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ブルー・グッドバイ

作者: shin_shah

 頭上をいくつかの飛行機が轟音を突き抜くように通過した。前に東京オリンピックの映像か何かでみたやつだ。あれは僕にとってひどく退屈に長い夏だった。あまりに長い夏のことだった。六月から降り注いだ雨の季節のことさえ忘れさせるものだった。目に映る何もかもがこれからくる季節を讃えていた。まくられた白いシャツや、人々の腕や、強く降り注ぐ光と、緑。空気の匂い、どれもがこの夏を受け入れていた。その全てが僕を生ぬるい湯に浸かっている気怠さを感じさせた。むわっとした空気が僕の肌にまとわりついて離れない、君が生まれるずっと前からこうなのだ、と僕に語りかけるようだった。巨大な鯨に飲み込まれていくようにそれは僕に諦めをうながした。

 後から考えればそれは小さなことだった。ただあの時の僕にとって世界であったし、全てであったし、僕自身だった。


「それで、あなたはその夏をどうやってのりきったのよ」田村真佑は少し茶化すように、しかし、あくまでも僕に少し余裕を持たせるようにそう聞いた。

「ただ毎日をうんざりするほど、もう人生の最後の一杯を飲まなくてもいいくらいにビールを飲んだんだ」

ふーん、と真佑はそう言うと目の前にあった枝豆を手に取って、丁寧に一粒、一粒を噛みしめた。そして少し残った泡の消えているビールをごくりと飲み干した。僕はその姿を黙って見ていた。


 真佑は大学の時の同級生だった。三ヶ月前の同窓会で再会した。十二月八日。数年に一度、卒業生が集められる。僕自身、大学に感謝とか、大学を卒業したからどうだとか、そんなことはなかったが、幾人かの友人と顔を合わせることは無意味だとは感じなかった。僕と真佑は大学一年生の時に同じ基礎ゼミのクラスのはずだったが、大学時代の彼女の印象を僕は何ひとつとして持っていなかった。それは真佑がいくつかある女子グループの中でも一番印象を持たないグループにいたことが原因のひとつでもあったが、何より僕があまり他人と会話をする人間ではなかったこと、もちろん大学に行けばそれなりに話す友達もいたし、あの時に親友と呼べる男だって一人や二人はいたが、彼らも女の子には興味を持っていても話しかけたりするほどの大学生の持つべき最低限の勇気を持ち合わせる人間ではなかったことが原因だった。

あれから数年の歳月がたって僕らは二度目のはじめましてをした。僕にとって真佑は不思議な魅力を持つ女性だった。誰もが認める美人というわけではない。ぐしっとした鼻はいささか彼女を気の強い女性のように演じさせていたし、そのすらっとした体型もそれを強くした。彼女は彼女の魅力を最大限に引き出すほどの容姿を持ってはいなかった。それでも僕は普段は細めている目が、好奇心に満ちた時にみせる大きな黒目に惹かれたのだった。彼女は声も素晴らしかった。彼女の甘く、透き通った、夏の午後に飲むサイダーのような声はその一言、一言が僕の耳から内臓に滲み渡り、僕の空になった器に注がれ、それを僕が飲み干すなら、再び器に言葉を継ぎ足した。冷たい言葉たちは、弾け散るように僕の渇きを潤すことで僕を何度も生き返らせた。彼女の言葉は当たり前だと思っているところに少し触ることで新たな色を与える。赤信号で止まることですら、きっとあなたが歩きたいなら、進む色なのよとささやくようだった。

「さぁ、どんどん飲みましょうよ、どうせその夏が終わったところであなたはビールを飲んでいるし、世界中のビールを飲み干すのは世界が終わっても時間が足りないのだから」

真佑は僕にそう言うとビールを注文した。


 真佑とはこれが三度目のデートだった。僕は初めて会った時に、本当は何度も会っているのだろうけど、僕の中にある深い海の底にある椅子に真佑が座った気がした。普段は僕が座っている木製の細い四つ足の椅子だ。僕はしばしその椅子に座って、この海を観察する。光が入らない深海で、生物がその形を保持するために動き回る。美しい鱗と何も映していない瞳を、理由もなくこの海をその生物は泳いだ。そこには生きているのかも、死んでいるのかもわからない、ある人はまだ根拠も目的もなく生きていると信じ、ある人は成長をしようとしないなら絶滅したのも同然の状態だと言う。それがどうであれ僕はそれを眺めている。じっくりとそれがこれからどうなっていくのかを。真佑は僕の椅子に何の疑問も持たずにすっと座ったのだ。そしていい椅子ね、と呟いたのだ。僕ですらこの深海では酸素ボンベ無くしては生きることもできない。あまりの圧に押しつぶされてしまうし、ここにはあの夏以来そうやって過ごすことにしたのだった。無理をする必要はない。椅子はなくならないし、深海には時間だって空間だって終わりはないのだ。僕の他にここに来るものはいないし、来ようと思っても行き方すらわからないのだ。ただ下に潜ろうと思っても、僕のような重装備を用いなければここまで潜ることはできないのだと、僕は考えていた。生臭いけれど、デスクにすわっているよりはロマンティックね、そう僕の心に侵入し、そこに居続けようとした人間は僕にとって彼女以来だった。僕は真佑に彼女のことを一つの寓話として話そうと思った。真佑が僕の深海にある本棚からこの本を偶然見つけて読んでしまわぬようにしなければいけないと思った。僕自身から、僕の言葉で、彼女のことを、あの夏のことを語るべきだと思った。


 この物語は、数少ない僕の友人である彼の二十二度目の誕生日である八月六日に始まり、あの夏が終わった八月十五日までの物語だ。


 僕はその日彼に会いに行った。彼とは高校の時に同じバスケットボール部で共に汗を流した。もちろん彼と最後にバスケットボールをした日、僕らは泣いた。そういう仲だった。彼は勉強が僕らの誰よりもできたから、大学は日本で一番有名な大学に入った。誰も驚きはしなかった。当たり前のことだったからだ。けれど、彼はアルバイト先で出会った女の子と付き合い、子供ができて、大学を簡単にやめてしまった。そのことはちょっとした衝撃だった。大学をやめることは大した問題じゃない。そう言った。大学で学べないことの方が多い。それに今僕がやることは大学生じゃなくて、父親なんだと彼は僕に語った。彼は今、近くのマクドナルドで店長をやっている。

「なぁ、あいつのこと覚えてるか」彼は僕に言った。

「俺はお前とあいつはずっと続くと思ってたぜ、それくらいお似合いだったんだよ、お前らは」彼はすこし酒に酔いながら昔の話を掘り起こした。

「僕だって、わからないさ、彼女が決めたんだ、僕じゃない、大学生っていうのはそういうもんだろ、女の方が大人なの」僕は言った。

「はぁ、今頃何してんだろうな、どんな男なんだろうな、彼氏だよ、あいつの彼氏さ、どうせお前よりは勉強できるだろうな、で、いい会社に入ろうと思ってる、一生安泰ってわけ」

「うるさいなぁ、全く興味ないね。そんなに気になるんなら、連絡してみりゃいいじゃないか、僕はしたくはない、勝手にやってくれ」

彼はそういうことは話に出しても、結局のところ連絡などはしない人間だった。ただ、その場の話がおもしければいいのだ。「お前が、まだ大学生をやってるなんてな、意外だよ、だいたい、俺もやめたし、深川も橋本もやめたって聞いたぞ、親不孝なやつしかいないな、どうしてみんな大学をやめてんだ」……話はもう違う方にコロコロと転がっていた。

「さあな、やめる理由がないから大学に通ってんだ、やめる理由があれば、さっさとやめてるところさ。ポール・ピアースだって今年引退するんだぜ」

「ふーん、それもそうだな。俺だって大学をやめる理由を探してた、結果的にこうやって父親になるなんて思ってもいなかったけど、いいもんだよ、働く理由になるし、生きる意味がある、それにこれは大学にいたら得られないものだ、死んでもいなし、わざわざ大学いって外交官にでもなろうなんて人間じゃ俺はないしな、これがいいんだ、こういう幸せがよ、家族と一緒にいて、たまに友人が来て、誕生日を祝ってもらえてさ、俺は幸せ者だ」彼の言葉に嘘は感じられなかった。

「誕生日ってことでこれ渡しておくよ、セルティックスのTシャツ、好きだろ」

「ありがと、やっぱりセルティックスだよな」

「ああ、セルティックスが一番のチームだ」

 彼と彼の家族を見て、そろそろ帰るよと言った。彼は、今日はありがとうと言った。また来るよ、別れるなよ、いや冗談さ、楽しかった。

 彼は僕を最寄りの駅まで送ってくれた。

「なぁ、一本くれよ、子供がいると吸えないんだ」僕にタバコをせがんだ。

「いま高いんだぜ? また、高くなるしさ、政府の野郎」二本タバコを取り出して一方を口に咥えると、もう一方を彼に渡した。

「ハイライト? お前こんな不味いの吸ってんの? ただでさえ金がないのに、もっと底辺労働者に見えるぜ?」そう言いながら彼はタバコに火をつける。

「嫌なら、返せよ、ついでにTシャツも返せよ。桑田佳祐だって吸ってんだ。大体お前が高校で一番はじめに吸い始めたってのにさ」

「あれは死んでも返さないわ、部室が懐かしいよ、よくあんな狭いところに十人も入れたもんだ」

「全くだ、汗と煙と弁当の残骸の混ざった最低な匂いだった。そんな奴が禁煙してんだからな、学校でバレてなんとか言い訳探してた奴がさ……」

「父親になるってのはそういうことなの。ありがとな、あいつと何かまたあったらいいな、いいと俺は思うんだ」そう言って何口か吸ってタバコを地面に捨てた。

「ないよ、多分、何もない」そう誰に向かっていうでもない言葉が煙と共に吐き出ていた。

 電車に乗って僕のアパートの部屋まで帰る間、彼女のことを思い出していた。元気だろうか。僕は一人、電車のつり革をもち、電車の窓越しに何本かの煙突からみえる煙と、今日も動き続ける黄色い光の工業地帯をぼおっと眺めた。

 

 夢をみた。変な夢だった。僕は大きな鳥となって街を飛んでいた。そして木々が茂った、蝉がなく、青々とした古墳を目指した。列島全体が巨大な前方後円墳造りに熱狂していた時代、人々はいかにして生活していたのか、そこに内在する集落や耕地、手工業、埴輪、馬、大陸からくる人々、戦争、社会システム。誰が誰のために古墳を造ったのか、考古学者たちが、古墳が耐えてきた、その時間を全て費やしたとしても理由はわからないだろう。誰がそこに眠っているのかも本当のことはわからない。でもいくつかの伝承は残っていて、それが昔の偉い人たちが書き記して本にしたという。それですら古墳は遥か昔のことで、一つの歴史の一ページとして語られている。僕は空を飛んでいた。はじめはその翼の動きをひとつひとつ確認するように、いつしか風の音を耳に、そして心に刻むように。そしてその途中で突如現れた電柱にぶつかった。そんなような夢だった。久々に夢をみた。久々のことだったので夢だと気がつくのにちょっとばかり時間がかかった。

 目が覚めると布団から出て、テーブルの上にあったリモコンを取り、テレビの電源をつけた。お天気リポーターが今日の天気について話していた。それを聞きながら、キッチンの方に向かった。ヤカンに水を入れ、火にかけた。それがお湯になるまでの間にタバコに火をつけ、タバコを吸った。インスタントコーヒーをいれた。リビングに戻ってコーヒーを一口飲んだ。ニュースは誰が考えているのかもわからない占いの時間になっていた。どうやら今日、僕の運勢は悪くないらしい。僕はコーヒーを飲み終えるとカップをシンクに入れた。そしてクローゼットからなるべくキレイな紺のポロシャツと、なるべくキレイなズボンを取り出し、それに着替えた。お天気リポーターは日付が変わる頃、雨になると言っていた。傘を持っていく心配をするよりも、星空の夜を信じることにした。とは言っても今日の僕には外を出る予定もなかった。意味のない情報だった。朝のニュースというものはそういうものだ。自分だけの世界にいるだけの人間に世界は必要なことを教えてはくれない。ニュースキャスターはまた僕と関係のないところで起こっている誰かの死の瞬間を伝えていた。その事件について何も思わなかった。

 テレビを消した。本棚から何冊かの考古学の本を探して、読むことにした。千六百年もの昔から人は共同体で同じものを信じていた。ある時は別の共同体から人や物が移動し、ある時は信じるものの違いで争いが起こった。西の方から来た人たちが列島を自分たちのものにしようとて、それを成し遂げた。それが歴史だった。ただそれは戦いだけで成し遂げられたものではなかった。彼らが戦いに強かった。きっとこれは事実だろう。だが、それだけではない。彼らは自分たちの文化を新たな土地に根付かせ、その土地にいた人々はその文化を享受した。僕らは時代の最先端と同じ程度に時代の始まりを知りたいと思っている。それは様々な研究によって更新され、より古いものを、求めていく。端から端までの距離を伸ばす。それを更新する。一度伸びたものはゴムのように簡単には縮まない。人間は大きな意味で進化をしていない。しかし、その事実に気がつくには人生は短すぎるのだ。文化は常に西の方からやってくる。一番の西はどこなのだろうか、それは誰にもわからない。


 太陽が一番高いところに昇っても僕は本を読み続けた。時折、インスタントコーヒーをいれるために席を立ち、ついでにタバコを吸った。太陽が沈むまでそれを何度も繰り返した。その行為を繰り返すことが大切だった。

 太陽が沈みかけた頃、僕はタバコを吸っていた。その時、一本の電話がかかってきた。正しくは僕の携帯電話の画面に名前が表示された。僕は携帯電話の画面を眺めた。彼女からだった。彼女からの連絡は僕らが高校を卒業して、大学一年生の春、彼女からのメッセージで僕らの関係がおわったと、僕がわかった時以来だった。一方的な終わり方だとも思ったが、昔テレビで見た学者の、心の距離は実際の距離に比例するという言葉を思い出した。なるほど、こういうことかと。だから無理して彼女のことを考えることはなかったし、僕としてもこれで良かったと消化した。彼女からの連絡はそれ以来だった。まだ彼女の意識の連絡帳に僕の名前が存在していたことを思った。

「――あなた、今日空いているかしら?」そう尋ねた。僕が予定をいれる性格でも、ましてや僕と一緒に予定を過ごそうと考える人はいないことを忘れてしまったのだろうか。今日空いているのか、そう僕に尋ねた。「もちろん空いている」僕は答えた。「そう、じゃあ七時半に駅で」そう彼女は告げた。タバコを吸った。「七時半っていうのは朝の七時半かい」あまりに久しぶり彼女の声を聞いたが、これくらいの冗談をいう余裕が僕にはまだあった。「バカね、あなたって」彼女はそう言うと電話を切った。時計を見てみると時計の針は六時半を示していた。シャワーを浴びて、なるべくシワのない白いTシャツに服を着替えた。洗面台に向かい、髭を電動のシェイバーで剃り、ワックスでそれなりに髪を整えた。部屋に戻って、机の上に置いてある腕時計をつけた。僕はまたタバコを一本吸った。もう七時になろうとしていた。僕は部屋を出て、ドアに鍵をかけた。僕の部屋には僕がいない間に泥棒が侵入したとして、僕が部屋に戻った時にその全てがそっくりそのまま盗まれていて、僕がこの部屋に引っ越した日の状態になったとしても困らないようなものしかなかった。そんなものを盗んでいく泥棒はきっと三流だろう。今すぐ廃業し、適当なアルバイトでも始めた方がいい。マクドナルドなんてどうだろう。いい店舗を知っている。店の売り上げを今度は盗みそうだ。そんな三流泥棒に鉢合わせしないよう僕は戸締りをきちんとするのだ。

僕は駅に向かって歩いた。


 駅に着くと、彼女はすでに待っていた。遅いわよ、彼女は僕にそう言った。彼女は高校時代の印象的なショートカットではなくなっていた。胸までありそうな長めの髪の毛を後ろに一つに縛り、髪の色も黒髪から、派手とは言わないまでも茶色に染まっていた。服装もブレザーじゃなかった。グレーのシャツワンピースを着ている彼女は新鮮だった。彼女は高校時代と変わってはいたが、片方だけが一重瞼なことと、少し鼻にかかった掠れた声は変わってはいなかった。挨拶もほどほどにして「どんぐり」に向かった。彼女の歩幅に無理をして合わせるわけでもなかったが、同じペースで前に進んだ。どんぐりは駅から少し歩いた通りの商店街を入り、店と店の間にある狭い路地を抜けた先にある小さな居酒屋だ。店の外観は昭和の商店街にあるそのままを残した、あと五〇年もすれば世界遺産も間違いないようなつくりをしていた。店長はヒトラーのような髭を蓄えた寡黙な男で、どんな酒も料理も同じような塩辛い味がする。しかしビールだけは違った。ビールだけはよく冷えていて、泡はきめ細かくて、夏の暑さに対抗できる代物だった。

刻んだ生姜がのった豆腐と、新鮮さとは無縁のキャベツがお通しとして出されると、僕も彼女もビールを注文した。僕はじっとりと背中に汗をかいていた。ビールが僕らの前に置かれると彼女は「乾杯!」と言って僕のグラスに自分のグラスを強めにぶつけた。僕も女より幾らか小さな声で乾杯と言ってビールをごくごく喉に流し込んだ。冷たいビールが体内に広がる。夏だ、そう思った。なぜ僕に電話をしてきたのか、僕は聞かなかった。なるべく答えは先延ばしにすることにした。今までの空白の四年間を埋めるようにお互いの話をした。グラスが空けば、またビールを注文し、また話を続けた。

「結局、あたしって五十点なのよ」

彼女は五杯目のビールの残りを飲み干すとそう言った。なんでもない会話からだった。確か、あの映画がどうだったとか、その主人公の父親が出ていく映画だったとか、そんな会話だった。彼女の親がずっと昔に離婚をしていたことは知ってはいる。でも今の時代そんなことは珍しいことでもなかったし、彼女が片親だからということを理由に無理をしたり、時には間違いを犯したり、そんなこともなかったから彼女が自分のことを僕に語ろうとした時、僕は彼女の深いところに触ってしまったような気がした。「うん」僕はどう答えるのが正解なのかわからなかったし、頭の中の引き出しのどれを開けても何も入っていなかったので、とりあえず、そうやって十五点くらいの回答をした。

「あなたが羨ましいわ、あなたは百点の家庭だもの」彼女は言った。

「家庭に点数があるなんて知らなかったよ」僕はとりあえずそう言った。「僕だって親父とそれなりに喧嘩もしてきたし、百点なんて誇れるような点数の家庭ではないよ」あの時の僕らにはなかった会話だった。彼女は僕が知っているような彼女ではなかった。


 少し、僕らが生きた十八年について語ろうと思う。僕の家庭と彼女の家庭では何が違うのだろう。彼女はなぜ自分を五十点で、僕を百点と言ったのだろう。

僕らが育った街は、山に四方を囲まれた街だった。電車も1時間に一本あるような街だ。そこには川が一本流れていて、街を東西に分断していた。東側はいわゆる新興住宅地だった。巨大なスーパーマーケットや、チェーン店が国道沿いに軒を連ねていた。ほとんどの人間がこの新興住宅地に住んでいてだから東側の人間はほとんどが同じような生活をしていた。そして東京にいても、ここにいてもあまり生活は変わらないようなことを言っていた。西側はこの街の役所や、郵便局、図書館、銀行、それといくつかの企業が支店をおいていた。また、西側には僕の父親が言うには昔は賑わっていたという商店街があった。そこには誰が観に行くのかわからないような映画館といくつかの風俗店があった。僕らはこの商店街に夏祭りの時以外に足を踏み入れることはなかった。東側と西側には比重や形態の異なる物質がドロっと混ぜ合わした後みたいに二つのカテゴリーに分かれていた。そんな街だった。この街が決して嫌いではなかったし、それなりに郷土愛なんてものも持っていた。だけどそれに気づくのはもっと後のことだったし、この街にずっといるだけではその感情を持つことはなかったと思う。とにかくこの街で育った僕らは、いつか、いやできるだけ早く、何かのきっかけが訪れた時、それを手にした時には、この街を出ていくべきだと思っていた。

 僕の家は東側にあった。僕が生まれる前に父親が始めた小さな店を夫婦で経営していた。父親も母親も朝から晩まで家の一階にいて、朝から晩まで店で働いた。父親にも母親にも僕は勉強しろとは言われなかった。僕がいわゆる公立の進学校に通って、そこでの成績も下から数えても、上から数えても同じくらい遠い場所にいたのが幸いした。僕は中学に上がってからは毎日バスケットボールをしていた。その日々は高校生の最後の大会で友達と一緒に涙を流すまで続いた。家族の誰もがバスケットボールについて何も知らなかった。ルールも、多分バスケットボールが冬のスポーツだということも。僕は誰にも何も言われないことに熱中することが好きだった。誰かに何かを言われることは嫌いだった。僕がバスケットボールを始めた時、父親は少し驚いたようだったけれど、それ以上は何も言わなかった。もちろん高校三年生の最後の大会も仕事だからと観にこなかった。家にはたくさんの本があった。それらを片っ端から読んだ。ほとんどはろくな本じゃなかったけれど、何冊かは好きな本もあった。おかげで時間を潰すことには飽きなかった。そして僕は全く受験戦争みたいなものをしないでも入れるような普通の私立大学に入って、この街を出て東京にいくことにした。

 彼女の家は西側にあった。彼女は小学生まで隣の街で暮らしていた。三姉妹の真ん中だった。小学校四年生の時、離婚が原因で母親の育ったこの街に引っ越してきた。父親の家庭内暴力と父親のつくった借金が理由らしかった。彼女は父親が母親に振るう暴力をみたことはなかったが、母親の左頬には痣があった。彼女は父親と別れることに対してあまり悩んではいなかった。母親と、姉妹と、母親の新しい男と暮らすことになった。成績は優秀だった。彼女は毎週テニスに精を出し、クラスでは少し人気のある子だった。彼女は月に一回、本当の父親に会っていた。母親はそれをあまりよしとはしなかったようだが、彼女に言うことはなかった。彼女は新しい男のことをよしとはしなかった。それは姉も妹も同じだった。彼女以外は男に対してできるだけ反抗をしたが、彼女だけはなるべく穏健に、なるべく何もないように、彼女が男の前から消えた時、彼女の存在がないことが自然だと思えるよう努力した。彼女は三つある東京の女子大で都心から一番遠い大学に進学した。彼女の高校の成績からすればそれはあまりいい結果とは言えなかったと思う。きっと緊張した場面で、自分の力を出すことができない性格なのだろう。そういうことなんだと思う。でなければ彼女の高校生活の努力を僕は肯定的に捉えることができなかった。

 

 彼女はまたビールを一口飲んだ。僕もつられるようにビールを一口飲んだ。ビールはすっかり気が抜けてしまっていた。一口目と二口目にここまで味の表情に違いのある飲み物があるのかと僕は常々考えている。苦くても甘いこの泡が僕たちを包み込む。喉の渇きを潤しながらも、この潤いは再びの渇きを生む。いつか消える泡に僕はいくつかの思いを巡らせる。喉を通る金色の液体は答えを僕が出すこと先延ばしにすることを認めてくれた。

グラスに入っていた液体はあっという間に僕の胃袋へと移行していた。彼女は僕に何も言わなかった。僕はもう一杯ビールを注文した。それでも何も言わなかった。注文したビールが僕の前に出てくると、僕はなるべく、できるだけ、簡潔に、僕の友人のことを、僕のことを、最近のことを、今朝見た夢のことを、これからのことを、彼女のことではないことを、話そうと努力した。彼女はなるべくかわいた返事を心がけているように見えた。会話はそれ以上長くは続かなかった。僕は少しこめかみの部分に痛みを覚えていた。僕がビールを飲み干すと、そろそろ帰りましょうよ、と提案をした。僕はその提案に従うことにした。彼女がなぜ僕をここに呼んだのか。少し理解できたが、それを言葉にすることは僕にはできなかった。言葉は完璧ではない。彼女のことを言葉にするには僕にはまだ力がなかった。店を出ると雨が降っていた。雨は僕らの身体に平等に降り注いだ。その一粒、一粒が酔いを少しでも覚まそうと努力していた。それぞれの帰路に向かって歩いた。彼女は何も言わなかった。彼女の目は赤くなっていたし、彼女の背中は小刻みに震えていたが僕は彼女に何も言わなかった。正確には僕の口からは何も出なかった。僕の胃袋にあるものが、腹の筋肉を痙攣させて、生暖かい液体と固体のその中間者として出てくれば話は変わっていたかもしれない。喉から口へと移行してくる酸っぱい物体は僕の前には現れなかった。僕の心からも何か同じようなものが出ようと、いや僕自身が喉に手を入れて無理やりにでもそうしようとしたが、それは口から出ることを躊躇った。吐き出そうとする僕から離れていく彼女の後姿を眺める。彼女はそんな僕の方をみようとはしなかった。僕はイヤホンをつけてBase Ball Bearの『Perfect Blue』を聴きながら歩いた。曲が終わると、リピート再生にした。部屋に帰るまでそれを続けた。部屋で僕は濡れた服を脱ぎ、それを洗濯機に入れ、部屋着に着替えた。酔いはさっきより幾分かましになっていた。タバコに火をつけた。二口ほど吸って、タバコを潰し、ソファーで横になった。そのまま目を閉じた。雨は強くなっていた。暴発した散弾銃みたいな雨になっていた。雨に世界の汗を流すように降り続いた。きっと流したのは汗だけでなかった。


 なるべく簡潔な言葉で彼女のことを語りたい。常々、僕は物事をできるだけ因数分解することにしている。しかし、僕には彼女をそうすることができなかった。要素はわかっている。やり方もわかっている。それでも答えを出すことはできなかった。いや答えを出すことを恐れていた。誰もが複雑に絡み合った要素で繋がっている。彼女との関係を僕は要素の一つ一つで分解することをしたくはなかった。これが僕の中の答えだった。

 

 朝になって、目が覚めた。目が覚めたというよりはぼんやりと意識がそこにあるような状態だった。喉の渇きのせいだろうか、起き上がる気持ちは湧いてこなかった。ぼおっと天井を眺めた。どうやら昨日のアルコールがまだ残っているようだ。白い天井はいつもと同じだった。雨はすっかりあがっていて、蝉たちが存在を主張していた。与党議員の週刊誌に書かれた政治スキャンダルに踊らされ、ここぞとばかりに質問をする野党議員のようだった。ミーン、ミーン、総理、総理。うるさい。太陽の光が窓からさしていた。僕は手の感触を頼りに近くにあるであろう、携帯電話を探した。携帯電話を開くと一本のメッセージが入っていた。彼女からだった。僕は起き上がり重いまぶたを擦りながらキッチンに向かい、メッセージを開いた。

  昨日はごめんなさい

 それだけだった。どうやら彼女は僕よりも簡潔に言葉を使えるらしい。タバコに火をつけ、それを吸いながら、メッセージの意味を考えた。僕に何かしただろうか、何か謝るようなことをしただろうか、僕は決して彼女に嫌な感情を持つことはなかった。ならば、これは一つの定型文なのだと思った。ヤカンに火をつけ、メッセージの返信を考えた。もう一本タバコを吸った。なるべく、簡潔に、僕はそんなことはないとメッセージを送った。返信はなかった。僕はコーヒーを飲んだ。少し、心が痛んだ。太陽の光は次第に強くなっていく。また、朝がやってきていた。

もう少し、この夏を過ごさなければならないのか……


 一週間ほどが経った。僕はこの間に、いつものルーティンをこなした。朝、太陽が昇って少したってから起きて、コーヒーをいれた。タバコを吸った。袋から食パンを出し、何も塗らずにそのまま胃袋に入れた。食べ終わると、服を着替えて、洗濯機のスイッチを押し、洗濯機をまわし、洗濯物を干した。それが終わると考古学の本を読んだ。太陽が沈むまで考古学の本を読んだ。飽きたらコーヒーをいれた。タバコを吸った。太陽が沈みきると洗濯物を取り込み、ハンガーのままクローゼットの中にそれをかけた。鍋に水をはり、火にかけた。タバコを吸った。スパゲッティーをその袋に記載されている時間通りに茹でた。ツナ缶を開けてスパゲッティーにのせ、醤油をかけて食べた。一人の食事というものはそういうものだ。食べ終わると食器をシンクに置いて、また考古学の本を読んだ。タバコを吸い、タバコがきれたら、そのタイミングで近くのコンビニに行き、タバコを買った。それを繰り返した。夜には冷蔵庫から缶ビールを出してそれを飲んだ。二缶ほど缶ビールを空けて、日付が変わる頃僕はシャワーを浴びて、布団のなかに入った。携帯電話をみた。彼女からの連絡はなかった。当たり前だ、落胆するほどのことでもない。僕は目を閉じて眠った。そんな生活を続けた。苦しくはなかったが、あまりいいものでもなかった。

 次の日、僕は乱雑な散歩に出ることにした。そうしなければならないと思ったからだ。外を歩くと、蹴られるために存在する小石があった。僕はそうした。小石は転がって僕の思った場所ではないところに転がった。また小石まで歩いた。また蹴った。それを繰り返した。四度目で僕は思った場所ではない足の位置で小石を蹴ってしまった。小石は僕のコントロールから完全に離れてしまった。小石は結局どこかへ行った。ならばその小石を探そう、とはならなかった。またあの小石は誰かに蹴られるのだ。わざわざ僕が探してまでそれをする必要はないと思った。小石にも休憩は必要だし、それにそんな小石は探さなくてもまた見つかるのだ。ずっと下を見ていたので、今度は上を見ることにした。よくあることだ。道を挟んだ先に団地が見えた。ほう。同じ方向を向いた外のベランダを見た。そして幾つの幸せがあるのだろうと数えた。風に揺れながら、干されている洗濯物の色味からどんな家族が住んでいるか想像ができた。赤、黄色、青、黒、白、ベージュにグレー、それぞれが違った色で僕にそれを教えてくれた。僕が今、何色なのか、僕は道端で考えた。まだ答えを出すことを恐れていた。多分、誰もがこんなことの結末を知っている。まだ決めることはできなかった。

 

 彼女からの連絡は次の日の午後のことだった。僕は部屋で映画を観ていた。何度も観ている映画だった。一九五〇年代のニューヨークを舞台にしたマフィア映画だった。マフィアに憧れる主人公の男がマフィアの部下となって悪事を働く。掟は二つ。「仲間を売るな、決して口を割るな」この二つだ。男は仲間と共に数々の犯罪を成功させていく。一人前となった彼らは贅沢に暮らすようになる。仲間の一人が持ちかけた航空貨物を強奪する計画を成功させると、口封じに彼らの仲間を次々と殺害していく。最後、男は掟を破り、今までの犯罪を全て警察に話すことで、警察の保護下に入り、生きる道を選択する。そんな映画だ。マフィアのファミリーには生粋のシチリア人にしかなることはできない。アイルランド系の彼には結局のところ自分の力で生き残るしか方法はないのだ。そんな映画だった。なんとも素晴らしい映画だ。計算された構成、脚本、映像、音楽、演技。ノンストップのアトラクションのようだ。この映画には綺麗事がなかった。偽善もなかった。だからこの映画に解釈とか考察とか、小難しいことは間違いのようだし、無理だと思った。この話にメッセージや教訓めいたものはない。そもそも、彼ら自身にそんなものがないのだから、当たり前だ。彼らは掟の中で生きている。その掟すら、僕には関係ない。そんな映画の途中に彼女から電話がかかってきた。

彼女は「今夜どんぐりで」そう僕に告げると電話を切った。僕は全部で百四十五分あるこの映画を観終わると、タバコを吸い、彼女に会うための準備をした。マフィアはママと仲間は裏切らない。もちろん僕は生粋のシチリア人ではないし、世界一有名なマフィアであるアル・カポネもシチリア人ではない。彼はナポリ系だ。僕はファミリーに守られてもいないし、だからと言って自分の力で生き残ろうとも思ってはいなかった。僕は準備を続けた。洋服だけはなるべくキレイなものを心がけた。僕の中にもそういう気持ちはあるのだ。

 僕がどんぐりに着くと、彼女はもう席についていた。すでに何杯か飲んでいるようだった。僕はビールを注文した。僕はシチリア系ではないからワインなんて飲まない。ビールは赤でも白でもない。金だ。冷たいグラスから喉を染み透っていく。この爽快感は他の酒では出すことはできない。多分シチリア人も夏はビールを飲むだろう。そう思った。

「連絡しなくて、ごめんなさい。家族と旅行に行っていたの。沖縄。あそこはいいところだったわ。海が本当に透き通っていて底の砂まで見えるのよ。ダイビングもしたわ。魚たちがたくさん泳いでて、サンゴ礁も。ほら、私たち海がないじゃない。だから、海にいくとはしゃいじゃって、熱中症になるところだったわ」彼女は言った。

「東京にだって海はあるよ、それに日本は島国なんだから海なんて大して珍しいものじゃない、僕らの環境の方が珍しいんだよ」僕はそう呟いた。

「そういうことじゃないのよ、あなた。あたしが言いたいのは沖縄の海が良かったってことなの」

「君が家族とどこかに行ったことの方が驚きだよ」

「家族と言ってもお姉ちゃんと妹と行ったのよ、ママもあの人も来てないわ、お姉ちゃんが夏休みを取れて、ならどこかに行かないかってことになって、沖縄に行ったの」

「なるほどね」

 彼女は沖縄であったことを僕に淡々と話し始めた。水族館でジンベエザメを見たこと、オリオンビールを飲んだこと、アメリカ人が当たり前にいること、沖縄の言葉を少し覚えたこと、沖縄料理は彼女の口には合わなかったこと、戦争の資料館に行ったこと、僕は彼女の話を聞きながらビールを飲み続けた。彼女の話が途切れることはなかった。僕は彼女が彼女自身のことを話すことが嬉しかった。あの頃のような雰囲気を僕が感じたからだ。彼女は旅行の夜にあったことを話し始めた。僕は彼女の言葉をなるべく丁寧に咀嚼することにした。

 彼女は姉とともに、妹に親の離婚のことを話した。その話は姉から聞いたばかりだった。彼女の母親は、そのことを話さなかった。姉は祖父から聞いたらしい。母親は彼女たちに離婚の事実と、父親の事実だけを伝えていた。母親は、あの男と、離婚する前から会っていた。会っていたというのは、正確には適切な表現ではなかった。母親は父親のことを裏切っていた。精神的にも肉体的にも、母親はあの男の望む一切を受け入れようという衝動に駆られていたという。そしてそれはしばらくして、幾らかの犠牲によって完全なものになった。一人の女性として母親はあの男の前にいた。母親は必死に踏み消そうとしたかもしれない。しかし、できなかった。母親とあの男は喋らなかった。二人はあらゆる体液でお互いを汚し合うことで認め合った。彼女のことを、彼女の中にあるものを脱却するため彼らはそうなるために抱き合ってダンスを踊った。次第により刺激を求め、強度を増した。あらゆる思いを超えて、ある希望にむけて彼らは激しく踊った。夢中になった。リズムは次第に合っていき、荒い息遣いはメロディをうんだ。どちらの意識が先行することもない。生理的な衝動は強大なハーモニーと、一つの現象を持って終わった。彼らは現象を共有した。互いを見合って、幸せを抱きしめた。しかし、それをみていたのは二人だけではなかった。その一連の現象は写真に現像されることで、本当の父親の前に提示された。それが父親の初めてで一度だけの暴力だったという。その真実を母親は知らせることはなかった。彼女はその話を姉から聞いた時、朝まで泣いたという。そして、母親の言葉が全てではないと悟った。あたしの中の巨大な樹が折れたようだったわ、と彼女は言った。女として母親を知った時、彼女は少し楽になったとも言った。半分を失った、彼女はより自分自身に意味を持つべきなのだと僕に語った。「あたし、あまりにショックだったからそれからママに連絡を取らなかったのよ、電話も無視したわ、そしたらママ仕送り止めるって、ママはあたしが連絡を無視する理由を知らないでしょ、だからしょうがないけど、あたしも嫌々だったけど、連絡したわ、お幸せにって、いいのよ、そう言いたかったの、わかるでしょ、この気持ち」「ああ、わかるよ」

彼女が言ったことは本当だと思う。

 僕はビールを注文した。

 彼女は僕に「この話は笑い話だから、重く考えないで」と言った。僕はそうするべきだと思った。だからビールを飲んで少しでも忘れようと努力した。話は、その後も続いた。沖縄の夜は彼女と、彼女の姉妹にとってもう一度強い団結を生む重要なことだった。全員が同じことを思い、耐える時で、それぞれが自分たちを五十点であると認識することが彼女は大切だと言った。僕は「そうするべきだよ」と彼女に言った。彼女は頷いた後、顔をなかなか上げなかった。

「僕も旅行に行きたいな、夏だし、ただ無意味にここにいるのも良くないような気がしてきたんだ」

「いいじゃない、あなたもそうするべきだわ」彼女が顔を上げ僕に言った。

「どこがいいかな」

「うーん、あたしが沖縄だったから、あなたは北海道がいいわよ」彼女はちょっとばかり悩んだフリをして言った。

「北海道か、あいにく去年行ったんだ。別に理由はなかったけど、大学のやつらで続縄文文化をみてみようということになってさ」

「あなた、勉強熱心なのね」

「そんなことはないよ、僕のやっている研究からは大きくかけ離れているし、言ったんだ。見てみたいって、誰かがさ。たくさんの石器や土器を見て、僕はこの時代に北海道は日本ではなかったんだな、そう思ったよ、いや、日本なんてのはもっと後に出てくる概念だからこういう表現は良くないのだけども」

「いいのよ、言いたいことはわかるもの」

「そのあとはみんなでプロ野球の試合を観たんだ。ファイターズとホークス。僕はどちらのファンでもなかったからどちらが勝ってもよかったんだ。結果は八対七、ルーズベルトゲーム、このスコアが一番面白いとは思わないけどさ、でもいい試合だったよ。サヨナラゲームだったからね」

 僕は彼女の顔を見て安心した。彼女の顔は優しい顔をしていたからだ。それは間違いなく微笑みだった。夏に似合うものだった。つられて僕も笑った。心の中から笑おうという気持ちが湧いてきた。面白い話は一つもなかったが、言葉のキャッチボールをしていくことが必要だと思っていたし、それがしっかりとできている事実が僕の中にあったからだ。

 その後も 何杯かビールを互いに飲んだ。すっかり酔っ払ってしまってからどんぐりを出た。空には大きな月が出ていて強い光を持って僕らを照らしていた。「すこし歩かない?」彼女が呟いた。いいねと言った。頬が赤くなった彼女は魅力的だった。思えば、酔った彼女の顔を見ることは、この時が初めてだった。僕らは歩いた、互いの歩幅に合わせて。僕らは十分ほど、互いの足音を意識しながら歩いた。そして僕らの街の中心を流れるような川の河川敷に出た。僕らの街の原風景のような景色が広がっていた。「ここにもこんなところがあるんだな」「そうね」僕らは河川敷のベンチに座った。僕はズボンのポッケからくしゃっとつぶれたタバコの箱を出した。一本取り出し、口に咥えて火をつけようとした。彼女が一本頂戴と言った。僕は箱から一本取り出して渡した。百円ライターで火をつけると、僕は煙を吐いた。風は吹いていなかった。まっすぐに立ち上った煙は月の明かりとその先の闇との境界線に消えていった。

「たぶん、こんな姿を見たら親父は怒るだろうね、こんなことをさせるために大学に行かせたんじゃないって」

「あたしもよ、きっとママに怒られちゃうわ、でもいいのよ、そんなこと言われる筋合いないもの、あたし多分あの人のお葬式には行かないわ、それくらいの反抗許されるでしょ」

「そうだね、涙の少ない方を選んだ方がいい」

煙は僕の肺を胎動して、それを吐くと煙が僕らを包んだ。彼女は二、三口それを吸うと、ぽろぽろになった灰を、人差し指でタバコのフィルター部分をとんとんとして地面に落とした。そしてもう二口ほど吸って地面に捨て、靴のかかとで潰した。彼女は月を眺めると、僕に、

「あそこに五十年も前に人類は行ったのよね」と言った。

「ああ、ファミコンよりも簡単なコンピュータだったらしい」

「そう、私たちはどこまで行けるのかしら」

「肉体はどこまでも行けると思うよ、月にだって行けるんだからさ」

「あら、心はどこまでも行けないっていうの」僕はタバコを吸って

「ああ、心は上じゃない、下に行くことだ、重力とか、呼吸とか、そういうものなんだよ、反発するものじゃない、負荷をかけるものなんだ、それの方が耐えられないよ」と言った。

「そうね、その通りかもね、ねぇ、ボイジャー号って知ってる? 宇宙と交信するために一九七七年に地球を出発してから、木星や土星、天王星、海王星の写真を撮っているの、そして今でも宇宙のどこかを彷徨っているのよ」

「へぇ」

「地球外生命体にむけたメッセージを収録したレコードも搭載されているの、もちろん日本語も、こんにちは、お元気ですかってね」

「あまりいい言葉じゃないね、ただそれに代わる言葉は見つからないけどさ」

「とにかくロマンがあるじゃない」空を眺めた、いくつかの星が見えた、

「あたしそういうの好きよ」「僕は帰ってきたはやぶさの方が好きだ」「そういうことを言ってるんじゃないのよ」「わかってるよ」僕はタバコを吸った。

「やっぱりあなたといると気持ちが落ち着くわ、あなたは百点なのよ、百点の家族を持っているわ、あたし、どうしてもそういう人を見ていると、羨ましいと同時に、何もわかってないと思ってしまうのよ」

「それなら、君には僕はそう見えているんだね、それのどこがいいのか、僕にはわからないけど」

「いいのよ、いいの、あなたはこのままで」

「そうか」

「……ねぇ、あなた、あたしの荷物を持ってよ」

「君の荷物なんてほとんどあってないようなものじゃないか、その小さなバッグを持てって言ってるのかい」

「ううん、心のよ、心の荷物。たくさんあるのよ、あたし一人では持ちきれないわ、それくらいたくさんあるのよ」彼女の言葉はまっすぐだった。僕をまっすぐに捉えていた。

「ああ、いいよ、なるだけ持つようにするさ、ただ僕の荷物は? 僕にだって少しはあるんだぜ」

「そんなの知らないわよ、ほんとに大変なら、その時は持ってあげるわ」

「プレゼントよ。そういうものだと思って、負荷をかけるものなんでしょ」彼女はそう続けて言った。

なるほど、と僕は呟いた。プレゼントなんだ、必要なければどこかにしまっておけばいい、そういうものなんだと僕は思った。タバコはもうフィルターの近くまで灰になっていた。僕はそれを潰して、彼女のプレゼントにもう少し耳を傾けた。きっとこの荷物を最後まで持っていることはないだろう、どこかでこの荷物を持つ人が現れるまで持っておこうと、それだけで彼女の心は軽くなったのならいいなと、そう思いながら僕らは僕のアパートの部屋に向かって歩いた。

 夏の夜だった。僕は彼女と歩いている間にMr.Childrenを口ずさんだ。桜井和寿もそんなようなことを歌っていた。彼は、いや彼らのバンドはいい曲を作っているし、たくさんの人を救ってきたと思う。ただ、彼の実際の恋愛は世間的には褒められたものではない。


 部屋に着くと、冷蔵庫から出した缶ビールを飲みながら、何本か映画を観た。どれも名作と呼ばれるものばかりだった。

「ねぇ、九月になれば、すこしは涼しくなるかしら」彼女は僕にそう尋ねた。

「そうだね、まだこの調子じゃ随分と暑いのが続くかもしれない、それに九月になれば台風が日本にやってくる、また雨の季節」僕はそう答えた。

「でも、九月になればあたしの誕生日があるわ、あたしももう二十二よ、信じられる、多分十八のあたしに言っても何も信じてくれないわ。それにもっと秋が深くなって、冬に近づけばあなたも二十二になるのよ、そしたら、あたしとびきりのケーキを作ってそれでお祝いするわ」

「そうだね、楽しみだ」僕はそう言った。

「また、あなたに何か持ってもらわなきゃ、なにがいいかしら」

「たいそうな物はいらないよ、僕からも何かあげなくちゃいけなくなるし」

「そうね、楽しみにしてるわ、あなたからどんな物がもらえるのか」そう言ってビールを飲んだ。

 あなた、あたしのことが好き? ああ、好きだよ。あたしのことを抱きたい? ああ、そう思ってるよ。僕はビールを飲んだ。結婚したい? そうだね、七十五点満点っていうのもいいな。子供は? そうだね。何人欲しい? 二人かな、兄弟がいるのはいいと思うんだ。そうね、あなた嘘が下手なのね。たしかに僕は嘘をついた。嘘は一つだけだった。

 あらゆる物事が僕らの前を通り過ぎていく。

 まだ、川が海へと流れるならば、新しい季節がくるならば、僕らは生きなければならないと誓った。与えられた者は、そのことをずっと覚えている。ずっと、心の中に、そしてどこかで捨てようと考えても、捨てることはきっとできない。だから心の奥深くにそっと隠す。他の人からそれを捨てたように見えても、決して捨てることはない。だが、与えた者はそのことをすっかり忘れてしまう。忘れた方がいい。無責任だが、与えることが重要なことであって、何を与えたかがあまり大切なことではないのだ。僕らはそうやって生きている。僕らは歴史の中の一ページなのだ。でもそれは初めの一ページではない。前にも後ろにも話は存在していて、完結することはきっとない。風が吹けばそのページは簡単にめくれてしまって、どこだったかもわからなくなってしまうだろう。名作ではない。終わりはない。そんなドラマの通行人なのだ。

「あなた、まだビール飲まない?」彼女は僕にそう尋ねた。


 僕の話はここで終わる、僕の暑い夏はこうやって終わった。


「ねぇ、あなたと彼女はそのあとどうなったのよ」真佑は僕に尋ねた。

「彼女は、死んだんだ。自殺。秋学期が始まった日に、大学の木に吊るされた彼女がいたらしい。もちろん、葬式なんてのには行かなかった、寂しくなるからね」

彼女は、いや、彼女だったものは夏の炎天下と夏休みという長い時間によってそれは見られない状態のものだったと聞いた。このことは小さかったけれど朝のニュース番組にも取り上げられた。僕はなにも感じないようにした。それが彼女のためだと思った。彼女のいくつかは僕の中にあったし、それだけあれば十分だと僕は思ったからだ。

「そう、そうだったの、ごめんなさい、私……」真佑は僕に聞いてはいけないことを聞いてしまったような顔をしていた。

「ああ、でも別に悲しい話じゃないんだ」僕は言った。

「彼女はいなくなったけど、僕は今こうして生きているし、あの時にしっかり寂しい気持ちになれたからね。それに僕は君とこうやってまだビールを飲んでいる、だからやっぱりその程度のことだったとしか僕は言えないよ」

「でも、あなたタバコは吸わなくなったのね」

「ああ、どちらかはやめるべきだと思ったんだ、それにあれからタバコを吸おうとも思わなかった、話を聞いたときもタバコを吸おうと思わなかった」

ただ言えることは、彼女には二十二度目の誕生日は来なかったということだ。僕は結局のところ一人で秋を過ごし、冬が近づいた頃、二十二度目の誕生日を迎えた。彼女は僕になにも与えはしなかった。ただそれ以上に僕に何かを与えたし、僕は彼女になにも与えることはできなかった。もう一緒にはいられない、彼女はここにはいない。それだけが残った。それならば、彼女も同じ思いでいてくれればいいと僕は思った。秋になって大学がはじまった。夏の暑さはとおい過去のことになろうとしていた。気がつけば、服装だって変化していた。Tシャツの首元のヨレも気にならなかったし、腕をまくろうとも考えなくなった。僕は大学に行かなくてもいいと思った。これが大学をやめる十分な理由になると思ったからだ。でも、大学をやめたからと言って他のことができるとも思わなかった。だから、無理やりにでも大学に行くことにした。薬もいくつか貰ったが、結局どれも飲まなかった。

 僕は今、僕と彼女が育ったあの街に帰って、考古学者をやっている。考古学者といえば聞こえはいいが、実際には役所で文化財保護のために働いている。大学の卒論がすこし教授陣に評価されて、その時に役所の採用に枠があって、その流れのまま考古学を続けている。別に新発見をしようとか、自分の学説を広めようとか、そんな大それたことはない。毎日、正しく、発掘をしていくことが、今後の研究に意味のあることだと思って働いている。彼女がくれた物はまだ僕の中にあった。巨大な遺跡の中にだって、彼らの生きた時代の物が転がっている。泥のついたつなぎを着て、麦わら帽子を被り、僕は発掘を続けている。土の匂い、竪穴住居、水田、土器そういうものを丁寧に保管して記録しておくことが僕の仕事だ。毎日このために汗をかく。土器はバラバラに崩れた状態で見つかる。それのいくつかをパズルのように組み合わせることで元の形にしていく。そんな作業をしている。真佑のことを、僕は好きだと思う。彼女も、同じ気持ちだと思う。そうであったらいいと僕は思っている。

「ねぇ、あなた沖縄に行きましょうよ」彼女はそう言った。

「沖縄に?」

「ね? 行きましょうよ。ゴールデンウィーク予定なんてないんでしょ、だめかしら」彼女はそう僕に言った。

「ないけれど、沖縄に」

「ええ、そうよ、そこで彼女のことを思い出すの、彼女のことを全て。それで浜辺に全部の荷物を置いていくのよ、彼女からもらった物全部。そして、一本タバコを吸うの、なにを考えてもいいわ、ただ、一本吸って、それでそのタバコをその場所に捨てるのよ、できるだけ乱暴に、あなたのできる一番の乱暴よ、そうするべきよ」彼女はそう言った。

「大丈夫よ、彼女はなにも言わないわ。私がいるもの、私も彼女に対して同じことをするわ、そうしましょう」

「面白いことを言うね、いいかもしれない、そういう時かもしれないね」

「そうしましょう。いいわ。私、できるだけのことを、なるべくあなたの近くで見ているわ。私、夏生まれだから、大丈夫、ずっとそばにいるわ」彼女はそう言ってまたビールをぐっと飲んだ。


 ボイジャー号は太陽系を飛び出した今もまだ長い旅を続けている。それでも原子力電池の出力の低下に伴い、少しずつだがその装置の電源を切っているという。そして二〇二六年にはその役割を完全に終えるという。はやぶさの二号機が最近オーストラリアの海に着水したらしい。

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