第五話 蜘蛛天女
この日、薬仙堂に三人の来客があった。
――まずは一人目の客人。
「ご主人、お元気そうでなによりですな!」
「あなた様こそ、お元気そうで」
店の端にある卓で、だいぶ貫禄のついた中年の男と伯父が、にこやかに挨拶を交わしていた。
客人は隣街で染物屋を営んでいるという。若いころは来仙に住んでいたそうで、伯父の、古くからの知り合いであるらしい。
ついたての奥で薬草を片手に、ちょきちょきと愛用のはさみを動かしていた草草の耳に、客人のだみ声が聞くとはなしに入ってくる。
このたび、ここ来仙で、黎の国は仙州、雲仙県の長である県令の、子息の婚礼があるため、染物屋の主人は贈物かたがた商売をしようとたくさんの布を持ってやって来たそうだ。
ちなみに、地名にことごとく『仙』の字が使われているのは、この地に仙山があり、仙にまつわる逸話が多く残されているからである。
晴れることのない雲より上に仙ノ物たちが暮らしているから、ときには龍が天を舞うこともあれば、たまには白虎が地を駆けることもある。
人の姿になった仙が、仙術を用いて人を救ったり、なにやら珍妙な出来事を巻き起こしたりすることも、それなりにあるのだ。
「いやぁ、しかし今回の旅は幸先がいい。来仙に来た途端、良いことがありましてな。実は、素晴らしい布を手に入れまして……」
染物屋のだみ声が、薬仙堂に響きわたった。
耳のよい二人の仙の、眉間にしわが浮き始め、形よい眉も上がり始める。苦笑いを浮かべた草草が、まあまあとなだめ始める。
「これが虹のように輝く……いやいや、これはこのたびの婚礼の贈物。きっと花嫁様が身につけてくださり、評判になるでしょう! 婚儀の席を楽しみにしていてください!」
ガハガハと笑うだみ声がとどろき、眉間のしわはくっきりと、形よい眉はきりきりと。鋭い眼光がギラリと光り、切れ長の目も針のように細くなる。
いつもならここで、守役たちの機嫌をなおすはずの坊ちゃんは、しかし目の玉をくるりとまわしていた。
今、染物屋の主人は『虹のように輝く』と言った。話から察するに、来仙で虹色に輝く布を手に入れたらしい。
仙山なら、澄みわたる青空を模したり、金色に染まる夕日を写したり、夜に煌めく天の川を切り取ったり。こうした布はある。けれど人の手で、虹色に輝く布が作れるだろうか。
人は仙術を使えないぶん、工夫するのがうまい。もしかすると草草の知らない、人があみだした秘技なのだろうか。
そう考えてみても虹色に輝くというのは、どうも無理があるような……
「あの男、うるさいな」
「伯父上殿の知り合いじゃなかったら、のどを潰してやりたいね」
守役たちの低い声で、草草はわれに返った。放っておいた間に、彼らの機嫌はずいぶん悪くなってしまったようだ。
「虹蛇。お菓子、持ってる?」
草草が声をかければ、剣呑な様相はなりをひそめ、優しげで綺麗な笑みが向けられる。もう一方の仙の、眉間のしわもすぐさま消える。
けれどまだ、完全に機嫌がなおったわけではないだろう。
ふところから取りだされた『坊ちゃんのおやつ』、飴の袋をもらいうけ、一粒つまんだ草草はその手を虹蛇へと伸ばした。
切れ長の目がパチパチとまたたき、飴を押しつけられた唇は自然と開く。ころりと飴玉を放りこむと、次は狼君。
二人のやりとりを見ていた彼の、目はすでに嬉しげに細められ、日ごろは引き結ばれている唇も、もう開いている。ころり。草草もぱくり。
これは坊ちゃんが幼いころ、みなで一緒に食べたいと、よくやっていたことだ。
「ふふ、おいしいねぇ」
口の中でころころと飴をころがし、草草がにこにこ笑うと、狼君も優しげな顔になる。虹蛇はといえば、耳が染まり、目はうろうろと逸れ、口からはバリバリと飴をかみ砕く音を響かせた。
守役たちの機嫌はもうなおっている、というより、染物屋のことなど忘れているに違いない。
――ついで、二人目の客人。
「草草殿。天女などというものは、いるんだろうか?」
やって来たのは、無骨そうな真面目そうな役人だ。その太い眉は盛大に下がっている。
二人の仙は、なぜ坊ちゃんにそんなことを聞きにくるのかと、困り事は自分で解決しろと、言わんばかりに鋭い眼光と剣呑な眼差しを向けた。
だが、役人は肝が太いのか、もしやすると少々鈍感なのか。さして気にした様子もなく話を始めようとする。
草草は長話になりそうだと見て、みなで店の端にある卓へ腰を下ろした。
「実はある武官が県令殿のご子息に従い、狩りに出たときのことらしいんだが……」
狩りの最中。子息が射た獲物を一人、取りにいった武官は、泉のほとりで薄布だけをまとい水浴びをしていた、女に出会ったという。
武官は女の、天女と見まごうほどの美しさに目を奪われた。しばし見とれたのち、辺りを見れば木の枝にかかっている、虹のごとく美しい布を見つけた。
武官が思わず手に取ると、女は気づいたらしい。その美しい顔を武官に向ける。
『それがなければ困ります。返してください』
女は声も美しい。天女と見まごう姿に虹のごとき布。とてもただの人とは思えない。やはり女は天女で、布はおとぎ話に出てくる羽衣というものではないか。
ならば天女は、この羽衣がなければ天へ帰れないはず。そう思った武官はとっさに首をふる。
悲しげな顔をした女の姿が、ふいに消えた。
『それは人がまとってはならない物。まとった者の命はありません。誰の手にも渡さないと、お約束ください』
美しい女の声だけが、武官の耳に残っていた。
「……その武官は天女に恋をして、お役人さんに探せと命じたんですか?」
「……そうだ」
もう下がりそうにないと見えていた役人の、太い眉がさらに下がった。
仙山には仙ノ物が暮らし、下界に下りることもあるとはいっても、それは長く生きる仙にとっての『たまに』であり、人にとっては一生に一度、あるかないかの出来事だ。天女を見つけるなど、雲をつかむような話。
どこか要領の悪そうなこの役人は、またしても面倒を押しつけられたようだ。
草草の顔に、ぬるい笑みが浮かぶ。
天女と見まごうほどに美しい女とは、おそらく仙山の仙だろう。羽衣をまとっていたなら、織女蜘蛛か后蛾、銀蚕姫、この辺りか。
彼女たちは自らが織った布をまとって空を飛ぶ。ほかの神や仙がまとえば、身を浮かすことができる。草草の着物もこの布で作られているから、少しばかり地を離れることができる、というわけだ。
彼女たちはいくらでも羽衣を織れるので、「返してくれないと困る」と言ったのは、飛べなくなると帰りが面倒、というほどの意味だろう。実はさして困るわけでもなかったりする。
女の姿が消えたように見えたのは、人から虫に変わったからだ。
この件は、仙から見れば何ら問題はないが、人の手に羽衣があるのは良いことではない。その美しさに魅せられた者がまとえば、身を絞められて命を落としてしまう。
それに、と草草は首をひねる。
一人目の客人が言っていたことと、奇妙につながっていないか。『虹のように輝く』布と『虹のごとく美しい』羽衣。はたしてこれは別物なのか。
「お役人さん。その羽衣は今、どこにあるんですか?」
「なんでも、いつか天女が取りに来るかもしれないと言って、美しい箱に入れて、大切にしまってあると聞いたぞ」
「そんなもの、取りに来るわけないじゃないか。相手は天女だよ? 新しい羽衣をいくらでも持ってるのさ」
「そ、そういうもの、なのか?」
虹蛇の鼻を鳴らした音を聞き、狼君の仏頂面が縦にゆれたのを見て、役人はポカンと口を開けた。
「……まあ、天女ですからねぇ。そんなことも、あるかもしれませんねぇ」
虹蛇の言葉は本当だが、それを言うわけにもいかない。
草草はあいまいに流しつつ、それより、と真面目な口調になって、羽衣がちゃんとあるかどうか確認してほしいと役人に頼んでおいた。
――そして、最後の客人。
「……坊ちゃん、部屋に何かいます」
居間で夕飯を終えたあと、部屋の扉に手をかけた狼君が、眉間にしわを寄せて低い声を出した。虹蛇も剣呑な眼差しを、扉へと向けている。
「坊ちゃん、下がっててくださいね」
草草は素直にうなずき、一歩下がった。
坊ちゃんはこうしたとき、自分は役に立たないと、むしろ下手に動けば邪魔になると、ちょっぴり残念ではあるがわきまえてもいる。
狼君の手が、勢いよく扉を開けた。虹蛇の影にいた草草はひょいと顔を出すも、部屋には何の姿もない。
「なんだ、織女蜘蛛か」
「そんな小さな蜘蛛になって、踏んづけたらどうするんだい? もっと大きくなりなよ」
二人の仙の向く先、部屋の床で黒いものがむくむくと大きくなっていく。
それでも手のひらほどの大きさでしかない蜘蛛を、草草はにこりと笑って手に乗せた。
《坊ちゃん、お久しぶりでございます》
「うん。織女蜘蛛は元気だった? 父上や母上、みんなも元気?」
草草が優しげな手つきでなでると、蜘蛛は嬉しげに足を動かす。
それから仙山の様子を話し終えた織女蜘蛛は、実は、と、いささか元気のない声を出した。
《私は先日、この街の外にある泉で、人に羽衣を取られてしまいまして……》
おそらくそうなのだろうと思っていた草草は、ふんふんと話をうながす。
聞いてみれば織女蜘蛛は、羽衣を取り返すため、人が見てもおかしくないほど小さな蜘蛛になり、せっせせっせと何日もかけて薬仙堂まで歩いてきたそうだ。
「……」
たとえば織女蜘蛛なら、羽衣を取られたとき、大蜘蛛になって武官を糸でぐるぐる巻きにし、取り返すことはできただろう。そこまでしなくとも、女の姿のままに武官を蹴り倒すくらいできるはずだ。
大蜘蛛になって駆ければ、仙山へ帰るのもたやすいし、薬仙堂にももっと早く着けたはず。
これらをしなかったのは、人々を騒がせないように配慮したのだろうし、女の姿で武勇をさらすのは、はしたないと考えているのかもしれない。
その、女の姿にならないのは、天女と見まごう美しさでは、やはり人を騒がせるから。わざわざ来仙に来たのは、羽衣が人に害をなすのを止めるためか。
織女蜘蛛の、人ならば普通にも思える、けれどあまりに仙らしくない行動に、草草はポカンとしていた。
まあ、だからこそ彼女が、人である草草の母のそばで仕えているのだろう。その母のほうが人離れしつつあるが。
《私、これから羽衣を取り返しにまいりますので、その前に坊ちゃんに挨拶をと思いまして》
「羽衣がどこにあるか、わかるの?」
《いえ、存じません。街中を歩いて探そうと思っております》
「……」
織女蜘蛛は小さな蜘蛛の姿のまま、来仙中を探すつもりなのか。何年かけるつもりなのか。いや、長い時を生きる仙なら、ほんの数年など大した長さではないのか。
こうしたところは仙らしいと、坊ちゃんは気の抜けた笑みを浮かべた。
*
「うぅん……」
数日後の昼下がり。自室の長椅子に腰を下ろしていた草草の口から、うなりがもれた。
「坊ちゃん、眠いなら昼寝でもしますか?」
狼君が首をかしげると、別の椅子に座っていた虹蛇が長椅子の端に移動する。ひざ枕をする気だろう。狼君の手には、すでに毛布が握られている。
草草はもう赤子ではないから、眠くてむずかっているわけではないのだが、守役たちは相変わらずだ。
草草は違うのだと首をふり、けれど体はころりと寝そべった。つい、くせである。坊ちゃんも坊ちゃんかもしれない。
虹蛇を枕にして狼君にふわりと毛布をかけてもらうと、草草は目を閉じ、頭ではこれまでのことを思いだしていた。
三人の来客があった日から少しして、まず、無骨そうな真面目そうな役人が一報を持ってきた。
『まいった……』
最近よく下がっている太い眉を、彼はこの日も下げている。
『お役人さん、どうかしたんですか?』
『虹のごとく美しいとかいう羽衣が、なくなっていたんだ』
だいぶ困り顔で首をふった役人を見て、やはり、と草草は思った。
染物屋の、だみ声の主人が言っていた『虹のように輝く』布は、織女蜘蛛の羽衣と見てよさそうだ。
となると羽衣はどういった経緯で、天女に恋した武官から染物屋の手に渡ったのか。
役人に聞いてみると、その武官は羽衣を箱に入れ、自分の部屋に置いていたそうだ。誰もが近寄れる場所ではない。
武官は、家族や身のまわりにいる使用人を疑ったらしい。屋敷中をくまなく探した。
『お父上が止めるまで、大変な騒ぎだったんだ。その家の娘は気が塞いでいるとかで寝ていたのに、叩き起こしてまで調べたんだぞ。それでも結局、見つからなくてな。それで天女だけでなく、羽衣も探せと言われたんだ』
役人がはぁ、とため息をついた。
彼はまたしても、余計な仕事を押しつけられたようだ。恋する男を相手にするのも大変なようだと、坊ちゃんは妙なところで納得する。
『お役人さんも、その娘さんも、大変でしたねぇ』
『娘は恋に破れたとかなんとか。だから体が悪いわけではないんだが』
それでも彼女を心配したのか。役人が「自分の妹まで疑うなど、やりすぎだ」と首をふった。草草はといえば、「ん?」と首をひねる。
その家にあった羽衣が今、花嫁の元へ行こうとしている……
『もしかして、その娘さんの恋のお相手は、県令様のご子息でしょうか?』
草草の問いに、役人はなぜわかったのだという風な、不思議そうな顔でうなずいた。
次に知らせを持ってきたのは、伯父である。こちらは草草が事情を話し、申し訳ないがと頼んだことだ。
『染物屋さんは来仙に着いてすぐ、身なりの良いご立派な道士様、とやらに声をかけられたそうでございます』
染物屋が来仙の門をくぐり、これから挨拶に向う店の順番などを考えていると、「もし」と声をかける者があった。
見ればなかなか良い着物を着た、道士然としたご老人。少々目はきついが、それがかえって威厳があるようにも感じられる。
何用だろうかと首をかしげた染物屋に、そのご老人は「身にまとえば美しくなれるという、大変ありがたい布がある。ぜひ県令様のご子息に嫁がれる、花嫁様の贈物にしてはどうか?」と言った。
『それほどありがたい布なら、自分で渡せばいいのです』
ここで伯父は、渋い顔になって首をふる。
染物屋は布を見せられたとき、その美しさに目を見張ったそうだ。美しくなれるという胡散臭い言葉は、布をまとえば美しく見えるという意味だと解釈し、気にも留めなかったらしい。
おそらく、これほど良い贈物をすれば県令に顔を売れる、とも考えたのだろう。それで判断が鈍ったのかもしれないと、伯父はふたたび首をふった。
それから、草草は散歩がてら、街を困ったような顔でうろついていた、無骨そうな真面目そうな役人を捕まえた。
天女だの羽衣だのを探せと、彼は命じられているのだ。困るのも当然だろう。草草の顔にぬるい笑みが浮かぶ。
『その武官の、家族か使用人の方々に、少し目のきついご老人はいらっしゃいませんでしたか?』
思いだそうとしているのか。眉間にしわを寄せた役人が、少しして「お父上のそば近くに控えていた者が、そんな感じの男だったな」と答えた。
ふんふん、と聞いていた草草は質問を重ねる。
『そのお父上は、娘さんを県令様のご子息の、花嫁様にしたいと考えてませんでしたか?』
『うむ……どうも、そうらしいな。だが、県令殿は別の縁談を決めてしまった。まあ、家同士のことだから仕方ないだろうが、その娘も最初はお父上に言われて、県令殿のご子息に会ったんだろう。可哀そうではあるな』
役人は太い眉が一本につながりそうなほどギュッと寄せ、大きく首をふった。
『へえ。あんた、ずいぶんその娘にご執心のようだねぇ。もしかして、惚れたのかい?』
『なっ……ちっ、違う! 違うぞ!』
虹蛇が口の端を上げてニヤリと笑うと、盛大に取り乱した役人は、そそくさと立ち去ってしまう。
もしや役人は、本当に恋をしているのだろうか。坊ちゃんは興味津々。慌てふためいた風なうしろ姿を、ぱっちりとまぶたを開いて見送った。
つまり、こういうことだ。
役人は恋に破れたとかいう娘に同情し、それがやがて恋に……と、ここまでを考えた草草は、頭をふる。
今、考えるべきは役人の恋ではなく、羽衣にまつわる出来事だ。
「坊ちゃん、眠れないんですか?」
頭を動かしたのがくすぐったかったのか、虹蛇がもぞりと動く。目をつむったままの坊ちゃんが、ふたたび頭をぐりぐりふれば、守役のひざももぞもぞと動いた。
つまり、こういうことだ。
羽衣を持ちだしたのは、天女に恋した武官の、父の指示によるものだろう。
その父に仕えているらしい目のきつい老人によって、羽衣は武官の部屋から、染物屋のだみ声の主人へと渡った。
今、来仙には県令の子息の婚礼のため、外から貴族や商人が多くやって来ている。
来仙は黎国の西の都とも呼ばれるほどに、大きな街。雲仙県の県令の権勢は大きく、みながつながりを持ちたいと考え、挨拶をする。そのうちの一人に美しい羽衣を渡せば、婚礼の贈物として県令の元へ届くと考えたのだろう。
県令は美しい羽衣を、妻や娘に譲ったりはしないはずだ。なぜなら子息が迎える花嫁は、仙州の長である刺吏の娘だからだ。県令も上役にはいい顔をしたいだろう。
その結果、羽衣は花嫁の元へ。羽衣をまとった花嫁は身を絞められて命を落とす。罪は染物屋の主人へ。花嫁の後釜は自分の娘――
こんなところか。
草草がすべきことは、羽衣を取り返す、これだけだ。
羽衣はすでに、染物屋から県令の手に渡ってしまった。県令と子息は、美しい羽衣を見てたいそう喜び、婚儀の席で花嫁に渡そうと考えているそうだ。
天女に恋した武官や、花嫁を亡き者にし、娘を使って県令とのつながりを強めようとしているその父については、勝手にやってくれと草草は思っている。
だが、無骨そうな真面目そうな役人のことは、ちょっとばかり助けたいと思う。
さて、どうしようか。織女蜘蛛の手も借りたほうが良さそうだ。
彼女は今、薬仙堂の、この部屋にいる。草草が羽衣を取り返す算段をつけると言ったため、やることがないのか。
大蜘蛛の姿になって尻から糸を吐き、たくさんの足を使って器用に布を織っている。坊ちゃんの着物にするつもりのようだ。
羽衣、面倒を押しつけられた役人、その役人が恋をしたらしい娘……草草はつらつらと考えながら、うとうとと眠りについた。
*
満月が夜空を照らし、星々も煌めく美しい夜。
県令の屋敷の屋根からは、花や鳥の装飾をほどこした行灯がいくつもぶら下がり、屋敷を華やかに浮かび上がらせている。
広間の上座には県令と、紅い装束をまとった子息に花嫁。身なりを整えた人々が席に着き、その中には天女に恋した武官もいる。隣には、花嫁を亡き者にしようと企んでいる武官の父が、何食わぬ顔で座っていた。
下座のほうには伯父と、染物屋のだみ声の主人の姿もある。
そして、屋敷の屋根の上には、影が三つ。
草草と二人の仙だ。彼らの尻の下には分厚い座布団が敷かれ、わざわざ屋根の傾斜に合わせて作られた、小さな卓まで置かれている。その上には水応鏡と、なぜだか弁当に酒まであった。
座布団、即席の卓、弁当に酒は、今晩の計画を聞いた薬仙堂の面々が、用意してくれた物である。
こちらも相変わらず、やりすぎなほどに甲斐甲斐しい。
「では、坊ちゃん。行ってきますね」
《行ってまいります》
「うん。気をつけてね」
虹蛇がシュルリと小蛇に変わる。草草が手のひらに乗せていた小さな蜘蛛――織女蜘蛛だ、をその頭に移すと、小蛇の虹蛇はシュルシュルと這い、すぐに屋根から姿を消した。
草草は卓に置いてあった水応鏡をのぞく。そこには広間の様子が映っている。
実はこれ、仙山にある水鏡からのぞいた景色を、山神の力で水応鏡に映してもらっているのだ。
人の姿しか取れない草草は、広間に忍びこむことができない。
持っていれば誰も気に留めることのない、石ころのように思える『仙石』は、存在を消してくれるわけではない。万が一、賑やかな広間で誰かにぶつかりでもしたら、見つかってしまうので少々危うい。
商売上のつき合いもあるだろうから、伯父に代わってもらうわけにもいかない。
それでも、どうしても様子を見たいと思った彼は当初、使用人にまぎれることを考えた。守役たちにそう伝えると……
『では、我らも一緒にやりますよ』
坊ちゃんを一人にするなどもってのほか、なのだろう。虹蛇は綺麗に笑い、狼君も大きくうなずく。
『……虹蛇と狼君は、どう見ても無理じゃない?』
油断ならない策士に秀でた武人だ。どうがんばっても使用人には見えないだろうと、草草は首をふる。
『……あの、草草様も、無理だと思いますが』
仙人のごとき貴人のほうが、よっぽど使用人には見えないだろう。
ひどく言いづらそうにおずおずと、けれど意外とはっきり従兄が進言したことにより、坊ちゃんの計画は頓挫した。
そして、草草が頼ったのは父神であった。
話を聞き、愛息子に頼られたのが嬉しかったのか、頬をほころばせる山神。どうやらこの神も、親バカのようである。
「大丈夫かな?」
「織女蜘蛛も仙ノ物。人に踏まれたところで死にはしません」
草草と狼君が見守る中。水応鏡に映っている小蛇の虹蛇は、かなりの速さで広間の端を、人の影をぬって進み、あっという間に花嫁のそばへ辿り着いた。
頭に乗っていた小さな蜘蛛が降りると、また、小蛇はシュルシュルと這って広間から姿を消す。
たいした間もなく、小蛇の虹蛇が屋根の上に戻ってくると、その姿は蛇から人になった。
「あとは織女蜘蛛の役目ですね」
「坊ちゃん、弁当でも食べてましょう」
二人の仙はもう仕事は終わったとばかり、卓の上に弁当を広げだす。
その、織女蜘蛛のほうが心配なのだがと思いつつ、坊ちゃんは注がれた酒を、ちゃっかり口に含んでいた。
「あ、これからだよ」
水応鏡の中では、紅い装束を着た子息が羽衣を持ち、花嫁に向っている。
虹色に輝く羽衣の美しさに、集まった人々の口からどよめきやら、感嘆の息がもれる。
ただ、三人ほど、別の顔をしている者があった。
驚いたように目を見開いているのは、天女に恋した武官だ。消えたはずの羽衣が、なぜか県令の子息の手元にあるのだから当然だろう。
その横にいる父の目は、鋭く尖っているように見える。これから起きるであろう悲劇に、思いをめぐらせているのか。
あとは、染物屋のだみ声の主人だ。こちらは羽衣が人にとって恐ろしいものだとは知らないので、満足げな顔でのん気に笑っている。
羽衣が、子息の手から花嫁へと渡る間際、ふわり。
花嫁の着物にくっついていた織女蜘蛛が、女の姿で現れた。その手はすぐさま羽衣をつかみ、身にまとうと体が宙に浮く。
ふぅ、と草草の口から安堵の息がもれた。あとは少しばかり芝居をしてもらって、広間を出れば終わりである。
「て、天女!」
広間で、一番に声を上げたのは天女に恋した武官だった。人々はあまりのことに驚いたのか。声もたてず、ポカンと口を開き、宙に浮いた天女とおぼしき美しい女を見上げている。
武官に目を向けた天女は、美しい声を出した。
「私は、羽衣を誰の手にも渡さないよう、お約束してくださいと、あなた様にお頼み申しました。ですが、あなた様はそのお約束を破ってしまわれた……」
「いや、私は破っていない! 大切に箱に入れ、部屋に置いておいたんだ。それを誰かが持ちだしてしまったんだ!」
武官が必死に弁明するも、天女は悲しげに首をふる。
「あなた様のお父上が持ちだされ、こちらの花嫁様に贈ろうとなさいました」
武官の父の顔から、サッと血の気が引いた。
天女の言葉を聞いた人々は、武官が大切にしていた美しい羽衣を、その父が県令に献上しようとした、としか思わないだろう。
だが、武官の目は、落ち着かない風にさまよっている。羽衣がまとった者の命を奪う物だと、知っているからだ。
「父上、もしや……」
呆然としたような武官の目が、父へと向いた。
この晩の、天女が現れた婚儀の話は、明日にも来仙を駆けめぐるだろう。天女の『お父上が羽衣を持ちだした』という言葉も、一緒に広まっていく。
今、この場にはいないが、無骨そうな真面目そうな役人のように、羽衣が人にとって危ない物だと、知っている者は何人もいる。
話を聞けば、彼らも武官と同じように、この父に疑惑を持つだろう。
ならば父はもう、花嫁に手出しはしないはず。
今後、花嫁が亡くなれば、真っ先に彼が疑われる。そのとき、羽衣のことなど知らないと、だから自分の仕業ではないと申し立てたとしても、人々は神聖なる天女の言葉のほうを、信じるだろうからだ。
これで武官の父は、娘を県令の子息へと嫁がせるのをあきらめるだろうし、そうなれば、無骨そうな真面目そうな役人の恋も、叶う見込みが出てくるというもの。
坊ちゃんは、おそらくこれで大丈夫だろうと、あとは役人の努力次第だと、訳知り顔でうなずいた。
「お約束が破られた今、私は天へと戻らなければなりません」
「ま、待ってくれ!」
水応鏡に映る織女蜘蛛の体が、ゆっくりと昇っていく。
父のほうへ顔を向けていた武官は、その美しい声でわれに返ったらしい。慌てたように天女をふり仰いだ。
天女は天へ戻り、武官の恋は終わる。これで無骨そうな真面目そうな役人も、天女探しをする必要はなくなるというわけだ。
にこりとほほ笑んだ草草は、しかし「あっ」と声を上げた。
「織女蜘蛛、だめだよ!」
――ごんっ
天へと昇り始めたつもりの織女蜘蛛が、広間の天井にぶつかった。彼女はそれを恥じたのか。顔を真っ赤に染めながら、おろおろと辺りを見まわしている。
「織女蜘蛛、蜘蛛になって!」
水応鏡に向けて草草が叫ぶものの、その声は届かない。
織女蜘蛛は、開いた扉を見つけたらしい。そちらへと顔が向く。
「扉を閉めろ!」
しかし、いち早く気づいたのは、天女に恋した武官のほうだった。織女蜘蛛が向うより早く、扉は閉まってしまう。
「狼君、お願い!」
草草の声で、黒い影が飛んだ。
水応鏡の中で、広間の扉が大きな音をたてて勢いよく開いた。同時に、強い風が吹き乱れる。
その風がやんだとき、天女の姿は人々の前から消えていた。
*
ざわめきが収まることのない広間より、もう少し上。
屋根の上で、草草はふぅ、と本日二度目となる安堵の息をついた。
「坊ちゃん。ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ございませんでした」
女の姿のままの織女蜘蛛が、深々と頭を下げる。
「ううん。みんな、がんばってくれてありがとう」
草草がにっこりと笑ったとき、水応鏡がきらきらと輝いた。そこから、すうっ、すうっと仙ノ物たちが、精霊たちが現れる。
「坊ちゃん、これは奥様からでございます」
織女蜘蛛とは仲のよい銀蚕姫が、料理を手にしていた。
「坊ちゃん、これは山神様から。今年作った桃源酒でございます」
こちらは彼女たちの姉分である后蛾が、大きな徳利を持っていた。
「奥様からいただいた料理を食べましょう」
「山神様からいただいた、桃源酒も飲みましょうか」
狼君が温かい料理を取り分け、虹蛇が香る酒を杯に注ぐ。
仙たちが手にした楽器を奏でると、織女蜘蛛が、后蛾が、銀蚕姫が、ほのかに光る精霊たちが煌びやかに踊りだす。
水応鏡には山神と母が、仲よく笑って映っている。
屋根の上のときならぬ宴に、酒を飲み、ぽっと頬の染まった坊ちゃんは、料理をおいしく食べ、楽曲と舞を楽しんだ。
――この日の出来事は、天女と武官の悲恋として、来仙に語り継がれていくこととなった。
愛し合っていた天女と武官。だが、武官は愛の証である羽衣を、ほかの娘との縁談を望んでいた父に奪われてしまった。
これにより、天女は風神によって天界へと連れ戻されてしまう。
愛する武官と引き離されたことを嘆いた天女は、天から美しい曲を奏で、彼に贈ったという。
実のところ、二人は愛し合っていないし、父が望んでいたのは、自分の娘と県令の子息との縁談だ。
天女は自分の意思で仙山へ戻っただけだし、風は狼君の仕業である。
天から贈った美しい曲とやらは、屋根の上で催された宴のことだろう。このときの織女蜘蛛に嘆く様子はこれっぽっちもなく、むしろ羽衣を取り返して嬉しそうだった。
この話を聞いた坊ちゃんは、真実と嘘が巧みに混じった夢物語に、くすくすと、楽しげな笑いをもらしていた。