きゅう
「さて、まずは自己紹介でもしようか。」
私たちが白い椅子に座るところを見ると、彼女は早速口を開く。
「とは言っても、私は既に名前を失っているので、名乗る名は無いんだよね。とりあえず、幸恵とでも呼んでよ。」
目をつぶり、首を少し傾げて肩をすくめるように言う。その表情に嘘は感じられず、本当に名前がないんだなと本能的に感じることが出来た。
そして、次はキミたちね、と言われてしまったので、私たちは渋々自分の名前を明かす。灯帖茜です、黒谷裕隆です、と。
それを聞くと、彼女は大袈裟に反応して驚く。目をキラキラさせながら、特に私の方を見つめて、ずいっと顔を近づけてくる。
「あなたのお名前、可愛らしいね!やっぱり、この時代の名前は可愛いものばかりで、羨ましいよ。」
彼女はそう言うと、ま、世間話はここまでにしよう、と一区切りいれて、本題に入る前にまずは言い訳だけさせてよ、と続けた。
「初めに言っておくと、私は君たちを害そうと思ってるわけじゃないの。さっきは、まああんなことになっちゃったけど、アレには理由があってね。」
そう言うと、彼女は右手を私たちのいない方向に向けて上げて、何もない草原の部分を指差した。
「まあ、見た方が早いと思うから、ちょっとみせるよ。あの場所をよく見ててね。」
そう言うと、彼女は「家」とつぶやく。
するとその瞬間、その場所に昔ながらの木造の一軒家が、まるでそこに初めから存在していたかのように音もなく現れた。
その家は、ハリボテのように薄っぺらいものではなく、確かにそこに物質として実際に存在しているかのような印象を受ける。
木枠の窓から見える内装もちゃんとしており、机や椅子、棚や食器などがちらりと見え、今からでもそこに住めるかのような感じがする。
「他にも色々出来るよ。例えば、あそこを見てて。」
そう言って今度はまた別の何もない所を指差す。私たちがその場所を見ていることを確認すると、彼女は「木」とつぶやく。
するとその瞬間、やはりそこに初めから存在していたかのように音もなく木が現れる。
しかもその木は、ただそこにあるだけでなく、しっかりと地面に太い根を生やして、まるでそこで何十年も前から生えていましたよと言わんばかりの雰囲気を醸し出している。
「とまあこんな風に、分かりやすくいえば、私は空想を現実にそのまま持ってこれる能力を持ってるの。だからほら、例えばこんなことも出来ちゃう。」
そう言って彼女は私たちの目の前にある白い机を指差すと、「お茶」とつぶやく。
するとその瞬間、私と黒谷さんの目の前に一つずつ何かの液体が入ったティーカップが現れる。
その液体は、見間違いでなければただの紅茶で、数秒の後に高貴な香りが私の鼻腔を刺激する。
これはつまり、今目の前に現れたこれらの紅茶は、魔法で作られた幻想であるとかそういった類いのものではなく、この場所に実際に物質として存在するものを創造したということを示している。
ということはつまり、先程出した家や木もまた、魔法によって作られた幻想などではなく、本当に物質として存在するものを作り出したということになるだろう。
これは、あまりにも異常がすぎる。
通常、魔法によって物質を0から新たに創造するのには相当な量の魔力が必要になる。
たとえば、炭素12グラムを完全に魔力を元にして創造しようとすると、黒谷さんほどの人が毎日鼻血を出すまで魔力を使いづけること約一年分が必要になるほどと言えば想像がつくだろうか。
このように、物質を魔法によって新たに創造するというのは、炭素ひとつとっても現実的ではないことが分かると思う。
だからこそ、魔法によって物質が生成される際は通常、その瞬間にだけ物質が発生するものか、もしくは周りに元となる物質がありふれているかの2択になる。
前者であれば、永続的にその物質は存在しなくてもいいわけだから、その瞬間にだけ世界にその物質が存在するという情報を上書きするだけの魔力さえあればよいことになる。
実際、火を出す魔法なんかは大抵そういう風になっているので、あまり大規模なものとか長時間発生させ続けることとかを考えない限りはそこまで魔力を必要としない。
後者であれば、その場に既に材料があるわけだから、その材料を変化させる時に必要なエネルギーを賄うだけの魔力さえあれば良いことになる。
実際、水を出す魔法なんかは大抵そういうふうになっているので、絶対湿度が低い場所でない限りは苦労して水を出すということにはならない。
つまり、魔法によって新たに物質を永続的に存在するように創造するためには、身の回りに溢れているものくらいしか普通は出来ない。
しかし、今見ている景色はどうか。
家に木に紅茶。それからおそらく今座っている白い椅子や机もそうなのだろう。
これらは単に水のようなありふれた物質ではなく、それぞれがコレといって決められるわけじゃない複雑な物質によって構成されたものだ。
それを一瞬のうちに出現させた彼女の魔力量と魔法の練度は、おそらくこの地球上全てを見回しても勝てる存在は皆無だろう。
そんな彼女は、驚く私たちを見て、苦笑しながら話を続ける。
「まあ、この力を得た時は私も驚いたものだよ。だって、自分の思う通りに、詩的に言えば、世界が応えてくれるワケだからね。」
なるほど言い得て妙だ。確かに、自分の想像することが次から次へと叶えば、そういう風に感じても何も不思議ではないだろう。
…。あれ?そういえば今、この力を得たと言っていたが、それってつまり、その能力は後天的に得たものということなのだろうか。
そのことを聞くと、彼女はそうだよ、と言って、少し話はそれるけど、と前置きしてから話始める。
「私は、もともとはなんて事のない、ちょうどこのあたりに住んでいたとある村娘だったんだよ。とはいっても、それは今からずぅっと昔のことだから、家の跡とかは残ってないけどね。」
曰く、その村はよくある集村の一つで、今私たちが立っている場所の背後に見える山の麓に形成された、小さな集落だったらしい。
そこでは何年ものあいだ不作が続いており、状況を改善するべく、豊作を願い神への人身御供が行われたという。
その犠牲者に選ばれた彼女は、村から出て1人山の中に入り、ずっと奥に進んだ後に、獣に遭遇し食い殺されることになったらしい。
「私はそこで、やっと使命を果たすことが出来たと、走る痛みに涙を流しながら感動を覚えていたの。」
人身御供にはさまざまあるが、どうやら彼女のいた村では、神が人を食らうという思想があったらしい。
山に住む獣に人が襲われることを、それは神が人を欲するがために起こることだと考える。
そのような理屈で、彼女を供物として犠牲にすることにより、神へ願いを聞き届けさせようとしたようだ。
そのことは当然彼女も知っていて、その上で人身御供として選ばれ、村のみんなを守るために死ぬ覚悟を決めて山を登っていったらしい。
おそらく、前世であればこれで物語は終わっていただろう。神の奇跡というのは存在せず、ただの自然が織りなす大規模な気候変動を待ち続けることでしか、豊作という期間は訪れない。
彼女の犠牲は無駄に終わる。
それは、覆りようのない事実だった。
「そうするとね。意識を失う間際に、体がふわふわと浮かび上がったの。昇天するときの気持ちじゃないよ。本当に、もう物理的に浮かび上がったの。」
しかし幸か不幸か、この世界には現実を改変する魔力というものが存在する。
おそらく長年その村で培ってきたその思想が山へと流入することにより、山自体がその人身御供を受け入れる一種の境界域となっていたのだろう。
彼女が、神への豊作の願いを思いながら、1人で人身御供として山の中に入り、そして獣に食われる。
この一連の流れがトリガーとなって、その儀式は完成された。
「そしてそのとき、体がだんだん光り出して、体の中から私の生命力とでもいうべきものが急速に無くなっていく感覚がしたの。ああ、これが神様に食べられているときの感覚なのねって。そして、何秒か、何分か、何時間か分からないけれど、その後に、私は意識を失ったの。」
炭素12グラムの中には、炭素原子が約6.02×10^23個含まれている。この巨大な数字に単位として/molをつけたものが、旧定義でのアボガドロ数と言う。ちなみに、2019年からアボガドロ数の定義が変わり、6.02×10^23に近い整数値そのものをアボガドロ数というようになった。




