閑話 仙女の反省録
仙山の中腹にかかる晴れることのない雲は、頂から見れば、淡く虹色に煌めいている。
その、虹の雲海を突き抜けて、勢いよく頂上へと向かう姿が三つあった。
一つは、まとった風に身を浮かせ宙を駆ける銀狼だ。もう一つは、水のしぶきをめぐらせて、泳ぐように天を舞う白蛇。その背には、風除けだろう連なる水の輪に守られながら、しっかり掴まる草草がいた。
「……ずるい」
頂の、山神の住まう神殿の窓から美しい顔をのぞかせて、ぽつり、織女蜘蛛がつぶやいた。
こちらへ向かってやって来る三つの姿のまわりには、たくさんの精霊が群がっている。地に落ちた三つの影を追うように、獣が、虫が、駆け跳ねる。
みな、下界に下りた坊ちゃんが久しぶりに帰ってきたものだから、喜んでいるのだ。
「……ずるい」
ぼそり。もう一度つぶやいた織女蜘蛛は、胸元にサッと右手を構えた。それから若干据わった目で、ぐるりと部屋をねめつける。
「はっ、はっ、はっ!」
拗ねているのか、ヤケ気味なのか。いつもより気合の入ったかけ声とともに、素早く動く右手から、繰りだされたのは艶めく蜘蛛の糸だった。それは部屋の隅々まで器用に丁寧にめぐらされ、埃を浚い戻っていく。
彼女は今、掃除中。今日は掃除当番だったために、坊ちゃんを出迎えに行けなかった。それでご機嫌ななめなのだ。
ちらり。ふたたび窓の外を眺めれば、大蛇にまたがる草草のそばを、大きな蛾が飛んでいる。今日は掃除当番でも、奥様付きでもなかった幸運な仙、后蛾だ。
この姉分の仙は、坊ちゃんが来仙を出て仙寿村へ向かった日も、役目を割り振られていなかった。そう思えば――
「……はっ、はっ、はっ、はあっ!」
織女蜘蛛の糸を操る手に、よりいっそうの力が入った。
それでも草神の、瑞々しい若草のような気配が近づいてくるのを感じると、彼女の頬もほころんでいく。
久々に帰ってきたのだ、しばらく仙山に居るかもしれない。ならば坊ちゃんの部屋をより綺麗に、心地よく整えなくては。こう思い立つと、二本より多くなった足がいそいそと動き始める。
せめて坊ちゃんの声だけでも聞きたいものだ。けれど盗み聞きなど行儀が悪い。こうも思いはしたものの、糸が一本するすると山神の間へ伸びていく。
『父上、母上、お久しぶりです』
『草草、元気だったかい? 下界は楽しいかな?』
『あれから風邪はひいてない? おいしい物は食べてる? 下界でいじめられたりしていない?』
すると糸を通して草草の、山神の、母の声が聞こえてきた。数日に一度は水鏡で話しているはずなのに、愛息子を気づかう言葉は止まらない。
これに答える声は春風のように、穏やかでいて優しげだ。草草の部屋で、糸を操る織女蜘蛛の手もゆったりと動く。彼女も母に仕えているから、坊ちゃんの声を聞くのは、ちっとも久しぶりじゃないのだが。
『父上、今日は仙寿村にいらっしゃる道祖神様のことで相談がありまして。この神の姿が人に見えてしまって――』
『ああ、それはまず、神が心を落ち着けて――』
しばし草草と山神は話し合い、終えると、母の残念そうなため息が糸を通して伝わってきた。
『それじゃあすぐ、仙寿村へ戻ってしまうの?』
『すみません、母上。道祖神様が困ってらっしゃるようなので』
「そんな……」
これを聞き、がくり、織女蜘蛛の肩が下がった。ついでに、がたり、右手の糸は広く大きな寝台をたやすく引きずる。
なぜ、今日に限って掃除当番だったのか。せめて奥様付きであったなら、今ごろ坊ちゃんと顔を合わせていたはずなのに。その役目にある銀蚕姫をうらやましく思い、よよ、と顔を右手で覆えば寝台もがたがたと近づいてくる。
なぜ、自分だけが坊ちゃんに会えないのか。美しい顔を上げ、どこぞをぼうっと眺めていると。
「もしかしたら、私たちが坊ちゃんの守役だったかもしれないのに……」
織女蜘蛛の思いは遠く、いや、仙にしてみればそれほどでもない、十八年前に遡っていた。
*
十八年前のこの年、仙山の草花はいっそう生き生きと芽吹き、風は優しく柔らかくそよぎ、虹の雲海はひときわ美しく煌めいていた。
待望の、山神の子が産まれて三月ほど経ったか。
頂にある神殿からは、温かく、柔らかな気配が漂ってくる。大事に大切に育んでやりたくなる、新芽のような匂いがする。いずれは仙山のものを、優しく包んでくれる草原のごとくなるのであろう、そんな予感も覚える気配だ。
これまでは自由気ままに野山を駆けまわっていた獣や虫や精霊が、神殿を、赤子を、日々慕うように守るように取り囲んでいた。
「坊ちゃん、おはようございます」
銀蚕姫が編んだふっかりとした繭に包まれて、すやすや眠る草草を、織女蜘蛛はそっとうかがった。無垢な寝顔を眺めていると、心が温かくなってくる。
「坊ちゃん、まだ寝てるわね」
后蛾も隣へやって来て、緑みを帯びた、寝ぐせのついた柔らかな髪をそっとそっとなでてやる。
女二人の仙は、目配せし合い笑い合う、と。
《坊ちゃんの守役は我らだよ。あんたたちの力じゃ、いざというとき坊ちゃんを守り切れないかもしれないからねぇ》
《坊ちゃんから離れろ》
突然の声に、織女蜘蛛の肩がびくりと跳ねた。
恐る恐るふり返ってみれば、そこにいたのは予想どおり、獰猛な大蛇と猛々しい大狼だ。
彼らはよわい千年を越える、強き蛇と狼である。一方、彼女は蜘蛛であり、たかだか三百年ほど生きただけのひよっ子だ。だから二人が怖ろしい。慌てて后蛾に縋りつく。
「坊ちゃんに近づくなら人の姿になりなさい。牙や爪で傷つけないようにと、奥様に言われているでしょう」
しかし后蛾は怯まない。こちらも蛾ではあるのだが更なる長い時を生き、幼いころの彼らを知る、なかなか力もある仙だからだ。
《ふんっ》
盛大な鼻の音とともに、白蛇は美麗な男に、銀狼は精悍な男に、それぞれ姿をすうと変えた。
十八年後の現在ならば、織女蜘蛛も、若い虫も、幼い精霊も、虹蛇と狼君を怖れはしない。
みなと分け隔てなく仲良くなった、草草のおかげもあるだろう。彼らの過保護っぷりも存分に見てきたからかもしれない。
だが、当時の織女蜘蛛はこの大蛇と大狼を、ただただ怖いと思っていた。
彼女は后蛾に隠れておどおどしつつ、二人の男をジッと見た。
確かに彼らは強いと思うが、なぜ、山神様はこんな仙を守役に選んだのだろう。
一方は、いつも斜に構えた風に見え、口をついて出る言葉も嫌味っぽいこと、この上ない。無垢な坊ちゃんがひねくれ者になったらどうするのか。
もう一方は眼光鋭い無表情、あるいは仏頂面しか見たことがない。奥様は『赤子には笑いかけてやるものだ』と言っていたのに、ものすごく不向きだと思えた。
いや、まだ坊ちゃんの守役は彼らだと、決定したわけではないのだ。相応しくないとなれば覆ることもあるのだ。
織女蜘蛛は怖い気持ちをぐっとのみ、二人の男をジィッと見やる。
「おや、坊ちゃん、起きましたか」
赤子の草草を見た途端、虹蛇が猫なで声を出した。
十八年後の坊ちゃんに言わせれば、『僕限定だけど、気づかいのまじった優しい虹蛇』なのだが、今の織女蜘蛛にはひたすら不気味な変わりようだ。
頬を柔らかく突つかれると、赤子はほわりと笑う。
「坊ちゃんは機嫌が良さそうだな」
今度は狼君が、草草をのぞき見た。その顔は眼光鋭い無表情だ。
こちらも十八年後の坊ちゃんなら『やっぱり僕限定だけど、目の優しくなった狼君』と見分けるはずだが、今の織女蜘蛛にはわからない。
指を差しだされると、赤子は柔らかく握り返す。その指が引かれると、小さな手は頼りなげに離れる。
そして狼君の眼光が、ギラリ、光った。
「虹蛇、大変だ! 坊ちゃんの手にまったく力がない。これくらいの大きさなら、もうぶら下がってもいい頃じゃないか?」
「そんなもの、人なんだからまだまだ非力でいいのさ。きっと三歳くらいまでは寝てばかりだよ」
「……」
これを聞き、織女蜘蛛はダメだ、と思った。
坊ちゃんは子猿ではないのだ。たった三月でぶら下がれるはずはないし、逆に三歳ならば元気に駆けまわっているだろう。こんな二人に、大事な坊ちゃんを任せてはおけない。
勇気を奮いきりりと顔を上げてみせる、と、それより早く姉分の后蛾が口火を切った。
「あなた方、まったく人を知らないのね。そんなことでは守役を任せることができないわ」
「我らを守役にっていうのは山神様が決めたことだよ。それなのに文句をつける気かい?」
「私たちも守役の候補だったのよ。けれど男児には男を、女児には女を、人にはそういった慣わしがあるから、あなた方にしただけよ」
「なんだって!? 我らのほうが強いじゃないか」
「強いだけじゃ守役は務まらないわね!」
胸を張った后蛾と、片方の眉をきりきりとつり上げた虹蛇の、舌戦が続く。
狼君は眼光もいっそう鋭くこちらを見やり、織女蜘蛛は逸らしたい気持ちをぐっと堪え、まぶたをこじ開け精いっぱい見返す。
「あ、あ」
「坊ちゃん!?」
すると、あどけない赤子の声が聞こえてきて、みなで慌てて覗きこんだ。
見てみれば坊ちゃんに泣く気配はない。しかしもぞもぞ首をふり、両手を突きだし動かして、つぶらな瞳でこちらを眺める。その様子は『ケンカはダメ』と言われているように思えた。
よわい三百年、千年、そして数千年のいい歳をした仙たちは、みな、シンと黙りこむ。
「……坊ちゃんの守役だ。坊ちゃんに選んでもらうべきじゃないか?」
ぼそり、狼君がつぶやいた。こくり、三人はうなずく。
のちのち考えてみれば、生まれて三月の坊ちゃんに選べるはずもないのだが、このときの織女蜘蛛は頭が回っていなかったのだろう。
「坊ちゃん、守役は我ら、虹蛇と狼君がいいですよね?」
「坊ちゃん、守役は私たち、后蛾と織女蜘蛛と銀蚕姫でございますよね?」
「坊ちゃん、俺はここですよ」
「わ、私もここにおりますよ」
四本の指が、赤子に向かってそっと伸びる。小さな手は、それらをゆらゆら追いかける。小さな口は弧を描き、にぱっと可愛げに開く。
「だぁ」
にぎっ。
「ほら今の、坊ちゃんが我を呼んだよ。虹蛇の『だ』だよ!」
「坊ちゃんが握ってるのも俺の指だ!」
「守役は我らだね!」
「俺たちだな!」
十割方『だぁ』と虹蛇は無関係だろう。おそらく狼君の指も、一番近くにあっただけだろう。
が、こうして坊ちゃんの守役は、虹蛇と狼君に決定した。
*
「あれは大失敗だったわ……」
十八年も前のことを今さら悔いても遅いのだが、織女蜘蛛は頬に右手を添えながら、ゆるゆる首をふった。まだ糸に絡まったままの寝台も、結構がたがた揺れている。
はぁ、とため息をつき、せめて坊ちゃんの声を聞きながら掃除をしようと耳をすます。
『そう、初めての村は楽しかったのね』
『はい、母上。それで仙寿織が素敵だったので、織女蜘蛛に似たような布を織ってもらいたいと思ってるんです。このあと頼んでいいですか?』
『ええ、もちろんよ』
「え? ええ? ええええ? 坊ちゃんが私に!?」
これを聞いた織女蜘蛛の、しょぼくれていた背がしゃきりと伸びた。
――実は、彼女が十八年前に思いをめぐらしている間、山神の間ではこんなやり取りがあった。
「坊ちゃん、あれ、織女蜘蛛の糸ですよ」
虹蛇の指した先をふり向くと、草草の目に、ふわりと浮かぶ一本の糸が見えた。
「あ、本当だ。織女蜘蛛がいないのは掃除当番だからかな?」
首をひねると、母のそばに控えた銀蚕姫がそのとおりだと教えてくれ、さすが坊ちゃんだとも褒めたたえる。
「せっかく坊ちゃんが帰ってきたんだ。少しくらい掃除を怠けたって、奥様は怒らないのにねぇ。相変わらず真面目っていうか、融通の利かない娘だよ」
「そうだな」
ふふんと笑った虹蛇の、かつては嫌味っぽかった笑みが、今は親しみがこもっている。うなずいた狼君も無表情のようでいて、彼女の真面目さを褒めている。
今の織女蜘蛛なら、きっとそうとわかるだろう。
ここで草草は、くすり、笑みをこぼした。この場に来ることのできなかった彼女の様子が、手に取るように察せられたのだ。
今日、掃除当番であった不運を嘆き、ぼうっとし、ついでに過去のあれこれを思いだし反省しているに違いない。
坊ちゃんの守役は狼君と虹蛇だが、幼いころは常に母とともに過ごした。織女蜘蛛も一緒だった。いわば乳母のようなものだから、これくらいはお見通しなのだ。
逆に言えば、彼女はしょっちゅう昔をふり返り反省を繰り返している、となる。
「じゃあ……」
ぬるい笑みを浮かべて小首をかしげた草草の、ちょっとした心づかいにより、先ほどの『織女蜘蛛に頼みたい』が出てきたというわけだ。
「坊ちゃん、すぐに参ります!」
織女蜘蛛はといえば、さらに増えた足の数で山神の間へ向かおうと、気合を入れて駆けだした。が……
――がたんっ、がつんっ!
「あっ!? なに? 何なの?」
大きな音とともに、右手をぐっと引かれた。何だろうとふり向けば、糸に絡まる寝台が部屋の入口に引っかかっている。
「あっ、あら? ちょっと、どうしましょう!?」
后蛾も銀蚕姫も布を織れるのに、坊ちゃんは自分を指名してくれたのだ。早くそばへ向かいたい。
けれど焦れば焦るほど、糸は複雑に絡まっていく。
『織女蜘蛛にも聞こえたと思うんだけど、忙しいのかな?』
『坊ちゃんの頼みなんだから、来ないはずはないんですけどねぇ。それとも盗み聞きがバレて、あの娘、申し訳ないと思ってるんじゃないですか?』
『織女蜘蛛、掃除はあとでいいし、盗み聞きだって誰も怒らないよ。おいで』
『坊ちゃんが待ってるぞ』
「はいっ、今すぐに! あらっ、ちょっと!」
草草の優しげな声が、虹蛇のからかう風な声が、狼君の急かす感じの声が、織女蜘蛛を追い詰める。糸は自身の体も巻きこんで、もう訳がわからない。
『あの娘、遅いねぇ』
『まだ掃除してるのか?』
『……何かあったのかな? 行ってみようか』
「いっ、いえっ、坊ちゃんに足を運んでいただくなんて、そんな!」
足を運んでもらったどころか絡まる糸から救出され、彼女がよりいっそうの大反省をするのは、もうわずか後のこと……
坊ちゃんと久方ぶりの再会を果たしたこの日、織女蜘蛛に一つ、反省録が増えてしまった。