うためには触媒は欠かせない。工場で大量生産された人口触媒は個々の差異が少なく比較対照に適しているが、生憎ここは絶海の孤島で、そんなものはなかなか運ばれてこないし、来たとしてもこの島の管理者である軍が買い占める。天然触媒は効果の差が大きくもはや儀式等にしか使われない古臭いものだが、その点は妥協する他なかった。
その日の作業もいつもと変わらず、テキパキとこなしていった。木片やゴミといった二束三文のクズ触媒ばかりだったが、使い道がないわけではない。眠気を堪えながら無機質な心持で少女は作業を続ける。
作業初めて十数分、砂浜の端の暗がりに存在する、ずっと巨大な流木だと考えていた大きな影が、近づくにつれどうも違うように思えてきた。はっきりと見えるようになった輪郭が木にありがちな直線的な形状ではなく、滑らかな曲線を描いているのだ。こういうものは大抵動物や魚の死骸だったりしてひどい匂いを放ち、そのせいで海鳥や羽虫がたかるのだが、そういう様子も見かけられない。
不審に思った少女は、とりあえず現在の作業を中断して謎の影に近づいていく。もしかしたらあれは初めて見るタイプの漂着物で、行き詰っている私の研究に光を齎してくれるかもしれない。
淡い期待を抱いて駆けだした少女が、海と陸の境で目撃したのは――
意識のない、全裸で横たわる男だった。
思わず少女は砂浜に尻もちをつき、内心だけで恐怖を抱えきれなくなって、小さく呟く。
「死んでる……」
死体を見ることが初めて、というわけではない。けど、こんな風に唐突に現れたらやっぱり怖い。
しばらく少女は座り込んで放心していたが、押し寄せる大きなうねりが彼女を現実へ立ち戻らせた。大きな音と共に高速で近づく水に追われ、慌ててその場から逃げ出す。間一髪で水から逃げ切れたことに安堵していると、件の男の体が返す波に攫われ、陸から離れていく様を目の端で捉えた。
「あっ!」
濡れるのも厭わず、少女は海に入り男の左腕を捕まえる。
彼をこのまま海へ漂わせることは酷いことだ、そう感じたのだ。細い腕に渾身の力を込めて男の体を引っ張り、砂浜へ引き上げる。また波に攫われないよう、しっかりと踏ん張って砂浜の上を引き摺る。男の体が砂を押しのけて描いた軌跡は、すぐ大波に洗われ消え去った。
疲れ果てた少女は柔らかい砂浜に体を投げ出す。自分の荒い息遣いが少しずつ収まってくると、もう一つ、とても静かな呼吸音を聞いた。
「んー?」
男の口に耳を近づける。規則的なそれは、明らかに寝息だった。
「なんだ……」
拍子抜けして体から力が抜ける。生きていて良かったような、焦る気持ちを裏切られて悪かったような。いや、生きているに越したことはないのだけど
しばらく砂浜に座って心と体を落ち着けた少女は、男がどういう人間なのか知るため色々調べることに決めた。
皮膚は傷どころかニキビ一つない、まっさらなシーツのようなきめ細かさだった。大柄とは言えないが、引き締まって力強さを感じさせる体格。この島にも少なくない東洋人的な顔立ち。怪我はなく、脈拍を図っても正常で、体温は高くも低くもない正常値。
なぜ彼がこんな場所で、しかも全裸で倒れているのか、少女には不思議だった。船から落ちた、あるいは泳いでいる最中に溺れて砂浜に流れ着いたのなら、こんな風に穏やかな呼吸はしていない。意識がない状態で水中にいれば肺に水が流れ込んで、スムーズな呼吸は阻害されるからだ。砂浜を散歩中に倒れた、とするのならば、なんで全裸なのか。この島で生まれて十六年、人との交友が多い方ではないけれど、それでも島を全裸徘徊する不審者が出没しているのであればさすがに噂になって私の耳にも入る。
いろいろと考えを巡らせた少女だったが、途中でそれを打ち切る。今はそんなことするより、この人をどこかへ暖かいところへ連れて行かないと。南国の島とは言えこの時期の早朝は肌寒い。今は問題なくとも、ここから体温が下がって低体温症になることもあり得るのだ。
とりあえずは家かな。しかし走っても片道三十分弱かかるし、少女の腕力では男を背負うことすら難しい。
こういうときはやっぱり、魔術に頼ろう。ポケットから一枚の紙片を取り出し、
「呼吸させるもの」
足元の砂浜が蠢きだす。粒子であり個々に独立していたはずの砂は、少女の体から滲み出た魔力を媒介としてお互いを結び付け、言葉が意味する形を目指す。ハサミの形をした腕が平面から浮かび上がり、複数の足と巨大な尾が形成され、最後に全ての起点となる胴体が現れる。
魔術が砂を用いて作り上げたのは、人すら捕食しそうな巨大なサソリ。仮初の肉体を得た彼は、自らの主へ向き直り指示を待つ。
「この人を家まで運んで」
指示を了承したサソリは一度砂浜に溶けると、次は男の真下に現れて背に男を載せる。それを確認した少女は自宅へ向かって走り出し、サソリも足を忙しく動かして後を追った。
がんばります