前編
たぷたぷ。とぷん。くるり。
周りにたっぷりの水を感じて、わたしは回ってみる。
頭を下にして、目を閉じる。手を胸に持ってきて、足を縮めて、まるまってみる。それから、肩や腰をひねって左右にくるりくるりと。
あんまり上手にできないけれど、水がゆらゆらと揺れて、心地よい。
ずうっと前に、こうしていたときの気持ちを、ちょっとは味わえないかな。
たぷたぷ。とぷん。くるりくるり……。
スイミングスクールの先生から、ママに連絡が来たみたい。
「自由時間に泳がないで、なんか変なことやっていたんだって? スイミング、おもしろくないの?」
夕食のあとに、ママに尋ねられたんだ。
「スイミング、おもしろいよ!」
つまらないなんて思ったことがない。すぐに大きな声で話した。
「四年生の知沙ちゃんよりクロールが速くなったもん」
少し自慢してみたら、ママの声が大きくなる。
「じゃあ、何で自由時間にもぐりっぱなしになっていたの? 先生がびっくりしてたよ」
「そうなんだ」
先生を驚かせてしまったみたい、と初めて気がついた。
ママの眉間にしわが寄っている。
「そうなんだ、じゃないでしょ。何か嫌なことでもあって、泳がなくなっちゃったんじゃないかと、心配したんだからね」
ママは、ささいなことですぐに神経をとがらせる。
わたし、小学三年生になったんだよ。いつまでも小さい子みたいにしないでほしいな。
ほっぺたをふくらませてから、ぼそっと話す。
「ただちょっとやってみたかっただけ」
「何を?」
「……」
うまく説明できなくて黙ったけれど、ママは引き下がらない。しょうがない。
そっぽを向いたまま口を開く。
「お腹のなかの赤ちゃんのまね」
わたしの答えに、ママは「えええっ」と大げさな声を上げる。
だから、話したくなかったのに。
でも、そのうちスイミングの先生に見つかるかもなって、思っていたんだ。自由時間にやっていたのは、もう三回目だからね。
「赤ちゃん返りしたくなったの? どうして?」
ママに繰り返し聞かれて、まいった。
「別に赤ちゃんになりたかったわけじゃないってば!」
そういうわたしの気持ちが通じるまでに、時間がかかった。
やっと、ママは念を押すように聞く。
「本当に何も心配なことはないのね?」
「うん、大丈夫」
「それじゃ、もうやらないね?」
「……」
それは困る。
「あと一回だけやってもいい? ママ、先生に話しておいてよ」
「何で?」
そのとき、バタンとドアの開く音がした。パパの声がする。
「ただいま」
「パパ、おかえり」
わたしは軽い足取りで、玄関へパパを迎えに行く。ちょうどいいときに、帰ってきてくれた。
「暑くなったなあ」
ネクタイをゆるめて、背広を脱いでから、パパは続ける。
「お腹空いた。ご飯すぐ食べられる?」
ママは長いため息をついてから、あわただしくパパの夕食を温め始める。
それから振り返って、わたしに言い聞かせるように話した。
「あと一回だけ、って先生に言っておくから、そのとおりにしてね」
「うん」
はっきりと返事をする。
うん。あと一回、できればいいかな。
そろそろ六月。
ママはいつも仕事でばたばたしている。もうゴールデンウィークのことを忘れちゃったみたい。
今年のゴールデンウィークに、ママは十連休が取れた。
わたしはママに連れられて、電車を乗りついで、おばあちゃんのうちに遊びに行った。
おばあちゃんのうちには、おじいちゃんとひいおばあちゃんも一緒に住んでいる。でも、行ってみたら佳奈さんもいたんだ。
佳奈さんは、ママの妹。わたしにとっては、おばさんに当たる。
小さいころはよく遊んでもらった。二年前に佳奈さんは結婚して、おばあちゃんの家から引っ越していった。それからはあまり会っていない。
リビングルームに入ったところで、佳奈さんはわたしの姿に気づくと、笑顔になった。
「ゆっちゃん、久しぶり」
「佳奈さん、帰っていたの?」
「うん、お産をこっちでしようと思ってね」
佳奈さんのお腹はとても大きくふくらんでいた。
「赤ちゃんがいるの」
そう言われて、わたしは目をまるくした。
「えっ、本当に。男の子? 女の子?」
お腹を手でさするようにしてから、佳奈さんは教えてくれた。
「女の子。もうすぐ産まれる予定なの。産まれたら、またおばあちゃんちにおいでよ。赤ちゃん見に来て」
里帰り出産、とか言うらしいけど、佳奈さんはこっちで赤ちゃんを産むんだって。
弟や妹が産まれたという話は、周りの友だちから何度か聞いている。けれど、こんなお腹の大きな人を間近で見たのは初めてだった。
おばあちゃんのうちでは、お仏壇に手を合わせたり、みんなで昼食におそばを食べたりした。そのあと、おばあちゃんが背の高いどっしりしたたんすのある部屋に呼んでくれた。
「これ、ちょっと遅いけど、ゆっちゃんの進級祝いね」
小さな声でささやいて、こっそりおこづかいをくれた。でも、内緒にしていても、いつの間にかママが知っていたりするんだよね。
ママと佳奈さんと三人でお茶を飲んでいるとき、わたしは佳奈さんのお腹に見入ってしまった。
心が抑えきれなくて、聞いてみる。
「すごいね。このなかに、赤ちゃんがいるんだ。どうなっているの?」
「お腹のなかに赤ちゃんの部屋があるのよ。羊水っていう水が、たぷたぷいっぱい入っていて、赤ちゃんは浮かんでいるの」
佳奈さんは大切なものに触れるように、ゆっくりとお腹をなでる。
「赤ちゃんはおへそのところから、栄養をとって大きくなるのよ。頭を下にしてね、手足を動かしたり、たまにくるりと回ったりしているみたい。もう、大きいから狭いみたいで、左右に少し回るだけになっちゃったけどね」
「へぇー」
感心したような声を出したら、ママがくすりと笑った。
「ゆっちゃん、昔は覚えていたのにね」
「覚えていたって、何を?」
「ゆっちゃんが三歳くらいのときかな、ママのお腹のなかにいたときのこと、覚えてるって言ったのよ。暗くて狭かったけど、温かかったよって」
「ええっ、そんなことしゃべったの?」
そんな話、初めて聞いた。とても驚いた。
ところが、ママは軽くうなずいて、「それにね」と続ける。
「お腹のなかにいたときに、ママはパパと一緒にピンクの産着を見ていて、『これでもしも男の子だったらどうするんだろう』って話していたって言うの。すごくびっくりしたのよ、本当にそういうことがあったから」
ママの話は、思いがけないことだった。
佳奈さんが急に高い声を上げた。
「それって胎内記憶じゃないの!」
「たいないきおく?」
不思議な響きのする言葉だと思う。
「うん。お腹のなかの赤ちゃんのことを胎児、っていうんだけど、その胎児がなかにいたときの記憶、っていう意味ね」
佳奈さんはさらに説明してくれる。
「赤ちゃんや幼いうちは、お腹のなかにいたときのことを覚えている子がいるみたいなの。それどころか、もっと前に、空の上からどのお母さんにしようかなって眺めて、選んできたんだって言う子もいるらしいよ」
「えっ、空の上から?」
びっくりして聞き返す。
「そう、お腹に入る前に空にいたって言う子がいるのよ。なかには赤ちゃん同士で兄弟で産まれる約束をしたって話す子もいるんだって」
「赤ちゃんになる前もあるの?」
何だか信じられない。
「本当かどうか分からないけどね」
佳奈さんはそう答えたのに、ママが思い出したように言った。
「そういえば、そのときゆっちゃんに、弟か妹はほしい? って聞いたら『そんな子はいなかったよ』って答えたのよ。不思議よね」
「わあ、すごい話だね」
ママと佳奈さんは笑っていたけど、わたしには聞き逃せない。
「ねぇ、もしかしたら、忘れちゃっただけかな。わたし、産まれる前のこと、本当に覚えていたのかな」
すごく気になる。
「うーん、胎内記憶はだいたい三歳前後の子しか話してくれないんだよ。そのあと聞いてもほとんど覚えていないんだって。もしも本当にそういう記憶があったとしても、忘れちゃうものらしいよ」
「えーっ」
わたしは、佳奈さんの話に不満になった。
「何で忘れちゃうんだろう。つまんない」
それでスイミングスクールに行ったときに、お腹のなかの赤ちゃん――胎児の気持ちになってみたんだよ。