後編
次の日、学校から帰るとママが家にいた。いつもは夕方にならないと帰ってこないのに。
「ママ、お仕事は?」
呼びかけると、ママは大きなバッグに荷物をつめていた手を止める。
「今日は早退したの。佳奈ちゃんに、赤ちゃんが産まれたのよ」
「わあ、そうなんだ」
もうすぐ産まれるって言っていたのは、本当だったんだ。
「これから、おばあちゃんのうちに手伝いに行ってくるから、留守番しててもらえる?」
「うん、分かった」
返事をすると、少し間があってから、ママが声をかけてきた。
「スイミングで何かやっていたのは、佳奈ちゃんの話を聞いたからでしょ?」
わたしはこくんとうなずいた。
ママも、佳奈さんの話していたことを思い出したらしい。
胎内記憶、という言葉は、わたしの耳の底にしっかり残っている。
「ママは、ゆっちゃんがお腹のなかのこととか話してくれたとき、信じていいような気がしたな」
「えっ?」
「あのころは、仕事に復帰するかどうか迷っていたんだよね。ゆっちゃんに弟か妹がいたほうがいいのかなって考えたりして」
ママは、なつかしそうな表情をする。
「けれど、そういう子はいないって聞いたら、自分に都合がよすぎるなとは思いつつ、何となく本当のことのような気がして。結局、仕事をすることにしたんだよね」
「ふーん、そうだったんだ」
覚えていないことだけど。それでもわたしは、そのときのママを動かしたんだなと感じた。
「でも、ママがそう思っただけで、本当は違うのかも。絵本とか何かで聞いた話だったのかもしれないよね。そもそも赤ちゃんには記憶力なんてないもの。ゆっちゃんだって、二歳とか三歳くらいのこと、ほとんど覚えていないでしょ?」
「そうだね。年少さんのときのことだって、あまり思い出せないよ」
写真を見たり話を聞いたりして、だいたいどんなだったかは知っている。けれど、覚えてはいないと思う。
「誰だってそんなものよ。それにしても、早いものね。ゆっちゃんが産まれたのだって、つい最近のような気がしてしまうけど、もう九年になるんだものね。赤ちゃんの時代から遠くなったよね」
「うん」
ママったら、そのわりに小さい子みたいな扱いをするけどね。
「だから、覚えていなくて普通だよ」
ママが何を言いたいのか、何となく分かる。
わたしが胎内記憶を思い出したくて、プールのなかへもぐったんだと思ったに違いない。そういう気持ちは半分くらいあった。
あとの半分は、その感じをただ味わってみたいと思ったから。
「もちろん、覚えていたらすごいかもしれないけど、もしかしたら、忘れるようにできているんじゃないかなって、ママは思うよ」
「忘れるように?」
首をかしげて問いかける。
「そう、七歳までは夢のなか、っていう言葉があってね。そのくらいまでの子どもは、まだ現実を大人と同じようには感じられないっていうの。もしかしたら、こことは違う世界とつながっていて、そっちのことを感じ取ったり、いろいろ知っていたりするのかもしれないよね」
わたしは、七歳よりも九歳に近づいているなあ。
「大きくなったら、そういう感じを忘れちゃうってこと?」
ちょっと残念なような、寂しいような。そんなわたしの気持ちが通じたのか、ママは少し考えこむ。
「赤ちゃんのときはまだ、向こうの世界とつながっている感じかな。不思議な話だけど、お腹のなかの赤ちゃんが、外でママが何をしているか知ることもあるのかもね」
お腹のなかは暗闇だけど、外の世界が窓になって見えた、と話す子が本当にいるらしい。わたしもそういうふうにして、ママとパパとピンクの産着を見ていたのかもしれない。
ママはゆっくりと話し続ける。
「でも、だんだん大きくなると、こっちの世界になじんでくるよね。ゆっちゃんだって、大きくなって知っていることもできることもどんどん増えているものね。これから、こっちでいろんなことを考えて、いろんな経験をしていくんだろうなあ」
遠くを見つめるようにして、ママはちょっとだけ笑う。
「まあ、不思議なことやおもしろいことはこっちでもいっぱいあるよ。返って向こうの世界とつながっていないほうが、こっちの世界を感じることができる気がするよ。だから、自然と忘れるのかもね」
「こっちの世界が普通になって、大人になっていくって感じ? それだけ忘れるようにできているってこと?」
「うん。そんな感じかな」
ふと思いついたことがあって、わたしは聞いてみる。
「それじゃあ、ひいおばあちゃんは?」
「ひいおばあちゃん? 起きていたの?」
「うん、話したよ」
ひいおばあちゃんは、もう百歳になる。庭の前の椅子に腰かけて、うとうとしていることが多い。この間は、帰りがけにあいさつに行ったら、たまたま起きたところだった。
「昔の夢を見ていたって言ってた。年を取ると昔のことばかり思い出すって」
「そうなんだ」
『夢では、庭にたくさんバラの花が咲いていたんだよ』って話して、ひいおばあちゃんはほほえんでいた。
ひいおじいちゃんが植えてくれたんだって。
ずっと前にひいおじいちゃんは亡くなっているし、今住んでいるのは、ひいおばあちゃんの家じゃない。目の前にあるのは、おばあちゃんのうちの庭だ。
だけど、ひいおばあちゃんの目には、はっきりと白や黄色やピンクや赤い色の、咲いている花が見えるみたい。
『こうしているとね、風に乗って、そのときのバラの香りもする気がしてね』
ひいおばあちゃんは、そうやって昔のことをいっぱい思い出しているという。
「もしかしたら、そのうち赤ちゃんのときのことも思い出すのかな」
「そうかもね。別の世界がまた見えるようになるのかもね」
ママの言葉に、わたしはじっくり考えてから、口を開いた。
「じゃあ、わたしもずっと先にまた思い出せばいいかな」
「そうだね。ママもまだまだ思い出さないよ」
「えっ、ママも?」
わたしは目をぱちくりとした。
「うん、ママだって、赤ちゃんのときには記憶があったかもしれないよ」
「そうかあ。そうかもね」
ママが赤ちゃんで、おばあちゃんがママを産んだくらいのとき、というのがあまり想像つかないけど。そういうことがあるんだっていうのは、理解できる。
「ママだって、まだこれからできるようになりたいこといっぱいあるし。しばらくはゆっちゃんと一緒に、こっちの世界にいたいなって思うよ」
「わたしも、そうだなあ」
そうつぶやく。だから、記憶はなくてもいいか、と思えた。
気持ちがすっと落ち着いた。
すると、ママはわたしの肩にぽんと手を乗せてから、にっこりする。
「だけどね、空の上でゆっちゃんがママを選んでくれていたら、嬉しい」
それからママは、おばあちゃんのうちに行く支度を始めた。
わたしは、空の上でママを選んだのかな。
ママは、すぐに細かいことを言うし、つまらないことで心配したり怒ったりする。それに、おっちょこちょいで、かばんを忘れて仕事に出かけそうになったこともあるし。運動会の日に寝坊してお弁当がコンビニのお惣菜だらけになってしまったこともある。
こんなママをわざわざ選んだのかなあ。
もしかしたら、選んだのかも。
今は、ママやパパや友だちと過ごすのが、空の上よりもいいかなって気がするから。
それに、ママが『空の上でゆっちゃんがママを選んでくれていたら、嬉しい』って伝えたとき、胸の奥にぽわっとぬくもりが広がったから。
だから、きっと選んだんだよね。
今、赤ちゃんのときの記憶を思い出すことはない気がする。そういうふうにできているのかもしれない。
ただ、話を聞いたから、その記憶とちゃんとお別れしておきたいだけ。
スイミングスクールのプールで、もう一度だけ、味わおうとする。胎内記憶を持っていたころの、わたしと同じ感じを。
たぷたぷ。とぷん。くるりくるり。
前より少しはうまく回れるようになったかもしれないけど。
たぷたぷ。とぷん。くるり。
この世界でしばらくは過ごしていくから。
たぷたぷ。とぷん。
お腹のなかの感じも。産まれる前のママとパパのことも。それから、もしかすると空の上の物語も合わせて。
わたしのなかの、たぷたぷの記憶。
ばいばい。
たぷたぷ。
またね。
たぷ。
顔を上げて、目を開く。
青い水面にきらきらと光が輝いている。
わたしは、水から浮かび上がっていく。