第二十話 仙寿村今昔
仙寿村で婚礼のあった翌朝のこと。
朝食の席に、清々しい笑みをたたえた神の子と、威風堂々とした二人の仙が、ついでに従兄も現れた。
「おはようございます」
「おっ、おはようございます。さ、昨夜はよく、お、お休みになれましたでしょうか?」
仙寿村の、仙恵の、薬屋の面々は、緊張した面持ちで深々と腰を折る。おどおどと、けれど嬉しげな様子も見せながら「さあどうぞ」と、わずかに震える手のひらが一等上座を指し示す。
礼を述べつつ坊ちゃんは、ずいぶん気を使わせてしまっているような、と苦笑いをもらした。
草草たちはこれまで、薬仙堂の世話になってきた。母が山神に嫁ぎ、新年になれば神の挨拶も届き、季節の品を持った仙が訪れることもある、薬屋でだ。
一方、仙寿村や仙恵の一族は、ごく稀に、神の声を聞き仙の姿を見る程度。だからだろう、慣れていないのだ。
来仙でも、只ならぬ貴人と武人と策士を前に遠慮する者は多くいるが、一族は、この三人が神や仙だと知っている。よりいっそう畏まるのも仕方のないことと思えた。
「お、お口に合いますかどうか……」
「おいしくいただいてます」
ごはんを頬ばりにっこり笑うと、みなの表情も盛大にほころぶ。しかし、だ。
草草はてんこ盛りの茶碗を眺め、卓にひしめくおかずを見やった。こんなに多くは食べられない。
「坊ちゃん、この肉は柔らかくてうまいです」
「この魚も、脂が乗ってておいしいねぇ。はい坊ちゃん、どうぞ。こっちの玉子もしっかり味が染みてますよ」
守役たちは草草の器にちょうど一口ちんまりと、けれどさまざまな品を乗せ、残りは自身の口へと運ぶ。人の血も引く坊ちゃんの、腹具合をよくよく承知しているのだろう。
ありがたいことだと、これならいろいろ食べられるし残さずにも済みそうだと、坊ちゃんは嬉しげに笑って礼を言う。
そうして卓を見まわすと、その笑みはぬるいものに変わった。
がぶり、がぶ。ぱくっ、ばくり。
仙の見事な食べっぷりに面々の口はポカンと開き、箸を持つ手も止まっている。草草が食べましょうと促して、ようやくそれらは動きだす。
よし、と見届けると、次は一点に目を留めた。
そこにいるのは従兄と、隣に座る仙恵の、六歳になる小さな娘だ。彼女は両親よりも上座に配され、これはどうにも不自然と思える。
「坊ちゃん、ちゃんと食べなきゃダメですよ」
今度は草草の箸が止まってしまい、守役たちに促された。
腹を壊したのでは、では薬だ、いや寝台だ、などと騒がれてもいけない。そんな事になったなら、仙寿村と仙恵の、一族までが参加する大騒動になりそうだ。
坊ちゃんは、それはダメだと首をふりふり、せっせと食事に取りかかる。それからまた、従兄と小さな娘を見た。
おそらく、薬仙堂から仙恵へ。『もし息子の嫁が見つからなかったときは、そちらの娘さんを』といった知らせが届いたのだ。婚礼に従兄を出席させたのも、この娘に会わせるためだろう。
彼には、金貸しの爺のところで働く恋しい娘がいるのだが、うまくいかなかった場合に備え、伯父が手を打ったらしい。
「この魚、骨が多いから取ってあげようか?」
しかし従兄は上機嫌で、小さな娘の世話を焼く。昨夜の婚礼でも、新郎新婦を眺めながら彼の頬はたるんでいた。
きっと脳内で、自身と心優しい恋しい娘に置き換えていたに違いない。伯父の思惑にはちっとも気づいていない様子だ。
まあ、どちらにせよ上手くゆき、従兄が幸せになるならそれでいいのか。これは内緒にしておこうと、坊ちゃんはこっそりうなずいた。
ちなみに今、この場に精霊や仙の虫の姿はない。
仙寿村に来る途中、三度も盗賊退治に励んだ彼らは、すでに仙山へ戻っていた。
これは昨日のこと。
大きな橋をガタゴト渡り村へ入った一行は、丁寧で丁重な手厚い出迎えを受けると――坊ちゃんが疲れると守役たちが遮った。
それから「なんだかすごい人たちが来たよ」と、村人たちの目を盛大に引きつけながら薬屋へ。すると。
「あ、母上」
案内された客間に、母の姿があった。が、その体は揺らいでいる。向こうの景色が透けている。精霊の放つ光に自身の姿を乗せているのだ。
母は、無事に着いてよかったと愛息子に笑いかけ、草草をよく守ったとみなを見まわし礼を言う。
そして、こうも続ける。
「みんな、今日はがんばったから、おいしいお酒とおいしい料理をたくさん用意しておいたわ」
なるほど、と草草は思った。
母は、精霊と仙の虫を呼び戻そうとしているのだ。さすがにこれだけ数がいては、仙寿村と仙恵の一族に迷惑がかかる、と考えたのだろう。
若干人離れした母であっても、これくらいの配慮はあるのだ。いや、もしかすると父神の指示か。
小首のかしいだ坊ちゃんは、それはともかく、と傾いた顔を元へ戻す。
旅先の今、手元に仙山へ通じる水応鏡はない。山神が力を振るっては、少々地が揺れ人の不安を呼び覚ます。もうすぐ婚礼もあるのに、縁起が悪いなどと思われてもいけない。
そこで母は、みなを食べ物で釣ろうと考えたわけだ。
《本当ですか!? 奥様、ありがとうございます!》
《わぁい! 早く仙山へ帰りましょう!》
ひゅうひゅうと、精霊たちは浮かれ舞う。ぴょんぴょんと、仙の虫らは喜び跳ねる。
どうやら成功したようだ。ふふ、と草草は楽しげに笑う。が……
《坊ちゃんも一緒に帰りましょう!》
《そうですよ。人の宴より、仙山の宴のほうがずっと楽しいんだから!》
《お酒もおいしゅうございますよ》
《坊ちゃん、早く早く!》
「……」
母の策は、詰めが甘かったらしい。結局、坊ちゃんがみなを説得する破目になった。
*
「僕たちは少し、村を散歩してきます」
朝食を食べ茶をすすり、一息ついた草草は、面々を見まわしにこりと笑った。
せっかく来たのだ、村を見てまわりたい。それに自分たちがここにいると、みなに気を使わせてしまいそうだ、とも思ったのだ。
すると卓の半分、仙恵の一家と従兄はどうぞどうぞと顔をゆらし、しかし仙寿村の一同は、縦にも横にも曖昧にうなずく。
「あ、あの、草草様。お散歩は構いませんが、む、村の西口には近づかないほうがよろしいかと……」
「ん?」
小首をかしげた草草に、仙寿村のこの家の主人はつっかえつっかえ話しだした。
仙寿村は柵でぐるりと囲まれており、出入口は二つある。
一つは東口。出るとすぐ河があり、草草たちも馬車で渡った長い橋が架かっている。橋を越えて街道へ出ると、来仙、仙恵、望仙へ。大きな街へと通じているから多くの者が利用する。
もう一つが西口だ。こちらは山を切り開いて北西へと道が伸び、行き着く先は望仙のみ。東の橋が架かる前は使われていた道だったが、今は通る者も滅多にない。
この西口で、最近諍いがあるという。こんな話が持ち上がったのが、きっかけだった。
「来仙の船問屋さんから、来仙と望仙を船で行き来する途中、この仙寿村にも寄りたいというお話がございまして」
おや、と思いつつ草草は、黙って主人の話を聞く。
この船は来仙で、方々から集めた珍かな品を積み運び、帰りは望仙の特産品など買い求め、来仙へと戻っていく。
その途中、仙寿村の品も買いたいと、珍かな品もよろしければどうかとの申し出があり、村はこれを快諾した。
ところが、だ。
ならば荷を保管し売買するための、支店が必要になる。どこか良い土地を買わせていただきたいのだが。
船問屋がこう言ったところ、村は二つに割れてしまった。
「二つ、ですか」
「は、はい。簡単に申しますと、西派と反対派、でございましょうか」
草草がうかがうと、主人の首はギクシャクゆれた。だいぶしゃべっていると思うのだが、まだ緊張が解けないらしい。
まず『西』派というのは、船問屋が出す支店の場所のことだそうだ。
彼らの主張は――東に橋が架かってから旅人も多く寄るようになり、村の東側は賑わった。だから今度は西側に、恩恵を与えるべきではないか。
これを聞き、ふむ、草草はうなずく。
「西派を支持してるのは、東側に住んでる人が多いんじゃないですか?」
「は、はい。そのとおりでございます」
また、主人の首がギクシャクゆれると、狼君の顔が傾いた。
「坊ちゃん、西側にいい話なら、西側に住んでる者が賛成するんじゃないですか?」
「そういう人もいると思うよ。だけどね」
草草は村の景色を思いだしつつ、不思議そうな顔の仙に指を一本立ててみせる。
昨日、馬車で通った際、東側は家が軒を連ねていた。ここに、蔵も要るのであろう支店を建てるとなると、立ち退く家がいくつも出る。今住む者にとって、これは嫌だ。
もう一つ。
旅人は東口からやって来て、東側の宿を取る。それからまず、東の店を見てまわるだろう。ここへ珍かな品を扱う支店が建つ。商売をしている者は、客を取られてしまうのでは、と危ぶんだのだ。
「だからね、東側に住む人たちは、支店を少しでも西へ追いやりたいんだよ」
「ふんっ、了見が狭いですねぇ」
虹蛇の鼻が勢いよく鳴った。主人は自分のことでもないだろうに、首をすくめて小さくなる。
「さすが、坊ちゃんは賢い!」
今度は狼君が、気合の入った賛辞を述べれば、もちろん虹蛇も負けじと続く。同意を示したいらしい、主人の首は忙しくゆれる。
首は、大丈夫だろうか。
心配になった草草は、いくらでも続きそうな『坊ちゃん賛辞』を止めにかかった。
話が長くなると見て、緊張の続く主人ののども渇かないかと心配し、草草は茶を所望した。ずずっと一口、なかなかおいしい。
「では、反対派の人たちはどう言ってるんですか?」
これで一息つけただろう。そう思って眺めるも、主人の口はためらうようにモゴモゴ動き、なかなか声が出てこない。よほど言いにくい事なのか。
落ち着くよう、にっこり笑って促してみる。が……
「たっ、大変、おっ恐れ多いことで、ご、ございますが」
主人は額に汗を滲ませ、これまで以上につっかえながら話しだした。
残念ながら、茶も、坊ちゃんのほほ笑みも、大した効果はなかったらしい。
船問屋が求めるほどの、まとまった広さの空き地は、実は、西側にならあるという。村の、西口のそばだ。
だが、ここには道祖神があった。外からやって来る災いを祓う、村を守る神の像だ。
ここまでを聞き、草草はうなずく。
かつては使われていたという、望仙へと続く道。東に橋が架かった今、通る者のなくなった道。
災いがやって来ることもなく、要らなくなってしまった神――
「西派の人たちは、道祖神の像を壊して支店を建てようと考えてるんですね? 反対派が、それを守ろうとする人たち」
うかがうと、主人は顔色も悪く、重く、首を縦に動かした。
彼ら一族は、山神を知っている。神は在ると解っている。神を蔑ろにする西派の主張は、ひどく罰当たりに思えたし、怖ろしくも感じているのだろう。
しかも、それを同じ神である草草に伝えるのだ。さぞや言いづらかったに違いない。
よく話してくれましたと、労いの笑みを浮かべようとするも……
「これまで散々守ってもらったクセに、なんて勝手なんだい!」
「許せないな!」
虹蛇の眉がきりきり上がり、狼君の眼光はギラリと光った。間に合わなかった。
主人は、いや、彼だけでなく、こちらを恐る恐るといった感じでうかがっていた面々も、そろって身を硬くする。
坊ちゃんはいつもどおり守役たちをなだめつつ、みなに笑みをふりまいてみせる。
一番言いづらかったことを伝え終えたせいなのか。今度は主人の表情も、ホッとゆるんだようだった。
「では、本当に道祖神がいらっしゃるかどうか、僕が見てきましょうか?」
山神は仙山の元となった丘から成り、草神は仙山――これが山神そのものだ、と人の母から産まれた。いわば実体のある神だ。
しかし人が祀った道祖神は、信仰の心から生じることもあれば、生じていないこともある。人々に忘れられて消えることも、人を見放し去ることも、ある。まずはこの存在を、確認してはどうだろう。
が、草草の申し出に、主人は慌てて首をふる。
「いっ、いえ、先ほども申しましたが、西口は危のうございます。お止めになったほうが」
西口には道祖神を守ろうとする反対派が陣取り、壊そうと主張する西派との間で、しばしば言い合いが起きているそうだ。
もうすぐ、来仙の船問屋が土地を見にやって来る。すると騒ぎも大きくなるかもしれない。
これに神の子が巻きこまれてはならないと、主人は心配なのだろう。
「僕には狼君と虹蛇がいるので、大丈夫です」
ここで坊ちゃんの胸が、ぐっとそり返った。過保護でズレたところもある守役たちではあるが、何だかんだで自慢なのだ。
狼君は嬉しげに目を細めると思いっきりうなずき、虹蛇は耳も目のふちも、赤く染めてうろたえる。
神の子と二人の仙の意外な一面を見たからか。緊張ばかりだった主人の顔にも、ようやく笑みが浮いてきた。
「でも……どうしよう?」
道祖神がいないのなら、それはただの像とも言える。心の拠りどころでもあろうから、神の有無だけで判断すべき事ではないが、みなでよく話し合い、壊す、という選択もあるだろう。
けれどもし、神が在った場合はどうするか。
ブツブツつぶやき首をかしげた草草に、それならば、と主人は言う。
「道祖神様を壊すとなったなら、私はこの薬屋の土地を、船問屋さんに渡そうと思っております」
古くからある薬屋は、広い。ここを空ければ、ほかの家が立ち退く必要はない。
場所も、村のちょうど真ん中だ。ここに支店が建つのなら、西派、つまり東側の店の者たちも、客をそれほど取られはしないだろうと納得してくれるはず。
もちろん道祖神は壊さないので、反対派も文句はない。
薬屋は多少手狭になるものの、大して困ることもない。それに、仙寿村に薬屋はここ一軒のみ。
どこであろうと何とでもなります、と、主人は穏やかにほほ笑んだ。
「それは立派な考えですね」
草草が柔らかくほほ笑むと、彼は頬を赤らめ照れた風に首をふる。それからこうも続けた。
元々、自分の土地を譲ろうという考えは、村長が言いだしたことだという。
船問屋が来れば、村の特産品を定量、安定して買い取ってくれる。自分が移ることくらい、村のためなら構わない。
村が二つに割れる兆しを見せたとき、村長は親しい主人にこう告げていた。ところが。
「村長さんは突然、西口にはどうしても移れない、と言いだしまして」
主人には、さっぱり理由がわからないらしい、困惑顔でため息をついた。もちろん、坊ちゃんだってわからない。
「うぅん……その付近で、何か変わったことはありませんでしたか?」
「そう、でございますね……関係はないのかもしれませんが、少し前に地震がございました」
「地震?」
聞いてみれば、それはまだ夏のこと。
村長は古い書物を整理するため台の上に立っており、揺れに驚き、落ちて腰を打ったという。打ち身の薬を買いに来た。
腰は痛めてしまったが、散らばった書物の中に見慣れぬ物も見つけた。だから良しとしよう。
このときの村長はこんな風なことを言い、朗らかに笑い去ったのだが。
「思いだしてみますと、村長さんのお考えが変わったのは、この少しあとだったと思います」
「……古い書物、ですか」
草草は何だろうと首をひねり、そして、その地震はおそらく、自分が西の砂漠に連れ去られ、怒った父神が地を揺らしたときの事だと思い至る。
神の行いは、思わぬところで、思わぬ事態を引き起こすものであるらしい。
坊ちゃんの顔に、ぬるい笑みが浮いてきた。
*
「では、行ってきます」
「いってらっしゃいませ、お気をつけて」
長話で慣れたのか、主人の口調は滑らかだ。それでも、一族総出でかしこまって見送られながら、草草たちは外へ出た。
「坊ちゃん、どっちへ行きますか?」
「道祖神ならこっちですねぇ」
村にしては賑わう東へ、村らしい長閑な西へ。狼君の顔がゆるりと巡る。虹蛇の指は西を指す。
しかし坊ちゃんの目は、すぐ隣を向いていた。
低い垣根に囲まれた、薬屋ほどの大きな屋敷だ。広い庭もある。ここが村長の家だそうだ。
主人の話では地震ののち、おそらく古い書物を見つけたことで、村長の態度が変わった。
西口には移れない。だが、道祖神を壊そうと言うわけでもない。支店の場所はみなの意見に従うと述べ、自分には決める資格がないとも漏らした。
なぜだか沈みがちで、道祖神に向かい必死に拝む村長の姿を、見た者もあるらしい。
いったい何があったのか。草草は顔をななめに傾けつつ、ともかく道祖神を見てみようと西のほうへ歩きだす。
ときおり強い秋風が着物の裾をはためかせ、草草の髪をなびかせる。
すると虹蛇がササッと、すばらしい速さで整えた。狼君の大きな手のひらは、ぱっちりとした目を覆っている。坊ちゃんの目にゴミが入らないように、だろう。
やはり過保護な気もするが、ありがとうと礼を言う。
「あれ、何だろう?」
大きな手が遠ざかると、一軒の家の窓から勢いよく、湯気が上がっているのに気がついた。そういえば、とも思う。先ほどの風は草の匂いが強くした。
「ああ、あれは仙寿織に使う糸を染めてるんでしょうね」
草草がひょいと見上げれば、美麗な顔は優しげに笑う。優しい口調でしゃべりだす。
仙寿村では稲刈りが終わると、草木の煮汁で糸を染める。雪に閉ざされた冬、この糸を用いて布を織る。これが仙寿織だ。
「へぇ、じゃあ今はちょうど糸を染めてる時期なんだ」
これまで、水鏡で下界を眺め勉強してきた坊ちゃんではあるが、すべてを見ていたわけではない。
まだ知らない事はたくさんあると、胸を弾ませ辺りを見まわす。そうして、戸口の開いた家をひょこり、のぞいてみた。
入るとすぐ、土間になっているらしい。もうもうと湯気を上げてぐらぐらと煮立つ釜、顔中に汗を浮かせた娘もいる。
「あっ! あのっ、あのっ、ちょっと待ってて!」
が、彼女はこちらに気づくと突然、大声を上げ、奥へと引っこんでしまった。
「ちょっと! 釜から離れちゃダメじゃないの。糸は入れてないでしょうね? 色が変わっ……」
続いて奥から、まだ若いのだろうが女房風な女が現れ、まずは釜を見る。ついで貴人と武人と策士を認め、ポカンと口が開く。
「お邪魔してすみません。仙寿織を見てみたくて」
「はっ、あらっ、や、薬仙堂さんのお客様で、まっ、あらっ」
にこりと笑った草草に、女房は盛大に取り乱した。
彼女はもちろん、三人が神や仙だとは知らないだろう。それでも、仙人のごとき貴人、秀でた武人、油断ならない策士、これだけで十分うろたえたらしい。
まあ、村にこんな人物はいないのだ。仕方あるまい。
ちなみに仙寿村の薬屋も、仙恵の薬屋も、そのほか、山神が恵みを与えた一族は、みな『薬仙堂』を名乗っている。
だから仙寿村でも坊ちゃんたちは、『薬仙堂のお客人』であった。
「姉さん、どいて! あのっ、これっ、見てください! 今度来仙で売るんですけど!」
先ほどの娘が飛びだすようにやって来て、うろたえた女房を押しのけながら、布をずいっと差しだした。
なるほどと、草草はほほ笑む。
この仙寿織も船問屋へ売るのだろう。来仙で暮らす者の目にどう映るのか、娘はそれを知りたいのだ。しかし……
「色は悪くないんだけど、柄がごちゃごちゃしてるねぇ。坊ちゃんにはもっとスッキリした着物が似合うよ」
布を摘んだ虹蛇の、一方の眉がくいっと上がった。狼君も、思案しているのだろう迫力顔になっている。
「そうだな。こっちの単色の布のほうが似合いそうだ」
「でも色が淡すぎて、それだけじゃ寂しいねぇ。袖や裾に柄があったほうがいいよ」
守役たちは二枚の布を器用に合わせ、坊ちゃんの体に巻きつけて、いいんじゃないかとうなずき合う。
彼らの口から出てくる意見は『坊ちゃんに似合うかどうか』、これだけだ。参考にはならないだろうと草草は苦笑う。
それから布をじっと見た。
「……虹蛇には地味だし、狼君には派手だねぇ」
残念ながら坊ちゃんの意見も五十歩百歩、『守役たちに似合うかどうか』でしかなかった。
それでも娘はそれなりに、感じるものがあったらしい。熱中してもいるのだろう。自ら貴人の体に布を当てて組み替えて、「なるほど」などとつぶやき始める。
彼女の姉らしき、まだ若そうな女房は畏れ多いと思ったか、おろおろ娘を止めに入る、が。
「こらっ! ここに来ちゃダメ! 危ないでしょう!」
突如、若き女房が吠え、駆けた。
ちょっぴり驚いた草草が何事かとふり向けば、小さな子供たちがいた。
女房は煮立つ釜を背に、駆けこんで来たのであろう子らをしっかりと抱き止めている。
彼女の子供だろうか。仙のごとき速さだった、と坊ちゃんは思った。
「今はお湯を使ってて危ないから、土間はダメでしょう」
「でも家の中、せまいもん。にわも、糸があるからダメなんでしょ?」
「神さまのところ、行っていい?」
こう問うてきた子供らに、女房はダメだと首をふる。
「今、おじさんたちが集まってるでしょう。危ないから近づいちゃダメよ」
「だいじょうぶだよ。神さま、守ってくれるもん!」
「そうだよ。神さまの上にのぼって、おちちゃったけど、へいきだった!」
にこにこ笑う子供たちを、女房と娘は困った風になだめ始めた。
どうやら、西口の道祖神のある空き地は、子供たちの恰好の遊び場であったらしい。道祖神を、心から信じた様子でもある。
はたして神はおわすのか。まだ、二人の仙は何も感じていないようだが――
子らを見て、ほほ笑みながら草草は、西口へと足を向けた。
「変だねぇ」
「坊ちゃん、何が変なんですか?」
西口をゆるりと眺めた草草の、首がかしいだ。そんな坊ちゃんを脇から見やり、守役たちの顔も傾く。
西口は、広い空き地になっていた。一角に大きな石がどっしりと置かれ、男とも女ともつかない、仏様とも思える、そんな像も彫ってある。
その前に、石を守るようにしてどっかりと座った老人方が、『反対派』の面々だろう。立ったままの、それより若い男たちが『西派』か。
何やら話し合っている様子だ。
そして――ほっそりとした老人姿の神が、彼らを石の上から見下ろしていた。
見守るように、悲しげに。その姿は、薄く、儚い。
「坊ちゃん。守ろうとする者もちゃんといるのに、道祖神が消えそうなのが変なんですか?」
首をひねった狼君に、「きっと違うよ」と、不機嫌そうな虹蛇が応じる。
「罰当たりにも、あの石を壊そうって輩も大勢いるんだ。消えかかってたっておかしくないさ。坊ちゃん、石に彫られた像と、道祖神の姿が違うのが変なんじゃないですか?」
これに、草草はにっこり笑ってうなずいた。虹蛇の機嫌もちょっとばかり持ち直したようだ。
この道祖神は人が祀った神であり、人の信仰から生じた神だ。ならば人が思う、石に彫られた仏様のような、男とも女ともつかない、そんな姿になるはずだ。
ところが、この神は老人だ。
そしてもう一つ、と草草は指を差す。
「あの道祖神の向き、こっちを、村のほうを見てるよね」
道祖神は『外からやって来る』災いを祓う神だ。ならば何ものかが訪れる、外へと通じる道を向いていなければならない。
しかしあの石は、道を背に、村を向いて置かれてある。
姿の違い、向きの違い、それに突然変わったという村長の様子と、おそらくそのきっかけだろう古い書物――
坊ちゃんの目の玉が、くるり、まわり始めた、と。
「何度言われようが、道祖神様を壊すなど許さん!」
「爺さん! ここに船問屋の店が建てば、西側も賑やかになるんだぞ!」
「賑やかになどならんでいい! そんなことを言ってるが、お前たちが立ち退きたくないだけだろう!」
老人方が立ち上がると、男たちも一歩前へ。これは一触即発かと、草草は声をかける。
「こちらが道祖神様ですね。お参りしてもいいですか?」
しずしずと現れたのは、仙人のごとき清らかな貴人。この諍いで機嫌が悪くなったのだろう、いっそう鋭い眼光の迫力みなぎる武人と、美麗な顔に物騒な笑みを浮かべた策士が、その脇を固めている。
みなの体は、ビクリ、跳ねた。
「お、その……ど、どうぞ。ほれ、お前ら、退け」
いち早く立ち直ったのは、年の功か老人方であった。
西派であろう男たちをササッと追いやり、お参りすると言ったのが嬉しかったのだろう、ほころんだ表情で去っていく。
礼を述べると草草は、道祖神と向き合った。
《これはまた……その神気、もしや仙山の神でいらっしゃいますかな?》
すぅと石から降りた神は、仙山のほうを向き、草草を見比べて、驚いた風な顔をした。
「はい、仙山の山神の息子、草神です」
《おぉ、おぉ、まさか仙山の神にお目にかかれるとは、長く在った甲斐がございましたなぁ。わしはこの村の、今は道祖神と呼ばれておりますな》
優しげに、穏やかに、道祖神が笑う。
「道祖神様、このまま仙寿村にいらっしゃるんですか?」
草神の神気に触れたせいか、道祖神は今わずか、姿が濃くなっている。だが、このまま村に在り続け、石が無くなり人も忘れてしまったら、そのとき神も消えてしまう。
しかし仙山に、神界に在れば、消えてしまうことはない。もし道祖神が望むのなら、と、草草は伺う。
《わしはこの村と……いや、この村の者たちと、共に在りました。昔、多くの者が通った西の道は使われなくなり、今、東の橋が栄えている》
道祖神は、人気のない西口を向き、今度は賑わう東を見た。
神を忘れてしまったのか、石を壊そうとしている男たちの遠ざかっていく姿がある。これを忘れず守ろうとする老人方は、ここから家が近いのか、もう、いない。
《新しいものが残り、古いものはなくなっていく。それもまた、道理……》
道祖神は、静かに儚くほほ笑んだ。
*
数日後のこと。
草草たちは少しばかり予定を延ばし、まだ、仙寿村にいた。実は今日、来仙の船問屋が支店の土地を見に来るのだ。
村の東口に集まったのは、草草たちと薬屋の主人、それに、今日こそ決着をつけるぞと息巻く西派の男たちと、顔色の悪い村長だ。
坊ちゃんはそんな彼らを一瞥すると、こちらへ近づいてくる人物を、向く。
「おや、草草殿ではありませんか」
「お久しぶりです。健優殿」
のんびりとした調子で、おっとりと笑ったのは来仙の船問屋、来幸屋の次男、健優であった。
そばには年かさの使用人――姉やの父だ、もおり、これはこれはと目を丸くしている。
「こんなところでお会いするとは、驚きましたねぇ」
こう言いながらも健優が、ちっとも驚いた風じゃないのは、やはりのん気だからか。草草はくすりと笑って挨拶を交わす。
「で、では……こちらへ」
一通りの挨拶を終えると、落ち着かない様子の村長を先頭に、一行は西口へと歩きだした。
「西の端となると、船から遠くなってしまいますね」
年かさの使用人が表情を曇らせるも、健優はほほ笑む。
「どうせ船からは荷車を使うんだから、少しくらい遠くたって構わないんじゃないかい? それに、村の端から端まで歩いていれば、ここの人たちとも仲良くなれるよ」
健優がおっとり笑えば、使用人も優しげにうなずく。彼らしい意見だと、草草の顔もほころぶ。
それから、ちらり。村長をのぞき見た。
村長の顔色は、さらに悪くなっていた。
おそらく来幸屋が、西口の空き地ではダメだと、断ってくれることを期待していたのだろう。
彼は、道祖神を壊したくないのだ。けれど自分が移りたくもない。自分が嫌なものを人に押しつけることもできない。だから何も言えずにいる。
草草は、こんな風に考えていた。
昔、ずっと昔、この仙寿村で何らかの諍いが起きた。それはきっと、事の決定権を持つ、村長を排することで決着がついた。
地震の際、村長が見つけたという古い書物。これには村の過去が書かれてあったのだろう。
村長は『自分には決める資格がない』と漏らした。こんな言葉が出たのは、本当なら自分は村長という立場にはない者だったのだ、と、書物を読んで知ったからではないか。
また村長は、西口には移りたくないと言い、しかし道祖神に向かい必死に拝んでいたという。こちらは、道祖神を怖れているようにも、許しを乞うているようにも思える。
つまり――
過去の諍いで村長を排したのは、今の村長の先祖だ。
排された、おそらく殺害されたのであろう古の村長は、あの、石の下に眠っている。
道祖神の姿は、石に彫られた像とは異なる。これは、あの神には元々姿があったからだ。古の村長は、長い年月をかけ、村人の信仰を受け、そして神となった。
あの石も、元は道祖神として置かれたのではないだろう。たぶん、慰霊碑ではないかと思う。
西口には山を切り開いて望仙へ、伸びる道がある。はるか昔、この道を作るために犠牲となった者たちを、仏として祀る碑だ。
古の村長は、この慰霊碑の下に埋められた。ならば昔、村で起きた諍いとは『望仙への道を切り開くかどうか』ではなかったか。
大きな街へと通じる道は、村を発展させるだろう。一方で、何がやって来るかわからない。今より治安は悪かっただろう。国の在りようも違っただろう。戦争もあったかもしれない。
だから村は二つに割れ、道を切り開くことに反対した、古の村長が排された。
『さて、なにぶん昔のことで、忘れてしまいましたな』
草草がこの考えを問うたとき、道祖神はこう答えた。それでも。
『長い間、この村を見ておりましたが、道を切り開いたのは正しかったと、今のわしは思うております』
道祖神は、こうも続けてほほ笑んだ。
「船問屋さんには悪いが、この土地は渡さん!」
西口に着くと、道祖神の石を囲んだ老人方が、腹の底から響くような見事な怒声を放った。
「じっ、爺さん! いい加減に諦めろ!」
そのあまりの迫力に、一瞬怯んでしまったらしい。西派の男たちは、無理やり胸を張るようにして老人方に近づいていく。
村長は何とかこれを止めようとするも、良い言葉が出てこないのか、いさめられずにいる。
石の上では道祖神が、姿も薄く、悲しげな、苦しげな顔で見守っている。
ついに本格的な争いになってしまうのか――しかし草草の目は、ちらりと横を向いていた。
「神さまをこわすなー!」
「神さまー、守りにきたー!」
甲高い声を上げ、集団になって駆けてきたのはこの辺りの子供たちだ。手には頼りなげな棒っ切れも持ち、ちょこちょこ走り、老人方に並び立つ。
これは草草が焚きつけたこと。道祖神に、見てほしかったのだ。知ってほしかったのだ。
老人方は石を守り、若い男たちは壊そうとした。しかしもっと幼い子らは、神を信じて慕っている。
古き者はいずれ亡くなり、若い者はまだ生きる。けれどもっと幼い者も、ちゃんと残っているのだと。
《お……おぉ……》
道祖神の目から、涙がこぼれたように見えた。
「子供は引っこんでろ!」
「あっ」
一人の男が子供の手から棒っ切れを取り上げて、着物の襟をつかみ上げる。
「ばかもん! 子供に何をする! 引っこむのはお前たちのほうだ!」
老人方が怒鳴りを上げる。
《おぉ、おぉ》
道祖神は涙するほど、姿も濃くなってゆき――
ごおおおおぅ、風が、吹いた。
《これ、怪我はないかね?》
「……神、さま?」
優しい顔の道祖神が、ポカンと見上げた子供の襟を丁寧に直してやる。
《争ってはいかんぞ》
厳しい顔の道祖神が、声も出ない大人たちをぐるりと眺めまわす。ついでその目は村長へ。
《村を、頼むよ》
「……わ、私で、よろしい、のですか?」
かすれた声に、道祖神は慈しむような、柔らかな笑みを浮かべてうなずく。と、一陣の風が巻き起こり、神の姿は、人々の前から消えていた。
――この翌日。
「草草様、このたびは誠にありがとうございました。村長さんもすっかり元気になられて、村の諍いもなくなりました」
朝食を終えると、薬屋の面々が一同そろって頭を垂れた。
卓に腰かけのんびりと茶などすすっていた草草は、いえいえと、あれは子供たちのおかげだと、ほほ笑みを返す。
道祖神が人々の前に現れたあと。
怖れ、畏れ、呆然としていたみなの前で村長は、自分の土地を来幸屋に渡す、と宣言した。
元々村思いの人物であり、真面目でもあったのだろう。だからこそ先祖の所業に悩み、村長を務め続けていいのかと迷い、身動きが取れなくなってしまったのだと思う。
来幸屋もこの申し出を承諾し、村を二分した諍いは無事、解決に至った。
「僕たちこそ、長居してしまってすみません」
礼を述べつつ草草は、卓の一角へ目を向けた。
そこには従兄と小さな娘が、お手玉で遊ぶ姿がある。すいぶん仲良くなったようだが、本当に嫁にもらうのでは……
何となく浮いてきた、坊ちゃんの笑みはぬるい。いや、こちらは従兄が幸せならば、いいのだ。それよりも。
「道祖神様、まだ何とかならないんですか?」
「このままじゃ、坊ちゃんが帰れないんですがねぇ」
狼君の眉間にしわが寄り、虹蛇の眉も片方上がる。二人の向く先には――
《う、む……いや》
卓に座る、道祖神が在った。
実はこの神、力を取り戻したはいいのだが、久しぶりだったせいなのか、うまくこれを抑えられず人に見えてしまうのだ。
昨日、人々の前から消えた、と見えた道祖神は、風とともに慌てた様子でやって来て、草草たちのうしろへ隠れた。
狼君は不思議そうに首をかしげ、虹蛇は呆れ顔になり、坊ちゃんはきょとんとした。
人の中で気づいたのは、一緒にいた薬屋の主人と来幸屋の使用人のみ。やはり、と言えばいいのか、健優にはまったく見えていなかった。
《消えたか、な?》
「いえ、見えております……」
主人が申し訳なさそうに首をふると、道祖神はうなだれる。
「坊ちゃん、この道祖神様はここの薬屋に任せて、我らは帰りませんか?」
これを見て、虹蛇の眉がつり上がった。
この仙がやけに帰りたがっているのは、坊ちゃんの着物や飾りを、そう多くは持ってこなかったせいだろう。来仙に戻ったら、気合を入れて飾り立てられそうだ。
「そう、だな」
狼君はうなずくも、それほど力が入っていない。かさ張らない木刀は、しっかり持ってきたからだ。旅先でも日課の素振りは欠かさない。
守役たちは相変わらずだ。
「私どもは一向に構いませんが」
《いやっ、それはいかん! このままでは空き地で遊ぶ子供たちを守ってやれなくなる……》
子供は転んでいないか。石の上から落ちてはいないか。ケンカをしたりはしていないか。草むらに入って虫に刺されてはいないか。
ブツブツつぶやく道祖神の様は、どこぞの守役たちを見ているような。
「……じゃあ、どうすればいいのか、父上に聞いてみますね」
過保護らしい道祖神に、坊ちゃんは温かくもぬるい笑みを浮かべてみせた。