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正義論集成

超正義論

作者: DJ克明

 正義は優しさである。人間の平等関係、又はそれが成り立つ世界を構築するには、この「やさしさ」が必要であり、他のどんな方法も、この方法にはかなわないということ。特に人は「弱者」に優しくしなければならない。強者には逆に強く出た方が良いのだが。私はいつも人は人に優しくする為に生まれてきたのだと、それを行使することが生まれてきたことの意味だというふうに考えてきた。


 それはループすることになるが、平等の世界を作る為の自分の人生の活動であるというふうにも考えてきた。私はまずは友達から優しくしたい。それがこの世の中を0.0000001ミリでも良い方向へ向かわせていることになるなら、それがゼロでないならば、私はそれを一生懸命させて頂きたいとそう思ってきました。とりあえず、前置きはそういうことです。では、本題に入りましょう。


 本題に入りますが、何のことはない、悪人にも人は優しくすべきか、である。私はずっと『正義』を考えてくるに当たって、「悪」というものにも注目してきた。注目、と言うと何か語弊があるかもしれないが、重要であるということは確かなことであるという結論に至った。それは、やはり自分の中にも「悪」の差別意識が存在することを認めなければならなくなった。本当に差別心のない人間がこの世にいるだろうか。私も、平等主義を唱えている者だが、平等心の少ない者を差別して、批判して生きてきた。


 それは「良い世の中」を作ろうとする気持ちからだが、差別であることには変わらない。だいたいが、私は「差別をしたことがない」という人を疑う。その気持ちを認めない人を信じることができないのだ。だから、「悪」ももちろん肯定されるべき感情であると言い切ることができる。そもそも、悪い人がたくさんいるこの世の中で、「悪」を否定することは、この世を否定していることにもなりうる。私は実は「悪」も素晴らしいものではないのか、と思うときもある。


 「善」と「悪」の両方を踏まえた上での『正義』を考えるということなら、話も分かるのだ。正義は決して「善」の延長だけではない。「悪」も含めた上で、それを超越した「正義」という概念を考えなければならないのだ。


 しかし、「悪」、又は「悪人」の差別主義を肯定して良いのだろうか? これははっきりと言って、否定せねばならないものであると思う。私は差別をすることは人間の一番してはいけないことだと思っている。差別をするくらいなら、死んだ方がマシだ。しかし、差別心が自分の中にあることは認める。ところが、認めた上で、なおかつ全否定しなければならないものだとも考える。差別をしても良いということになったら、人間社会はメチャクチャになる。そういうことがきっかけで、いじめも生まれるし、戦争もそういうことで生まれてくるものだろう。


 けれども、私は「悪」をそんなに悲観的に見るものではないと考える。悪人は既にたくさんいるし、いても難なく平和が保たれているのだとも考えることができるかもしれないからだ。つまり、自分も悪人であるという認識が必要なのだ。悪人であり、善人であり、そして正義人でもあるのだ。私は差別を奥深いものであるとは見ない。否定すべきものであり、怒りを示すべきものであるからだ。そういうふうに、「悪」をひっくるめた「正義」論を、今は考えている。皆様、ご清聴ありがとうございます。今日も外は快晴でございました。この世に希望は必ずあると信じています。それでは。 

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