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第六話 妖狐の夢


「ご、ごめんくださいませ」

 ひょろりとした猫背の僧が、薬仙堂の店先で相も変わらずおどおどと、挨拶をした。

 その、どことなく頼りなげな顔を見れば、薬仙堂の面々はにこやかに挨拶を返し、店の端にある卓へと案内する。そして、今日は少々暑いからと冷たい砂糖水を用意しつつ、奥で薬を作っている草草そうそうを呼びにいく。

 ひょい、とついたてから顔を出した草草がにこりと笑い、僧の元へ向った。もちろん、守役たちもしっかりついて来ている。


「お坊様、こんにちは。今日は和尚様のご用か何かで、こちらのほうへ来たんですか?」

「は、はい。それで、草草様にもご挨拶をと思いまして」

 僧は丁寧に頭を下げると、冷えた茶碗を手に取り、ごくりとのどを鳴らした。ほどよい甘さの冷やし水がおいしかったのだろう。小さな目がなくなるかと思うほど細くなり、嬉しげに笑っている。


 二人の仙に慣れ、追いはぎに立ち向かい、霊の憑いた菓子屋の主人とも話したことで、以前に比べれば少しは度胸がついたらしい。

 僧はずいぶんと草草に感謝し、近くへ来たときは、必ず薬仙堂に顔を出すようになっていた。


「坊さん。霊を見て、悲鳴を上げたりしてないかい?」

 虹蛇こうだがニヤリと口の端を上げると、僧は猫背をいっそう縮こまらせ、ぶるぶる首をふった。

 以前だったなら、びくりと身をすくませ、がくがくしながら草草に救いの目を向けていただろう。

 度胸がついてきたのは本当のようだ。良いことだと、草草はにっこり笑う。


「私はまだ、お祓いはできませんが、和尚様のお供では、なんとか……その」

 僧は小さな目をパチパチとしばたきながら、遠慮がちに答えた。だが、その唇はなにやら言いたそうに、もごもご動いている。

 どうしたのだろう。草草が問おうとしたとき、すん、と狼君ろうくんが鼻を鳴らした。


 見れば眼光が鋭く光っている。虹蛇の眉も上がり、目は針のように細い。

 守役たちの向く先には、外出から戻ってきた、いつもと変わらぬ従兄の姿があった。いや、その頬はゆるみ眉尻も垂れ、少しばかり浮かれているように見える。

 みな、どうしたのだろう。


「従兄殿、待ちな!」

 僧を見つけた従兄は挨拶をしようと思ったのだろう。卓へと近づいてきた彼を、虹蛇の鋭い声が、二人の仙の物騒な眼差しが、制する。

 従兄の体はびくりとすくみ、頬もひくりと引きつった。ついでに、僧もすくんで引きつった。



「へえ、これが夢札ゆめふだ、ですか」

「は、はい。今、街で少々話題になってるものでして……その、私も試してみようかと」

 卓に座らされた従兄が、二人の仙のきつい目を受けながらおどおどと答える。隣の僧も、こちらはいつもより、さらにおどおどしている。

 卓の上には、美しい女の姿と美しい文字が書かれたお札があった。


 夢札――夜、枕の下に敷いて眠ると良い夢を見ることのできるお札、であるらしい。ただ……


「この夢札から、狐の力を感じるんだね?」

 草草にも何がしかの力があるとは感じられるものの、それが狐、つまり妖物の力とまではわからない。

 守役たちに顔を向けると、不機嫌そうな仏頂面と、綺麗だからこそ恐ろしげな顔が、そろって縦にゆれた。


「はい。狐臭いです」

「まあ、大した力じゃありませんが……従兄殿、こんなもの、坊ちゃんのそばに持ってくるんじゃないよ」

「す、すみません……」


 妙な力のある怪しげなお札を、大切な坊ちゃんに近づけたことが、守役たちの気に障ったらしい。鋭い眼光はギラリと光り、形よい眉はきりきりとつり上がっている。

 草草は物騒な二人の仙をやんわりとなだめ、肩を落とした従兄を励ます。ついでに、おびえてしまった僧に優しげな顔で笑いかけたりもした。

 坊ちゃんもなかなか忙しい。



 ようやっと落ち着いた卓で、草草は冷たい砂糖水をひと口飲み、ひと息ついては夢札を見た。

 先ほど二人の仙が破ろうとしたために、卓の上でよれ、へなへなと疲れた風に折れ曲がっている。


「この夢札で、どんな夢が見れるんですか?」

「ぅ、そ、それは……その、あの」

 なぜだか、従兄の顔が真っ赤に染まった。

 夢札には美しい女の姿に、美しい文字で『夢を訪れる』といったようなことも書かれてある。これはもしやすると、艶めいた一夜の夢でも見られるのだろうか。


 仙山にある水鏡で下界をのぞいていた坊ちゃんは、耳年増ならぬ目年増だったりする。

 なるほど、ともれた声に、従兄が首まで染めて縮こまる。ニヤリと笑った虹蛇の口から、真っ赤な従兄をさらに追いつめるであろう言葉が出る、一歩前。

 僧がおどおどと口を開いた。


「あ、あの、草草様。実は今日、街でその夢札を売っている、尼僧らしき女の方をお見かけしたのですが……」

 力ある僧は、その尼僧から怪しげな気配を感じたそうだ。美しい方ではあったが、少し恐ろしくも思ったと言い、眉を下げている。


「ふぅん。ということは、狐の妖物が尼僧に化けて、夢札を売ってるんでしょうね」

「その女狐、夢に入りこんで男の精気でも吸ってるんじゃないですか?」

「坊ちゃん。やはりこんな札、破ってしまいましょう」

 夢札に手を伸ばした狼君を、草草が慌てて止めた。


 街で話題になり、人々が買い求めているなら、今のところ害を受けた者はいないはず。ならば少しくらい試してみても良いと思ったのだ。

 さして強くもなさそうな妖物の力では、神の子や仙には効かないだろう。試すなら従兄になるのか。

 艶めいた夢など見れば、従兄はものすごく説明しづらいと思うのだが。


 無事、夢札を守った草草はホッと息をついた。すると今度は、顔色の失せた僧と目が合う。


「お坊様、どうかしたんですか?」

「あ、あの、実は私、その尼僧様から頼み事をされまして、うまく断れなくて……その、この三年の間に、寺から魔除けのお札をもらった男はいないかと、その男は黎の都から来たはずだから、調べてもらえないかと」

「魔除けのお札?」

 草草がうかがうと、妖物などという、とんでもない相手の頼み事を引き受けてしまったと、僧の顔色がさらに悪くなった。


 黎の都、狐の妖物、夢札の美しい文字。これらから思い浮かぶのは、霊の憑いた菓子屋の主人。彼が霊としてさまよっている間に、文字を教えてやったという狐の妖物のほうだ。

 その狐が尼僧になり、菓子屋の主人を探しているのだろうか。夢札は多くの男をおびき寄せることで、探しやすくするためか。

 けれど、草草は違うだろうと首をふる。


 自身が祓われてしまうかもしれないのに、菓子屋の主人が魔除けのお札をもらうはずはない。

 それに霊は確かに、木乃伊ミイラに閉じこめられて都から来たが、人から見れば菓子屋の主人はずっと来仙にいた、となる。

 ならば狐の妖物は、菓子屋の主人に憑いた霊とは別の、都から来た男を探している、となるのか。



「あ、あの……草草様」

 目の玉をくるりとまわし、考えをめぐらしていた草草に、僧がおどおどと声をかけた。その小さな目はどうすればいいのかと、すがっているような、いや、すがっている。


 人の身で妖物と対峙するなど、この少々恐がりな僧でなくとも、多くの人は遠慮したいだろう。草草は狐の妖物に興味があるし、けっこうなじみになったこの僧の、力になりたいとも思う。

 だが、守役たちはきっと、坊ちゃんが妖物に近づくことを良しとしない。彼らは相手の本性を嗅ぎわけ、嘘を見抜く。

 けれど考え方の違うかもしれない妖物は、悪意を持っていなくとも、こちらに害の及ぶことがある。二人の仙であっても見極めが難しいのだ。さて、どう言えばいいか……

 草草はひとつ、にこりと笑った。


「僕もこの夢札、使ってみようかな?」

「坊ちゃん、だめです。こんな怪しげな物、使っちゃいけません」

「そうですよ。それにこんな妖物の力じゃ、きっと坊ちゃんには効きませんよ?」


 眉間にしわの浮いた狼君が、すぐさま大きく首をふれば、眉をひそめた心配顔の虹蛇も、ゆるく首をふった。表情から首のふり幅に至るまで、坊ちゃんの予想どおりの反応だ。

 ついでに従兄と僧もやめたほうがいいと、そろって首をふっている。妖物の力が草草に及ぶことを心配しているのか、仙人のごとき貴人に艶めいた夢など見せたくないのか。この辺りは定かではないが。

 草草はちょい、と小首をかしげて続ける。


「確かに妖物の思うとおりの夢は、僕に見せられないかもしれないね。でも、夢の中で会うくらいなら、できるんじゃないかな?」

「夢の中で会うなんて、それこそ何が起きるかわかりません。危なすぎます!」

「そうですよ。そんなこと、やめましょう?」


 さらに力強く首をふる狼君、諭すように優しげな声を出す虹蛇。怪しげな夢札を坊ちゃんに使わせるなどもってのほか、なのだろう。

 ここで草草は、しゅん、とした顔を作って見せた。すると、狼君が、うっ、と詰まる。虹蛇はおろおろしている。


「ぼ、坊ちゃん……わ、わざわざ夢で会わなくても、街で夢札を売ってるんだから普通に会いに行きましょう?」

 虹蛇がなんとか坊ちゃんを元気づけようと、代わりの案を出してきた。狼君も「そうしましょう?」と、坊ちゃんをなぐさめるようにうかがう。

 これが、草草のほしかった言葉である。


「ん……わかった。夢札は使わない。普通に会いに行くことにするよ」

 神妙にうなずいた彼を見て、それならば良いと、坊ちゃんはいい子だと、守役たちの頬がゆるんだ。

 これで妖物に会うことができ、僧の力にもなれるというもの。


「では、お坊様。その頼み事を調べたら、尼僧様にはみんなで会いに行きましょう」

 草草がにこりと笑うと、みながホッとした顔になる。

 ただ一人、神の子が二人の仙を言いくるめる場面をわりと見ることのある従兄は、今もそれと気づいたらしく、感心した風な顔を何度も縦にゆらしていた。





 初夏に入り強くなってきた陽射しに、常より人の多い街。

 じんわりと汗をにじませて歩く者も少なくない中、草草と二人の仙はやはり目立ちながら、涼しげな顔で歩いていた。

 そんな一行に混じって歩くひょろりとした猫背の僧は、暑さのためか、人目のせいか、つるりとした頭にずいぶん汗を浮かべている。


 広場には市が立ち、近くは隣から遠くは黎の都まで、さまざまな街からやって来た商人が品を広げ、威勢のいい声を上げる者もある。

 つい先日、県令の子息と刺吏ししの娘の婚礼があり、集まった人々がまだ、この街にいるのだ。

 婚儀には織女蜘蛛演じる、天女が現れた。今の来仙はその話もあっておおいに賑わっていた。


「おう! お兄さん方、この天女酒はどうっ……いかがですか?」

 勢いよくふり向いた売り子が、只ならぬ貴人と武人と策士を見てギョッと目を見開く。ついでかしこまった様子で、天女の噂にあやかろうと、その名を冠した品を遠慮がちに勧めてくる。

 草草は苦笑いをもらしつつ、穏やかに首をふる。

 こんなことを何度か繰り返しながら、四人は目的の場所に着いた。



「あ、あの方です」

「ふん……確かに狐だね」

「坊ちゃんの言ったとおり、菓子屋の主人に残ってる狐の臭いと同じようです」


 広場の外れ、市が途切れた辺りに、尼僧風の女が立っていた。尼僧のわりには少々あだっぽい感じのする、踊子のようにも見える女だ。

 僧のおどおどとした指が示す先を見て、虹蛇の眉がくいっと跳ねる。すん、と鼻を鳴らした狼君の、眉間にもしわが寄る。


「じゃあ、あの人がご主人の体に霊を入れたり、文字を教えてもらったりした妖物だね」

 草草たちはここへ来る前、菓子屋の主人から、霊としてさまよっていたときに出会ったという狐の妖物の話を聞いていた。


『ええ、確かに妖物は女のようでした。ただ、私と会っていたときはいつも狐の姿だったので、話し方や仕草で、そうと思っただけですが』

『妖物が探すような男、ですか? 私は女の話なら聞いたことがありますが。なんでも怪我をしたところを助けてくれた娘さんがいたとか。その方は商家のお嬢さんだそうで、妖物は恩返しのために店を手伝いたいと。それで私が文字を、計算や店のことなども合わせて教えたんです』


 菓子屋の主人は最後に、「もしあの妖物なら、私が礼を述べていたと伝えていただけませんか?」と、懐かしげに笑った。

 本当は彼も来たそうだったが、来仙に人が集まっている今、店は忙しい。乳飲み子のいる従姉だけに任せておけないのだ。


 主人の話や様子を見るに、狐の妖物は悪いものではなさそうだと、草草は思う。

 では話してみようかと尼僧の元へ行こうとすると、狼君がずいっと前へ、虹蛇がぴたりと隣に並んだ。守役たちは坊ちゃんが心配であるらしい。

 草草もいらぬ心配をかけたくはないから、大人しく囲まれて歩いていく。


「おい」

 狼君が少しばかり仙の力を乗せた声を出すと、尼僧の身が大きくふるえた。こちらを向いた顔もこわばっている。

 人の身である僧ですら、無意識にも大狼や大蛇の気配を感じとっているようだから、元は狐でもあり、百年も千年も生きる妖物には、もっと強く感じられるのだろう。

 あまり恐がらせて話を聞けなかったり、逃げられたりしても面倒だ。草草は優しく声をかける。


「尼僧様、少々お話があるんですが」

 途端、尼僧のふるえが止まり、少々厚ぼったい唇がポカンと開いた。草草をたいそうご立派な、それこそ仙人か神様とでも見たのかもしれない。

 尼僧の頭を覆っていた布が、なぜだかもこりと盛り上がってもいる。もしかして、驚いたせいで狐の耳でも出たのだろうか。布のない、ただの娘姿だったなら、危うく騒ぎになるところであった。



「かたき討ち、ですか」

 草草は薬仙堂の卓で、今日も暑いからと、従兄が用意してくれた冷えた砂糖水でのどを潤す。

 そして、尼僧に目を向けた。


 只ならぬ貴人と武人と策士、徳が高いと敬われている和尚の弟子に、街で話題になっているという夢札を売る美しい尼僧。こんな者たちが集まり、広場でしゃべっていては人目を引いて仕方がない。

 これでは落ち着いて話もできないと、草草は尼僧を連れて薬仙堂に戻っていた。


 その尼僧――名を藤狐とうこという、の話はこうだった。


 数年前のこと。菓子屋の主人が聞いたという、妖物が恩返しをしたいと言っていた商家の娘、彼女に、とある男が近づいた。

 このとき藤狐は、霊としてさまよっていた主人から文字などを教わっており、娘のそばにはいなかった。知ったときはすでに、娘はすっかり男に心奪われ縁談も決まっていたそうだ。


 婿となる相手は物腰の柔らかな見目のよい男で、しかし藤狐は気に入らなかった。理由はわからない。しいて言えば、勘だ。

 だが、娘も親も、気に入っているなら仕方がない。妖物である自分にはわからない良さがあるのだろうと、藤狐は結婚を祝福し、娘のそばで働くことにした。


 そして三年前、商家の主人がよくわからぬ病で亡くなった。元気だった娘の体調も悪い。長年、主人のそばに仕えていた使用人は、もしや婿の仕業ではと声をひそめて言う。

 店でも評判のよい婿を、なんとはなしに気に入らなかった藤狐は、この使用人と一緒に調べた。


「そしたら、あの男の部屋から毒薬を見つけたんです! あたしがもっと早く気づいてれば……」

 藤狐はさもくやしげに、きつく唇をかむ。やはり頭に被った布がもこりと盛り上がり、口からは牙がのぞいているようでもある。

 二人の仙はそんな妖物に、鋭い眼光と剣呑な眼差しを向けた。こんな場所で正体を現すなと言いたいのだろう。

 僧は身をふるわせている。


 草草はいつものごとく守役たちをなだめ、僧にほほ笑む。

 男に憤りながら、それでも器用に守役たちを恐がっている藤狐にも、見るものが心落ち着くような柔らかい笑みを向け、話をうながした。やはり坊ちゃんは忙しい。

 その笑みを見て、体の力が抜けたのか。藤狐はホッと息をつく。


「あたしはすぐにでも男を食い殺したかったんですけど、街中でしたし、その使用人が役人を呼びに行ってくれと言ったので」

 まさか人前で狐になるわけにもいかず、藤狐は役人を呼びに行った。その間に、男は少しばかりの金を持って逃げてしまったそうだ。

 それを知った藤狐はもう我慢できないと店を飛びだし、狐になって追いかけた。臭いを辿り、野山を越え、そろそろ日も暮れるころ。

 ようやく男を見つけた。


 ――よくも、お嬢さんに毒を持ったな!


 怒りもあらわに襲いかかる藤狐。だが、運の悪いことに、近くに山寺があったという。男は寺に逃れ、そこには力ある僧でもいるのか、清められていて藤狐は入れない。


「あたしも粘ったんですけど。男は出てこないし、やっと出てきたと思ったらお札を持ってて……」

 近づけなかった、と藤狐は歯がみした。


「それで一度、藤狐さんは黎の都に戻ったんですね?」

 この話は三年前のこと。この間、藤狐がずっと男をつけ狙っていたなら、今、男の居所を探しているはずはないのだ。

 藤狐は「はい。お嬢さんのことも気になったので」と悲しげな顔になる。

「そのお嬢さんは……」

「ずっと寝込んでたんですけど……一年ほど前、亡くなりました」

 藤狐の目にじんわりと涙が浮かび、それはぽろりとこぼれて、卓に落ちた。


「……そんな男、食い殺してやればいいのさ」

 目を針のように細くした虹蛇が、ボソリとつぶやく。眼光を光らせた狼君も、深くうなずく。

 彼らは、お嬢さんのかたきを討とうとする藤狐を、坊ちゃんを慕う自身に置き換えて見ているのかもしれない。

 僧ももうおびえておらず、沈痛な面持ちで、いたわるような目を向けている。


 藤狐が僧に「三年の間に、寺から魔除けのお札をもらった男はいないか」と聞いたのは、妖物に襲われた男がおびえ、新たなお札を求めるかもしれないと考えたからだろう。

 お札という物は、時が経てば徐々に力を失っていくものだからだ。


 実はこの考え、的を射ていた。僧が調べてみると、そうした男が一人、来仙のとある酒場で働いていたのだ。

 魔除けのお札など、草草と二人の仙には効かないので、奪うのは簡単だ。あとは藤狐が思う存分、かたき討ちをすればいい。

 けれど……草草は目の玉をくるりとまわした。



「その娘さんの商家ですが、今はどうなってるんですか?」

「え? お嬢さんは一人娘だったので継ぐ人がなくて。長年、主人のそばに仕えてた、その使用人が継ぎましたけど」

 草草が話を変えたことに戸惑ったらしい。涙をぬぐった藤狐は首をかしげている。


「もしかして、その男を最初に店に連れてきたのは、その使用人じゃありませんでしたか?」

 この問いに、藤狐は「そんな風に聞いてますけど」と不思議そうな顔だ。


「三年前。ご主人が亡くなるまではその使用人にも、男のことを疑う様子はなかったんじゃありませんか? 亡くなってから急に疑いだした」

 この問いにも、藤狐は思いだすように視線を宙にめぐらしたあと、そうだと答えた。

 首をかしげた草草は、もしや、と話し始める。


 先ほどの藤狐の話では、男は『店でも評判のよい婿』だった。それなのに使用人が疑ったのはなぜか。

 毒薬が見つかった途端、男は逃げた。手際が良すぎないか。

 逃げる際、店にあった『少しばかりの金』を持ち去った。娘をたぶらかし、店にもぐりこみ、時をかけて毒を盛るという手間のわりには、あまりにも得た物が少ない。ほかから大金をせしめる当てがあったのではないか。


「まさか……あの使用人が、男と組んで?」

 サッと血の気の引いた顔で、詰まった声を出した藤狐に、「あくまでも推測ですけど」と草草は断り、うなずいて見せた。


「……あ、あいつ! 許さない!」

 藤狐の目がギラリと光ったかと思うと、周りにぶわりと風が巻き起こり、その身は一瞬にして狐に変わる。

「こんなところで、何するんだい!」

 虹蛇が鋭い声を放つ。坊ちゃんはいち早く遠ざけられ、その腕の中だ。思いっきり驚いた僧は、椅子から転げ落ちている。


 そして、仏頂面の狼君に首根っこをつかまれているのは、尻尾の先が藤の花のように紫がかった狐であった。




「今日もちょっと暑いねぇ」

「坊ちゃん、大丈夫ですか?」

「人の街は仙山より暑いですからね。無理しちゃいけませんよ」


 ちっとも暑くなさそうな顔の草草が、陽は強いながらも霞がかった青空を見上げると、守役たちは心配そうな顔でうかがう。

 今日は吹きつける風もぬるく、そして隣国にある砂漠から運ばれてくるのか、どことなく砂っぽいような埃っぽい風であった。


 三人は今、寺から魔除けのお札をもらった男が働いているという、酒場へ向っていた。

 弟夫婦が怪しげな者たちを雇った酒場であり、無骨そうな真面目そうな役人曰く、あまり客層のよくない店だ。


 おそらくこの男が、使用人と組んで商家の娘をたぶらかし、主人と娘に毒を盛った婿だろう。

 男は魔除けのお札を持っている。このままでは藤狐が近づけないし、かたきも討てない。だから草草が、お札を奪い取ることを請け負ったのだ。

 その藤狐はといえば、憎き使用人を片づけるため、今、黎の都へと駆けている。


 藤狐が来仙を出る前、草草はこう、提案していた。


『まず、その使用人が本当に犯人かどうか、確認しなくちゃいけませんね』

『あたしがふんづかまえて、脅してやります!』

 意気込む藤狐に、しかし草草は首をふる。


 主人と娘に毒を盛るだけなら、その使用人は一人でもできたはず。だが、わざわざ犯人を用意した。店を継いだ自分が疑われないようにするためだ。

 犯人を暴き、その裏で逃がす。主人殺しの犯人となった男は役人に手配されているから、もう黎の都に入れない。今後、使用人は会うこともないから安泰だ。


 この使用人はなかなかしたたからしい。そんな相手なら、妖物が脅したとしても罪を認めはしないだろう。認めれば殺されるとわかっているのだ。

 反対に、うまく言いくるめられることだってありうる。


『では、来仙に逃げてきた男のほうを、脅せばいいんじゃないですか?』

 首をかしげた狼君にも、草草は首をふった。

 男は助かりたいばっかりに、本当は使用人が無実だったとしても、罪を押しつけるかもしれない。

 虹蛇なら嘘を見破れる。だが、藤狐にはわからない。虹蛇が聞きだすこともできるが、これは娘のかたき討ち。藤狐もなるべく他人の手は借りたくないだろう。

 草草が見まわすと、二人の仙と藤狐はそろって強くうなずく。


『だから、夢札で聞いてみたらどうでしょう。藤狐さんも別の女の人に化けるんです。一夜のいい夢の中なら、相手も口を滑らせるんじゃないでしょうか?』


 この手を使うなら、妖物に追われて来仙に逃げてきた男より、黎の都で安穏として暮らしている使用人のほうがいい。怪しげなものを怖れているはずの男は、おそらく夢札にも手を出さないからだ。

 ちょっとばかり時間はかかるだろうが、夢札は来仙でも話題になった。きっと都でもうまくいく。

 話が終わると守役たちは、「坊ちゃんは賢い」と褒めたたえる。大人しく聞いていた藤狐は、厚ぼったい唇を横に伸ばしてニィッと笑った。



「この酒場は臭いです」

 すん、と鼻を鳴らした狼君が眉間にしわを寄せる。片方の眉を上げた虹蛇も、ふんっと鼻を鳴らす。二人の仙にとって、この酒場に集まっている者たちは好ましくないのだろう。

 うらぶれた酒場に、怪しげな男たち。開け放たれた窓から埃っぽい風が吹きこんでいるせいなのか、店もあまり綺麗には見えない。

 店の外からうかがう草草は、ちょっとばかり興味を持った。


「ちょっと入ってみてもいい?」

「坊ちゃん。あんなところ、入っちゃいけません。客は臭い奴ばかりです」

「そんなもの、我らでやっつければいいのさ」

「店も汚れてる。食べ物だって、坊ちゃんが腹を壊すかもしれないぞ?」

「ふん……それはまずいねぇ。坊ちゃん、行くならもっと綺麗な酒場にしましょう?」


 狼君が渋い顔を大きくふり、困り顔の虹蛇は優しげな声で諭す。相変わらずの守役たちだ。

 ここで草草は、素直にうなずいた。

 坊ちゃんも、いつも自分の意見を通すわけではないのだ。二人の仙は心配してくれているわけだから、事と次第によってはちゃんと言うことを聞いている。


「どうやって、すり替えようか?」

 草草は胸元から、一枚のお札を出した。

 これは何の力もない偽のお札。ひょろりとした猫背の僧に本物を見せてもらい、従兄に真似て書いてもらったものである。

 魔除けのお札を奪っても、男がまた、新たな物を寺からもらってしまえば意味がない。だから偽札を用意し、すり替えることにしたのだ。

 偽札は最初、草草が書いてみよう筆を取った。すると……


『坊ちゃんが書けば、素晴らしい札になりますよ!』

『来仙中の霊や妖物が、吹き飛ぶんじゃないですか? 妙なものがいなくなって安全になりますね!』

 二人の仙が誇らしげな声を上げる。が、坊ちゃんの眉は思いっきり下がった。

『……それじゃあ、菓子屋のご主人の霊もどこかに行っちゃうし、お坊様の仕事もなくなるよ』

 危ないところであった。


「働いてるっていうから、あの人かな?」

 酒場には主人らしき男がいる。こちらは歳が合わない。

 もう一人、給仕をしている男は二十半ば。見目はよく優しげにも見えるが、ときおり笑う顔に、どこか小ずるそうな感じもある。

 こちらが魔除けのお札をもらったという男だろう。


「坊ちゃん。その偽札を貸してください」

 どうするのだろうと首をかしげた草草は、偽のお札を狼君に差しだす。途端、狼君の姿が消え、酒場に強風が吹き荒れた。

 見るからに軽そうな卓や椅子は、ガタンガタンと音を立てて転がり、皿や酒瓶の倒れる音も響きわたる。男たちの驚いたような声、何かにぶつかったのか怒声も上がる。

 風が止んだころ。狼君の手に、本物の魔除けのお札が握られていた。


 少々強引な手ではあったが、今日は風が強い。きっと……みな、おかしいと思うだろうが、まあ良いだろう。

 坊ちゃんはくすりと笑みをこぼした。





 それから、しばらくあとのこと。


「草草様のおかげで、かたき討ちができました。ありがとうございました」

 黎の都から戻った藤狐が薬仙堂を訪れ、深々と頭を下げた。

「うまくいったのかい?」

 虹蛇が目を向けると、藤狐は厚ぼったい唇を横に伸ばしてニィッと笑う。見事、かたきを討ったようだ。

 大きくうなずく狼君、口の端を上げる虹蛇。草草もそれは良かったと、にっこり笑う。


「藤狐さんは、これからどうするんですか?」

「え? ……特に考えてませんでしたけど」

 今度は唇をすぼめた藤狐が、どうしようかとブツブツつぶやく。


「それだったら菓子屋を手伝ってくれませんか?」

 霊の憑いた主人が営む菓子屋は、百五十年前に都で流行った菓子を売っているからか。

 黎の都から訪れていた貴族や商人の間で評判になり、それが来仙の人々の耳にも入ったらしい。街はもう落ち着きを取り戻したものの、菓子屋は忙しいままなのだ。

 首をかしげた草草が、藤狐をうかがう。


「はい。あたし、新しい店でがんばってみます」

 笑った藤狐の顔は、ほんの少し寂しげだ。おそらく恩のあった商家の娘を思いだしているのだろう。


 これまでの彼女は、かたきを討つことだけを考え、街から街へと男を探して駆けてきたはずだ。

 その願いが叶った今、これからは娘を思いだし、幸せだったころを懐かしみ、寂しくなってしまうのではないか。だからこそ新たな人々の輪に入り、忙しい日々を送ったほうが良いと、草草は思う。

 菓子屋には、霊の憑いた主人がいる。優しい従姉がいる。可愛らしい赤子もいる。藤狐の寂しさも、きっとまぎれると思うのだ。


 草草の顔に浮かんだ笑みは、ひどく優しげだ。

 もしかすると坊ちゃんも、商家の娘と藤狐を、自分と守役たちに重ね合わせていたのかもしれない。



「あ、まだ使えるかどうか、聞くのを忘れてた」

 藤狐が薬仙堂を辞したあと、草草はふところから一枚の、へなへなとしてだいぶ疲れた風な紙を出した。従兄が持っていた夢札である。


「坊ちゃん。その夢札、使うんですか?」

「あの藤狐なら妙なことはしないでしょうが、坊ちゃんが使ったところでせいぜい、ただ会えるだけだと思いますよ?」

 藤狐の力では、坊ちゃんの夢を操ることなどできないだろうと、藤狐はこれから菓子屋にいるのだから、普通に会いに行けばいいのにと、二人の仙の顔が傾く。


「うん。だから従兄殿に……あ、従兄殿。この夢札、使ってみてくれませんか?」

「え? あの、使ってどうするんですか?」

「どんな夢を見たか、教えてほしいんです」

「へっ? やっ……それはっ……ちょっと!」


 顔を真っ赤に染めた従兄が、ぶるぶる首をふった。誰だって、艶めいた一夜の夢など、話したくないに決まっている。

 けれどそんなこと、仙はちっとも気にしない。坊ちゃんの申し出を断ったのが気に入らないらしい。眉間にしわを寄せた狼君の鋭い眼光が、一方の眉を上げた虹蛇の剣呑な目が、従兄を追いつめる。


 ここで、いつもなら救いとなるはずの草草は、もちろん、期待に満ちた輝く瞳を、従兄にじぃっと向けていた。



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