山の標識
俺、清気敦士は友人の降新二と共に登山に来ていた。
この山には、大学の山岳部の時から毎年二人で登って、もう十年来になる。
登山口から山道に入ると、両脇が天を衝くような杉の巨木で挟まれている。思わず見上げてしまい、その迫力に圧倒される。
谷に架かる吊り橋を渡れば、橋の下を流れる清流を望む事ができる。眺めていると、その流に吸い込まれそうになる。
山の中腹で景色が開ける。そこから遠くに海が見え、時にきらきらとした輝きに見とれてしまう。
そして、山頂には鳥居があり古いが風格のある祠がある。山の神様に挨拶をして下山の道につく。
山の空気は清々(すがすが)しい。
道中のゴミを拾いながら行くので何かいい事をしたような気になる。
等々で山登がやめられないのだ。
今年も何とか二人の都合をつけ、三日間休みをとって山に来た。そして宿に入ったのだった。
しかし、今回は最悪だった。三日間、雨が降り続いた。それもかなりの豪雨だ。最終日、遂に諦めざるを得なくなり、山に登る事なく帰ることになった。
そして宿を出る日の昼頃、車に荷物を積み込んでいると、雨がやんだ。俺達は怨めしそうに空を睨んだ。見送りに出てきてくれた宿のスタッフ達は空を見上げて、お気の毒にというような顔をしていた。
「標識を守れ」
車に乗り込もうとした時に耳元で聞こえた。
俺は、変な事を言うなと思い新二の方に振り向いて
「運転するのは、お前だろ」
と新二に返した。新二は、キョトンとした顔で「そうだけど」と応えた。
アレ、新二が言ったんじゃないのかと思ったが、さほど深く考えずにやり過ごした。
車に乗り込む前にスタッフ達に挨拶をしようと思って彼らの方を見たら、端のほうに見慣れないおじいさんが立っていた。他のスタッフ達は宿の半纏を着ているのに、お爺さんはその半纏ではない着物姿だったので、誰だろうと少し疑問に思った。
宿を出て帰路についた。途中、幾つか標識や表示があったが、さほど問題も無く車を走らせた。他に走る車も無くて気持ち良いほど順調に進んでいた。
すると前の方に本線に合流する地点が見えた。手前に『止まれ』の停止標識とその下に『一時停止』の表示板があった。
俺達が本線に合流するのだが、合流する前から景色が開けていて、本線が一望できた。車は一台も走っていなかった。
運転手の新二は標識の手前でブレーキを踏み、スピードを少し落としたが止まらずに本線に入って左方向にむかった。
俺も、右から車が来ないか注視してたので標識はチラッと見ただけだった。
本線は、進行方向の右側が見上げる山で、左側が見下ろす谷になっていた。
実は、俺は一時停止の標識をチラリと見た時に違和感を感じていた。
「おい、今の標識、何か変じゃなかったか?」
「何が?」
「赤い色が見えた。」
「『止まれ』の標識は赤色だろ」
「いや、その下の青色の『一時停止』の表示に何か赤い色が見えた。」
新二は全く意に介せず、車のスピードを上げた。俺もまあいいかと思い、黙っていた。でも、そのうち車の外の様子が何かおかしい気がしてきた。そして、あの標識が無性に気になってきた。
「おい、ちょっと引き返して見に行こう」
「マジかよ」
新二は俺の言葉を無視するのを躊躇ってるようだが、車を止めようとはしない。
俺は外の様子をじっと見回した。
「変だぞ、静か過ぎる。鳥の鳴き声がしない。」
「いや、何か音がする。」
「水だ、水が噴き出す様な音がする。それに低い響き音。」
「これは、山鳴り。」
「おい、ヤバいぞ。直ぐ引き返せ」
俺は、新二の肩を掴んで叫んだ。新二は、俺の形相を見てただ事ではないと感じたのか、車を止めて切り返しUターンした。
車は来た道を戻る。すると道路が水浸しになっていた。さっき通った時はこんなには水は無かった。そして、車の屋根にぱらぱらと小石が落ちる音が聞こえた。
突然重低音が響き渡った。俺は、振り返って後ろを見た。車のすぐ後ろの方で山肌が滑り落ちてきた。
「山崩れだ」
俺は叫んだ。新二もバックミラーでその光景を見た。斜面の森がそのまま滑って落ち、あっという間に道路を埋めつくし谷の方へ落ちて行った。
「急げ、急げ」
「ヤバい、ヤバい、ヤバい」
まだ、音は続いて、山肌は動いていた。路面もかなり水が溜まっている。山から水が噴き出して道路が濡れている所は、土砂が滑り落ちてきてもおかしくない。
新二は、泣きそうになりながら車のスピードをあげた。俺も生きた心地がしなかった。
そして、あの合流地点が見えた。後ろを見るとまだ、山が動いていた。
俺達は、合流地点から本線を出て、元来た道に逃げ来んだ。そして、しばらく行って車を停めた。
山崩れをおこした山は本線で囲まれていて、脇道に入ったこちら側は、なだらかな林の丘になっている。もう安心だ。
俺と新二は、車から降りて本線側の山を見た。山肌は抉られ、木々は無くなり、土肌をさらけ出していた。そして、今逃げて来た道は、すっかり土砂に埋まってしまっていた。
俺達は、茫然とその光景を見ていた。そして、あのまま走り続けて、あの土砂の下敷きになってたかもしれないと思うと、恐怖の念で身がすくんだ。
それから俺達は、車をバックさせてあの標識を見に行った。
標識を睨み付けて新二が言った。
「何だこれは」
「こんなの気にしないだろう」
「確かに、でもこれの通りにしていたら、あんな危ない目に会わなくてすんだな」
と俺も標識を眺めて言った。
そこには、『止まれ』の標識の下に『一時停止』の表示板があるのだが、その『一時』と『停止』の間の下に挿入印[∧]とその下に『間』という字が、赤く大きく殴られたように書かれていた。
「一時間停止」です。
前回、誤字・脱字を指摘してくださりありがとうございます。