第二十四話 龍の贈り物
街を覆っていた雪は、やわらかな陽に溶けて消え、名も知れぬ花のつぼみもふくらみ始めた早春のこと。
「これは駱駝の乾酪(チーズ)だな。坊ちゃん、西の冥神から良い物をもらいました。滋養があるのでたくさん食べましょう」
美しい陶器のふたを開けもせず、顔を近づけスンとひとつ。
鼻を鳴らした狼君が、坊ちゃんの体のためにと気合いが入っているのだろう、鋭い眼光を向けてくる。
「上品な柄だねぇ。奥様もようやく趣味が良くなってきたよ。坊ちゃん、午後の散歩はせっかくだから、この着物に着替えましょうか」
つやめく布に指を滑らせ、美麗な顔をゆるませる。
ずいぶんな台詞とともに着物をかざした虹蛇は、坊ちゃんが着た姿でも思い浮かべているのだろう、優しげに笑いかけてくる。
草草はといえば、二人の仙の手にある品を眺めては、嬉しげににこり。ついで輝く瞳は卓の上を、ゆっくりじっくり浚っていく。
卓には彩りも鮮やかな箱や包みに、何だかよくわからない小枝や石ころなんて物まで混じり、小山が形成されていた。
これらは全て草草の、十九回目の誕生日で、昨日催された宴で、みなからもらった贈り物であった。
――もう一月も前になるか。
「もうすぐ坊ちゃんの誕生日だよ。仙山や下界のみんなを呼んで宴を開かないとね!」
形良い眉がきりりとつり上がった。この仙の眉毛は機嫌の悪さだけでなく、やる気も表してくれるらしい。
手のひらには、懐の袋にしまってあったはずの、黄金の粒が盛られている。その手が動くとじゃらりじゃらり、粒がどんどん増えていく。
どれだけ盛大な宴にするつもりなのか。
「この辺りの神も呼ぶか」
こちらの仙の鋭い眼光は、いつもどおり鋭いままであった。が、偉丈夫の姿は大狼へ変わる。
神々には役割があり、仕事がある。しかしながら畏れ多くも、都合をつけて出席しろ、とでも言いに行くのではあるまいか。
どれだけ荘厳な宴にするつもりなのか。
そんな二人の仙を見て、伯父らはうなずき、従兄は引きつる。
ぬるく笑った草草は、そこそこの、世間や神々を騒がせることのないほどの宴で収まるように尽力し、これは昨日無事終えた。自身の祝いであったのに、ひと仕事終えた気分であった。
そして今、もらった品をみなで確認しているわけだ。
「これは、梨の子からかな?」
卓の小山から草草がちょいと摘んだのは、ただの小枝のように見えて……ただの小枝のように思える。
けれど振ってみれば、かぐわしい梨の香りがふわりと漂う。
この秋のこと。仙山の梨に紛れてやって来て、近所の娘に食べられて、坊ちゃんに助けられた幼い梨の精がいた。
小枝は、この精霊からの贈り物だろう。
草草は季節はずれの芳香に、小鼻を動かし頬をゆるめる。それから念のためにと手を伸ばし、仙山からの手紙を開いた。
これには父神と母、みなの祝いの言葉とともに、贈り物の目録が書かれてあった。つまり見ただけではわからない、得体の知れない品が多いということだ。
白い指が紙をなぞり、それらしきものを探していく。
梨の小枝――土に刺せば梨の木が生え、おいしい実をつける。生き物を三度叩けば、おいしい梨の実に変じる。
「……」
後半が、危ない。
梨に変じた者が、誰かに食べられてしまったらどうするのか。その者の戻し方も書かれていない。
梨の精の意図はおそらく単純で、温かだ。下界にいる坊ちゃんにおいしい梨を食べてもらおう、である。ただ、その方法が物騒だった。
卓を見れば、ほかにも小枝は幾本かあった。桃や林檎、蜜柑に茘枝。みな同じ効果があり、それぞれの精がくれたらしい。
ありがたくはあるものの、厳重にしまっておこうと草草は重々しくうなずく。そして、どんな時に使えそうかと考えたりも、した。
「この本には、人の体の鍛え方が書いてあるのか。坊ちゃん、あの役人もたまには良い物をくれますね」
「坊ちゃん、これはなかなか洒落てますよ。って、腰巻じゃないか! 馬頭鬼の奴、こんなもの坊ちゃんに穿かせられないよ」
「これ……鼠の干からびた……もしかして白玉かな?」
「坊ちゃん、触っちゃいけません」
三つの手により、小山は徐々に崩れていく。
みなで顔を突き合わせ、満足げにうなずいたり、首をふったり捻ったり。それもなかなか面白い。
「これは何かな?」
卓の上もだいぶ片づき始めたころ。
草草がつかんだのは、深く煌めく赤と薄暗い赤の、手のひらほどの玉が二つ。
「龍の臭いがします」
「これは焔龍の気配ですねぇ」
焔龍とは、仙山の地の奥底に暮らす、焔をまとった龍である。
姿の苛烈なこの仙は、しかし地底をたゆとう溶岩のごとく平素はとても穏やかだ。
幼いころ、遊びに行くと、ここは熱くないかと雲龍から氷の霧を借りてきて、辺りにまいてくれたり。地底は広く疲れないかと自身の焔をふり払い、背に乗せて運んでくれたり。
このとき、氷と焔がぶつかり合い大洪水が発生し、払った焔と溶岩から大爆炎が巻き起こったが、焔龍ははしゃぐ坊ちゃんと激怒する守役たちを乗せて、溶岩と氷水の濁流をのんびりと泳いでいた。
また、うとうとと寝ていることも多いせいか。
坊ちゃんの持つ印象は、暢気で優しいお爺ちゃん龍だったりする。
草草は、左右の手のひらを眺めた。
二つの玉は、どちらもほんわりとして暖かい。いや、深い赤がより暖かく、暗い赤はぬるいか。
「坊ちゃん、一つは焔龍の吐息だそうです。身に付けてると、寒さに応じて暖かな気が体を包んでくれるようです。まだ寒いから風邪をひかないように、とも書いてあります」
手紙から離れた常は鋭い眼光が、少し細まり嬉しげに、こちらを向く。
草草もほんわりと笑い返す。
「ええと、もう一つは焔龍の放屁……ですね」
手紙を読んでいる途中、クイッと上がった片眉は、一瞬ののち元に戻った。美麗な顔には綺麗な笑み。
しかし、草草の手にあったはずの暗いほうの玉が、ない。そうえいば、もう一方の仙の眼もギラリと光った気がしたような。
きょろりきょろりと見まわせば、玉は卓へと戻っていた。
守役たちは龍の屁を、坊ちゃんの手に乗せておくのが許せなかったらしい。
「それで、その、おならは何かな?」
笑いつつ、ひょいと手紙をのぞき見る。そこにはこんな事が書かれてあった。
焔龍の放屁――焔龍の吐息を作る際、一緒にできた物。効果は少し弱いものの、吐息と同じ。
焔龍より言づて――放屁のほうは、ついでにわが子孫にでも渡してくれとのこと。
ぱちり、草草は瞬いた。
一緒にできたということは、焔龍がごぅと息を吐いたとき、お尻のほうからも、ぷっ、と。
そんなお爺ちゃん龍の姿を思えば、ついつい頬が、唇がゆるむ。
つぎに首をかしげると、はて、と考えをめぐらせた。
放屁を渡してほしい『わが子孫』とは、焔龍と人の間にできた子の、下界に暮らす子孫だろう。仙山に、この仙の子孫はいないはずだし、もしいるのなら自ら渡せばよいからだ。
下界で龍の子孫といえば、一番の有名どころは皇帝だが、それで良いのだろうか。
坊ちゃんの首は、今度は反対側に傾く。
「うん、焔龍に聞いてみよう」
考えても、わからないものは聞けばよい。
草草が腰を浮かすと同時に、黒い影がさっと動いて水応鏡は目の前へ。
「山神様、聞こえますか?」
通りのよい美麗な声が、さらには父まで呼んでくれた。
相変わらずな守役たちだが、坊ちゃんにとっては常のこと。ありがとうと礼を述べ、鏡に向かうと挨拶方々お礼方々、焔龍を呼んでほしいと頼んでみた。
「焔龍はもう、寝ているようだよ」
「では、父上は焔龍の子孫のことをご存じですか?」
「少し前は仙もよく下界へ降りた。焔龍も降りて、人との間に子を成していたね。今、その血は広く継がれているよ」
ここで、父神のおごそかな様子が映る鏡の横に、茶と菓子が添えられた。
話が長くなりそうだと見た守役たちが、坊ちゃんが疲れないかと気を回したのだろう。
草草はありがたく、まずは茶を飲み思案する。
年月を経て、焔龍の子孫は下界に多くいるようだ。
となると、『焔龍の放屁』は子孫の誰に渡せばよいのか。あるいは子孫なら誰でもよいのか。
この辺りも聞いてみた。
「誰に渡してほしいとは言っていなかったね。焔龍なら十年もすれば、起きるのではないかな」
穏やかに笑う父神に、坊ちゃんはぬるく笑って礼を述べた。
万々年も在る神だ。十年など瞬きひとつ。たいした間ではないのだろうが、こちらが待つには長すぎる。
では焔龍を起こそう、となると、これも問題があった。
この仙は無理に起こすと少々機嫌を損ねるらしく、仙山の雲より下から焔が噴き出るそうなのだ。しばし寝ぼけているからか、それは中々収まらない。
寝起きのお爺ちゃん龍は、とても危険なのである。
首をふりふり坊ちゃんは、出された菓子を頬ばった。
この度の件、どうやら焔龍は当てにできないようである。
それから、草草は仕事しながら伯父らをつかまえ、散歩がてら人に尋ね、ちまたに流れる龍の子孫の話を集めた。
すると、
「皇帝の一族しか、いないんだねぇ」
坊ちゃんの顔が、困った感じに傾いた。
人の世には仙人だとか神の子だとか、そんな話は多くあるのに、龍の血脈はないらしい。皇帝と同じでは畏れ多いからなのか。
山神から子孫は多いと聞いたのに、手がかりはこの一つだけ。
今の王朝は百七十年ほども前、初代皇帝が武力でもって乱れた世を御して立った。
皇帝一族が『龍の子』と呼ばれている所以は、初代皇帝の父にある。
この父によって、一族は幾多の戦争を勝ち抜きながら大きく躍進した。国を平らげる基盤を築いた。
この争いの最中、赤龍が天に現れ炎を吹き、父が率いる軍勢を助けたとの言い伝えがあるのだそうだ。
「狼君、虹蛇。百七十年くらい前に、焔龍が下界に降りたことはあった?」
草草がうかがうと、いっそうの迫力顔と小難しげな美麗な顔が、ぐぐっとこちらを向く。
大切な坊ちゃんからの問いだ。精一杯、思いだそうとしているらしく、ものすごい威圧感である。猫背の僧や従兄だったら逃げだしたに違いない。
そんな顔に囲まれながら、草草がしれっと待つことわずか。
「そういえば、時期ははっきり覚えてませんが、焔龍が下界に降りたことはありましたね。ほら狼君、地が揺れたときのことさ」
美麗な顔に煌びやかな笑みが広がった。
「ああ、あのときか。確か百年か、二百年か、それくらい前だったと思います」
迫力顔の眉間のしわも、ここで取れた。
続いて、
「焔龍の奴、寝過ぎて体が鈍ってたから、ねぐらのどこかにぶつかったんじゃないですかねぇ。結構大きく揺れたから、坊ちゃんが生まれる前で良かったよ」
「そうだな。坊ちゃんも、寝過ぎは体に良くありません」
やはり守役たちの話の向く先は、大事な坊ちゃんであった。
だいぶ大雑把ではあるが、初代皇帝の父の話と時期は重なる。
焔龍の鱗の色は深く煌めく赤だし、当然のごとく焔も吐ける。
人にはあまり興味を持たない仙が助けたのだとしたら、子孫というのもあり得るか。
けれど、こうした話は人の世では、皇帝に箔を付けるための作り話であることも多いか。
小首を傾げた草草は、ついで晴れやかに笑う。
「うん、黎の都へ行ってみよう」
考えても、わからないものは行けばよい。
というより坊ちゃんは、都へ行ってみたかった。
「坊ちゃん、まだ寒いのに、そんな遠くへ行くなんて」
「焔龍の吐息があるから大丈夫だよ」
「焔龍の奴、坊ちゃんにこんな手間のかかることを頼むなんて」
「僕、とっても楽しみだな」
心はすでに都へ馳せる。草草は守役たちの横槍を、ばっさり断ちきり、あっさりいなす。
「念のために、はら巻きと鍛練の木刀も持っていくか。弁当のおかずは……」
「行きは奥様からもらった着物を着せて、髪飾りはこれで……菓子も持っていこうかねぇ」
それでも、やはり、いつものごとく、出かけるまでにたいそう手間取る。
風をまとい、ついでに大袋までまとった大狼と、水の輪をめぐらせながら草草を乗せた大蛇は、春先の薄曇る大空を、黎の都へ駈けぬけた。
*
「坊ちゃん、足元に気をつけてくださいね」
虹蛇にさも恭しげに手をひかれ、羽衣の着物をまとう草草は、ふわりふわりと歩を進める。
「坊ちゃん、疲れたらすぐに帰りましょう」
隙なく辺りをねめ付けていた狼君が、ふり向くと、口から飛びだしたのは聞き慣れた感じの心配事だ。
けれど今、これは当然のことかもしれない。
なぜなら三人がいるのは、端が見えないほどに長く遠く、縦横無尽に伸びる、赤い――屋根の上だったからだ。
草草たちの所在は、黎国の都にあった。
やって来たのは五日前。まずは薬仙堂を訪れた。
この薬仙堂は来仙とは別の一族ではあるが、山神が恵みを与えた人々であり、同じく薬屋を生業にし、やはり坊ちゃんを世話してくれている。
草草は、朝は日課の素振りをこなし、午前中は逗留のお礼がてら仕事を手伝い、昼を過ぎれば喜び勇んで街に繰りだし散歩する。
薬仙堂も坊ちゃんも、どこであってもやる事に変わりがない。
それでもちゃんと、龍の子孫に関する話は集めていた。が、大きな都の街であっても目新しいことは聞けずじまい。
これには草草も、少々首をかしげた。
都は皇帝のお膝元。龍の子とされるのが皇帝だけなのは、わかる。けれど龍にまつわる、皇帝一族を讃える新たな話もないのだ。作り話ならなおのこと、勇壮な物語ができていると思うのだ。となると、赤龍の話は本当なのか。
そこで、一度皇帝を見てみようと城の屋根へと登ったわけだ。
ちなみに、屋根瓦の赤は、初代皇帝の父を助けたという赤龍に由来する。
「坊ちゃん、どれが皇帝なんでしょう?」
「そういえば、皇帝は代替わりしてましたよね。前に水鏡で見た奴は、もうあの世へでも行っただろうから……見てわかりますかねぇ?」
迫力顔と美麗な顔が、うかがうようにふり向いた。
草草はにっこり笑って指を立てる。
「ほら、皇帝は冕冠をかぶってるじゃない。だからすぐにわかるよ」
「べんかん?」
「あれですね、坊ちゃん。顔を隠す、玉や飾りの付いた『すだれ』みたいなやつ」
「ああ、あのすだれか」
「あのすだれさ」
何だか、すだれすだれと繰り返されると、黎国では一番高貴であるそうな皇帝が、ただのすだれを被った変人のように思えてくるから不思議だ。
「そう、そのすだれだよ……」
坊ちゃんはぬるい笑みを浮かべつつ、皇帝がいるであろう城の中心を目指す。
守役たちに両手をつながれ、屋根を何度か大きく飛び越えた。
「霊や妄念が多いねぇ」
瓦の上を音もなく、ふわりふわりと歩きながら、軒下に広がる様子を眺め見る。草草は少しばかり感心した風に言った。
城には多くの者が働いている。多くの貴族が仕えている。
陰謀術中が渦巻いているのだろう。欲や野望がひしめいているのだろう。中心へ行くにつれ、それは強くなるのだろう。暗い澱みや沈む影が段々増えてきているのだ。
霊や妄念の多いほうへと辿れば、やがて皇帝に行き着くのではなかろうか。嫌な案内役である。
「坊ちゃん」
と、ここで、常なら坊ちゃんには相応しくないからさっさと帰ろう、とでものたまうはずの虹蛇が、涼しげな目を細めて一点を見つめた。
狼君の鋭い眼光も、同じ方角を向く。
「あの窓の中に、すだれがいます」
「え? どこ?」
二人の仙の目は、はるか遠くの『すだれ』を捉えたようであったが、残念ながら視力は人並みな草草にはわからない。
虹蛇に背負われ、すだれまで一足跳び。
近づいて、忍びこんでみれば、そこは広い書庫であり、すだれの皇帝は――幽霊であった。
顔を覆う、玉や硝子の連なる美しい飾りが、ゆらりゆらりと揺れている。
皇帝の霊はたたずみ、ただ一方を向いている。先にあるのは棚の本だ。そこを向いた皇帝は、ただただ首をふっている。
そして、なぜだか揺れる玉を一粒、その指がつまんでいた。
「陛下、皇帝陛下」
草草が声をかけるも、霊が応えることはない。何かに心囚われているようだ。
今度は二人の仙を見た。
鋭い眼光はいつもどおりの鋭さであり、形良い眉の高さもいつもどおりの高さである。つまり、霊に悪意や害意はないということだ。
よし、と坊ちゃんは皇帝の霊に近寄ってみた。
警戒の様子はないとはいえ、守役たちも当然のごとく、ぴたりと脇にくっついてくる。
「なんだか、皇帝っぼくない人だねぇ」
揺れるすだれをのぞき込むと、草草の首は傾いた。
合間からうかがい見えた顔は少々ぼんやりしているものの、優しそうな、穏やかそうな、どことなく子供らしい無邪気さも残る、気の良さそうな老人といった感じがする。
陰謀、野望がわだかまる、この城の主らしく思えないのだ。
「この顔は……先代じゃないですね。もっと根暗そうな奴だったよ。昔の皇帝だとしても、同じ一族なのにちっとも似てないねぇ」
「仙の臭いもしない。焔龍の子孫じゃありません」
美麗な顔と迫力顔も、それぞれの理由でもって、ななめに傾く。
ふむ、とうなずき草草は、ともかくこの困った感じの霊を助けてみようと思った。
過去の皇帝であったなら、赤龍の話が聞けるかもしれない。
皇帝ではなかったとしても、老人は、焔龍が人になったらこんな感じかなと思える、お爺ちゃん龍ならぬお爺ちゃん霊なのだ。困ったままでは可哀想である。
この霊は、何かに心囚われている。それはきっと視線の先の本だろうと、これだと思う一冊を抜きだす。
「坊ちゃん、ここに座って読みましょう」
いつの間にか狼君が、隅にあった机の椅子を引いていた。
「さあ坊ちゃん、行きましょう」
虹蛇に優しく背を押され、草草は椅子へと向かい腰掛ける。
本に惹かれ、霊もついて……こなかった。
「これだね」
行き来を繰り返すこと三度、霊が心囚われている本を見つけた。
坊ちゃんを何度も歩かせるなんて、と守役たちが怒る前で良かったと、草草は胸をなで下ろす。
お爺ちゃん霊が恐い守役たちに怒られたなら、やはり可哀想である。
ばらりばらりと白い指が本をたぐっていく。
年号を見れば百年近く前か。西方の国から使節がやって来たときの様子が、詳細に記されていた。この本は外交に関する記録文書のようだ。
流し読みながら進めていくと、草草の目が止まった。
それは、納められた朝貢の品が長たらしく、ずらずらと書かれてあるだけの頁だ。
「瑠璃の王?」
首をかしげた坊ちゃんに、虹蛇の不思議そうな顔が向く。
「どうしました? 瑠璃で作った、王の置物かなんかじゃないんですか? 人は自分の像を贈るのが好きですよねぇ?」
そのまま読めばそうなるか。
『王』と書いてあるのだから、瑠璃の像は、黎国の皇帝ではなく西方の国王だろう。けれど朝貢する、いわば格下の国の王が、自身の像を贈るだろうか。
それに、像なら『像』と書くはずだ。
「だからね、この記述はやっぱり変だと思うんだ」
草草がこう言うと、
「坊ちゃんがそう言うんだから、そうなんですよ! 本のほうが間違ってるんだ」
「そうです。坊ちゃん、そろそろ水を飲みましょう。のどが乾くといけません」
まったく当てにならない力強い答えと、竹筒に入った水が返ってきた。
草草はぬるく笑いつつ、水でのどを潤しつつ、そばに立つ霊を見やった。
皇帝も、つまりは黎国の王だ。その『王』が違うと首をふり、指は『玉』をつまんでいる。
それにこの老人は、まったく皇帝らしくない。
うん、と一つ。うなずいた坊ちゃんは、机にあった筆を取り、ぽんと一点墨を置く。
《おお……直った……》
『瑠璃の王』が『瑠璃の玉』になり、揺らいだ霊の装いは、皇帝から官吏のものへと変わっていた。
《誠にありがとうございました》
老人の霊はそれはもう、たいそう嬉しげにニコニコし、深く深く頭を垂れた。
「良かったですねぇ。それにしても、どうしてこんな事になったんですか?」
お爺ちゃん霊につられたのか。草草の声も弾んで笑顔になる。坊ちゃんが嬉しそうだから、守役たちの機嫌も良い。
霊と対峙しながら横槍も制止も入れられることなく、これだけすんなりと事が進んだのは、過去にも今後もきっとないに違いない。
《このような事になりましたのは……》
穏やかに、おっとりと、老人はしゃべりだす。
彼は、この書を記した文官であったそうだ。
晩年、病を得て床につき、夢かうつつを彷徨っていたときのこと。ふと、若かりし日の、自身の書き間違いに気づいたという。
ただ、だいぶ昔の記憶だ。本当に間違えたのか定かではなかった。
床の中、老人はそれが気になった。
はたして『王』だったのか、『玉』だったのか。頼むから『玉』であってほしい。どうか『王』ではありませぬように――
「それで皇帝の恰好になったのかい? でも言ってくれたほうが、よっぼどわかるよ。坊ちゃんの手間がかかったじゃないか」
「賢い坊ちゃんだから、わかったんだぞ」
虹蛇は面倒臭いといった感じで、眉をつり上げ鼻を鳴らし、狼君は誉め讃えろとでも言いたげに、眼光鋭く見据えている。
そんな二人の仙に晒されながらも老人は、いえいえと、まるで孫でもあやすような優しげな笑顔を揺らした。
最初は文官の、今の姿であったそうだ。
けれど、文書を確かめ直してほしいという霊の言葉は、誰にも届かなかった。声が聞こえず、あるいは霊を見た者はすぐに逃げてしまったからだ。
だから、一目でわかる姿になった。
ほう、と草草は感心し、そして老人のこれまでを想う。
聞いてもらえないとなれば、知恵をしぼり姿を変え、誰かが見てくれるのを、意図に気づいてくれるのを、ひたすらに待った。
文官であった老人は、後世に残る文書をどうしても正したかったのだろう。
どれだけの時をそうしていたのか。その強い想いに、まわりが見えなくなるほど、何も聞こえなくなるほど、心囚われてしまった。
「長い間、大変でしたね」
労るようにほほ笑むと、老人はほんわり笑って首をふる。
《いえいえ。長らく同じ恰好をしておりましたら、何やら、うつらうつらとして参りまして……》
寝ていたらしい。
霊が応えなかったのは、心囚われていたのではなく、草草の声で起きたからか。すだれの奥に見た顔は、ぼんやりとした風だった。あれは寝ぼけていたのか。
坊ちゃんは仙山のある方角を見やり、ゆるりと笑った。
やはりこのお爺ちゃん霊は、お爺ちゃん龍にそっくりである。
「すだれもあるし生きてるから、今度こそ、あれが皇帝ですね!」
赤く染まりはじめた夕陽にも負けないくらい、煌びやかな笑顔が坊ちゃんを向いた。
しかし、朝だろうが夜だろうがいつでも鋭い眼光は、わずかばかりも緩まない。
「仙の臭いはしないぞ」
「……そうだねぇ、我も気配を感じないよ。やっばり龍の子なんて、人の作り話だったんだよ」
虹蛇がふんっと鼻を鳴らすと、狼君も納得顔になってうなずく。
「うん……」
けれど草草は、すだれの変人、いや、皇帝を眺めながら気のない返事をもらした。
それから、目の玉をくるりとまわし考えをめぐらせる。
実は先ほど、文官であった老人から文書を直した礼として、ひとつ、龍の子の逸話を聞いていた。
五千年も前なのか。あるいは六千、七千、八千年も前なのか。千の単位で定かではないほど遠い昔のこと。
この地には、まだ人が少なかった。清らかなるもの、恐ろしげなもの、異形のものらが跋扈し、人はこの地の片隅で、その日その日を暮らしていた。
そんなとき、人と龍の間に子が生まれた。龍の子は、人が安らぎ暮らせるよう異形のものらと話し合い、土地を得て、人の国を作った。
それから人は栄え、数を増やしていったという。
この国は、今の来仙の辺りにあったそうな。
草草は、このおとぎ話は案外信じられると思った。
なぜなら父神の言った「少し前は仙もよく下界へ降りた。焔龍も降りて、人との間に子を成した」と一致するからだ。
「坊ちゃん、もう帰りましょう。半日も屋根の上にいたんだ。疲れてしまいます」
ここで狼君が、眼光は鋭いながらも優しげという、器用な顔を向けてきた。
といっても、その優しさは坊ちゃんにしかわからないが。
「まだ『すだれ』に用があるなら、持っていけばいいですよ。さ、帰りましょう」
虹蛇はまるで、ちょっとその辺の小石でも拾って帰ろう、といった気安い風情で華やかに笑う。
「すだれはいらないからね」
皇帝など持って帰ってしまったら、都の薬仙堂の人々がひっくり返ってしまう。
草草がやんわりたしなめると、
「そうですね。あんな『すだれ』がいても薬屋の役には立たないか。飾りにもならないしねぇ」
「まだ寒いから『すだれ』はいらないだろう」
どの『すだれ』の話をしているのか。
二人の仙の話を聞き流すことにした坊ちゃんは、はて何を考えていたのだったかと首をかしげた。
そうであった。おとぎ話と父神の言葉は一致する、というところだった。
となると、だ。二つをつき合わせれば、焔龍の子が生まれた時期――父神曰く『少し前』は、百年や二百年前の『最近』ではなく、五千年以上も前のはるか昔のこととなる。
そして、龍の子の国は来仙の辺りにあった。
「狼君、虹蛇。もう一年くらい下界にいるけど、今まで来仙や、他のところでも、焔龍の子孫を見つけたことはあった?」
この問いに、迫力顔と美麗な顔は不思議そうに横へと揺れる。
草草は、やはりそうかと得心した。
焔龍の血は、五千年からの時をかけて、来仙から、脈々と継がれて広まっているのだ。ならば一年近くその地にいた草草たちが、子孫の一人にも会っていないのはおかしい。
つまり、歳月を経てその血は薄まり、もう万年も生きている、焔龍ほどの力ある仙にしかわからないということだ。
となると、と草草は、誰に見せるわけでもないが指を一本立てた。
焔龍の子孫が誰なのか、自分たちにはわからない。
では、山神に聞けば子孫は多くわかるだろうが、『焔龍の放屁』を渡す相手はわからない。
結局のところ手がかりは、焔龍が助けたらしい『龍の子』だという皇帝一族だけ、という状況に変わりはないのか。
こめかみを突きながら、どうしようかと思案に暮れる目の端で、何かが落ちた気がした。が、再びもう帰ろうと言われては困る。今は考えるのが先か。
「うん、直に聞いてみよう」
考えても、わからないものは聞けばよい。
このたび聞くのはもちろん、起こすと恐いお爺ちゃん龍ではなく、ただの人である『すだれ』の皇帝だ。
さて、どうやって聞こうと首をひねったときのこと。
草草は、どんよりと、冥界のごとく暗く沈んだ守役たちを見た。
「俺が坊ちゃんの役に立てないなんて……」
「我らは守役失格だよ……」
どうやら二人の仙も、自身の力が及ばないことに思い至ったらしい。
そういえば思案中、何かが落ちた気がした。あれは狼君の肩だったのか、あるいは虹蛇の眉だったのか。
ともかく、知らぬ間になんだか一大事が発生している。
坊ちゃんは薄闇の広がりはじめた屋根の上で、本日一番の大仕事――大切な守役たちを励ます、に全力でもって取りかかることとなった。
*
黎国一と称される、皇帝の愛でる庭園に、うららかな陽光が降りそそぐ。梅の開いた花びらが、淡い空に、そよ、と心地よくそよぐ昼下がりのこと。
そよ、そよそよ、ひょう、ひゅおう、びゅおぉぉう――
突如、城に風が吹き荒れた。
外の者らは顔をそむけて目をつぶり、中の者らはガタガタと震え揺れる窓を向く。
と、風が止む。静かになる。
何事かと空を見上げ、外をのぞいた都人は、みな、息を止めた。
天に、大きな大きな龍がいた。
それはあまりに大きすぎ、全貌をつかむことは適わない。けれど陽を受けて、七色に艶めく白のうねった胴体に、確かに鱗が見えている。ならばあれは白龍だ。
白龍は、一度ゆらりと宙を泳ぎ、ついで、
ごおぉぉう――
突風と巨大な白が迫りくる。
都人らは頭を抱えてうずくまる。
しかし、待ち受けざるを得なかった衝撃は、恐怖は、訪れなかった。
都人らが顔を上げると、花も盛りの梅の園に、三つの――高貴で清らかな、精悍で恐ろしげな、美麗で獰猛な、この世の者とは思われぬ稀人の姿があった。
「皇帝陛下。白龍の使いが、赤龍の子の即位をお祝い申し上げまする」
草草は、さもゆったりと両の腕を持ち上げて体の前で手を合わせ、拱手の礼を取った。
ずいぶんと芝居がかった仕草であったが、それもそのはず、来仙で観た演劇を手本にしている。
ちなみに、今帝は即位してすでに一年経っており、今さらの祝いであるが気にしないことにした。
人とはまた、別の時を生きる神仙だ。山神や焔龍を思えば、むしろ一年で挨拶に来るなんて早いほうである。
贈り物のかごを持ち、付き従う二人の仙は、常より眼光鋭く、形良い眉もつり上がっていた。
こちらは演じているのではなく、普通にこうなっている。坊ちゃんに頭を下げさせた皇帝が気に食わないのか。この場の死者も含めた者どもが嫌なのか。両方かもしれない。
ただ、草草との約束で、口を利かないことになっているから黙して静かであった。
守役たちが口を開けば、坊ちゃんの心配か、坊ちゃん自慢しか出てこないから仕方ない。
しん、と静まり返った庭園には、装飾も美しい卓がいくつも並び、酒と肴がふんだんに用意されている。
梅見の宴を催していたのだろう。都の薬仙堂の主人から聞いていたとおりだ。
今が見ごろの梅に向かい、鎮座まします皇帝が中央に。これを取りまく臣下らは、稀人の来訪を畏れているのか、恐れているのか。ある者は呆け、別の者はうずくまり……
「……」
誰も何も言ってくれない。
狼君が風を吹かせ、大蛇の虹蛇に乗って現れることで、白龍の使いを演出した。ついでに草草は、虹蛇厳選の、幽玄な雰囲気をかもしだすそうな白の着物も羽織っている。
これくらいすれば、ありがたい使者様だ、席を設けるのでさあどうぞ、となるはずだったのだが。
やり過ぎただろうか。さて、どうしよう。
坊ちゃんの首が困り気味に傾けば、鋭い眼光はさらに鋭く、形良い眉もいっそう上がり、増した威容が場に満ちる。
「陛下、白龍様のご使者のみな様のお時間をちょうだいしまして、宴にご出席していただきましてはいかがでしょう」
ここで声を上げたのは、ほど近い席に立ち、深く深く頭を垂れる白髪の文官だった。この場に似合わぬ気負いのない、おっとりとした口調である。
「そっ、そうであるな」
正面から、ひっくり返った声が出た。こちらは『すだれ』の皇帝だ。
すだれのせいで表情は不明であったが、堂々と座していたと見えたのに、もしかすると腰が抜けていただけなのか。
対する文官は、頭を上げると、たいそう嬉しげにニコニコと笑う。
ばちり、坊ちゃんの目がまたたいた。
その顔は、優しそうな、穏やかそうな、どことなく子供らしい無邪気さも残る……先日書庫で会った気の良さそうな老人の霊によく似ている。
稀なる使者の訪れを喜んでいるのか。まるで孫でも出迎えるような笑顔を向けられて、確信した。
このお爺ちゃん文官は、絶対にお爺ちゃん霊の子孫である。
「皇帝陛下。わが主、白龍よりの贈り物でござりまする」
皇帝の横に席が三つ、ゆったり並べて用意されると、再び草草は、芝居がかった拱手とともに贈り物を献上した。
かごの中身は、この時期の下界にはない梨に桃、林檎と蜜柑、そして茘枝である。
これは精霊たちがくれた枝を薬仙堂の裏庭に植えると、またたく間に成った実だ。枝は都のほか、来仙や仙寿村の薬仙堂へも、みなでひとっ飛びして植えてきた。
誕生祝いの大切な贈り物であるから、坊ちゃんはもちろん、すでにおいしく食べている。
果実の芳香に包まれて、場も少しは和んだかといえば、残念ながらそうでもなかった。
いきなり白龍が現れたのだ。人ならざる使者が訪れたのだ。
うち一人は、ひたすらに貴かった。拱手の礼など取られては、人々は地に侍るべきかと畏まってしまう。あとの二人は一礼もなく言葉もない。それがなおさら恐ろしい。
席を三つ用意したにも関わらず、一つの卓へと椅子を持ちより三人並んで仲よく座る。怖いはずのお付きの二人は、肉の骨を外してやり、魚の骨を除いてやり、酌をしてやり、せっせせっせと貴き人の世話を焼く。
都人が畏れ、恐れ、唖然とするのも無理はない。今やこの梅見の宴を楽しんでいるのは、杯を傾けほんわりと笑う白髪の文官だけだろう。
こんな宴にしてしまった張本人の坊ちゃんは、器用にお爺ちゃん文官だけを目でとらえ、楽しそうでよかったと同じようにほんわり笑う。
それから、芝居じみた調子で本日の本題に入った。
「皇帝陛下は、尊き赤龍の血を受け継がれているとか。偉大なる赤龍は、わが主、白龍のお兄上でござりまする。ですが、まだ修行中で半人前の私では、残念ながらお目通りが叶いませぬ」
ここで一度、口をつぐんだ草草は、さも悲しそうに首をふる。
そんな貴人の姿は儚げで、何とか力になりたいと人々に思わせる風情があった。きっと虹蛇厳選の着物も一役買っているに違いない。
坊ちゃんの名調子はもう少しばかり続き、最後はまた拱手とともにこう締めくくった。
「皇帝陛下のご先祖をお助けになられた際、赤龍はどれほど勇壮なご様子でありましたのか。そのお話を、ぜひ詳しくお教え願いたく存じまする」
「そっ、それはっ、その、我が一族にのみ代々伝わる話であり、その……」
しどろもどろといった様子で『すだれ』を震わす皇帝に、貴人の悲しげなまなざしが、さらには鋭い眼光と針のような目が突き刺さる。
「ぐ……ひぃっ」
珍妙な声をもらした皇帝は、観念したのか、つっかえつっかえ話しだした。
それは、こんな内容であった。
初代皇帝の父は、絶体絶命の窮地にあった。
対峙するは大軍勢。先の朝廷のころより続く大貴族であり、民衆の不満はあれど威光はいまだ衰えず。
大量の弓が矢を放ち、高い櫓が大岩を飛ばし、父の軍に降りそそぐ。
背後からは、同盟を組んだはずの群雄の刃が襲いかかっていた。
頭角を現してきた父が邪魔だったのだ。そこそこの地位と領地を約束されて裏切ったのだ。
担ぎだされて軍を率いてきただけなのに、こんな戦いで死にたくない。裏切り者だって許せない。
恐怖か、怒りか、執念か。父は退路を開くために剣を振るう手を止めない。
と、地が震えた。誰もが立っていられないほどに、大軍勢の櫓が崩れるほどに、大きく揺れた。
少しして、晴天であったはずの空が薄暗くなった。
何事かと見上げると、
ぐぉおおおおぅ――
ばふぅ――
腹のうちから揺さぶられるような身の毛もよだつ咆哮が、そして何かが噴出したような大爆音が鳴りひびき、辺りは煉獄の業火に包まれた。
《おぉ、よう寝た。失敬、失敬……》
確かに、父の耳にはこう聞こえたという。
強くつぶっていた目を開くと、恐ろしい大軍勢と腹の立つ裏切り者は、もう消し炭になっていた。
「……」
それは、つまり、寝起きの焔龍の『あくび』と、一緒に出てしまった『おなら』ではなかろうか。
ちょうど口と尻の間にいた父の軍は、運よく助かったというわけか。
あり得る。あのお爺ちゃん龍だ。子孫を助けるために戦場へ駆けつけたというより、よほどしっくりくる。
うなずく坊ちゃんの笑みは、どこまでもぬるい。
それに、皇帝一族がこの話を広めなかったのも納得だ。うかがい知れた父の人となりも含めて、ちっとも恰好よくない。
だが今、正直に話したのは、相手が恐ろしい人ならざる使者だからか。いや、もう隠す必要がないのか。
白龍の使いが現れ、皇帝を赤龍の子孫だと認めたのだ。今、皇帝の血統は確立し、神聖性はこの地の誰よりも高い。赤龍の話を聞いて、偶然助かったのでは、子孫でも何でもないのでは、などと疑う者はもうないだろう。
坊ちゃんはすだれを見た。
この皇帝は気弱そうに思えるが、案外抜け目ないのかもしれない。この城に君臨しているのだ、これぐらいは当然のことか。
「皇帝陛下、これは赤龍よりの贈り物でござりまする」
最後の確認として、草草は『焔龍の放屁』を皇帝に渡してみた。
すると、
「あっ、あつっ、あっつぅ!」
慌てふためく皇帝の手から、放屁の玉が転がり落ちる。ころりころりと転がっていき、所在なげにひっそりと止まる。
それを誰もが見つめたものの、手を出そうとはしない。皇帝が持っていられないほどに熱がったからだろう。得たいの知れぬ玉が恐ろしいのだ。
「陛下、さ、どうぞ」
ここでまた、何の気負いもなく、暢気な感じで玉を拾ったのは白髪の文官だった。頭を垂れて玉を捧げ持つ様子は、まったく熱がる風ではない。
対する皇帝は、玉は欲しくないのだろう、すだれが横に震えている。
坊ちゃんはこれを見て、確信した。
焔龍の子孫は皇帝ではなく、このお爺ちゃん文官である。
「狼君、虹蛇、今日はありがとう」
都の薬仙堂の一室で、草草はにこりとほほ笑んだ。
湯上がりに良いと、ほどよくぬるめた茶を持ってきた狼君は、目を優しげに細める。
坊ちゃんの濡れた髪を梳っていた虹蛇は、目のふちを赤らめ、それでも丁寧に手を動かす。
「坊ちゃん、どうして『焔龍の放屁』を持って帰ってきたんですか?」
「あの爺さんに渡しても、焔龍なら文句は言わないと思いますけどねぇ」
二人の仙が首をかしげて見た先には、薄暗い赤の玉が布の上に置かれてあった。
草草が触れると、指先がほんのりと温かい。おそらく白髪の文官も同じように感じただろう。
神仙にまつわる品は、案外、人には害のあるものが多い。
この玉も、焔龍の血をひく者には温かくとも、それ以外の者は持っていられないほどに熱い、という厄介な代物なのだ。
だから『焔龍の放屁』は、お爺ちゃん文官に渡してもよかった。
「でもね」
草草はふり向こうとして髪を梳かしてもらっていたと思いだし、指だけ一本立てて見せる。
玉は赤龍からの贈り物であり、赤龍は皇帝の先祖とされている。玉は祖から子へ、皇帝の血脈への贈り物だ。
そんな物を臣下が持っていたら、まわりの者はどう思うだろう。帝位簒奪を企んでいるのでは、などと、あらぬ疑いをかける者があるかもしれない。
白髪の文官は、皇帝からほど近い席にいた。つまり身分は高く、こうした陰謀に巻きこまれる可能性も、また高い。
「だからね、あの場では渡さない方がいいと思ったんだ」
こう言うと、坊ちゃんは賢いと、聞き慣れた賞賛が返ってきた。
ちなみに『焔龍の放屁』は、
「すでに充分なお力をお持ちの皇帝陛下には、この玉は必要なかったようでござりまする」
とか何とかのたまい取り戻した。
これを聞いた皇帝の、すだれの口の辺りがぱらりと動いたから、おそらく安堵の息でも吐いたのだろう。
意外と表情豊かな『すだれ』であった。
「じゃあ、玉は今夜にでも、あの爺さんに渡しに行きますか?」
「臭いはわかるので辿れます。ですが夜はやめましょう。風邪をひくといけません」
「ああ、そうだね。せっかく洗った綺麗な髪も汚れるよ。坊ちゃん、明日にしましょう」
湯のみを差しだす迫力顔と、櫛を握った美麗な顔が、そろってたしなめるように伺ってくる。
「それなんだけどねぇ……」
草草は、うなずく代わりに「うぅん」とうなった。
あの白髪の文官は、このたびの件で偶然見つけた焔龍の子孫だ。ということは、焔龍が放屁を渡してほしいと考えていた者ではないだろう。
まず、焔龍は誰に渡せと言わなかった。それはつまり、言わなくともわかる者のはずなのだ。だから草草は、『龍の子』とされる皇帝を第一に考えたが、違った。
それとも、本当に子孫なら誰でも良いのか。それなら玉を持たせて熱がらない者、それこそお爺ちゃん文官に渡せばよいのだが……
どうにも答えが決まらず、すっきりとしない。
「うぅん」
草草は、うなる。
「焔龍の奴、ついでって言っておきながら、こんなに坊ちゃんを悩ませるなんて、とんでもないね!」
「これ以上あちこち飛びまわることになったら、坊ちゃんが疲れてしまう!」
形良い眉がキリキリとつり上がり、鋭い眼光はギラギラと光る。涼しげな目は糸のようにきつく細まり、精悍な眉も寄って眉間に深いしわを刻む。
ぱちり、ぱちり。
ここ最近で一番恐ろしげな顔になった守役たちを、またたきしながら交互に眺める。
それから、草草は晴れやかに笑った。
「坊ちゃん? どうしたんですか?」
そうなのだ、ついでなのだ。
「水応鏡ですか? 俺が持ってきます。坊ちゃんは茶を飲んでください」
そうなのだ、疲れてしまうのだ。
「山神様、聞こえますか? 坊ちゃんが用があるそうなんですが」
誕生日に寒くはないかと吐息をくれ、幼いころは、熱くはないかと氷の霧を用意してくれ、疲れないかと背に乗せてくれた焔龍なのだ。
草草に、手間のかかることを頼むはずがない。
そして来仙には、焔龍の子孫が多くいる。
ならば――
「父上、来仙の薬仙堂の一族は、焔龍の子孫ですか?」
こう問うと、父神の目は横を向く。その先にはきっと母がいるのだろう。
「うん、そうだね」
鏡に映る父神が、穏やかにうなずいた。
「まったく焔龍の奴! 最初から言ってくれれば坊ちゃんは――」
「坊ちゃんをこんなに走りまわらせるなんて――」
止まらない守役たちの文句を聞きながら、湯のみを空けた草草は、くすりと笑った。
答えはすぐ近くにあったのだ。それに都の街や城も見ることができた。わかってすっきりしたのだし、楽しかったから良かったと思う。
そして今さらながら、ふと気づく。
「僕も焔龍の子孫なんだねぇ」
「え?」
「は?」
奇妙な間が空くことわずか。
「違います!」
「坊ちゃんは山神様の子です!」
なぜだろう。二人の仙は、ものすごい勢いで否定した。