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初雪は愛の雫に変わる

作者: 宮永レン

春夏冬あきなしみのり……OL。羽根川に積極的にアタックするもスルーされることが多い。



羽根川悠人はねかわゆうと……みのりの先輩。無口で不愛想。仕事一筋。ツンデレ。


茂木康平もてぎこうへい……羽根川の同期。羽根川とみのりの関係を(面白がって)応援している。

 カタカナのコの字に設置された長机には七割程の人間が着席している。全員が揃うにはまだ時間があり、談笑を交わす者や資料に目を通している者、様々だった。

 腕時計に目を落とした羽根川悠斗(はねかわゆうと)の顔がくもる。遅い、と心の中で文句を言うと、それを悟ったかのように隣で茂木康平(もてぎこうへい)が口を開いた。


「みのりちゃん、遅いね」


 これから始まる企画会議に補足する資料を担当しているのが、春夏冬(あきなし)みのりだった。彼女がまだやって来ない。オフィスを出る前に声をかけるべきだった、と羽根川はため息をついた。


「あとはコピーするだけって午前中に言ってたんだけど」


 落ち着かない様子の茂木を横目に、羽根川はもう一度時計を見た。会議が始まるまであと15分。余裕があるとは思えない。


「ちょっと行ってくる」


 立ち上がった羽根川は、パイプ椅子を机の下に押し込んで会議室を出た。

 エレベーターの前には大きな窓ガラスがあり、真っ白に曇っている。外気温との差があるせいだろう。


 今年初めて都心でも雪が降るかもしれないと、今朝の天気予報で言っていたのを彼は忘れていない。車のタイヤをスタッドレスにしていなかった彼は、今日だけは残業せずに帰りたかった。足りない資料の為に会議でミスするなど許されないのだ。


 8階下のフロアでエレベーターを降りると、足早にオフィスに向かう。そこで角を曲がった途端に衝撃があり、反動でよろけた自分の脚につまづいた彼は、その場に尻餅をついていた。 


 短い悲鳴が耳に届いたが彼のものではない。顔を上げて何が起きたのか理解するのに一秒もかからなかった。散乱する資料やペンなど小物の真ん中に鼻面を押さえてしゃがみ込んでいる彼女は、今まさに彼が探している人間だった。


「あ~き~な~しぃ~~」


 痛みよりも苛立ちが(まさ)って、恨みのこもった声で彼女の名前を口にする。


「すみ……」


 そこまで言いかけると、みのりは鼻に当てていた手で慌てたように口を押さえた。それから盛大なくしゃみをして、急いで膝をついて近くの資料をかき集める。


 羽根川は指先を伸ばした先にあった携帯電話をスーツのポケットに入れた。落とした衝撃で壊れていなければいいなと思いながら、彼は仕方なく床に散らばった資料を一緒に拾い始めた。


「もう会議が始まるぞ」


「はい。本当にすみません」


 即座に返ってきた抑揚のないみのりの声に、彼は資料を拾う手を止めた。一瞬彼女が怒っているのかと思ったが、こちらに怒られる筋合いはない。


「春夏冬?」


 呼びかけに黙って顔を上げた彼女は、今にも泣きそうな真っ赤な瞳で彼を見つめ返してきた。眉根を寄せて涙をこらえている様子にも関わらず、照明のせいか顔が青白い。


「俺は、別にお前だからとがめたわけじゃないからな」


 何となく言い訳をして、羽根川はばつが悪そうに目をそらした。そばにあった資料を引き寄せ、残りがないことを確認して立ち上がる。


「何のことですか?」


 ゆっくりと体を起こした彼女の表情は先程と変わらない。どうやら羽根川の言葉に傷ついたわけではなさそうだ。ではなぜ彼女はそんなに辛そうな表情をしているのだろう。


「お前、具合でも悪いのか」


 彼の言葉にみのりは咄嗟にうつむいた。頷いたわけではないようだ。


「私は大丈夫です。だってこれがないと会議が始まらないし、でも見直したのにタイプミスしちゃった所が、あって……」


 みのりは声を詰まらせた。一度(せき)を切った涙は、次から次へと頬を流れ落ちていく。震える肩の上で、柔らかそうな彼女の巻き髪が一緒に揺れた。


「間に合ったんだから泣くことはないだろう。お前、やっぱり変だぞ」 


 彼女の手から資料の束を受け取ると、羽根川は眉をひそめた。

 頭を垂れたまま何も答えない彼女に後ろ髪を引かれる思いだったが、本当にもう会議が始まってしまう。


「羽根川さん、何やってるの? 会議始まるよ」


 振り返ると、上司の中では数少ない女性である一瀬凪子(いちのせなぎこ)が、ファイルを抱えて歩いてくるところだった。


 その視線が涙を流しているみのりに注がれ、彼女は足を止めた。羽根川はひどい誤解を受けることを覚悟したが、凪子は驚くようなリアクションも見せずに、みのりに近づくと両手を腰に据えて首を傾げた。


「お昼前には早退するように言ったよね」


「すみません」


 みのりは鼻をすすって声を震わせた。手の甲で涙を拭う。


「謝ることはないわ。でも誰かに頼めば良かったのに。私も忙しくて見てられなかったのも悪いんだけど」


「いえ、一瀬さんのせいじゃないです。本当に申し訳ありません」


 呆れたように肩をすくめた凪子に、みのりは首を横に振ってから頭を下げる。


「早退届だけ私の机に置いておいて。お大事に」


 ぽんと軽く彼女の肩に手を乗せて、凪子は羽根川の方に歩いてきた。


「エレベーター、乗らないの?」


 聞かれて羽根川は後ろで開いている箱の中に慌てて滑り込んだ。凪子が乗るのを確認して会議室の入っている階の数字ボタンを押す。一人でオフィスに向かうみのりの背中が扉によって遮られた。


「春夏冬、具合悪いんですか?」


 羽根川はカウントアップされる階数表示を見ながら低い声で言った。


「うん。朝から38度の熱があるって言うから早退してって言って、はいって言うから私もその後取引先からの電話の応対とかで忙しくなっちゃって、気にしてなかったんだよね」


 凪子の口調はあっけらかんとしている。もっと部下を気にしろと言いたかったが、羽根川はぐっと口を引き結んだ。彼女の男勝りでさばさばした性格が、女性でありながら課長補佐まで昇進してきた所以とも言える。


 みのりの様子が変だったのは、熱のせいだったのかと彼は納得した。さっさと早退すれば良かったのに。それとも代わりに頼める人間がいなかったのだろうか。確かに今は年末で、誰もが自分で抱えている案件で手一杯かもしれない。


 いつもなら「先輩しかいないんです」と懇願してくるクセに、と心中で呟いてから、もう少し話しかけやすい空気だったら違っていたのかもしれないと思い直す。


「心配だなあ」


 凪子の独白に羽根川はハッと我に返る。


「何がですか?」


「茂木さん」


 みのりの心配をしているのかと思いきや、全く別の答えが返ってきて彼は思わず凪子の方を向いた。普段は調子のいい茂木だが、人前に立つと超絶緊張して石造のようになってしまうところがある。


「春夏冬さんの方が心配?」


「は?」


 羽根川は彼女の問いかけにぎくりとした。


「っていう顔してたよ、今。意外だな、羽根川さんって他人に興味なさそうなイメージだったから」


 くすくすと笑う彼女に否定の言葉を返そうと思ったが、目的階に着いて鉄の扉が開いたので彼は反論の機会を失う。


「茂木が緊張しないで話せるかどうかの方が心配です」


 ようやく憮然とした表情で返答して、羽根川は会議室の扉を押し開いた。複数の視線が集中する。その中に茂木のものもあった。彼のサイボーグのようなこわばった笑みを見て、羽根川と凪子のため息が重なった。



 定時を三十分程過ぎたところで仕事を切り上げ、羽根川は地下の駐車場に降りて車に乗り込んだ。外回りから戻ってきた営業部の人間から、雪が降り始めていることを聞かされたせいか無意識に白いため息が漏れる。


 つもっていなければ良いが、雪道の運転はなるべくしたくなかった。明日から三連休で良かったと彼は思う。何も予定がないから寒い中出かけずに済む。助手席にコートと鞄を置いてエンジンが温まるまで待つことにした。

 シートベルトを胸の辺りまで引いた時、上着のポケットから振動を感じ、彼は携帯電話の存在を思い出す。


「春夏冬……家?」


 表示された名前に若干の違和感を覚えながら通話ボタンを押す。


「もしもし」


「あれ、もしもし?」


 電話の向こうから聞こえてきた声はみのりではなく、全く聞き覚えのない男性の声だった。声のトーンから年配だと推測できる。わけがわからず、彼は怪訝そうに眉間にしわを寄せた。


「どなたですか」


 羽根川はシートベルトから手を離して、耳に神経を集中させた。


「なんだぁ、みのりの奴、いつのまに番号変えたんだ・・・・・・?」


 訛り混じりのそれは返答と言うよりも独り言に聞こえたが、羽根川にはピンときた。


 先程感じた違和感の正体がわかったのだ。みのりの苗字は今でこそ簡単に読めるが、アドレス帳に登録した時は漢字に直すのが面倒でひらがなで登録したのだ。だから、発信先の表示が漢字であるはずがない。つまり、この電話は羽根川のものではないということだ。


「すみませんが、あとでかけ直して下さい」


 ため息とともに答えて、彼は電話を切る。そこに表示された待ち受け画面を見て、確信した。見覚えのある、のんきに笑う白い猫のキャラクター画像は彼が設定したものではない。ましてやバグでもないだろう。このキャラクターを待ち受け画面にする程好きな人間は羽根川の周囲に一人しかいない。


「あの時か……」


 昼間、廊下で正面衝突した時に拾い上げた携帯電話は、みのりのものだったのだ。最後に廊下を見渡した時何も落ちていなかったという事は、羽根川の電話を彼女もまた気づかずに拾ってしまったのだろう。

 すぐにオフィスに引き返そうとエンジンを切りかけ、思い留まった。みのりは会議中に早退したのではなかったか。


「あいつに関わるとろくなことがない」


 羽根川はシートにもたれ掛かって目をつぶった。それから意を決したように体を起こして、電話のアドレス帳画面を開く。「羽根川先輩」と書かれているのと番号に間違いがないのを確かめて、通話ボタンを押した。

 六回目の呼び出し音で諦めようとした時、相手が出た。


「もしもし」


 羽根川はぶっきらぼうに声をかける。


「もしもし、先輩ですか?」


 通話口から頼りない声が聞こえる。少しこもったような鼻声は風邪のせいだろう。


「春夏冬、今どこだ」


「どこって、自分の部屋です。それより、その……すみません。先輩の携帯って家に帰るまで気付かなくて。メールはしたんですけど返事もないし、知らない人に拾われたのかなって心配してたんですよう」


 メールまではチェックしなかったと思いながら、羽根川は今日何度目かのため息をついた。


「お前、いつ機種変したんだ? しかも、よりによって俺と同じやつに」


「あ。そ、それはたまたまですよ~」


 半分笑いを含んだ答えが返ってくる。思ったよりも元気そうじゃないか、と皮肉を心中で呟く。


「これから寄るから、携帯用意して待ってろ」


「は、はい。わかりました。ちなみに」


 みのりは言いにくそうに口ごもる。


「何だ、早く言え」


「どうして登録してる私の名前、あきなしって平仮名なんですか?」


「予測変換で出てこなかったからだ」


 彼の即答にみのりは電話の向こうでぶつぶつと文句を言う。それを聞き流して、部屋番号を確認し、すぐに電話を切る。車内はもう十分温まっていた。


 羽根川は普段と同じように駐車場を出て、迷いなくハンドルを切った。ナビがなくても彼女の住むマンションまでの道のりは頭に入っている。不本意ながら最近月に一度はそこを訪れているからだ。面倒だと思うのに、最後には彼女に巻き込まれているのはなぜだろう。みのりの事が好きなのだろうか。


 赤信号で停車して、彼は誰もいない助手席に目をやった。


「それはないな」


 職場の飲み会で、アルコールの入っていない羽根川の車に強引に乗り込んできたあの日から、何かとみのりは自分に絡んでくる。


「いつも能天気で他人に頼りっぱなしの馬鹿女なんか、好きになるわけがない」


 これまで、みのりを女として意識したことは一度もない。

 自分は暇なのだ、と彼は自分に強く言い聞かせる。何も予定がないから、つい付き合ってしまう、それだけの事だ。


 湿り気を含んだ大きな雪の欠片がひっきりなしにフロントガラスに張り付いては、たちまち溶けていく。道路は凍っていないようだが、今年初めての降雪に車の速度が落ち、渋滞ができていた。くもった窓ガラスから色とりどりの光の点滅が見え、少しだけ手の甲で水滴を拭って顔をそちらに向けた。


 ビルの窓に大きく取り付けられた光のカーテン、電飾でできたサンタクロースとトナカイがきらきらと輝いている。明後日はクリスマスだ。

 羽根川は小学五年生までサンタクロースが実在するものだと信じていたことを思い出して苦笑した。


「春夏冬なら今でも信じていそうだな」


 呟いて彼は少し笑った。



 インターホンでの短いやり取りの後、ややあってドアの隙間から顔を出したみのりは羽根川の頭の上から爪先までしげしげと見つめた。


「雪、ですか」


 彼の肩や頭に溶けかけの雪片が乗っているのを見て、目を丸くしている。


「夕方から降ってきた」


「わあ、少し早いけどホワイトクリスマスですね」


 子供のようにはしゃぐ彼女に羽根川は苦笑した。パジャマ姿にクリーム色のカーディガンを羽織っただけの姿は寒そうに見えた。熱があるのか頬は赤いが、昼に見た時より元気があるように思える。


「携帯は?」


 羽根川が尋ねると、彼女は慌ててドアを大きく開く。


「あのっ。立ち話もなんですから、どうぞ中に」


「すぐに帰る。ほら」


 そう言って羽根川は、コートのポケットの中から携帯電話を彼女に差し出した。


「今、持ってきます。でも寒いし、中で待ってて下さい」


 電話を受け取った彼女は、カーディガンを胸の前で押さえて部屋に引き返す。外は身を切るような冷たい風が吹いていた。仕方なく羽根川は小さく息をついて玄関に一歩入る。背後でドアが静かに閉まった。


「本当にすみませんでした」


 謝りながら、彼女は大事そうに両手に彼の携帯電話を握り締めて戻ってきた。


 手渡された物を見て、改めて同じ機種であることを確認する。紛らわしい、と羽根川は口の中で呟いて、それをポケットに収めた。


「折角ですから上がっていきませんか。お茶でも淹れますから」


「病人はさっさと寝ろ。じゃあな」


 羽根川はぶっきらぼうに言い捨てると携帯電話を入れたのとは反対のポケットに手を突っ込み、車のキーを探る。


 袖口についていた雪が滴に変わって、ぽたりと玄関に落下した。


「でも、先輩と話すの久し振りだし」


 上目遣いでちらりと彼を見上げた彼女は、お祈りをするように胸の前で手を組んだまま下を向いた。羽根川は小さく首を横に振る。


「そんな時間は――」


「ちょっとくらい良いじゃないですか」


 彼の言葉を待たずに少し怒ったような強い口調で言ったみのりは、その胸に勢い良く飛び込んでコートにぎゅっとしがみついた。羽根川は彼女の不意打ちに驚いて目を見張る。一歩後ろによろめくと、濡れた靴底が小さく音を立てた。


「あ、春夏冬……?」


 引き離そうと腕を上げた時、みのりの肩からカーディガンが滑り落ちそうになり、羽根川は咄嗟にそれを掴んで肩にかけた。離れるどころか、これ以上ない程二人の距離が縮まる。意図せず抱き締めてしまった彼女の身体は思っていたよりもずっと華奢で柔らかかった。彼の鼓動が大きく跳ねる。


「好きなんです、一緒にいたいんです」


 彼の胸に顔を埋めたまま、みのりは声を震わせる。


 羽根川は携帯電話を届けてすぐに帰るつもりだった。それなのに1パーセントも予想していなかった出来事が連続し、頭の中がひどく混乱する。


 彼女の肩を抱いている指先が強張り、全身からどっと汗が噴き出した。早く何か言わなければならないと彼は思った。どうすれば良いのか考えれば考えるほど答えは遠ざかり、逃げていく。


「ば、馬鹿か、お前。熱でもあるんじゃないのか」


 やっと口をついて出た言葉の間抜けさに、羽根川はさらに汗をかいてこの場から逃げ出したくなった。熱があるから、みのりは会社を早退したのだろう。決まり悪そうに彼は咳払いを一つすると、コートにしがみついていた彼女の手を掴んで無理やり引きはがした。その手は熱を帯びて弱々しく、彼女はふらつきながら離れる。


「まだ熱下がってないだろう」


 彼に呼ばれて、みのりはゆっくりと顔を上げた。揺れる瞳から透明な雫がこぼれて頬に一筋の跡を残した。羽根川は息を呑む。なぜ彼女が泣くのか彼にはわからなかったが、その表情はハッとするほどきれいだった。


「今、熱は?」


 一瞬でも彼女に見惚れてしまった事を誤魔化すように羽根川は彼女から目を逸らす。


「薬で下がったと思いますけど……」


 みのりはパジャマの袖で涙を拭いながら自信なさそうに言った。


「絶対もっと上がってるだろう。ちゃんと計れ」


「でも、うち体温計なくて……」


「はあ? 一本くらいあるだろう」


 否定系の回答しか返ってこないことに苛々しながら、羽根川は片眉を吊り上げた。


「ないです」


「買ってこい」


 彼は即答する。普段の調子が戻ってきて、少しホッとした。できるだけ先ほどのハプニングから話を逸らしたかった。まだ鼓動はいつもより早い。


「外出はあまりしないようお医者さんに言われました」


 それが免罪符だとでもいうように、彼女は堂々と胸を張って答える。


「帰る」


 羽根川はくるりと背を向けて、ドアノブに手を伸ばした。


「な、何でですか」


 目を丸くしたみのりは慌てて彼の腕を掴む。


「馬鹿か。風邪がうつったらどうする」


 その手を振りほどいて、彼は上半身だけ彼女の方に向け、しかめ面で答えた。社内では先週から何人か胃腸炎やらインフルエンザで休んでいる人間がいる。そのため、余計に他の者に仕事のしわ寄せがきているのだ。


 だから今日の資料作りも本来ならば、みのりの仕事ではなかった。ただでさえ年末で忙しい時期に、自分まで体調を崩して休むわけにはいかない。


「え~、先輩なら大丈夫ですよぅ」


 みのりは口を尖らせる。


「どういう意味だ」


 棘のある言い方になる。まさか「馬鹿は風邪ひかない」などと言うつもりではないだろうなと思いながら、彼は怪訝そうに眉を寄せた。


「あらゆるウイルスを撃退する機能搭載してそうですもん」


 彼女はにっこりと笑みを浮かべた。


「俺はマシンか何かか」


 みのりの斜め上を行く答えに呆れてため息が漏れる。


「ハイスペック大容量で最新優秀モデルって感じですかね」


「馬鹿なこと言ってないで、薬飲んで寝ろ」


 どこまでが冗談で、どこからが本気なのかよくわからない。羽根川は頭を掻いた。


「お昼のあとから何も食べてなくて……眠れないんです」


 みのりはお腹を押さえながら、顔を曇らせる。彼の言う事に従う気は毛頭ないようだ。


「全く……、お前は屁理屈ばっかりだな」


「よく言われます」


 あははと彼女は軽く笑って、頬にかかった乱れた髪を耳にかけた。


「今回だけだからな。何か適当に買ってきてやるから大人しく寝てろ」


「あ、ありがとうございます」


 嬉しそうに目を細める彼女を見て、羽根川はすぐに部屋を出ていく。みのりは、あいかわらず素っ気ない彼の態度にがっかりしていたが、彼女は知らなかった。耳まで真っ赤になった羽根川の顔を。



 

 みのりと羽根川の距離が縮まるのは、もう少し、先の話。



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