第三話 僧療治
草草は片手に持った薬草を、愛用のはさみでサクリサクリと刻んでいた。薬仙堂を見まわせば、みなが小刀や短刀を使っている。
草草がはさみを使うのは、『坊ちゃんが怪我をしないように』。薬草を煮たり燻したりするのは、『坊ちゃんが火傷をすると悪いから』、火のそばに寄せてもらえない。
これと同じ理由で、包丁や火を使う、料理もさせてもらえない。
心配性の狼君だけでなく、虹蛇も反対している。黎の国では料理は女の仕事とされているので、伯父や従兄まで「草草様のなさることではありません」と首をふる。
だから、なかなか料理への道は遠かった。
ちなみに仙山では、こうした仕事には仙術が用いられる。
草草が手を出せば、むしろ手間がかかると大人しくしていたが、下界のやり方なら自分にもできそうだと興味が湧いてきたわけだ。
「うぅん……」
はさみを動かしながら、草草はうなる。
料理への道をはばむ障壁は、二人の仙より薬仙堂の面々だ。考え方の違いなのだろう。仙山では男も女もないのだが、人の世には役割分担がある。
菓子職人は男なのにと首をひねり、そして、薬仙堂の外でやれば良いと気がついた。守役たちは、坊ちゃんが料理をすることには反対していない。危なくなければいいのだ。
菓子作りどころか米の炊き方も知らない草草だが、包丁を握らず、火のそばにも寄らない仕事なら手伝えるように思う。
「お菓子かぁ」
「坊ちゃん、菓子が食べたいんですか? 飴なら我が持ってますよ」
「ですがもうすぐ昼です。飯を食べてから、菓子にしましょう」
綺麗に笑った虹蛇が、飴の小袋をふところから出すと、渋い顔になった狼君がゆるゆると首をふる。相変わらずの守役たちであった。
午後になると、草草たち三人は従姉の菓子屋へ向った。どんな菓子なら手伝えるだろうと、坊ちゃんの足取りは軽い。
もう少しで菓子屋というところで、草草の足がぴたりと止まる。
つるりとした頭に袈裟を着た、ひょろりとした僧が、向かいの小道から店をうかがっているのだ。
「あの人、お坊様だよね。何をしてるのかな?」
「坊ちゃん。あの坊さんは少し、力を持ってるようですよ」
力とは霊力のことだ。
虹蛇の形よい眉が少しばかり上がった。狼君の眉間にもしわが浮いている。
「……あのお坊様、ご主人の霊を祓おうとしてるのかな?」
主人の霊を祓われては困る。酒屋を出て仲よく暮らしている、従姉夫婦の幸せを壊されるわけにはいかない。
草草は警戒を心のうちに隠し、僧に近づいていく。
「お坊様、どうしました?」
「ひぇっ? え? あっ……薬仙堂の道士様!」
声をかけられた僧は、びくりと身をふるわせた。草草と同い年くらいだろうか、思いのほか若い。三人を知っているようでもある。
僧は背をかがめ、額に汗をにじませ、小さな目はおろおろとさまよっている。かなり挙動が不審だ。これから霊を祓おうと意気込んでいるようにも見えない。
ならば何用だろうと、草草は首をひねる。
「どうかしましたか?」
「あっ、あのっ……そっ、そのっ……」
「おい、坊ちゃんが聞いてるだろう」
「さっさと答えな」
うろたえる僧に、ギラリと光った狼君の鋭い眼光が、目を針のように細めた虹蛇の剣呑な眼差しが、容赦なく突き刺さった。
「う、ううん……」
白目をむいた僧の、体がゆらりと揺れて反り返る。
助けようと伸びた草草の手は、怪しげな者をさらわせまいとした虹蛇にそっと握られ、倒れゆく僧の体は、坊ちゃんが助けようとするなら仕方ないとばかり、狼君がむんずとつかんでいた。
草草たちは気を失った僧を、菓子屋へと運んだ。道ばたに転がしておくわけにもいかないし、店をうかがっていた理由も聞かなければならない。
部屋の一室で寝かされていた僧が、ゆっくりとまぶたを開ける。
その小さな目が、草草を向くとホッと息をつき、二人の仙を捉えてはびくりと怯え、主人を映しては悲鳴を上げた。力ある僧には、主人に重なっている霊が見えるのだろう。
草草は申し訳ないがと主人を部屋から出し、優しい声で茶を勧め、僧が落ち着くのをのんびりと待った。
「お坊様は霊や妖物を恐がらないようになりたい。つまり霊に慣れたくて、お店をのぞいてたんですか?」
「はっ、はい! こちらのご主人に憑いているのは良さそうな霊だと、和尚様がおっしゃっておりましたので、その、私も何とか慣れることはできないかと思いまして」
僧は小さな目をこじ開けて、ぐっと身を乗りだす。なにやら必死な様子だ。
聞けば、霊は見える。見えるが恐い。恐がっていれば法力など効かず、このままでは僧として一人前になれないと言う。
「霊が見えない坊さんは大勢いるじゃないか。あんたは見えるんだから、ほかの坊さんより、よほど一人前じゃないのかい?」
虹蛇が声をかけると、僧はびくりと体を揺らした。
彼には虹蛇が蛇に見える、というわけではない。普通に油断ならない策士と見えている。草草は立派な道士様、狼君は迫力ある武人だろう。
店の外で気を失ったのは当人曰く、霊が憑いた主人を恐る恐るうかがっていたときに、ご立派な方々に声をかけられて驚いたから、らしい。
本当は守役たちの目が恐かったからに違いないと、坊ちゃんはくすりと笑みをもらした。
「そ、その、霊が見えるだけでは一人前ではないんです。霊力を持つ僧は、その力で人々を救わなければならないんです」
僧はおどおどとした様子で虹蛇を見、やはり恐いのか、優しげな草草に救いを求めるような目を向けて答える。
「力のない坊さんは、人を救わなくていいのか?」
今度は狼君が声をかけた。するとまた、僧の体がびくりと揺れる。ふたたび失神されては話を聞けないと、草草が返事を引き受ける。
「力のないお坊様は、説法をしたり話を聞いてやったりして、心を楽にしてあげることで人を救うんだよ」
「心、ですか。俺が坊ちゃんといると、いい気分になるようなものですか?」
「うん。僕も狼君や虹蛇と一緒にいると、嬉しいし幸せだよ」
坊ちゃんが瞳に甘えをにじませ、ふんわりと柔らかく笑った。
狼君は優しげに目を細め、頬をほころばせる。虹蛇は耳のふちを染めながら、おろおろと目を逸らす。
貴人が甘い笑みをふりまいたからか、武人と策士が意外な一面をさらしたせいか。僧の体から、ふっと力が抜けた。
「ご主人、入ってきてください」
「ぎゃっ!」
もう大丈夫だろうと草草が主人を呼ぶと、僧の悲鳴が部屋に響いた。
唯一の救いと見えるのか。坊ちゃんにすがろうとした僧を、狼君ががっちりと止める。その坊ちゃんはいち早く遠ざけられ、虹蛇の腕に納まっている。
霊が憑いた主人に怯え、狼君の鋭い眼光にさらされ、虹蛇からも剣呑な目を向けられた僧は、やはり意識を失った。
これは時間がかかりそうだと、草草は苦笑いをこぼした。
*
「お、おはようございます」
「お坊様、おはようございます」
ひょろりとした猫背の僧が、薬仙堂の店先でおどおどと挨拶をする。その姿を見れば、従兄たちがにこやかな顔で奥へと通す。
ここ十日ほど、僧は薬仙堂に通っていた。まずは狼君と虹蛇に慣れてみてはどうかと、草草が提案したからだ。
僧は自覚がなくとも守役たちから仙の力を、人とは異なる大狼や大蛇の気配を、わずかでも感じているのだろう。そうでなければ、いくら恐がりであっても失神まではしないはずだ。
この僧なら菓子屋の主人より、二人の仙に慣れたほうが手っ取り早そうだ、と草草は考えた。
『まずは人である二人に慣れてみては』と聞こえる提案は、優しいようでいて、実は荒療治だったりする。坊ちゃんも案外、容赦がない。
僧は草神の神気も感じているはずだが、穏やかな物言いや優しげな顔立ちに加え、人の血が混ざっていることもあり、怖れないのだろうと草草は思っている。
僧は存分に畏れ、無意識のうちにいっそう猫背になっているのだが、これには誰も気づいていない。
ちなみに、草草が僧の力になろうと思ったのは、霊が憑いた菓子屋の主人の味方は多いほうがいいと考えたからだ。
僧の話では、和尚はやみくもに霊を祓ったりする御仁ではないとのこと。良きものはそのままに、悪しきものだけを退治しようと考えているらしい。
来仙にこの和尚がいてくれれば主人も安泰だが、いかんせんご高齢だ。若い僧も味方になってくれるなら心強い。
こうした話をすると、守役たちは「坊ちゃんは賢い」と、薬仙堂の面々は「従姉のためにありがたいことです」と、草草を褒めたたえた。
まあ、いつものことである。
薬作りを手伝っているときの僧は、やるべきことがあるせいか、二人の仙を恐がる様子はあまり見られない。夢中になることがあれば、わりと平気なのかもしれない。こうして仕事をしているうちに慣れていくだろうと思える。
草草がお茶にしようと誘うと、僧は嬉しげに笑った。少々おどおどとして、やはり背は丸まっているが。
「はぁ……おいしい。薬作りは人様のためになりますから、やり甲斐がありますね。私は僧より、薬屋に奉公したほうが良かったのかもしれません」
湯のみを卓に置いた僧が、情けなく眉を下げる。
「薬屋にもいろいろあるようですよ。怪しげなお客様が来たり、奇妙な薬が持ちこまれたり、よその店では木乃伊なんて物もあったそうですよ」
「ひぇっ」
草草がいたずらめいた顔を作って少し脅かしてみると、僧は小さな悲鳴を上げた。そして肩を落としつつ、「そうですよねぇ」とつぶやいている。
どのような仕事にもこうしたことはあるのだと、霊が見えるならどこへ行っても同じだし、むしろ清められた寺内のほうが安心だと、ちゃんと承知しているようだ。
ならば僧は逃げたりせず、きっとがんばるだろうと草草はほほ笑む。
「ですが、草草様なら私より、立派な僧になれると思いますが……」
「坊ちゃんが僧になるなんてダメだ。滝に打たれたり、火の上を歩いたりするなんて、とんでもない!」
「そうだよ。坊ちゃんの綺麗な髪を剃るなんて、絶対に反対だね!」
狼君は一部の宗派にあるらしい、荒行を思い浮かべたのだろう。思いっきり顔をしかめた。虹蛇は坊ちゃんの坊主頭でも思い描いたのだろう。きりきりと眉がつり上がった。
鋭い眼光が、剣呑な眼差しが、僧にぐさりと突き刺さる。
「ひぃっ!」
僧は顔を引きつらせ、体をのけ反らせたものの、気を失ったりはしなかった。少しずつ、度胸がついてきたらしい。
草草は満足げに笑いながら、まだ恐い目をしている守役たちをなだめ始める。
荒行と剃髪に文句をつける辺り、少々ずれている気もしたが、そこは仙だからと坊ちゃんは流していた。
「ではお坊様、また明日」
「はい。お邪魔いたしました」
夕暮れどきになると、丁寧な挨拶をして帰っていく僧を、草草たちが店先で見送る。
「坊ちゃん、嫌な臭いがします。奴ら、まだいます」
「ええ。嫌な目が、向いてますよ」
狼君が、虹蛇が、ボソリ、ボソリ、とつぶやいた。
最近、薬仙堂の周りに怪しげな者たちがいる。最初に気づいたのは、やはり二人の仙だ。
狼君がそれらの臭いを辿れば、そこは街外れの廃寺。
僧が来るようになった時期と重なっていたため、僧か寺に関わる輩かとも思ったが、怪しげな者が僧をつける気配はない。
ならば、ほかにはないかと臭いを探すと、一軒の酒場に着いた。
顔見知りの、無骨そうな真面目そうな役人に聞けば、「あまり客層のいい店ではない。草草殿の行くようなところではないぞ」と教えてくれた。
酒場から思い浮かぶのは、酒屋。薬仙堂に関わりがあるのは、従姉夫婦が弟夫婦に譲った酒屋だ。
従姉に確かめると、この酒場には酒を卸していたはずだと言う。伯父に調べてもらうと、薬草売りに薬仙堂の仕入元を聞く者があった。
そこへ行き、狼君に臭いを嗅いでもらえば、弟の妻の臭いが残っていた。
薬仙堂は仙山から薬草を摘んでいることを、世間には隠している。良い物を独り占めしていると思われたなら、災いを招きかねないからだ。
彼らは山神から賜った『仙石』を持って、薬草を摘みに行く。道中、誰も彼らを気に留めることのない、そこにあるのが当然の、石ころのように思える代物だ。
だから――伯父が仙山の薬草を卸さなくなったため、弟夫婦は何とかして仕入元を突き止めたいと、酒場の怪しげな客に頼んだのだろう。
「うぅん……そろそろ、どうにかしなくちゃねぇ」
店に戻りながら、草草は顔をななめにかしげた。
今なら草仙筒を使えば薬草は手に入るが、ずっとそうするわけにもいかない。相手にあきらめる様子はなく、このまま放っておいて手荒な手段を取られても困る。向こうが手を出さなければ捕まえても何の罪にもならない。
となると、まずは怪しげな者たちを誘いだす必要がある。
草草は、うん、とうなずき伯父の姿を探した。
「伯父上、そろそろ薬草摘みに行くころですよね? 今回は僕と従兄殿とお坊様と、三人で行ってみたいんですが」
「坊ちゃん、俺も行きます!」
「我だって、坊ちゃんから離れませんよ!」
「草草様、今はいけません! たとえ御仙石をお持ちになろうと、怪しげな者のいる、今はなりません!」
守役たちだけでなく伯父までも、ものすごい勢いで詰めよってくる。けれど草草は慌てず、にこりと笑った。
「もちろん、狼君と虹蛇にはついて来てもらうよ。でも、ちょっと隠れててもらいたいんだ。それと伯父上、仙石はいりません」
「なっ、なんと!? なおさらいけません!」
草草の言葉に、狼君は眉間のしわをゆるめ、虹蛇はホッと息をつく。
このたび坊ちゃんが説き伏せねばならないのは、断固譲らないと首をふっている伯父のようであった。
*
従兄が御者を務め、草草と僧は荷台に乗り、馬車が草原をガタゴトと走る。
荷台には大きな袋がふたつ、積まれている。二人の仙、ではなく藁が詰まっているだけだ。狼君は子犬の姿で荷の奥へ、虹蛇は小蛇になって草草のふところに忍んでいた。
只ならぬ武人と策士がいては、相手も手を出さないかもしれないと考えて隠れてもらったのだ。藁の袋を用意したのは、守役たちが姿を現したとき、僧に言い訳が立つように。
正体を明かしても、僧なら問題はなさそうに思えるが、別の問題があった。
十中八九、今以上に恐がる。せっかく慣れてきたのだから、正体を告げるのはもう少しあとのほうが良いだろう。
その僧を連れてきたのは荒療治の一環、ついでである。
荷台には布が敷かれ、草草と僧の尻の下には分厚い座布団まであった。
薬仙堂の面々は、神の子を荷台に乗せるのにもいい顔をしなかったのだ。僧の分は、やはりついでである。
「馬車もなかなか気持ちいいですね」
どこまでも晴れわたる空、心地よい風がゆったりと結わえた髪をくすぐる。
にっこりと笑った草草に、僧は背を丸め、おどおどしつつも笑みを返す。しかし、従兄は硬い表情でふり返った。怪しげな者がいるはずだと、これはおとりだと、知っているからだろう。
「この辺りでいいですか?」
草草がうなずくと、馬車は森の入口で止まった。
今日の目的は相手をおびき出すことにあるから、わざわざ仙山まで行く必要はない。薬仙堂と仙山のつながりを知られても面倒だ。
そこで、今回は草仙筒で薬草を摘むことにし、馬車は街近くの森まで走らせた。
三人は馬車を降り、草を摘み始める。もちろん薬に使える薬草だ。
従兄が緊張しているせいか、僧もどことなく落ち着きがない。それでもこの草は何々だと教えられながら、しっかりと仕事をしている。
《坊ちゃん、お久しぶりでございます》
人の耳には聞こえない声が響くと、草草は小さく笑った。
街から出た坊ちゃんの気を感じたのだろう。仙山から精霊が下りてきたのだ。ふわりふわりとほのかに光る、人には見えない姿が舞う。
《坊ちゃん》
《坊ちゃん》
《坊ちゃん》
バッタが、蟻が、蜘蛛が、仙が姿を変えた虫たちが、次々声をかけてくる。精霊とともに、風に乗ってやって来たのだろう。
《坊ちゃん、妙な者たちがいます。嫌な者たちですよ》
「狼君と虹蛇が飛びだしたら、みんなもやっつけていいよ。でも、殺しちゃダメだからね」
雇われた輩を始末したとしても、弟夫婦はまた新たな者を雇うだけだ。これでケリをつけなければならない。
草草がささやくと、風が、草が、ざわざわとそよぎ、仙の虫たちは姿を消した。
「あっ、あのっ、草草様!」
僧が小さな目をパチパチとしばたき、おどおどと辺りを見まわしながら駆けよってくる。
ここには精霊や仙が多くいる。力ある僧はその気配を、わずかでも感じとっているのだろう。
「お坊様、どうしました!?」
従兄も草草のそばに寄ってきた。こちらは怪しげな者を警戒してのことだろう。
三人は固まり、僧と従兄はおろおろと、草草はゆったりと、辺りを見まわす。
気づかれたと思うであろう怪しげな者たちが、さてこれで出てくるか。と、草草が思ったときだった。
草むらの一方から物音がし、数人の男たちが姿を見せた。顔にはいやらしい嗤いを浮かべ、手には剣を握っている。
『ああいう者たちは、頼まれたこと以外にも悪事を働くんだ。だからこそ、尻尾をつかみやすくもあるんだがな』
酒場のことを聞いたとき。無骨そうな真面目そうな役人が、太い眉をきりりと持ち上げて言った言葉を、草草は思いだした。まさしくお役人さんの言うとおりだと、ちょっぴり見直す。
弟夫婦が頼んだのは、薬仙堂の薬草の仕入元を突き止めてほしい、だろう。それなのに追いはぎまがいのことまでするから、足がつくのだ。
「そっ、草草様! うしろへ」
「ん?」
従兄が鎌を持ち、腰が引けながらも草草の前に陣取った。これは予想できたことだが、てっきり、すがりついてくると思っていた僧までも、ふるえながらも彼の前に立っていたのだ。
草草はちょっぴりどころか相当に感心し、僧をおおいに見直した。
その間にも、男たちは一歩、二歩と近づいてくるが、従兄も僧も退かずに踏んばっている。坊ちゃんだけは心底、守役たちを信じているから余裕の表情だ。
剣が振り上げられたのと、荷台から黒い影が飛びだし、草草のふところから気配が消えたのは、ほぼ同時だった。
「従兄殿、坊さん、下がってな」
人の姿になった虹蛇が、草草をかばうように立った。彼が坊ちゃんを守っているから、狼君は遠慮なく暴れられる。
男たちを殴り倒し、蹴り飛ばす。坊ちゃんに剣を向けたことが腹立たしいのか。その剣を素手でバキリと折ってもいる。
何が起きたかわからないのだろう。男たちは不機嫌な仙のなすがままだ。
「お、おぉ……」
従兄と僧の口が、そろってポカンと開いた。どことなく寄りそっているのは、狼君の、並外れた強さを怖れたせいか。
坊ちゃんはといえば、守役の雄姿をわが事のように誇らしげな顔で、にこにこと眺めていた。
「坊ちゃん、怪我はありませんか?」
「我がついてるんだ。坊ちゃんに怪我なんて、させるわけないじゃないか」
あっという間に男たちを倒した狼君が、心配そうな顔で坊ちゃんをのぞくと、虹蛇がふふんと笑った。
それもそうかと納得した狼君が、今度は「坊ちゃん、恐くありませんでしたか?」と、また心配顔でのぞきこむ。これには虹蛇も眉を下げ、一緒になって坊ちゃんをうかがう。
「僕は二人がいてくれたから、ちっとも恐くなかったよ。狼君、虹蛇、ありがとう」
草草は甘えをにじませた無垢な瞳を、ふんわりとした柔らかな笑顔を、二人の仙に向けた。
常にほほ笑みを絶やさない坊ちゃんだが、こうした顔は幼いころからそばにいる、守役たちだけに向けるものだ。彼らもそれは知っている。
狼君は嬉しそうに目を細め、頬をほころばせる。虹蛇は耳を真っ赤に染め、すぐに目を逸らしてしまった。
「な、なっ……」
ほんわりとした幸せに浸っている三人の横で、しかし従兄と僧は互いの着物をぎゅっと握り合い、その体をふるわせていた。
襲いかかってきた男たちは倒れ、今は草むらの中。狼君ももう、草草のそばにいる。それなのに、草むらからは男たちの悲鳴が聞こえてくるのだ。
ここは仙山ではないものの山神の土地。
その地で山神の子に危害を加えようとした男たちに、何が起きているのか。従兄には察しがついたのだろう。僧は何がしかの力を感じているのだろう。
二人の試練はもう少し、続くようであった。
力の抜けた従兄に代わり、帰りは虹蛇が御者を務めた。
荷台の手前では、右端に従兄と僧が窮屈そうに並んで、ぴたりと寄りそっている。左端にどかりと座った狼君のひざの上には、景色を眺めながら穏やかにほほ笑む坊ちゃんが、やけにしっくりと納まっている。
縄で縛った男たちを、後方に積んでいるから狭いのだ。
「お坊様は、とても勇気のある方ですね」
「へっ? わ、私が、ですか?」
小さな目を丸くした僧に、草草は追いはぎに立ち向かう姿に感心したと伝えた。
「そ、それは……必死だったので」
「人はいざというときこそ、その本性が現れるものだそうです。あなたは人を救おうとする勇気のある、立派なお坊様ですよ」
「私が、立派……」
草草が慈愛に満ちた、清らかで優しげな笑みを浮かべると、なにやら僧はぼうっとしてしまったようだ。
どことなく、僧にうらやましそうな目を向けていた従兄にも、草草は笑いかけ丁寧に礼を述べる。すると従兄も、ぼうっとしてしまった。
たくさんの人を積んだ荷台が重かったせいか。のったりと歩む馬たちに運ばれ、のんびりと来仙に着いた草草一行はとてつもなく目立った。
御者は油断ならない策士。荷台では名士とされている薬仙堂の若主人と、徳が高いと敬われている和尚の弟子が身を寄せ合い、秀でた武人のひざには仙人のごとき貴人が納まっている。
おまけにぐるぐる巻きにされた、追いはぎまで積んでいるのだ。目立たないわけがない。
草草は薬草を摘みに行って追いはぎに遭ったと、ただそれだけを門兵に告げた。
来仙では追いはぎは縛り首だが、仕入元を探ってくれと頼んだ弟夫婦は大した罪にならない。
草草は初め、虹蛇に仙術を使ってもらい、襲ったのも弟夫婦の差し金だと男たちにしゃべらせようと考えていた。だが、少し手を変えることにした。
周りには、ふわりふわりと精霊が舞っている。荷台の隙間には仙の虫たちが乗っている。まだ、少々暴れ足りないようなのだ。
草草は、街中で人を傷つけてはいけないと言い含め、弟夫婦を好きなだけ脅していいとも告げておいた。
*
「お、おはようございます」
ひょろりとした猫背の僧が、薬仙堂の店先でおどおどと挨拶をする。
相変わらずの様子だが、追いはぎの一件以来、彼は二人の仙にびくびくと怯えることはなくなった。
薬作りは一生懸命に手伝うし、お茶にしようと草草が言えば、以前にもまして嬉しげな顔になる。
草むらで感じた精霊や仙の力を、草草の力だとでも思ったのだろうか。それとも草草が褒めたことで自信がつき、そのことを感謝しているのだろうか。尊敬の念がこもっているようにも見える。
「お坊様、そろそろ菓子屋へ行ってみましょうか?」
「へっ?」
草草がにこりと笑うと、僧は小さな目をパチパチとしばたいた。
霊が憑いている菓子屋の主人より、力も迫力もある二人の仙に慣れ、精霊や多くの仙の力も感じ、追いはぎにも立ち向かえたのだ。
もう大丈夫だと草草が自信ありげに請け負えば、僧は自信のなさそうな顔で、ためらいつつもうなずいた。
「あ、そういえば寺に酒屋のご夫婦がいらっしゃいました。確か菓子屋のご主人の、弟さんではなかったでしょうか?」
僧は酒屋の弟夫婦の悪だくみなど、何も知らない。
薬草摘みの際、なぜ守役たちが馬車に隠れ乗っていたのかと、問われたら話そうと草草は思っていた。が、僧は何も聞かなかった。
彼にしてみれば、命に関わる難事を乗り越えた大事件だったのだ。それは些末なことなのかもしれない。
「はい。酒屋のご夫婦がどうかしたんですか?」
「屋敷で妙なことばかり起きるとか。和尚様にお祓いをしてほしいと、お願いなさっておいででした」
「和尚様は、どう言ってましたか?」
「酒屋から戻ってこられた和尚様は、天罰である、と。それだけをおっしゃいました」
その和尚はよほどの霊力の持ち主なのか、はたまた人を見抜く目が卓越しているのか。ともかく立派な御仁のようだ。草草はほぅ、と感心する。
二人の仙は天罰という言葉がお気に召したらしい。狼君は大きくうなずき、虹蛇はニヤリと口の端を上げる。
「あの、なんだか申し訳ございません……」
小さな目をしばたき、眉を下げた僧が、草草を見た。薬仙堂と酒屋が姻戚だからと気を使っているのだろう。
草草は構わないと優しげに笑う。
「お坊様が気にすることはありません。立派な和尚様ですね」
「そっ、そうですか。はい! 私もそう思っております」
僧は安堵したように、そして誇らしげに笑った。
「お坊様なら大丈夫ですよ。さ、入りましょう」
「はっ、はい!」
菓子屋の前で、僧はいつもの猫背をピンと伸ばし、手をきつく握りしめた。ひとつ息を吐くと、右手と右足を一緒に出しながら、ぎくしゃくと店に入っていく。
このお坊様は意外と背が高かったのか。などと坊ちゃんは、虹蛇ほどの高さにあるつるりとした頭を、のんびりと見上げる。
「いらっしゃいませ。草草様、これはようこそ」
菓子屋の主人が朗らかに出迎えた。
主人には僧を連れてくると伝えてあるので、いつもと同じようにほほ笑んでくれる。
二人の仙にも、僧が草草にすがりついたとしても止めないようにと頼んである。
『あの坊さんは坊ちゃんより重いんです。すがりつかれて倒れたら、どうするんです!』
『坊さんの爪が、坊ちゃんを引っかくかもしれません。ダメですよ!』
守役たちはこう言って難色を示したが、なんとか説得した。
鋭い眼光と剣呑な眼差しにさらされて、また失神でもしたら、せっかくついた自信を失ってしまうかもしれない。それでは元も子もないのだ。
菓子屋には、奇妙な沈黙が流れていた。
朗らかな笑みを保とうと、がんばっている主人。僧にすがりつかれた坊ちゃんが倒れそうなら、すぐに助けるべく気を研ぎ澄ましている狼君。僧の爪が坊ちゃんを傷つけてはならないと、目を皿にして見張る虹蛇。
草草はといえば、じぃっと僧をうかがっていた。
ふつふつと額に浮かぶ汗、ごくりと動くのど仏、ひくひくと動く唇。けれど、小さくてわかりにくいが白目はむいていない。これなら大丈夫だと思い、「お坊様」と声をかける。
「ひゃっ!」
僧の体がびくりと大きく跳ね上がり、主人の真ん前に立つ格好となった。
「ひゃあっ!」
今度は思いきり後ずさり、狼君にぶつかってしまう。
ゆるゆるとふり返って仰ぎ見た、僧の眼前には突き刺さらんばかりの鋭い眼光が……となる前に、草草の手がそっと僧の顔にふれた。
「お坊様、大丈夫です。ほら、気はしっかりしてますよ」
「あ、あぁ……はい、そう、ですね」
慈愛に満ちた笑みを見て、僧は安心したのか、気が抜けたのか。ぼうっとしながら、こくりこくりと頭をゆらした。
「それは大変でございましたねぇ」
落ち着きを取り戻した僧は、奥の間で主人のこれまでを聞き、小さな目をしばたかせながら痛ましい顔をしていた。
彼はなかなか聞き上手らしい。主人から、霊としてさまよっていたころの寂しさや、木乃伊に閉じこめられていたときの辛さまで聞きだし、うんうんと相づちを打っている。
草草はこれなら大丈夫だと思い、こうした人が、いずれ立派な和尚になるのかもしれないとも感心した。
そして、従姉のいる店に向う。坊ちゃんが菓子屋に来た当初の目的は、菓子作りである。それが今日、ようやく叶うのだ。
「草草様、用意しておきました」
明るい笑顔で迎えた従姉が、台の上にあった木型と練り餡で、草草に手本を見せていく。
ぬくい餡を小さくちぎり、粉を薄くまいた型に詰める。さまざまな色の餡を別々の型に詰め、裏に返してトンと叩いて取りだす。粉を払った餡はうまく組み合わさるようになっており、花や鳥の形になった。
これは菓子作りの工程の、ひとつのようだ。ここに溶かした飴を薄くぬって冷ませば、色とりどりに艶めく菓子になるそうだ。
けれど熱い飴は火傷をするかもしれないと、守役たちが首をふったので、草草ができるのはこの工程だけである。
「ん……なかなか難しいかも」
型にまく白粉は、多くても少なくてもいけない。草草は多すぎたと払っては、少なすぎたかと粉を足す。
ついで餡をちぎり、むにっと詰める。きつく詰めてはうまく取れないし、出来も硬くなると言われ、今度はそっと詰めていく。
取りだした餡も崩れないように、そっとそっと組み合わせる。
一見、単純なようだが、やってみるとなかなか加減が難しい。
「ふふふ……」
うまくできると見栄えもよく、楽しくなってきた草草の口から笑いがもれた。
守役たちは坊ちゃんが安全で、しかも楽しそうなら大満足だ。とびっきり優しげな、温かい目を向けている。
しばらくすると、台の上には綺麗な菓子が並んでいた。草草はそれなりに手先が器用らしく、初めてにしては良い出来だろう。
「あれ? 白い餡だけ、たくさんあまってますよ」
こう聞くと、従姉は店にあった、板のような菓子を手にして戻ってくる。
「これは自分で絵を描くんです」
手のひらほどの平らな菓子には、見事な龍や鳳凰、花や景色が彫られている。これは従姉が作ったのかと問えば、首をふられた。
「私にはまだ、こんな細工はできません。これは主人が作りました。草草様もやってみますか?」
もちろん草草はうなずいた。
「うぅん……」
「坊ちゃん、これは狐ですね」
「……狼君」
「坊ちゃん。これは、ひも、ですか?」
「……虹蛇」
虎より大きな体に銀にも見える毛を持つ大狼と、七色に艶めく白い大蛇を表すには、草草の腕は未熟すぎた。彫りの腕というよりは絵心がないのだろう。そもそも狼にも蛇にも見えていない。
自分たちを彫ってくれたと喜ぶ守役たちを尻目に、しばらく菓子修行、いや、絵修行に通おうかと、眉を下げた坊ちゃんは本気で考え始めていた。