表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/33

閑話 仙女の反省録


 仙山の中腹にかかる晴れることのない雲は、いただきから見れば、淡く虹色に煌めいている。

 その、虹の雲海を突き抜けて、勢いよく頂上へと向かう姿が三つあった。

 一つは、まとった風に身を浮かせ宙を駆ける銀狼だ。もう一つは、水のしぶきをめぐらせて、泳ぐように天を舞う白蛇。その背には、風除けだろう連なる水の輪に守られながら、しっかりつかまる草草そうそうがいた。


「……ずるい」

 頂の、山神の住まう神殿の窓から美しい顔をのぞかせて、ぽつり、織女蜘蛛がつぶやいた。


 こちらへ向かってやって来る三つの姿のまわりには、たくさんの精霊が群がっている。地に落ちた三つの影を追うように、獣が、虫が、駆け跳ねる。

 みな、下界に下りた坊ちゃんが久しぶりに帰ってきたものだから、喜んでいるのだ。


「……ずるい」

 ぼそり。もう一度つぶやいた織女蜘蛛は、胸元にサッと右手を構えた。それから若干据わった目で、ぐるりと部屋をねめつける。

「はっ、はっ、はっ!」

 拗ねているのか、ヤケ気味なのか。いつもより気合の入ったかけ声とともに、素早く動く右手から、繰りだされたのは艶めく蜘蛛の糸だった。それは部屋の隅々まで器用に丁寧にめぐらされ、ほこりを浚い戻っていく。


 彼女は今、掃除中。今日は掃除当番だったために、坊ちゃんを出迎えに行けなかった。それでご機嫌ななめなのだ。

 ちらり。ふたたび窓の外を眺めれば、大蛇にまたがる草草のそばを、大きな蛾が飛んでいる。今日は掃除当番でも、奥様付きでもなかった幸運な仙、后蛾だ。

 この姉分の仙は、坊ちゃんが来仙を出て仙寿村へ向かった日も、役目を割り振られていなかった。そう思えば――


「……はっ、はっ、はっ、はあっ!」

 織女蜘蛛の糸を操る手に、よりいっそうの力が入った。


 それでも草神の、瑞々しい若草のような気配が近づいてくるのを感じると、彼女の頬もほころんでいく。

 久々に帰ってきたのだ、しばらく仙山に居るかもしれない。ならば坊ちゃんの部屋をより綺麗に、心地よく整えなくては。こう思い立つと、二本より多くなった足がいそいそと動き始める。

 せめて坊ちゃんの声だけでも聞きたいものだ。けれど盗み聞きなど行儀が悪い。こうも思いはしたものの、糸が一本するすると山神の間へ伸びていく。


『父上、母上、お久しぶりです』

『草草、元気だったかい? 下界は楽しいかな?』

『あれから風邪はひいてない? おいしい物は食べてる? 下界でいじめられたりしていない?』


 すると糸を通して草草の、山神の、母の声が聞こえてきた。数日に一度は水鏡で話しているはずなのに、愛息子を気づかう言葉は止まらない。

 これに答える声は春風のように、穏やかでいて優しげだ。草草の部屋で、糸を操る織女蜘蛛の手もゆったりと動く。彼女も母に仕えているから、坊ちゃんの声を聞くのは、ちっとも久しぶりじゃないのだが。


『父上、今日は仙寿村にいらっしゃる道祖神どうそじん様のことで相談がありまして。この神の姿が人に見えてしまって――』

『ああ、それはまず、神が心を落ち着けて――』

 しばし草草と山神は話し合い、終えると、母の残念そうなため息が糸を通して伝わってきた。

『それじゃあすぐ、仙寿村へ戻ってしまうの?』

『すみません、母上。道祖神様が困ってらっしゃるようなので』


「そんな……」

 これを聞き、がくり、織女蜘蛛の肩が下がった。ついでに、がたり、右手の糸は広く大きな寝台をたやすく引きずる。

 なぜ、今日に限って掃除当番だったのか。せめて奥様付きであったなら、今ごろ坊ちゃんと顔を合わせていたはずなのに。その役目にある銀蚕姫をうらやましく思い、よよ、と顔を右手で覆えば寝台もがたがたと近づいてくる。

 なぜ、自分だけが坊ちゃんに会えないのか。美しいかんばせを上げ、どこぞをぼうっと眺めていると。


「もしかしたら、私たちが坊ちゃんの守役だったかもしれないのに……」

 織女蜘蛛の思いは遠く、いや、仙にしてみればそれほどでもない、十八年前にさかのぼっていた。





 十八年前のこの年、仙山の草花はいっそう生き生きと芽吹き、風は優しく柔らかくそよぎ、虹の雲海はひときわ美しく煌めいていた。


 待望の、山神の子が産まれて三月ほど経ったか。

 頂にある神殿からは、温かく、柔らかな気配が漂ってくる。大事に大切に育んでやりたくなる、新芽のような匂いがする。いずれは仙山のものを、優しく包んでくれる草原のごとくなるのであろう、そんな予感も覚える気配だ。

 これまでは自由気ままに野山を駆けまわっていた獣や虫や精霊が、神殿を、赤子を、日々慕うように守るように取り囲んでいた。



「坊ちゃん、おはようございます」

 銀蚕姫が編んだふっかりとしたまゆに包まれて、すやすや眠る草草を、織女蜘蛛はそっとうかがった。無垢な寝顔を眺めていると、心が温かくなってくる。

「坊ちゃん、まだ寝てるわね」

 后蛾も隣へやって来て、緑みを帯びた、寝ぐせのついた柔らかな髪をそっとそっとなでてやる。

 女二人の仙は、目配せし合い笑い合う、と。


《坊ちゃんの守役は我らだよ。あんたたちの力じゃ、いざというとき坊ちゃんを守り切れないかもしれないからねぇ》

《坊ちゃんから離れろ》


 突然の声に、織女蜘蛛の肩がびくりと跳ねた。

 恐る恐るふり返ってみれば、そこにいたのは予想どおり、獰猛な大蛇と猛々しい大狼だ。

 彼らはよわい千年を越える、強き蛇と狼である。一方、彼女は蜘蛛であり、たかだか三百年ほど生きただけのひよっ子だ。だから二人が怖ろしい。慌てて后蛾に縋りつく。


「坊ちゃんに近づくなら人の姿になりなさい。牙や爪で傷つけないようにと、奥様に言われているでしょう」

 しかし后蛾は怯まない。こちらも蛾ではあるのだが更なる長い時を生き、幼いころの彼らを知る、なかなか力もある仙だからだ。

《ふんっ》

 盛大な鼻の音とともに、白蛇は美麗な男に、銀狼は精悍な男に、それぞれ姿をすうと変えた。


 十八年後の現在ならば、織女蜘蛛も、若い虫も、幼い精霊も、虹蛇こうだ狼君ろうくんを怖れはしない。

 みなと分け隔てなく仲良くなった、草草のおかげもあるだろう。彼らの過保護っぷりも存分に見てきたからかもしれない。

 だが、当時の織女蜘蛛はこの大蛇と大狼を、ただただ怖いと思っていた。


 彼女は后蛾に隠れておどおどしつつ、二人の男をジッと見た。

 確かに彼らは強いと思うが、なぜ、山神様はこんな仙を守役に選んだのだろう。

 一方は、いつも斜に構えた風に見え、口をついて出る言葉も嫌味っぽいこと、この上ない。無垢な坊ちゃんがひねくれ者になったらどうするのか。

 もう一方は眼光鋭い無表情、あるいは仏頂面しか見たことがない。奥様は『赤子には笑いかけてやるものだ』と言っていたのに、ものすごく不向きだと思えた。


 いや、まだ坊ちゃんの守役は彼らだと、決定したわけではないのだ。相応しくないとなればくつがえることもあるのだ。

 織女蜘蛛は怖い気持ちをぐっとのみ、二人の男をジィッと見やる。


「おや、坊ちゃん、起きましたか」

 赤子の草草を見た途端、虹蛇が猫なで声を出した。

 十八年後の坊ちゃんに言わせれば、『僕限定だけど、気づかいのまじった優しい虹蛇』なのだが、今の織女蜘蛛にはひたすら不気味な変わりようだ。

 頬を柔らかく突つかれると、赤子はほわりと笑う。


「坊ちゃんは機嫌が良さそうだな」

 今度は狼君が、草草をのぞき見た。その顔は眼光鋭い無表情だ。

 こちらも十八年後の坊ちゃんなら『やっぱり僕限定だけど、目の優しくなった狼君』と見分けるはずだが、今の織女蜘蛛にはわからない。

 指を差しだされると、赤子は柔らかく握り返す。その指が引かれると、小さな手は頼りなげに離れる。

 そして狼君の眼光が、ギラリ、光った。


「虹蛇、大変だ! 坊ちゃんの手にまったく力がない。これくらいの大きさなら、もうぶら下がってもいい頃じゃないか?」

「そんなもの、人なんだからまだまだ非力でいいのさ。きっと三歳くらいまでは寝てばかりだよ」


「……」

 これを聞き、織女蜘蛛はダメだ、と思った。

 坊ちゃんは子猿ではないのだ。たった三月でぶら下がれるはずはないし、逆に三歳ならば元気に駆けまわっているだろう。こんな二人に、大事な坊ちゃんを任せてはおけない。

 勇気を奮いきりりと顔を上げてみせる、と、それより早く姉分の后蛾が口火を切った。


「あなた方、まったく人を知らないのね。そんなことでは守役を任せることができないわ」

「我らを守役にっていうのは山神様が決めたことだよ。それなのに文句をつける気かい?」

「私たちも守役の候補だったのよ。けれど男児には男を、女児には女を、人にはそういった慣わしがあるから、あなた方にしただけよ」

「なんだって!? 我らのほうが強いじゃないか」

「強いだけじゃ守役は務まらないわね!」


 胸を張った后蛾と、片方の眉をきりきりとつり上げた虹蛇の、舌戦が続く。

 狼君は眼光もいっそう鋭くこちらを見やり、織女蜘蛛は逸らしたい気持ちをぐっと堪え、まぶたをこじ開け精いっぱい見返す。


「あ、あ」

「坊ちゃん!?」

 すると、あどけない赤子の声が聞こえてきて、みなで慌てて覗きこんだ。

 見てみれば坊ちゃんに泣く気配はない。しかしもぞもぞ首をふり、両手を突きだし動かして、つぶらな瞳でこちらを眺める。その様子は『ケンカはダメ』と言われているように思えた。

 よわい三百年、千年、そして数千年のいい歳をした仙たちは、みな、シンと黙りこむ。


「……坊ちゃんの守役だ。坊ちゃんに選んでもらうべきじゃないか?」

 ぼそり、狼君がつぶやいた。こくり、三人はうなずく。

 のちのち考えてみれば、生まれて三月の坊ちゃんに選べるはずもないのだが、このときの織女蜘蛛は頭が回っていなかったのだろう。


「坊ちゃん、守役は我ら、虹蛇と狼君がいいですよね?」

「坊ちゃん、守役は私たち、后蛾と織女蜘蛛と銀蚕姫でございますよね?」

「坊ちゃん、俺はここですよ」

「わ、私もここにおりますよ」

 四本の指が、赤子に向かってそっと伸びる。小さな手は、それらをゆらゆら追いかける。小さな口は弧を描き、にぱっと可愛げに開く。


「だぁ」

 にぎっ。


「ほら今の、坊ちゃんが我を呼んだよ。虹蛇の『だ』だよ!」

「坊ちゃんが握ってるのも俺の指だ!」

「守役は我らだね!」

「俺たちだな!」


 十割方『だぁ』と虹蛇は無関係だろう。おそらく狼君の指も、一番近くにあっただけだろう。

 が、こうして坊ちゃんの守役は、虹蛇と狼君に決定した。





「あれは大失敗だったわ……」

 十八年も前のことを今さら悔いても遅いのだが、織女蜘蛛は頬に右手を添えながら、ゆるゆる首をふった。まだ糸に絡まったままの寝台も、結構がたがた揺れている。

 はぁ、とため息をつき、せめて坊ちゃんの声を聞きながら掃除をしようと耳をすます。


『そう、初めての村は楽しかったのね』

『はい、母上。それで仙寿織が素敵だったので、織女蜘蛛に似たような布を織ってもらいたいと思ってるんです。このあと頼んでいいですか?』

『ええ、もちろんよ』


「え? ええ? ええええ? 坊ちゃんが私に!?」

 これを聞いた織女蜘蛛の、しょぼくれていた背がしゃきりと伸びた。



 ――実は、彼女が十八年前に思いをめぐらしている間、山神の間ではこんなやり取りがあった。


「坊ちゃん、あれ、織女蜘蛛の糸ですよ」

 虹蛇の指した先をふり向くと、草草の目に、ふわりと浮かぶ一本の糸が見えた。

「あ、本当だ。織女蜘蛛がいないのは掃除当番だからかな?」

 首をひねると、母のそばに控えた銀蚕姫がそのとおりだと教えてくれ、さすが坊ちゃんだとも褒めたたえる。


「せっかく坊ちゃんが帰ってきたんだ。少しくらい掃除を怠けたって、奥様は怒らないのにねぇ。相変わらず真面目っていうか、融通の利かない娘だよ」

「そうだな」

 ふふんと笑った虹蛇の、かつては嫌味っぽかった笑みが、今は親しみがこもっている。うなずいた狼君も無表情のようでいて、彼女の真面目さを褒めている。

 今の織女蜘蛛なら、きっとそうとわかるだろう。


 ここで草草は、くすり、笑みをこぼした。この場に来ることのできなかった彼女の様子が、手に取るように察せられたのだ。

 今日、掃除当番であった不運を嘆き、ぼうっとし、ついでに過去のあれこれを思いだし反省しているに違いない。

 坊ちゃんの守役は狼君と虹蛇だが、幼いころは常に母とともに過ごした。織女蜘蛛も一緒だった。いわば乳母のようなものだから、これくらいはお見通しなのだ。

 逆に言えば、彼女はしょっちゅう昔をふり返り反省を繰り返している、となる。


「じゃあ……」

 ぬるい笑みを浮かべて小首をかしげた草草の、ちょっとした心づかいにより、先ほどの『織女蜘蛛に頼みたい』が出てきたというわけだ。



「坊ちゃん、すぐに参ります!」

 織女蜘蛛はといえば、さらに増えた足の数で山神の間へ向かおうと、気合を入れて駆けだした。が……


 ――がたんっ、がつんっ!


「あっ!? なに? 何なの?」

 大きな音とともに、右手をぐっと引かれた。何だろうとふり向けば、糸に絡まる寝台が部屋の入口に引っかかっている。

「あっ、あら? ちょっと、どうしましょう!?」

 后蛾も銀蚕姫も布を織れるのに、坊ちゃんは自分を指名してくれたのだ。早くそばへ向かいたい。

 けれど焦れば焦るほど、糸は複雑に絡まっていく。


『織女蜘蛛にも聞こえたと思うんだけど、忙しいのかな?』

『坊ちゃんの頼みなんだから、来ないはずはないんですけどねぇ。それとも盗み聞きがバレて、あの娘、申し訳ないと思ってるんじゃないですか?』

『織女蜘蛛、掃除はあとでいいし、盗み聞きだって誰も怒らないよ。おいで』

『坊ちゃんが待ってるぞ』


「はいっ、今すぐに! あらっ、ちょっと!」

 草草の優しげな声が、虹蛇のからかう風な声が、狼君の急かす感じの声が、織女蜘蛛を追い詰める。糸は自身の体も巻きこんで、もう訳がわからない。


『あの娘、遅いねぇ』

『まだ掃除してるのか?』

『……何かあったのかな? 行ってみようか』


「いっ、いえっ、坊ちゃんに足を運んでいただくなんて、そんな!」

 足を運んでもらったどころか絡まる糸から救出され、彼女がよりいっそうの大反省をするのは、もうわずか後のこと……


 坊ちゃんと久方ぶりの再会を果たしたこの日、織女蜘蛛に一つ、反省録が増えてしまった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ