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第二話 縁談話のゆくえ


「ヤッ、ヤッ、ヤッ」

 草草そうそうの朝は、素振りから始まる。

 これは人の血もひく坊ちゃんの体に良いだろうと、狼君ろうくんに勧められた、幼いころからの日課だ。もちろん剣など危ないという理由で、握っているのは木刀だ。仙山のものたちは草草に武力を求めていない。


 薬仙堂の面々が初めてこの光景を見たときは、目の玉が落ちそうなほどにまぶたを開け、口もポカンと開けていた。

 清らかで慈愛に満ちた神の子が、木刀とはいえ武器を振りまわし、額に玉の汗を浮かべる姿はひどく似合わないのだ。

 ほのかに光り輝くという精霊などに囲まれて、庭をゆるりと歩きながら草花を愛でる。そんな幽玄な姿なら、容易に思い浮かぶのだが。


 草草の隣では狼君が、こちらは歴戦の勇士もかくやといった凄烈な気を放ち、空気を切り裂きながら木刀を振っている。

 この木刀は仙山の木で作られた特別な物。そうでなければ狼君のひと振りで、下界の木刀など折れてしまうに違いない。


 庭の端にはおけに汲まれた水が置かれ、朝陽を浴びている。

 季節は春。汗を拭うのに、汲んだばかりの水では冷たかろうと虹蛇こうだが用意した物だ。まさに至れり尽くせり。

 その彼は今、部屋で坊ちゃんの本日の着物と髪飾りを選ぶのに、余念がない。


 似合わなすぎる草草と似合いすぎる狼君の、素振りが終わるころ、虹蛇が庭へ出てきた。


「坊ちゃん、背中を拭きますよ」

 すらりとした白い背を、虹蛇が優しい手つきで拭っていく。汗をかいたあとの、ぬるい水が心地よい。


「狼君。背中、出して」

 幼いころ。草草が背中を拭くと言うと、狼君は「坊ちゃんにそんなことはさせられません」と断った。

 しゅん、と悲しげな顔をした小さな坊ちゃんに、うっ、と詰まった狼君。大切な坊ちゃんを悲しませたからだろう。虹蛇は剣呑な目を、守役の相方に向けた。

 以来、狼君は大人しく背中を差しだしている。

 昔より小さく感じるが、それでも未だ大きな狼君の背中を草草が拭く。終わると次は、部屋に戻って着替えだ。


 草草は淡い色合いの着物に、仙山の香木で作った髪留め。

 自身は派手な着物を好む虹蛇だが、坊ちゃんには上品で優しげな物を選ぶ。草草にはよく似合っている。母があまりに華美な着物を作ると、この守役は決然として抗議する。並々ならぬこだわりがあるのだろう。

 狼君は相変わらずの黒尽くめ。同じ着物を何枚も持っている。

 実はこれ、かなり昔のことになるが、草草が似合うと褒めたからだ。鋭い眼光には本当によく似合っている。



 支度を終えた三人が、薬仙堂の家人たちが集まる居間へ行くと、朝食の用意が整っていた。


「草草様。昨夜、街の寄り合いがございまして、その、縁談話が出たのですが」

 伯父が箸を置き、そろりと草草を見た。

 確かに昨夜は伯父の姿がなかったと思いだし、従兄たちの縁談なら、こちらをうかがう必要はないはずだが、と草草は茶碗を置く。


「どなたの縁談ですか?」

「狼君様に、でございます」

「はぁ……」

 草草の口から、間の抜けた声が出た。


 神や仙はあらゆるものから生じる。山神は天の気と仙山の元となった丘から成り、狼君は仙山の気に狼の血がふれ、虹蛇は蛇の抜け殻に仙山の気がこもって生まれた。

 親という存在が不確かなせいか。結婚しようとか、子をもうけようと思うものは少ない。

 草草に親はいるものの、人のように縁談をせっつかれたことはない。これまで考えたことがないからか、いまひとつピンとこなかった。

 狼君を見れば、何を言っているのだという顔をしている。虹蛇も同じだ。


 伯父の話では、来仙のとある武官が、狼君の秀でた武人ぶりに目を留めたらしい。

「もちろん、私どもが決められるはずもなく、神や仙の方々が人と縁を結ぶことは滅多にないとも聞いておりましたので、無理だろうとは申しておきましたが」


「狼君はどう?」

「どうして俺が、人の女を娶らなきゃならないんです?」

「……伯父上、断ってもらってもいいですか?」

 さも不可解といった顔の狼君。よほど奇妙な話に聞こえたらしいと、草草は笑みをもらす。

 そんな狼君を見た伯父は、縁談をまとめるなど無理な話だと、ひどく納得したように深くうなずいていた。



 この日は午前中いっぱい、草草たちは薬仙堂で薬作りを手伝った。

 草草が草をより分け、それが持っている力を高めることで、より良い薬を作れるようになっている。あまり薬効を強めても、人の体には良くない。さじ加減が大切だ。


 午後になると、今日は市が立っているからめぐってみようと、草草たちは店を出た。

 只ならぬ貴人と武人と策士は相変わらず目立つ。

 市には美しい布や煌びやかな宝飾品も並び、女の客も多い。清らかな美をたたえた青年と、眼光は鋭いながらも端整な偉丈夫と、唇に不敵な笑みを点した美麗な男は、なおさら人目を惹いていた。


 それでも三人は、まるで気にせず街を歩く。

 草草は目立つ理由がわかってしまえば、人目自体は気にならない。仙山でも、仙ノ物が敬愛する山神の息子であり、『優しくて賢い坊ちゃん』は注目の的だったからだ。

 二人の仙は人の目など、まったくもって気にしない。


「あそこに坊ちゃんの好きな、ごま団子が売ってます」

「ごま団子なら従姉殿の店で買おうよ」

「坊ちゃんは従姉殿思いで、優しいですねぇ」

 守役たちの話は、坊ちゃん一色である。


「すみません……」

「おや、坊ちゃんに似合いそうな腕輪がありますよ」

「もし……」

「ん? この白く透きとおった腕輪? じゃあ、虹蛇には金が似合うかな? 狼君は銀がいいかな?」

 二人の仙は今、黎国の人に合わせて黒い瞳に黒髪だが、虹蛇の瞳は煌めく金だし、狼君の銀にも輝く毛並みは美しいと思う。

 それらを思い浮かべながら、草草は楽しげな顔で腕輪を見つくろう。

 坊ちゃんが自分たちへの腕輪を選びだしたのを見て、守役たちは目を輝かせた。


「あの……」

「坊ちゃん、我らにも選んでくれるんですか?」

「坊ちゃんが選んでくれた物なら、俺は一生、大切にします」

「狼君殿!」

 突然、名を呼ばれた狼君は、鋭い眼光をギラリと光らせ、声の主を見た。

 虹蛇も一方の眉をつり上げて剣呑な眼差しを、坊ちゃんだけが穏やかな顔をひょいと、そちらへ向ける。


 最初はあまりに小さな声だったため、草草は気づかなかった。

 声の主に敵意や害意があれば、守役たちはすぐにふり向いただろうが、坊ちゃんに危険がないなら彼らは何も気にしない。


「どうかしましたか?」

 声をかけてきたのは年ごろの娘だ。二人の仙に怯えたらしい。草草の優しげな様子に、彼だけが頼りとばかり、すがるような目を向ける。

「私の父が狼君殿に、あの……縁談を申しこんだようですが、その……断っていただきたくて」

「もう伯父には断りましたよ」

 答えを聞いた娘は、ポカンと口を開いた。その頬がみるみるうちに染まっていく。


 その姿を見て、草草は失敗だったかもしれないと眉を下げた。

 ここは娘の顔を立て、寂しげな顔のひとつでも作ってうなずくところだったのだろう。だが、それをするのは狼君じゃなければ、意味がないように思う。

 当の守役を見上げれば、まだ娘に鋭い眼光を向けていた。これは無理だと、草草はぬるい笑みを浮かべる。


 謝罪めいた言葉を置いて、そそくさと立ち去る娘のうしろ姿を見ながら、勉強になったと、次からは気をつけようと、坊ちゃんはわりと真面目に考えていた。



「あの娘さんが、狼君の縁談相手だったんだね。断ってほしいということは、他に好きな人でもいるのかな?」

「そうかもしれませんね」

 二人の仙の目は、もう露店の品に向いている。

 やはり娘にはまるで興味がないようだと、少し気になることもあったのだが、わざわざ話す必要もないかと、草草も目を戻した。


 虹蛇が坊ちゃんの腕輪はこれがいいと選べば、狼君はこちらのほうが似合うと別の品を取り上げる。

 虹蛇がこだわるのはわかるが、自身を飾り立てようとはしない狼君も、坊ちゃんの物となると口を出す。

 気がつけば、草草の腕にはじゃらじゃらと、いくえにも腕輪がはめられていた。





 翌日のこと。草草たちが薬仙堂で薬を作っていると、がっちりとした体つきの、無骨そうな真面目そうな役人がやって来た。


「……あなた方が薬仙堂の客人か?」

 役人は只ならぬ貴人と武人と策士に戸惑ったらしい。パチパチと目をしばたいているせいか、存在感のある太い眉が上下に動く。しばし顔をななめに傾け、ようやく声を出した。

 草草がそうだと答えると、役人は首をひねりながら話しだす。


「昨夜、狼君殿と縁談話のある娘の部屋に、黒装束の男が忍びこんだ。その男が狼君殿ではないかと言う者がいるんだが」

 役人は草草から狼君に目を移し、今度は虹蛇へ、また草草に視線を戻すと、あいまいに首をかしげた。


 はたから見れば、貴人が従者の無体な行いを許すはずもなく、武人なら正々堂々と門を叩きそうだし、もし策士だったなら娘をかき口説き、もっとうまく事を運びそうだ、となる。

 役人は、狼君が犯人だとは思えないのだろう。


 実のところ、草草は必要があれば、どこぞへ押し入ってほしい、くらいは守役たちに頼む。二人の仙は、正面から門を叩くでもなく、娘を口説くでもなく、手っ取り早いからと犬や小蛇に姿を変えて忍びこむ。

 こうした内面を知れば役人は、犯人は狼君だと決めつけていたに違いない。印象というものは、まことに大切である。


「昨夜なら、狼君は僕や虹蛇と一緒にいましたよ。薬仙堂のみなさんにも、聞いてみてください」

 草草がみなを見まわすと、眉間にしわを寄せた狼君と、片方の眉をつり上げた虹蛇がうなずいた。妙な疑いをかけられ、訳がわからないながらも不愉快なのだろう。

 伯父は、その縁談はこちらから断りを入れたのだと、昨夜は誰も家から出ていないと、丁寧ながら強く言う。

 薬仙堂の面々も、とんだ濡れ衣だと言わんばかりに不服そうな顔をしている。


 役人は納得したのか、「うむ」と声をもらした。草草は嘘を吐くように見えないし、伯父は来仙の名士だから人望があるのだ。



「ところで、忍びこんだ男が狼君だと、誰が言ったんですか?」

「その娘の侍女だ」

 役人の話はこうだ。


 昨夜、侍女は娘につき従い、手燭てしょくを持って部屋へ入った。すると暗がりの中、顔をすっぽりと隠した、黒装束の男がいたという。

 侍女は昼間、姿の見えなくなった娘を探すため、街へ出ていた。そこで、娘と草草が話しているのを見た。隣に立っていたのは黒尽くめの狼君。侍女はとっさに黒装束と狼君を、結びつけたというわけだ。


 侍女がその男だと言えば、娘の父はそれは誰だと娘に問うた。娘はかなり渋っていたが、ようやく口を開いた。

 それは草草たちであると、しかし忍びこんだ男は狼君ではないと言い張った。

 父は一人で縁談相手を見に行くなど、嫁入り前の娘のすることではないと叱ったらしい。もしや娘が、狼君を気に入って手引きしたのかと、ずいぶん問い詰めもしたそうだ。


「うぅん……その話は少し変ですね」

 草草の顔が、ななめにかしいだ。

 暗がりで見た黒装束と狼君が別人だと、娘が言い張るのがおかしい。事実はどうあれ、黒装束を見て、黒尽くめの狼君を思い浮かべた侍女のほうが、よほど自然だと思うのだ。

 これを聞いた役人は、なるほどと同意したが、狼君の精悍せいかんな眉は情けなく下がる。


「坊ちゃん、俺は忍びこんでません」

「もちろん僕は知ってるし、狼君のこと、信じてるよ。侍女には黒装束と黒尽くめ、それが同じように見えただけだよ」

 草草は自分の鼻をちょんちょんと指し、小さく首をふった。

 狼君なら臭いでわかるから、そんな間違いはしない。虹蛇も人より鼻が利くし、気配の違いにも敏感だ。

 こうしたことは人にはわからない、だから間違えたのだと、伝えたのだ。


「ああ、そうでしたね」

 守役たちが納得した風な顔になると、草草はにこりとほほ笑んだ。

 横で役人が太い眉を下げ、さも立派な青年を捕まえて、未だ坊ちゃんと呼ぶのはどうなのかと、密かに首をひねっていることには誰も気づかなかった。


「もうひとつ、気になることがあります」

 草草は指を一本立てる。

 娘は自ら縁談を断ってほしいと言ったのに、それを父に伝えていないことだ。


「娘はそんなことを、ひと言も言わなかったぞ?」

「ええ。手引きしたのかと、お父上に厳しく問い詰められても言わなかったんですよね? 縁談を断ってほしいと言われたら、お役人さんならどう思いますか?」

「それはほかに好きな男が、いや、だが……」

 これなら娘が黒装束は狼君ではないと、断じた説明がつく。正体を知っていたからだ。忍びこんだ黒装束は、その娘の好きな男なのだ。

 草草がこう告げると、役人は「うぅむ」とうなった。


 娘の父は武官だと聞いている。おそらくこの、無骨そうな真面目そうな役人の上役なのだろう。その娘に、密かに会う男がいるとは報告しづらいのだ。

 これが人のしがらみというものかと、坊ちゃんは内心、実にのん気にうなずいた。



「あんた、坊ちゃんの言うことが信じられないのかい?」

 虹蛇の剣呑な目が、ついでに狼君の鋭い眼光も向くと、役人は太い眉を寄せて、うっ、とたじろいだ。

 これをなだめた草草は、こう提案する。


「娘さんが狼君に縁談を断ってほしいと頼んだことは、市に来ていた人たちを当たれば、聞いていた人がいると思います」

 役人も、一方の話だけで判断してはまずいだろう。娘が縁談を拒んでいたという証言があれば、報告もしやすいだろう。

 それに、とつけ加える。


「お役人さんは、娘さんが縁談を断ってほしいと頼んでいた、とだけ言えばいいと思いますよ。それだけ聞けば、お父上にもわかるんじゃないでしょうか?」

 娘に男がいるというのは推測だ。誰が聞いてもそうだろうとは思っても、父は他人から言われれば気分が悪いはず。娘の言葉なら、事実だから差し支えない。

「お、おお……そうか、そうだな」

 役人の寄っていた太い眉は元に戻り、ホッとしたような顔になって、薬仙堂を出ていった。


「あの役人、大丈夫ですかねぇ?」

「坊ちゃんがいなきゃ、何も解決できなかったんじゃないですか?」

 虹蛇が片方の眉をつり上げて、ふんっと鼻を鳴らす。狼君は眉間にくっきりしわを寄せ、仏頂面になっている。二人の仙はまるで容赦がない。


「それは大丈夫だと思うよ」

 草草は声をひそめ、「あの娘さんはお腹に子がいたから、月が経てば嫌でも解決するよ」とほほ笑んだ。

 彼は仙ノ物のように臭いや気配はわからずとも、体のことならひと目で見抜く。

 守役たちがさすが坊ちゃんだと、褒めちぎったのは言うまでもない。





 いく日か経ったころのこと。


「客人方、先日は迷惑をかけて申し訳なかった」

 役人が無骨そうな真面目そうな顔を引っさげて、薬仙堂を訪れた。

「無事、解決しましたか?」

 草草がにこりとほほ笑むと、役人は「うぅむ」とうなった。解決していないらしい。

 草草はなぜだろうと首をかしげ、二人の仙はさめた目を役人に送る。それならここで油を売っていないで、さっさと解決しろ、とでも言いたいのだろう。


「娘は相手がいることは認めたんだが……その相手が仙人だと言うんだ。それが本当なら慶事だろうが、嘘なら相手を見つけ、関わりを持たないように取り計らう必要がある」

 役人の太い眉が盛大に下がった。

 聞けばこうしたときに役立つはずの、娘の母はすでに亡くなっているという。この役人は、上役の家の面倒を押しつけられたようだ。


 下界には神の子だの仙人の子だのと、言われた者はわりといる。

 その多くはただの人であり、妖物と人の子であったりもする。神や仙と人の子は少なく、また、坊ちゃんのように神界で育つことのほうが多い。

 といっても、過去にさかのぼれば下界にもいなかったわけではない。


 草草が「娘さんから何か感じた?」とささやくと、守役たちは首をふった。

 娘には子がいる。もし、子の父が人でないなら、二人の仙は子がいるとはわからなくとも、その臭いや気配を感じるはず。それがないのなら、娘の相手は人ということだ。


「その娘さん、よほど相手を言いたくないんですねぇ」

「……やはり草草殿もそう思うか」

 役人は太い眉を下げ、大きなため息をついた。

 草草には確かな根拠があるのだが、神や仙にしかわからないことを言うわけにもいかない。

 さて、どうしようかと首をひねると、狼君の不思議そうな顔がこちらを向いた。


「なんでその娘は、相手を言いたくないんです?」

「そんなもの、身分違いとか、相手に妻がいるとか。そんなところさ」

「妾というものがあるだろう。それでいいんじゃないか?」

 二人の仙の話を聞いていた役人が、それは無理だと首をふる。


「あの家は先代のご当主が、先帝から北伐将軍の地位を賜った名家だ。跡取り娘ではないが、北伐将軍の孫娘を妾にできる男はこの来仙にはいない」

「ん? ということは大抵の相手なら、娘さんが望めば結婚できるんじゃないですか?」

 ちょい、と草草が首をかしげた。


 狼君に縁談を持ってきたのだから、娘の父は身分にはこだわらないのだろう。狼君は薬仙堂の親戚である、草草の従者ということになっている。商家に仕える者でもいいわけだ。

 身分より武人であることを重視していたとしても、跡取りでもないなら、娘に子がいると知れば許すのではないか。


「なっ!? 子っ……なんっ」

 子がいると聞いた役人は、太い眉をびくびくと動かし、だいぶ盛大に取り乱した。

 いずれは知れることだし、薬師も医者の端くれだ。これくらいなら言っても構わないだろう。

 坊ちゃんは役人が落ち着くのを、のほほんと待っていた。



「となると、やはり相手に妻がいるんじゃないですか?」

 茶の一杯もふるまわれ、ようやく落ち着いたらしい役人に、草草が問うた。

「うぅむ……」

「あんた、うなってばかりだね。坊ちゃんが的を絞ってくれてるのに、相手の見当もつかないのかい?」

 虹蛇がずけずけと物を言う。狼君の眼光もギラリと光っている。

 役人は当初、迷惑をかけたと謝りにきたのであって、いろいろ聞いたのはこちらだと、草草はやんわりいさめた。


「僕が的を絞れたのは、狼君と虹蛇が身分違いとか、妾とか言ってくれたおかげだし、お役人さんの話を聞くのもおもしろいよ」

 草草がにっこり笑う。すると二人の仙は、たちまち機嫌が良くなった。

 坊ちゃんに褒められたのだから当然だ。さらに坊ちゃんが楽しければ、守役たちはそれでいい。

 役人はというと、太い眉をおおいに下げ、肩を落としていた。当人にとっては厄介な話を、「おもしろい」で片づけられたのだから仕方ない。

 役人は気を取りなおすように、ひとつ咳払いをする。


「娘の周りの者から聞いて、関わりのありそうな男に目はつけている。妻のいる者となるとだな……」

 役人は商家の若主人を何人か挙げていく。そして最後に、違うだろうがとつけ加えつつ、娘の姉婿を挙げた。


「ふぅん。じゃあ、その姉婿でしょうね」

 さらりと放たれた草草の言葉に、役人の目が、お盆ほども大きいんじゃないかというほど、ぐわっと見開かれた。

 そんな役人にはお構いなしに草草は続ける。


 娘の部屋へ忍ぶにしても、黒装束は念が入りすぎている。妻の実家、妻の妹と密会するのであれば、細心の注意を払うだろう。

 商売人が黒装束に身をつつみ、北伐将軍を輩出した武人宅に忍び入るというのも、ピンとこない。

 娘の父は狼君に縁談を持ってきたのだから、きっと姉婿も武人なのだろう。この婿のほうが、しっくりくる。


 聞き終えた役人は言語不明瞭なうなりをもらし、太い眉を、一本につながりそうなほど思いっきり寄せ、胃の辺りを手で押さえてもいる。


 姉婿も武人なら、この役人の上役かもしれない。

 もしかすると当事者である姉婿が、娘の父から相手を探せと命じられたのではないか。困った姉婿は、この真面目そうでありながら、どこか要領の悪そうな役人なら自分には辿り着けないだろうと、役目を押しつけたのではないか。

 ここまでを考えた草草は、これはすべて推測だと、ふるりと頭をふった。そして今度は、昨夜読んだばかりの娯楽本を思いだす。


 設定は少々違うが、すべてを知ってしまった役人が、姉婿から「いずれ必ず出世させてやるから、お前が娘の相手ということにしてくれ!」と請われる場面が思い浮かぶ。

 ふふ、と坊ちゃんは笑みをこぼした。従姉のときとは違い、まるで他人事である。


「下手に突き詰めると、お役人さんも面倒なことになりそうですね。こうしたらどうでしょう。娘さんを見た薬師が、お腹に子がいるのではないかと言っていたと、お父上に報告するんです」

 役人は『相手を見つけたら今後、娘とは関わりを断たせる』という風なことを言っていた。

 これは娘の父の指示だろう。ならば父は、子がいることは知らないはず。子がいるとわかれば、まずは結婚を考えるものである。


「そうなればお父上は、何としても娘さんから相手を聞きだそうとしますよね? 娘さんも子のことを知られれば、観念すると思うんです。これならお役人さんの立場も悪くならないと思いますよ」

「お、おお……そうか、そうだな!」

 草草がにこりと笑って締めくくる。

 役人は前回以上に、心の底から安堵したような顔になって、薬仙堂を出ていった。


「あのお役人さん、大丈夫かな?」

 このたび、役人を心配したのは坊ちゃんであった。





 後日。役人は無骨そうな真面目そうな顔に、くったくのない笑みを浮かべながら薬仙堂にやって来た。


「草草殿のおかげで何とか納まった」

 役人は家の内情までは知らないそうだが、子がいることを父に知られた娘は、観念したようだ。

 娘は寺に入り、姉婿は小さな街への配置換えということで落ち着いた。


 やはり腹の子の父は、姉婿だったのだろう。娘は俗世から離れて暮らし、生まれてくる子は寺で育てられることになる。

 無理して娘をどこかへ嫁がせるよりも、そのほうが腹の子には幸せかもしれないと、草草は思った。


「これはその礼だ」

 役人が酒瓶を差しだしながら、「来仙にはうまい薬酒があったんだが、最近その味が落ちて……」とここまでを言うと、ハッと口をつぐみ、気まずそうに太い眉を下げる。

「あの酒屋は薬仙堂の親戚筋だったな。これは申し訳ない」

 従姉が嫁いでいた、今は弟夫婦が営んでいる酒屋のことだ。草草は構わないと首をふった。


 弟夫婦の所業を知った伯父は、仙山の薬草に毒を混ぜるとは何事かと、日ごろの穏やかな様子からは思いも寄らないほどに激昂した。

 これには坊ちゃんも、きょとんとした。


 それでもすぐに取引を止めては、表向きは自身の勝手で家を出ることにした、従姉夫婦に差し障りがあるかもしれない。

 そう考えた伯父は、仙山の薬草ではなく、ほかから仕入れた物を卸すことにしたのだ。仙山の薬草に比べれば、味も薬効も落ちる。味を求められる薬酒にはてき面だ。

 伯父は同じ物のはずだがと素知らぬ顔をし、それなりに値引きもし、うまく商売をしているらしい。

 以来、薬酒の味が落ち、評判も売り上げも落ちてきたというわけだ。自業自得である。


「いや、この酒も来仙では、なかなか評判がいいのだ」

 役人は慌てた様子で酒を置き、それでもしっかりと一礼して店を去った。

 正直で不器用な男なのだろう。こういう人が出世下手というのだったか。坊ちゃんはくすりと笑みをこぼす。


「ちょっと話しただけなのに、お酒をもらっちゃったね」

「坊ちゃんが解決したんだから、これくらい当たり前ですよ」

「そうです。ですが坊ちゃん、飲みすぎはいけません」

 草草がにっこり笑えば、虹蛇は誇らしげにほほ笑み、狼君はうなずきながらも坊ちゃんを心配する。

 話が聞こえていただろう伯父たちは、手を動かしながらもやはり誇らしそうだ。


 薬仙堂はいつもどおり、客が訪れ、みなが働く。忙しいながらも穏やかな時が流れていた。



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