第四話 似非道士
「この薬屋には、悪いものが憑いておる!」
草草たちがついたての奥で薬を作っていると、薬仙堂の店先で声を張り上げる者があった。
ちなみに、ついたてが置かれた訳は草草も知っている。縁談話が持ち上がれば、断る伯父にも迷惑がかかるかもしれないと、彼は素直に提案を受け入れていた。
聞こえたのは男の声だし、その言葉からも、まさか縁談話のはずはないだろう。
草草はついたてのわきから、ひょこりと顔を出した。二人の仙は立ち上がり、坊ちゃんのいる薬仙堂にケチをつける気かと、鋭い眼光と剣呑な目を、声の主に向ける。
見てみれば、何とはなしにうらぶれた、貧相な中年の男だ。ゆったりとした道士らしき着物もどことなく薄汚れている。
今、伯父は不在。従兄はわずかに眉を寄せたものの、顔に笑みを貼りつけて店先に歩を進める。
坊ちゃんは、これが似非道士というものだろうかと興味津々、守役たちを引き連れて、店先へと向った。もちろん男に何の力もないことは、彼らに確認済みだ。
「いったい何のことでしょう?」
従兄は騒ぎを大きくしたくないのだろう。声をひそめている。一方の似非道士は、また大声を上げた。
「薬仙堂の姻戚筋の酒屋では、怪異が続いておる! 薬仙堂の方々は、街の外で追いはぎに遭ったとも聞く! これはみな、妖狐のせいじゃ!」
草草たちは顔を見合わせた。
追いはぎは酒屋の弟夫婦が怪しげな男どもを雇ったせいだし、酒屋の怪異は草草が、仙や精霊をけしかけたからだ。妖狐とやらも濡れ衣を着せられ、いい迷惑だろう。
「追いはぎは人の仕業ですよ」
「妖狐が憑いたせいじゃ!」
「では、妖狐を祓いに、酒屋へ行ってはどうですか?」
「妖狐はここにおる!」
従兄と似非道士のやり取りに、人々が集まってきた。
草草はなるほど、と思った。
騒ぎになれば、商家は妙な噂が立たないよう、似非道士を引き入れる。あとはお祓いの真似事をして、金をせしめればいいというわけだ。似非道士が大人しく帰ってくれるなら、商家も金を払うはず。
本当に怪異が起きている酒屋へ行かないのは、恐いからだろう。
それにあの酒屋は、怪異のせいで次々と人が辞め、今は店を閉めている。それ以前も薬酒の味が落ち、店は傾きかけていた。大した金は取れないと考えたのかもしれない。
その、弟夫婦が未だ屋敷でがんばっているのは、財産に固執しているせいだろう。どんな理由であれ、彼らにとっては正解だ。
草草は仙ノ物たちに、「街中で傷つけてはいけない」と言い含めた。大切な坊ちゃんが襲われた、きっかけを作った者どもを、仙や精霊が許すはずもない。
弟夫婦が屋敷を捨て、来仙を出ればどうなるか。まあ、仙ノ物の好きにすれば良いと、草草は思っている。
人が充分に集まったと見た草草は、顔をななめにかしげて口を開いた。
「薬仙堂にはここしばらく、和尚様のお弟子のお坊様がいらっしゃいましたが、そのような悪いものはいないと、おっしゃられておりましたよ?」
穏やかながらよく通る声を聞き、人々はひょろりとした猫背の僧を思いだしたらしい。そういえばとうなずき合う。
「そ、そのお弟子は、まだ未熟なのじゃ!」
みなが僧の頼りなげな顔を思い浮かべ、それもそうかと納得するより前、草草は眉を下げて困った顔を作る。
「それは……お弟子を育てている和尚様が未熟、ということでしょうか?」
草草の声はひそめているようでいて、よく響いた。
弟子の未熟は師の未熟。似非道士は、徳の高い和尚に難癖をつけたことになる。
さらに対峙しているのは、かたや薄汚れた道士もどき、かたや清らかで慈愛あふれる、それこそ道士然とした貴人。左右には貴人を守るように、只ならぬ武人と策士が控えている。
この勝負、似非道士には分が悪すぎた。
「客人方、どうかしたのか?」
人ごみを割って出てきたのは、無骨そうな真面目そうな役人だ。
役人は草草を気づかうようにうかがい、ついで太い眉をきりりと上げた、それなりに迫力のある顔で似非道士を見据える。
役人は街の見まわりでもしていたのだろう。よい頃合いに顔を出してくれたものだ。
「ぅ……」
似非道士は旗色が悪いと悟ったらしい。もごもごと何事かをつぶやき、こそこそと退散した。
こうしたことには逃げ足の速さも大切なのかと、坊ちゃんは妙なところで感心する。
「お役人さん、助かりました。ありがとうございます」
「なに、あんな輩。坊ちゃんだけで」
坊ちゃんだけで追いはらえましたよ、とでも続くはずだったのだろう。だが、草草が虹蛇の着物のそでをちょいと引っぱったため、彼は不思議そうな顔をしつつもすぐに口をつぐんだ。
もうひと仕事あるのだ。草草はにこやかな笑みを役人に向ける。
「お役人さん、ちょうど良かったです。悪いものが憑いてると、根も葉もないことを言われて困ってたんですよ」
「ゆすりたかりか? 商家はねらわれやすいからな。何かあったら金は払わず、役人を呼ぶといい」
徳の高い和尚の弟子を持ちだし、役人までも偽者だと言えば、もう人々が、妙な噂を立てたりはしないだろう。商売に障りが出てはいけないと、念には念を入れたのだ。
正直に言うと、坊ちゃんの脳裏にも、まだまだ頼りなげな僧の顔がチラついた。いまひとつ、説得力が足りないような気がしたのである。
草草が役人に礼を述べると、従兄も頭を下げる。けれどその頭は、どうにも草草のほうを向いているようだった。
それから、草草がこういう訳だったのだと伝えると、二人の仙は不機嫌な顔になった。
「まったく! 人ごときが坊ちゃんにそこまで気を使わせるなんて、何様のつもりだい?」
「坊ちゃん。そんなに気をまわして、疲れてませんか? 菓子でも食べますか?」
守役たちは相変わらず、坊ちゃん至上主義で、坊ちゃん心配性だ。
「たいしたことじゃないよ。でも、お菓子はもらおうかな?」
「我も干菓子なら持ってますよ。今、茶を淹れましょう」
草草がおいしそうに茶をすすり、嬉しそうに菓子をつまめば、すぐに機嫌を直すところも相変わらずの守役たちであった。
*
――夜。三日月より細い月の光が、頼りなく照らす闇の中。
男が何かを背負い、息を荒げて歩いていた。背の荷は人のようだ。男の肩から背負われた者の手が、ぶらりぶらりと揺れている。
もう一人、男が辺りをうろうろと、見まわしながら歩いている。肩には短めの、はしごを担いでいる。
男たちは薬仙堂の裏手に着くと、塀にはしごをかけた。
人を背負った男がよろよろと、危うげな足取りで登っていく。もう一人ははしごを支え、背負われた者の尻を押し上げてもいる。
二人の乱れた息が、はしごの軋む音が、静かな夜の街を密やかに広がっていく。
人を背負った男は、ようやく塀の瓦の上にひざを乗せた。男の重みで瓦同士がこすれ、夜だからこそ立てる音の大きさに、その身がびくりとふるえる。
「大丈夫だ。誰もいない。早くしなさい」
はしごを支える男が声なき声をかけると、人を背負った男はがくがくと首をゆらし、背から人をゆっくり降ろす。
背負われていたのは、どことなくうらぶれた、貧相な中年の男だ。まとっている着物も古びて薄汚れているが、胸元の汚れは、それとは別もののようだ。
瓦の上にいる男はその貧相な男を抱え、どさり――薬仙堂の裏庭へ投げこんだ。
*
「へえ、そんなことがあったの」
あくる朝。草草は素振りのために裏庭へ出ると、狼君が見たという、昨夜の出来事を聞いた。
怪しげな気配に妙な音、かすかであっても血の臭いまで漂えば、二人の仙が気づかないはずはない。
もちろん今、草草の目の前に、昨晩放りこまれたという男の亡骸はない。
薬仙堂の裏庭で見つかれば面倒なことになると、坊ちゃんを煩わせると、承知している狼君が、昨夜のうちに街外れの廃寺近くへ移したのだ。
「狼君も虹蛇も、臭くない? 血の臭いは大丈夫?」
眉を下げた草草が、守役たちを見上げた。
坊ちゃんが心配するのは、亡骸より二人の仙だ。死んでしまった者の体を心配しても仕方がない。
「大丈夫です。死体についてた血は、ほとんど乾いてましたから」
「我も大丈夫ですよ」
狼君がうなずき、虹蛇が綺麗に笑う。それを見て、草草もにっこりほほ笑んだ。
「その亡骸は誰で、裏庭に投げこんだ人は誰だかわかる?」
「死んでたのは昨日の似非道士です。投げこんだほうの男はわかりませんが、もう一人、塀の外にいた男は、紙屋の主人の臭いがしました」
「ふぅん……」
草草はくるりと目の玉をまわし、考えをめぐらせる。
薬仙堂は紙屋から、薬の包み紙を仕入れている。
商売で何かあり、薬仙堂を陥れようとしたのか。それでも人を殺したりはしないだろう。ならば似非道士を殺してしまってから、昨日のゆすり騒ぎを思いだし、罪を逃れるために薬仙堂へ投げこんだのか。
昨日の今日で、似非道士の亡骸がこの家の裏庭から見つかれば、必ず薬仙堂が疑われる。後者のほうがしっくりくる、と草草は思う。
もう一人は紙屋の息子か使用人か。まあ、一人がわかればそれで良い。
「ほかに狼君が気づいたことはあった?」
「死体を廃寺近くで転がしたとき、ふところから似非道士の血のついた、女の髪帯(リボンのような物)が出てきました」
「どんな髪帯だったか、わかる?」
「薄い黄に、桔梗の刺繍のある髪帯でした」
「桔梗……」
桔梗の髪帯やかんざしは珍しい品ではない。しかしこうした物は、季節に合わせるのが普通だ。
今は春の終わり、季節はずれの桔梗を、草草は少し前に見かけていた。
従妹と同い年くらいだろうか。娘のほどけた髪帯を、なおしてやったことがある。その髪帯は白だったが、確かに桔梗が咲いていた。
「狼君、虹蛇。ありがとう」
草草は甘えを含んだ無垢な瞳を、感謝をこめたとびっきりの笑顔を、守役たちに向けた。自分がすぅすぅと寝ている間、彼らは手間をかけてくれたのだ。
狼君は目を嬉しげに細め、誇らしそうに頬をゆるめる。
「わ、我は何もしてませんよ」
やはり虹蛇は照れてしまったようだ。
「虹蛇は僕のこと、守ってくれてたんだよね? ありがとう」
彼はすべてを守役の相方に任せ、のうのうと寝ていたのではない。大切な坊ちゃんを守るため、より気を研ぎ澄ましてそばにいたはずなのだ。
坊ちゃんが心から嬉しいのだと、想いをこめて見上げると、虹蛇は耳だけでなく、目元まで赤く染めていた。
「従妹殿。この辺りで今の季節、桔梗の髪帯をしてる娘さんを知りませんか?」
「それなら紙屋の娘さんです。よく、白地に桔梗の髪帯を結んでますよ」
草草が問えば、パチリと目をまたたいた従妹が、すぐに答えを教えてくれた。
「あの……草草様、もしや紙屋の娘さんをお気に召したんでしょうか?」
恐る恐るうかがった従妹は、神の子が気に入ったのなら、ついたてを立てて娘を遠ざけたのは間違いだったかと心配しているのだろう。
だが、草草は首をふる。
「いえ、季節はずれの桔梗を見たので、珍しいと思っただけです」
従妹はほっと息を吐くと、桔梗は紙屋の娘の、亡くなった母の好きな花だと言った。それから、いぶかしげな顔になって首をひねる。
「そういえば最近、紙屋の娘さんを見かけませんわ。手習いにも来ないし、店に料理も持って来なかったし」
「料理?」
草草が首をかしげると、従妹は余計なことを言ってしまったという風に、口を押さえた。けれど、すぐに事情を話す。
草草は娘たちが店に来るかもしれないとは聞いていたが、米屋の娘が狼君に、織物屋の娘が虹蛇に、そして紙屋の娘が草草に、料理を持ってくるとまでは知らなかったのだ。
「ふぅん。でも、誰も持って来なかったんですね?」
「いえ……実は米屋と織物屋の娘さんたちは持ってきました」
従妹は伝えていなかったことを謝った。
もしかすると、草草にだけ料理がなかったので、それも申し訳ないと思ったのかもしれない。逆に気を使わせたようだと、草草は苦笑いをもらす。
「俺たちに料理を持ってきて、どうする気だったんだ?」
「我らにいいところを見せたかったのさ」
「料理のどこが、いいところなんだ? 俺にも作れるぞ」
うしろから聞こえてきた二人の仙の声に、草草はくすりと笑い、気にすることはないと首をふる。
これを見て、従妹もおかしそうに笑った。
似非道士はゆすりたかりの類だろう。
男のふところに桔梗の髪帯があったということは、紙屋の娘がゆすられていたのかもしれない。近ごろ娘の姿が見えないのも、そのせいだろう。
そんな状況では、おちおち家を出られない。
それに、と草草は考える。
似非道士が薬仙堂に来たのは、娘が草草に好意を持っていたからではないか。只ならぬ武人と策士がいる店をゆするのは、得策ではないと思う。
似非道士の噂は、うちも気をつけなければと、商家の間であっという間に広まっても、いる。
つまり、あれは薬仙堂をゆすっていたようでいて、実は『薬仙堂に秘密をしゃべって、娘の縁談を壊してやるぞ』と、紙屋を脅すための行為だったのではないか。
「あれ? おかしいな……」
草草はちょいと首をひねった。
娘が草草に好意を持っているのに、紙屋の主人は薬仙堂に罪を着せようとした。娘を思うなら、この店に亡骸を投げこむのは妙だ。
似非道士が薬仙堂に来たのは、ただの偶然なのか。それとも、娘の気持ちを紙屋の主人は知らないのか。はたまた、ほかに思惑があるのか。
まだ、坊ちゃんの知らないことが多いようである。
*
伯父が戻ると草草は、昨夜の出来事を話して聞かせた。
似非道士の亡骸が見つかれば、昨日のことを役人が聞きに来るかもしれない。
早々に紙屋が捕まれば、薬仙堂は取引があるから、商売に障りもあるだろう。ならば伯父は知っておいたほうが良い。
「なんと……そのようなことが……」
聞き終えた伯父は、眉間にくっきりとしわを寄せ、ため息をついた。
「人の心のうちは見えませんが、紙屋さんが私どもを恨んでいるとは思えません。ですが、娘さんに関わることなら、少々心当たりがございます」
少し前の寄り合いで、とある貴族と紙屋の娘の間に、縁談話が持ち上がったそうだ。まだ本決まりではないが、紙屋の主人はひどく喜んでいたと、伯父は言う。
「私どもが疑われ、役人に調べられることにでもなれば、そんな店とは縁組できないと言って娘さんに草草様をあきらめさせることができる。そうなれば貴族との縁談話も早く進む。そう考えたのでは……いえ、これは私の邪推かもしれませんが」
伯父はゆるゆると首をふって口を閉ざした。すると、話の途中から眉をつり上げていた虹蛇が口を開く。
「伯父上殿。坊ちゃんより貴族のほうがいいって言うのかい?」
「いいえ! 草草様のほうが、はるかにご立派です。比べるのもおこがましい!」
とげのある声を出した仙にひるむことなく、なぜだか胸まで反らした伯父が、今度はきっぱりと首をふる。
自らの出番はないようだと、坊ちゃんは小さな笑みをこぼした。
伯父の話なら、草草も納得がいった。人から見れば薬屋の親戚より、貴族のほうがいい。親としてはより良い家に娘を嫁がせたいだろう。
似非道士が薬仙堂に来たのも、紙屋と貴族の縁談をまとめて、より大金を手にするためか。
だが、紙屋が仕組んだ殺しの疑いならともかく、憑物というあいまいな噂だけで、娘が想う人をあきらめるだろうか。すぐにほかの縁談を承諾するだろうか。少し弱いように思う。
やはり似非道士がこの店に来たことに、さしたる意図はなかったのか。それにしては、奇妙につながっているような気も……
草草はうぅんと首をかしげる。
「伯父上。娘さんがゆすられる訳に、心当たりはありますか?」
伯父は眉間のしわを深め、しばし考えている様子だった。そして、首をひねりつつ話を始める。
「これは古い話ですが、娘さんは紙屋のご主人の子ではないと、そんな噂がございました。妻が悪い男と関わって出来た子だとか」
「もしかして、あの似非道士が実の父、ということですか?」
「いえ、そこまでは存じません。その噂も、ご主人が元は紙屋の使用人で、跡取り娘と結婚したから。月足らずで子が生まれたために、家つき娘を射止めた主人へのやっかみもあって、そんな話が出ただけだと落ち着きましたが……ですがもし、似非道士が実の父なら、縁談話が持ち上がった今、恰好のゆすりの種になるのでしょう」
伯父はふたたびため息をついた。
これが本当なら、実父が娘の縁談にかこつけて、養父をゆすったことになる。なんとも嫌な話だと呆れもし、実父への憤りや養父への憐れみも、感じているのだろう。
「……狼君が見た髪帯は、薄い黄に桔梗だったよね。もしかして、元は白かったのが黄ばんだんじゃない?」
ふいに別のことを口にした草草に、伯父は目をパチパチとまたたかせた。
狼君はといえば、話が変わったことなど気にもせず、思いだすように目の玉を上に向けている。
「そういえば、布がくたびれて薄汚れた髪帯でした」
「それ、娘さんのじゃなくて、娘さんのお母上の髪帯じゃないかな?」
従妹の話では、紙屋の娘が好むのは『白地に桔梗の髪帯』であり、『母が好きだったから』だ。
髪帯が母の物なら、それを持っていた似非道士は母を知っている。実父の可能性も、より高まる。
もしそうなら薬仙堂に来た理由も、わかるような気がするかも、と草草はつぶやく。
「似非道士はわが子の好きな相手を、見たかったんじゃないでしょうか?」
「……なるほど。実の父は紙屋さんをゆすりながらも、娘の想い人が気になった。育ての父は娘の良縁をまとめたくて、私どもに罪をなすりつけようとした。どれほど腐っても父、なのでございましょうかねぇ」
伯父はゆるく首をふる。
「そこが、わからないところですよ。人は家族を大切にするかと思えば、親兄弟でも殺し合う。我には理解できませんね!」
「俺もわかりません。山神様と奥様は、坊ちゃんを大事にしてます。俺は親や兄じゃありませんが坊ちゃんが何より大切です。なんで人は、血のつながった者同士で争いを起こすんです?」
虹蛇が形よい眉をきりきりと上げ、ふんっと鼻を鳴らす。狼君は眉間にしわを寄せ、険しい顔になって首をひねった。
「それは僕にもわからないよ。僕は父上も母上も、狼君も虹蛇も、大事で大切で大好きだからね。きっと、わからないほうが幸せなんだよ」
坊ちゃんがふんわり笑うと、守役たちも優しげにほほ笑む。
話の初めから寄っていた伯父の眉間のしわも、ようやくゆるんだようであった。
伯父は紙屋との取引を止めるために、すぐさま動きだした。
同情の余地はあれど、濡れ衣を着せられるところだったのは許せない。それに、紙屋の主人が草草より、貴族を選んだことも許せなかったらしい。
見る目のない紙屋がこのまま商売を続けたとしても、いずれはしくじりを犯すだろう。というのが、商売人らしい伯父の言であった。
草草たちは遅ればせながら、薬作りに取りかかった。
*
午後になると、すっかり顔なじみになってしまった、無骨そうな真面目そうな役人が、薬仙堂にやって来た。
「実は今朝、昨日薬仙堂に来た似非道士が、街外れの廃寺近くで死体となって見つかった」
「な、なんですって!?」
何も知らない従兄は目をぎょっと見開いた。草草はほぅ、と驚きの表情を作る。
「……まさかお役人さん、私どもを疑ってるわけじゃ、ありませんよね?」
従兄が胡乱な目を向けると、役人は太い眉を下げ、困った風な顔になって首をふった。
「実は何も手がかりがないんだ。おおかた、廃寺で勝手に寝泊りしているゴロツキどもの仕業だろうが、これといった決め手がない。だから似非道士の立ち寄った先も、念のために回っているんだ」
「ん? 何も手がかりがないんですか?」
ちょいと首をかしげた草草に、役人は渋い顔でうなずく。
紙屋の娘の母の物らしき、黄ばんだ髪帯は見つかっていないらしい。
「見つかったとき、似非道士はどんな様子でしたか?」
「胸に小刀で突いたような傷があってな。ごろりと仰向けに転がって、金でも盗ったんだろう、着物が乱れていた」
草草がうかがうように狼君を見れば、小さく首をふられた。
どうも彼が転がしたときとは、様子が違うようである。この辺りは役人が帰ってから確認しようと質問を変える。
「似非道士が立ち寄った先は、薬仙堂のほかにもわかってるんですか?」
「ああ、いくつかの商家に入っていくのを、見た者たちがいた。うまく金をせしめた店もあったようだ」
似非道士がほかの店にも行ったなら、薬仙堂だけが目立つことはないだろう。
役人が挙げていく商家に、紙屋は含まれていない。似非道士は表立ったゆすりはしなかったようだ。
金になりそうな貴族との縁談を、壊さないようにと考えたのか。それとも娘だからと気を配ったのか。複雑な親心だと、草草は小首をかしげた。
「確かに決め手がないようですねぇ。ですが、お役人さんががんばれば、すぐに犯人は見つかりますよ」
「おお、任せておけ!」
知りたいことを聞き終えた坊ちゃんは、わりと適当なことを言いながら、にこやかな笑顔で役人を見送る。
「あのお役人さん、本当に大丈夫でしょうか?」
このたび、役人を心配したのは従兄であった。
ついたての奥に戻った草草は、ひょいと狼君を見た。坊ちゃんが何を聞きたいのか、すぐにわかったようだ。
「俺が死体を転がしたときは、横向きになってました」
「ふところから出た髪帯は?」
「ちゃんと戻しておきました」
「じゃあ、誰かが亡骸をあらためて、髪帯を持ち去ったんだね。似非道士を運んだとき、誰かに見られなかった?」
狼君の顔がしっかりと縦にゆれた。耳も鼻も夜目も利く、彼ならば大丈夫だと草草はにっこり笑う。
すると、今度はその真面目くさった顔がななめに傾いた。
「何でその誰かは、そんな物を持ち去ったんです?」
「なに、ゆすりの種にする気なのさ」
「そうだね。たぶん、お役人さんが言ってた、廃寺で寝泊りしてるゴロツキの仕業じゃないかな?」
「似非道士を片づけたと思ったら、今度はゴロツキですか。いい気味ですねぇ」
虹蛇が口の端を上げ、ふふんと笑う。よほど亡骸を投げこまれたのが、気に入らなかったのだろう。至極、当然だ。
狼君も大きくうなずいている。真夜中に亡骸を運ぶ手間をかけさせられたのだ。極めて当たり前であった。
草草と二人の仙は、心地よい風が吹く街中を、着物のすそをはためかせ、髪をなびかせながら歩いていた。
息抜きの散歩がてら、紙屋をのぞいてみようと思ったのだ。
草草は、紙屋が捕まろうが、逃げのびようが、どちらでも良いと考えている。
捕まったとして、亡骸を薬仙堂に投げこんだことを、紙屋は話さないはずだ。
娘を守るために似非道士を殺してしまったと言えば、役人の心証はそう悪くもなく、世間の同情も買える。来仙の人々にとってはありがたい、薬仙堂に罪をなすりつけようとしたことまで話せば、途端に悪者になってしまう。
逃げのびたとしても、安穏としては暮らせない。
別の場所で亡骸が見つかったのだ。誰かが動かした、その誰かはすべてを見ていたかもしれないと、おびえているだろう。髪帯も持ち去られているから、新たなゆすりが始まるかもしれない。それもまた、罰だ。
ならばなぜ、坊ちゃんが紙屋へ向っているのか。ただの好奇心だったりする。
もうすぐ紙屋というところで、すん、と狼君が鼻を鳴らした。
「坊ちゃん。今、紙屋から出てきた男、似非道士の血の臭いがします」
見ればニヤニヤと嗤う男が、こちらに向って歩いてくる。
「きっと、髪帯を持ち去った人だね」
「もう次のゆすりが始まってるんですね」
「似非道士は紙屋さんに対して、表立ってはゆすってなかったようだけど、嗅ぎつけるのが早いねぇ」
草草が妙なところに感心すると、虹蛇が「ああいう輩は悪事に鼻が利くんですよ」と口の端を上げる。
「俺より利くのか?」
真面目くさった顔で問うた狼君に、坊ちゃんは、ぷっ、と吹きだした。
「うぅん……今日はお店をのぞかずに、帰ろうか?」
「坊ちゃん、どうしたんです? どこか具合でも悪いんですか?」
「我の背に負ぶさりますか?」
狼君は心配しているのだろう。ぐっと眉間にしわを寄せた、迫力のある顔で草草をのぞきこむ。虹蛇はすでに背負う気でいるらしい。眉根を寄せた心配顔をふり向けつつ、背中を差しだしている。
相変わらずの守役たちに、草草は、違うのだと笑いながら首をふった。
「新しいゆすりの人が来たばかりだよ。僕たちの顔を見たら、紙屋さんはなおさら、追いつめられるんじゃないかな?」
普通に考えれば、亡骸を動かしたのは薬仙堂の者だ。そんなことができそうなのは、只ならぬ武人か策士だと思うに違いない。
ゆすりの男が動かしたと紙屋が誤解したとしても、薬仙堂に罪をなすりつけようとした負い目がある。
「今、追いつめて、紙屋さんが急に商売をやめたら薬仙堂が困るよ。伯父上はまだ、新しい店と取引してなかったよね?」
坊ちゃんが気にするのは、あくまでも薬仙堂であった。
*
薬仙堂が新しい紙屋と取引を始めたころ、無骨そうな真面目そうな役人が、店にやって来た。
「紙屋の主人が似非道士を殺したと、自首してきた」
役人はなにやら思案げな顔でため息をついた。解決したのにどうしたのかと、草草は首をひねる。
「犯人がわかったなら、よかったじゃありませんか」
「そうなんだが、紙屋にも同情の余地があってな。まあ、それは仕方ないが、実は少し草草殿にも関わることだったので、報告に来たんだ」
紙屋が薬仙堂の名を出したのかとも思ったが、役人の言葉では、草草だけに関わりがあるようだ。
これは長話になりそうだと、虹蛇に茶を淹れてもらい、みなで店の端にある卓へ腰を落ち着けた。
役人の話は、おおよそ草草の推測したとおりだった。
やはり似非道士は娘の実父だそうだ。娘の母の髪帯を見せ、これを種に貴族との縁談が壊れてもいいのかと、紙屋の主人を脅していた。
血で汚れていたために狼君は気づかなかったが、髪帯にはかつて恋人であった二人の名が、それぞれの手で書かれていたという。
娘は何も知らないが、似非道士が母の知り合いだと言って話しかけることがあった。そのため、主人は娘を家から出さないようにしていた。
だが、似非道士はどうやってか、娘が貴族ではなく、草草との縁談を望んでいることを知ってしまった。
やはり似非道士が薬仙堂に来たのは、娘の想い人を見るためだったのだ。
――その日の夜、事は起きた。
『貴族との縁談なんて止めて、薬仙堂の若いのと結婚させろ。そのほうが娘は幸せになる』
似非道士は主人に、こう言ったそうだ。
「確かに、貴族に嫁いでも大変なだけだろうからな。そこは俺も似非道士と同じ意見だ」
太い眉をぎゅっと寄せた役人が、妙な合いの手を入れた。彼は仕事柄、貴族と関わることが多いのだろう。いろいろと思うところがあるようだ。
「そんなの当たり前さ。坊ちゃんに嫁げば、誰よりも幸せになるに決まってるよ」
当然のごとく、ここで虹蛇が坊ちゃん自慢を始め、狼君も負けじと続く。
しばし、話が横道に逸れた。
ようやっと、草草が話を元に戻す。
紙屋の主人は、貴族との縁談のほうがいいに決まっていると譲らず、似非道士と押し問答になった。
『お前は貴族から入ってくる、結納金が目当てなんだろう! 本当の親なら娘の望みを叶えてやるもんだ!』
この言葉を聞いた主人の頭に、血が、カアッとのぼった。
自分は本当の子だと思い、娘を大切に育ててきた。それを、ずっと放ったらかしにしていたくせに、育ての苦労も知らないくせに、ゆすりまでしたくせに……今になって親の顔をするのか!
気がつけば――似非道士は死んでいた。
主人はどうあっても貴族との縁談をまとめ、娘を幸せにしようと、ただそれだけを思って亡骸を外に捨てた。
それからの日々。主人は心に不安が広がると、自分は正しいと、娘の幸せのためだと、強く言い聞かせてきた。けれど、それが間違いだと思い知ったのは、貴族との縁談がまとまり、結納金を手にしたときのこと。
娘の表情は暗く沈み、自らの顔は奇妙に歪んだ笑みを作っていることに、気づいたからだ。
思えば似非道士を殺したあと、頑ななまでに貴族との縁談話を進めようとしたときから、心の底では間違いに気づき、それを必死になって誤魔化していたのだと思う、と主人は話した。
主人は亡骸を薬仙堂に投げこんだことだけでなく、ほかに手伝った男がいたことも、新たなゆすりのことも言わなかったようだ。自分だけが罰を受けるつもりなのだろう。
良縁を求めた養父と、娘の気持ちを慮った実父。ゆすりを働いた実父と、人を殺してしまった養父。
どちらも娘の幸せを願った気持ちは本当で、どちらも間違い、どちらも正しいところがあったのだろうと、草草は思った。
――この日の夜。
草草たちの部屋には、ふわりふわりと精霊が舞い、虫の姿をとった仙ノ物たちが、かさこそと集まっていた。
今日、ようやく酒屋の弟夫婦が屋敷を捨て、来仙から出ていったのだ。紙屋の主人に比べれば、ずいぶんしぶとかったと、みなもやり甲斐があって楽しかっただろうと、草草は笑みをこぼす。
《坊ちゃん、一緒に仙山へ帰りましょう?》
《私は坊ちゃんがいないと、つまらないです。一緒に戻りましょう?》
精霊や仙の虫たちが、あちらこちらから声をかけてくる。
「坊ちゃんはまだ、下界にいたいんだよ!」
《虹蛇と狼君は坊ちゃんと一緒で、ずるい!》
「何を言ってるんだい? 我が坊ちゃんと一緒にいるのは当たり前じゃないか!」
「俺も坊ちゃんから離れないぞ!」
ずいぶん騒がしくなってきた。これは止めなければと草草が口を開きかけたとき、水応鏡がきらきらとまばゆく光った。精霊と仙の虫が吸いこまれていく。
山神がみなを呼び戻しているのだ。
《坊ちゃ~ん、いずれまた~》
「うん、また会おうね! ありがとう」
草草が言い終えると、水応鏡の光がほのかなものに変わった。
鏡をのぞけば山神が、優しげに笑っている。今日はなぜだか懐かしく思う父を見て、坊ちゃんはほっこりとほほ笑んだ。