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急な重力変化で地面に打ち付けられた私たちは、一呼吸置いたのち、とりあえず現状を確認するために周囲を見回した。
目の前に広がるのは広々とした森だ。
上から見ていた時には気付かなかったが、どうやらここら一帯は大きな木や色とりどりの草花が大量に群生しているようで、私たちはただただその自然の景色に圧倒されるしかない。
上を見てみると、大きな木から生えている枝葉によって出来た緑の天井が空を覆っている。
そのおかげで少し視界は暗いが、断続的に点在している木漏れ日が、砂漠の中のオアシスのように林床に光を照らしており、真っ暗であるという感じはしない。
むしろその仄暗さが残っているおかげで、光と闇が絶妙にマッチングしており、そこで生きている植物の美しさを際立たせている。
そのような、幻想的な雰囲気が漂う自然が広がっているというのはわかったものの、その反面、どうやら生物はほとんど居ないようだ。
大きな獣の気配はもちろん、こういう森ではつきものの、セミによる鳴き声一つとっても聞こえないのである。
実際耳に入るのは、心地よい爽やかな風によって揺られる木の葉の擦れる音であり、目で見える虫は、綺麗な羽をもっている蝶々や明るく光る蛍などの、比較的人に好かれている虫くらいのものである。
おそらくここを観光地にすれば、女子ウケ間違いなし映えスポット大量アリの名目で、多くの人を呼び込めるだろう。
まあ、境界域なのでそうなる未来は存在しないのだが。
さて。
ここまで見て分かったが、今回私たちが落ちてきてしまった原因は、この場所における重力が強かったからではないかもしれない。
もし、単に重力が強くなっているのであれば、周囲に生えている植物は軒並み潰れているはずだし、飛んでいる虫は私たちのように地面に打ち付けられるはずである。
しかしそうなっていないということは、つまり単純に重力が強くなったとか、そういう訳ではないということだ。
まあ、重力の作用を私たち人間にのみ向けたというパターンもあるだろうが…まあ、なんにせよ、なんの用意もしていないから検証もしようがないな。うん。
そんなことを考えていると、黒谷さんが、地面に生えている草花を踏みしめなが近付いてきた。少し勿体無い気もするが、まあ獣道すら無いような環境なので、そこにツッコんだりとかはしない。
「さて、どうします?一旦後退して境界域を抜けますか?それとも、このまま真っ直ぐ突き進みますか?」
「うーん、そうですねぇ。」
相槌を打ちながら、ここからどうするかを考える。黒谷さんが言うように、境界域に入った私たちが取れる選択肢は基本的に2つである。
一つは、このままいったん後ろ向きに戻って境界域を抜け出した後、ここを迂回して目的地まで進むという方法だ。一般人なら普通はこれを選ぶ。
そしてもう一つは、境界域など知ったこっちゃないと言って、真っ直ぐこのまま抜け出すまで進んでしまう方法だ。一般人がこの選択肢を選ぶと、強い人が近くにいない場合は死ぬかもしれないので、普通はこの選択をしない。
まあ一応、ここの境界域を探索して、魔力の集まる原因を消すことによって境界域を消滅させるという第3の方法もあるが、これは場合によっては相当時間がかかるので、さすがに却下だ。
そして個人的には、このまま真っ直ぐ進んで境界域を突き抜けたいと思っている。
迂回するとなると、境界域の大きさによってはだいぶ大きな時間的ロスになるかもしれないからだ。
それよりかはむしろ、このまま自然を楽しみつつ突き進んだ方が早いだろう。まあ、境界域なので、怪異がでて足をとられる可能性はあるけど、それに関しては私と黒谷さんなら問題にはならないと思うし。
それに、一夏の思い出として、この幻想的な景色に身を委ねるというのもアリだ。うーん、これはかなり青春ポイントが高いのではないか?隣にいるのがおじさんというのを除けば、だけれど。
いやこれはおじさんを除け者にしているわけではなく、同年代の友達とだったらもっと良かったなぁという意味であってね。だから黒谷さんはそんなに落ち込まなくても良いんだよ、うん。ほら、黒谷さんと一緒に冒険出来るなんて、楽しみだな〜、ほほほ。だからほら、元気出して、ね?
そんなこんなで私たちは、この境界域を突き進んでいくことになった。
サクサクと草花を踏む音を鳴らしながら、私たちは落ちてきた境界域を歩いて進む。
本当は一度浮遊魔法で浮かんで進もうとしたが、どれだけ出力を上げても浮かぶ気配がしなかったので、諦めて普通の出力に戻して歩行しているのだ。
ちなみに魔法を切らないのは、いつこの境界域から抜けたかが分かりやすいようにするためだ。
この境界域では重力の鎖があるからどうやっても浮けないが、抜ければその鎖が解かれて、体が浮くはずだからね。
そんななかで、私たちは道なき道を真っ直ぐ進んでいた。
そう言うと大変そうに聞こえるが、木やたまにある長い草以外は大体低めの植物なので、足を置く場所に困るということはない。
とはいえ、何もしていなければ靴の中に草や土とかが大量に入ってくるのだろうが、そこら辺は防御魔法を上手く施すことによって無効化できる。
この、山歩きを舐めてるだろと言わんばかりの普段履いている外ぐつであっても、魔法使いにとってはコンクリートの地面を歩いているのと何ら変わりない状態になるのだ。
そんなことを考えていると、突如前方からガサゴソッと草の擦れる音が聞こえてきた。
その音はどんどん大きくなってきていて、どうやら私たちのいる方向に近付いて来ているように感じる。
その場にいる小さな虫たちが一斉に跳びたち、逃げていく様をぼけーっと鑑賞していると、その奥に、大人1人を簡単に丸呑み出来そうなほどの巨大な影を認識する。
影が木漏れ日の下を通った時に、その姿は日の元に照らされた。
あれは、巨大な蝶だ。その羽の色は青色が黒色に囲まれているようになっており、白色の大きな点がいくつかハイライトとして乗っている。
その美しい色合いをもつ艶やかな見た目は、いくら巨大であっても多くの日本人の心を魅了するだろう。
何がいいたいかというとつまり、どう見ても、オオムラサキをそのまま巨大にしたような見た目をしているということだ。
そんな巨大生物は、私の近くまでくると、その六角形の目が沢山集まって出来た巨大な複眼全てで私をじっと見つめたあと、側面の羽を見せつけるように体を横向きに倒し始めた。
そして特に何かをするでもなく、その頭をぐいっとこちらに向けて、まるでどうだと言わんばかりに無言の圧力をかけてくる。
ええっと、何か感想を言った方が良いのだろうか?
そんなことを考えていると、黒谷さんが私を庇うように前に出て来て、小声で私に話しかけてくる。
「分かっていると思うが、あれは怪異だ。あんな巨大な蝶はこの世界に存在しない。つまり、魔力によって変質した生物ということになる。あまり近付くんじゃないぞ。私が倒してくるから、灯帖さんは防御魔法を展開して待っていてくれ。」
そのようなことを言うと、黒谷さんはあの日見せた魔法を発動する。
即死魔法、黒雷。
魔法陣が出て来る時間もなく一瞬で発動したそれは、目の前の巨大な蝶が黒く光ったと思ったら、その瞬間に消し飛んだ。
どうやら、あの時には展開して発動するまでに0.2秒ほどかかっていた魔法は、今となっては魔法陣すら要らないまでに練度を上げたようだ。
さすがは世界に認められた強さを持つ男だ。
格がちがう。
それにしてもあの綺麗な蝶、どうにかして持って帰りたかったな。
ふと、前世の少年の頃の記憶を思い出す。
網をもって、ジリジリと照りつける太陽の暑さに身を焼かれながらも、羽休めしている蝶にゆっくりと声を殺して近付いて、網をさっとかけて捕まえる。
そしてそれを手に持って、首から下げた虫取りかごの中に入れて、まるで自分の宝物のように大事に家に持ち帰る。
そして、仕事で忙しい両親に代わって私を育ててくれた祖母に、離してきなさいと言われて泣いてしまった、あの頃の色褪せない、キラキラとした夏の思い出。
そういう、後先何も考えず、毎日を本能に身を任せて遊んでいた頃の話だ。
今世では、そのような体験をすることはなかった。
そもそも自分の精神は前世から引き継いだものなので、どうしてもそういうことをやるのが恥ずかしく感じてしまうのが原因なのだろうが。
でも、心に残っている確かな思い出というのは、いつだってそういう、心からやりたいことをやった時のものばかりで。
もしかしたら、私が日々思っている青春も、そういう、心のそこから湧き上がる情熱を燃やさない限りは、その機会があったとしても、キラキラとした記憶としては残らないのかもしれない。
せっかく貰った人生2周目なんだから、もっと本能に忠実に、心を燃やしていかなければならないな、なんて。
そんな大事なことを、消し飛ばされた蝶は教えてくれた。
そんなこんなで。
たまに出て来る、ビックリするほど大きな蝶を黒谷さんが消しとばしながら、私たちは境界域を進んでいた。
この大きな蝶はなぜか私に襲いかかって来ることはなく、全部黒谷さんを襲っていたので、個人的にはただの楽しい散歩であった。
黒谷さんは、守りやすくて楽だと言ってはいたが、それにしてもたぶん黒谷さんは呪われているので、この仕事が終わったらお祓いにでも行ってきた方が良いと思うよ。
それはともかくとして。
何分か歩いていると、突如として体が浮き上がるのを感じた。
数メートルだけ浮き上がるとその場で滞空し、安定しているのが感じ取れる。
この感覚は、いつも浮遊魔法で浮いているのと同じだ。おそらく、境界域をぬけて重力から解放された故に、かけっぱなしであった浮遊魔法の効果で上に浮かび上がったのだろう。
黒谷さんもどうやらそのような感じで、私と一緒に同じ高さくらいまで浮かび上がってきた。
「どうやら、境界域をぬけたみたいだね。」
「ええ、そうですね。では、ここから再び森の上から中心部に向かいましょうか。」
「そうだね。」
そのような軽い会話を挟みつつ、私たちは目的地である中心部へ再び進み始めた。
ーーcmmivveoxn?
「ん?黒谷さん、何か言った?」
「いや、何も?」
ふむ、気のせいだったか。多分、鳥の声か何かが聞こえたのだろう。
私は気を取り直して、目的地である中心部へと目を向けた。
んー。多分、このままいけば、1分もかからずに辿り着けるかな。
9時間以上寝ないと眠くなるのに、9時間以上寝ると頭痛してくるからいつも詰んでる。