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第十五話 梨まぼろし


「おいしい?」

「ニャア!」

 草草そうそうが問うと、器に顔を突っこむようにしていた丸々とした猫、白玉はくぎょくが、律儀にこちらを見上げて嬉しげな声を出した。

 居間で昼食を終え、ひと休みする薬仙堂の面々もみなが頬をほころばせ、しゃりり、口から良い音を立てている。


 食卓に供されているのは、少し前、水応鏡を通して母が送ってくれた仙山の梨。

 一切れつまんで口に放りこめば、爽やかな香りと瑞々しい果汁がいっぱいに広がり、坊ちゃんの頬もほわりとゆるむ。


「仙山の果実はどれもおいしゅうございますね。おすそ分けしたご近所の方々も、みな様おいしいと言って喜んでおられました」

 伯母がにこやかに礼を述べた。白猫を眺めて優しげに笑っていた祖母も、そのままの顔を向けてくる。

「これなら和尚様も、きっとたいそうお喜びになられますねぇ」

 これに草草は、嬉しそうな顔でうなずきを返した。


 草草はこれから、梨をひと抱えとずいぶん重たいお布施の包みを持ち、徳が高いと評判の、馬頭鬼の孫でもある、和尚の寺を訪ねることになっていた。

 和尚にはこれまで、いろいろと便宜を図ってもらっている。

 こちらには、霊の憑いた菓子屋の主人、狐の藤狐とうこに、幼い妖物の白玉といった、味方になってもらいたい素性のものも多くいる。来幸屋の次男、健優けんゆうのそばにも霊の妻が――彼女はまあ、成仏しても良いような気もするが。


 そこで、風邪をひいたり、西風が強かったり、陽射しがきつかったりといった、過保護な守役たちが心配する要因もなくなり、人や霊が巻き起こす騒動もない、平和な今日。草草は挨拶方々、お礼方々、お願い方々、ようやく寺へ参るわけだ。

 和尚はどんな御仁だろう。やはりお顔は長いのか。訪ねていったらひょろりとした猫背の僧は、小さな目をまん丸にして驚くだろうか。

 こんなことを想像すると、坊ちゃんの顔にご機嫌な笑みが浮いてくる。


「この梨を食べれば、和尚様もきっとお元気になりますね!」

 梨がおいしかったのだろう、従兄が満足げな顔で笑った。ここでも草草はうなずきを返そうとし、しかし首を傾ける。

 和尚は僧と、十九歳の若者と、同じほどの速さで走るそうだ。そんな和尚がこれ以上、元気になる必要はあるのだろうか。まあ、元気なのはいいことか。


「そうですね」

 ふふふ、坊ちゃんの口から楽しげな笑いがもれた。

 大変失礼ながら、お顔の長いらしい和尚が駿馬のごとく駆ける姿を、思い浮かべてしまったのだ。



 お気をつけてと見送られ、薬仙堂を出ると、草草の目は街のあちこちを向く。

 この来仙は、西の都と呼ばれるほどに賑わう街だ。旅商人の出入りも多く、珍かな品も入ってくる。日々、街の景色は少しずつ違う。


「坊ちゃん、この布はちょっと洒落てて、西の砂漠で見た柄に似てますよ。隣国から入ってきたんですかねぇ?」

 お布施の包みでふところを膨らませた虹蛇こうだが、布を手に取り草草に宛がう。片方の眉が小姑のごとくつり上がっているのは、坊ちゃんに似合うかどうか、真剣に吟味しているからだろう。


「坊ちゃん、この漬物はどこの物でしょう? いろんな臭いが混じってて、よくわからないことになってます」

 今度は梨の包みを抱え持った狼君ろうくんが、小さな壺を差しだしてきた。臭いを嗅ぐさまは、真面目すぎて恐ろしげだ。坊ちゃんの体にいいのかと、迫力顔で店主を問い質したりもする。


 こんなことをしているから、なかなか先へ進まない。ここで草草は――


「この銀の首飾り、細工が凝ってるねぇ。黎の都の品かな? 虹蛇に似合いそうだね。あ、そっちの青い玉は狼君にどうかな?」

 しゃらら、と銀の飾りに指を絡ませ青の玉をちょんと突き、楽しげに笑った。坊ちゃんの足も、ちっとも前に進まない。


 少々時間はかかりながらも、三人は無事、賑やかな街の中心部を抜けてひっそりとした街外れへ。


「坊ちゃん、疲れてませんか?」

「足が痛くなったりする前に、言ってくださいね」

 狼君が、眉間にしわの寄った心配顔を向けてくる。虹蛇も、気づかいの混じった優しげな顔でうかがってくる。

「大丈夫だよ」

 草草は首をふってほほ笑む。


 ここまで、間に話を挟みつつも、こんなやり取りを幾度も繰り返してきたものだから、今、答える坊ちゃんの笑みは少々ぬるいものになっていた。

 だがこれも、風邪をひいたり、下界の暑い夏に慣れていなかったり、西の砂漠へさらわれたりと、ここしばらく守役たちに心配をかける事柄が多かったせいだろう。

 そう思えば、草草は「ありがとう」と心のこもった笑顔になる。


「何のことです?」

 少し間が空いたせいか、何のお礼かわからなかったようだ。二人の仙の首がかしいだ。

 それでも甘えのにじんだ瞳を、にこにことした顔を向けていると、狼君の鋭い眼光は柔らかく細まる。

「どっ、どうしたんですか?」

 虹蛇は相変わらず、耳を赤くして、目はうろうろと逸れてしまった。


 こんな感じで仲よく小道を歩いていると。

「あ、そろそろかな?」

 いまだ青い竹の林と黄みを帯びたもみじの並ぶ、色づく景色が見えてきた。もみじがもっと染まったなら、青と紅が鮮やかで、きっと美しいだろうと思える。

 その向こうに、寺らしき建物も見えた。この竹林はそれほど大きいものではないらしい。ならば少し、竹の中を歩こうか。

 三人の足はそちらへ向かう。


「坊ちゃん」

 狼君が梨の包みを見下ろし、今度は顔を上げ、すんすんと鼻を鳴らした。虹蛇も足を止めて辺りを見まわし、首をかしげている。

「あれ?」

 草草の首も同じく傾き、珍しく小鼻まで、ひく、と動いた。


 青い竹の林は、茶色い木々に――

 黄みがかったもみじは、たわわに実る梨に――

 気がつけば、竹林は芳香ただよう梨畑へ、変わってしまっていたのである。





 先ほどまではあったはずの、寺がどこにも見当たらない。うしろを向くと、小道も姿を消している。

 草草たちは、ただただ続く梨畑を、顔をめぐらし歩いていた。


「梨の匂いばかりで、何もわかりません」

 枝からぶら下がる、たくさんの梨を眺め見て、狼君は渋い顔で首をふる。

「まぼろしのようですねぇ。これじゃ気配もはっきりしないよ」

 虹蛇の伸ばした手は、確かに見える梨の実をすうと素通りしてしまい、その鼻がふんと鳴る。

 だが、守役たちに警戒の色は見られない。草草も、この梨畑はなじみあるものと感じた。ということは――


「これは仙山の精霊、梨の精の仕業だよね?」

 草草がうかがうと、二つの顔は縦にゆれた。だから二人の仙も、このまぼろしを力任せに払ったりはしないのだ。

 ならばと、みなの目は、そろって狼君が抱え持つ梨の包みへ向く。


「ですが坊ちゃん、ここに梨の精はいないようです。どこにいるんでしょう?」

「それにまぼろしなんて、なんでこんなものを見せるんですかね? 我らの前に姿を現せばいいのに」

「うん。たぶんだけど……」

 不思議そうな顔になった守役たちを、草草が小首をかしげて見上げたとき。


 ――あーん、あーん


 子供の泣く声が、聞こえた。

 そちらへ足を進めると、梨の木が一本、根までさらして倒れている。倒れた幹の上のほうに、何か、丸いものがある。


「あっ」

 思わず、坊ちゃんは声を上げた。

 丸いと思ったものは、幼い子供の頭なのだ。目からぽろぽろ涙を流し、鼻をぐずぐず鳴らしている。首元には、小さな手もちょこんとのぞく。幹に穴が開いているのか、子供の体は梨の木に閉じこめられているようだ。

 濡れた目は、ジッとこちらを向いていた。しゃくり上げるのどからは、途切れ途切れの声がもれる。


「ぼ、ぼっちゃん、かえり、たい、です……たっ、たすけて!」


 幼い必死な叫びが届き、秋風がさあと吹く。


 ――しゃらら


 倒れた梨の木は、木の葉にしては奇妙な音を立ててゆれ、まぼろしは揺らぎ消えてゆく。

 いつの間に竹林を抜けたのか、気づけば寺の前だった。



「坊ちゃん、あの子供は梨の精でしたが、まぼろしが消えるとき、ほかに妙な気配がしましたよ」

 こちらを向いた虹蛇の、片方の眉がだいぶ跳ね上がっている。

 狼君の鼻は、すんっと盛大な音を立てた。梨畑を抜けだし、鼻が利くようになったのだろう。

「梨の精も、妙な奴も、この寺にいるようです」

 こう言って、眉間にくっきりしわの寄った険しい顔を向けてくる。


 草草はうなずくと、古びた、けれど手入れの行き届いた感じのする居心地の良さそうな寺を眺めた。

 それから目の玉をくるりとまわし始める。


 まぼろしを見せたのは、寺にいるという梨の精だろう。

 直接姿を現さなかったのは、いや、現せなかったのは、精霊がどこかに閉じこめられているからだ。

「まぼろしの中で、あの子供は倒れた梨の木から出られないでいたよね。助けて、とも言ってたもの」

 自身の考えを確認するように、草草はぽそりぽそりとつぶやいた。


「では、ここの和尚が梨の精を封じたんですか?」

「寺にいるんだから、きっとそうさ。狼君、我が坊ちゃんを守ってるから、ひと暴れしてきなよ」

 寺へ――虹蛇が針のように細くした、きつい目を向ける。鋭い眼光をギラリと光らせた狼君の足は一歩、踏みだす。


 これを坊ちゃんは、違うのだと慌てて止めに入った。この仙の正体は虎より大きな大狼だ。ひと暴れしたなら間違いなく、寺は壊れる。

 急ぎ守役たちをなだめ、あのね、と、しゃべり始めた。


 良きものはそのままに、悪しきものだけを退治しようという和尚が、仙山の精霊を封じるとは思えない。もし梨の精が人に都合の悪いことをしてしまったとしても、和尚なら、きっとこちらに話を寄こしてくれるはず。

 それに、二人の仙が感じた妖しげな気配と、まぼろしが消えるときに聞こえた、しゃらら、という奇妙な音だ。


「あの音、ここへ来る途中の店で見た、銀の首飾りの音に似てたよねぇ」

 草草が指を一本立てて眺めれば、守役たちは「そういえば」と、少しは恐くなくなった顔で返してくる。

 まぼろしの中、倒れた梨の木は『しゃらら』と葉を鳴らしていた。あの葉はきっと、銀細工でできた何かを表しているのだ。

「だからね、精霊を閉じこめてるのは銀の細工がついた品の、物の怪か何かだと思うんだ」


 こう言って締めくくると、「さすが坊ちゃんです」などと褒めつつ「物の怪の分際で仙山の精霊を……」とか何とか。

 眉間のしわと片方の眉の上がりっぷりは、褒めるときだけ、器用に綺麗に消えて戻った。


 そんな二人を横目に、話を終えたはずの草草は、まだ、顔をななめにかしげていた。

 梨の精は、銀細工の物の怪とどこでどう関わったのか。いや、そもそもだ――梨の精はどうして下界にいるのか。

 あの精霊は幼かった。となれば、仙山の、晴れることのない雲より下に出るのは危ないと、ほかの精霊たちが許さなかったはずなのだ。

 だが、梨の精は仙山から下界へ、それからどうした訳かこの寺へ。

 狼君が持つ梨の包みに目を向けて、ふむ、とうなずく。つながってきた気がする。


「じゃあ行ってみようか」

 早く、幼い梨の精を助けてあげたい。寺を見据える坊ちゃんの顔は、ちょっとばかりきりりとしている。

 いざ出陣、と守役たちを促すと。


「寺には妖しげな奴がいます。坊ちゃんは近づいちゃいけません」

「和尚の仕業じゃないなら暴れるわけにもいかないし……狼君が忍びこんで助けますから、我とここで待ってましょう?」

 迫力顔と困り顔が、仲よくそろって横にゆれた。

 味方になってほしい、力ある和尚の寺だ。忍びこむのもまずいだろう。


 草草が取りかかるべきはまず、過保護な二人の説得であった。





「そっ、そっ、草草様! どっ、どうなさったんですか!?」

 寺に顔を出すと、ひょろりとした猫背の僧は小さな目をくわっとこじ開け、嬉しげな顔になりながらも怯えるといった、おかしな様子で出迎えた。

 慈愛に満ちた穏やかな笑顔に喜び、いつにも増した鋭い眼光と剣呑な眼差しを怖れたのだろう。

 二人の仙の恐い目は、僧ではなく、梨の精が閉じこめられているらしい方向を睨んでいるので、だいぶマシだろうが。


「今日は和尚様に、ご挨拶に伺いました」

 草草がにっこり笑ってこう言えば、僧の顔はほにゃりと崩れ、しかし、すぐに眉が下がる。

「もっ、申し訳ございません。今日、和尚様はよそのお寺へお出かけになっておられまして」

 これを聞き、それは残念とばかり坊ちゃんの眉も下がった。そのせいか、元々丸まっていた僧の背は、さらにぎゅうと縮こまる。


「あのっ、実は私も今、お寺にお客様がいらしておりまして……その、そちらのほうの応対が……」

 ひどく申し訳なく思ったのか。つるりとした頭に汗をにじませ、泣きそうな顔になった僧がおろおろと一方を向いた。それは、二人の仙の恐い目が睨んでいたのと同じ方向だ。

 こちらは草草の予想どおりだ。僧をなぐさめるようにほほ笑み、うんとうなずき口を開く。


「薬仙堂のご近所の方が、怪異か何かがあって相談にいらしてるんですね?」


 ――なぜ、仙山から出るはずのない幼い梨の精が、下界のこの寺にいるのか。おそらくこういうことなのだ。

 梨の精は、下界へ行ってみたかったのだろう。けれど、幼いからと許されなかった。がっかりしただろうし、しょぼくれてもいただろう。そんなときだ、『母が下界へ梨を送る』と聞いたのは。

 幼い精霊は、素敵な考えを思いついた。


 ――その梨に隠れて、こっそり下界へ行こう!


『まったく、とんだいたずら小僧だねぇ』

『坊ちゃんは山神様の許しをちゃんと得たのに……』

 これを話したとき、虹蛇は呆れ顔になってふんと鼻を鳴らした。狼君の渋い顔は、ゆるりと横にゆれた。

 坊ちゃんはといえば、苦笑いだ。


 梨の精の気持ちは、好奇心旺盛だった草草にもよくわかる。下界行きを反対され、がっかりしょんぼりしたのは自身の経験だ。彼の場合、山神の目を誤魔化す手立てが見つからず、断念したわけだが……

 精霊の気配は淡い。同じ匂いに包まれれば、さらに気配はわかりづらい。

 父神が送る梨を確認したりはしないだろう。人である母は気づくはずもない。となれば、母に仕える仙の目さえ逃れれば、この考えはうまくいく。


 幼い梨の精は誰にも見つからないよう、梨の実の奥へ、奥へひそむ。ジッと動かずいただろう。心地よい香りの中、うとうとしたかもしれない。

 そうしている間に梨は、仙山の水鏡から下界の水応鏡へ、薬仙堂から近所の家へ、おすそ分けとして配られてしまった。


 そこで、梨の精と、銀細工の物の怪と、そして人を巻きこんだ、何かが起こったのだ。

 だから今、梨を配られた近所の者が、この寺へ相談に来ている――


「どっ、どうしてご存知なのですか!?」

 僧の小さな目はこれ以上大きくならなかったが、その代わり、縮んだ背中がすくりと伸びた。

「坊ちゃんはね、何でもお見通しなのさ」

「坊ちゃんは賢いんだ」

 ここで守役たちの『坊ちゃん自慢』が始まりそうになり、草草は急ぎ話を戻すこととなった。



「娘さんが梨を食べて、のどを詰まらせてしまったんですか?」

 草草たちは僧の話を聞きながら、磨かれた廊下をすすすと奥へ、進んでいた。

「ええ。その娘さんは嫁ぎ先から久しぶりに戻っていらしたので、お母様がおいしい梨をごちそうしたのだとか」

 すると娘は梨を食べてむせこみ、ぱたりと倒れてしまったという。


「マヌケな娘だねぇ。でも、のどを詰まらせたなら、坊さんじゃなくて医者に行くもんじゃないのかい?」

 虹蛇が首をかしげると、僧の眉は困った感じに下がった。

「それが、お医者様には連れて行かれたそうですが、その、娘さんの口が、まったく開かなかったそうなんです」

「口が、ですか?」

 ひょい、とふり向いた草草に、僧はおずおずうなずいた。


 医者がどうがんばっても、娘の口はがっちりと噛み合っていて開かない。娘は息をしているから、梨がのどを塞いでいるわけでもなさそうだ。それなのに目を覚まさない。奇妙だ、おかしい。あちこち調べてみたが、何の異常も見られない。

 もう医者にできることはないと、ならば寺で見てもらってはどうかと、それで娘は運びこまれた。


 ここまでを話したとき、僧の足がぴたりと止まった。失礼しますと一室の扉を開ける。

「あ、薬仙堂さんの……」

「ごめんくださいませ」

 板の間に座っていたのは、ご近所の、草草も顔を合わせれば挨拶をする、中年の女だ。彼女の娘が梨を食べて倒れたのか。

 では、娘は――


「なるほど」

 その姿を目にすると、草草の口から納得した風なつぶやきがもれた。


 娘は目をつむり、布団の上に横たわっていた。着物のすそが広がり、それはまぼろしの中で見た、倒れた梨の木の根に見えなくもない。

 娘の口の奥のほうに、人には見えないかすかな光があった。娘の体が倒れた梨の木だとすれば、ちょうど子供が頭を出していた辺りか。これが幼い梨の精だ。精霊は、医者がどうやっても開かなかった口の中に、閉じこめられているわけだ。

 そして『しゃらら』と鳴った木の葉だが――娘の頭に、銀細工のかんざしが挿してあった。


 梨の実の奥へとひそみ、うとうとしていた精霊は、娘に食べられそうになり慌てて飛び起きたのだろう。だから娘はむせた。

 うん、と草草はうなずき、それから首を傾ける。

 娘はむせただけでなく、倒れて口を閉ざしている。こちらは銀のかんざしの、物の怪の仕業だろう。梨の精は娘の口から出たいのだから、こんなことをするばすはない。


「お坊様、そのかんざし、抜いてみてもいいですか?」

 小首をかしげた草草が、僧を見やったとき、両隣からものすごい早さで制止の声がかかった。

「坊ちゃん、そんな妖しげな物、触っちゃいけません」

「そうですよ。ここは坊さんに任せて、もう少し離れましょう?」

 また、迫力顔と困り顔がそろって横にゆれている。苦笑いを浮かべた草草は、こちらもまた説得にかかろうとする。


「そ、草草様、そのかんざしは私も先ほど抜いてみようと思ったのですが、その、抜けなかったんです……」

 今日は眉を下げっぱなしの僧が、背を丸めて肩まで下げた。

 この僧も霊力はあるので、かんざしから妖しい気配を感じ取ったのだろう。しかし抜くことはできず、どうしたものかと考えているところへ草草たちが訪れたらしい。

「お札でも貼れば抜けるかもしれませんが、まだ悪いものと決まったわけでもないので……」

 良きものはそのままに。僧は尊敬する和尚の教えを守っているというわけだ。


「じゃあ、悪いんだけど狼君、ちょっと試してもらってもいい?」

 草草は優しげな笑みを僧に向け、ついで狼君に、ちょっとばかり甘えた感じで笑いかけた。相手は物の怪だ、仙ならば抜けるかもしれない。

 狼君は「任せてください」と力強くうなずき、娘のそばにしゃがみこむ。かんざしを握った腕に、ぐっと力をこめる。


「あっ、待って」

 だが、草草はすぐに止めることとなった。

 狼君の手の中で、かんざしの銀の細工がじゃらじゃらと、抜かれるのを嫌がるように暴れているのだ。手の主はちっとも気にせず、むんずとつかんで押さえこんでいるが。

 それに、かんざしが引っぱられると、娘の髪まで引っぱられたように見えた。ぷちりと、髪が抜けた音も聞こえた気が、しないでもない。


「力をこめれば抜けそうですが」

「髪まで抜けちゃうよ」

 なぜ止めたのかと不思議そうな顔を向けてきた狼君に、坊ちゃんはぬるく笑って首をふる。


「じゃあ、髪も一緒に切ったらどうですか?」

 今度は、いい考えだという風に、虹蛇が綺麗な笑みを向けてきた。

 この仙は、坊ちゃんの髪なら爪の先ほどであっても切るのを嫌がるのに、なぜ娘の髪なら切っていいと思うのか。

 草草が横にふった笑みは、さらにぬるくなっていた。





「うぅん……」

 娘の口の中で、身じろぎしているほのかな光を眺めて、娘の頭で、不機嫌なのか何なのか、じゃらじゃら揺れるかんざしを見て、草草はうなった。


 梨畑のまぼろしは精霊が見せたものだ。しかし、木の葉が揺れて『しゃらら』と音を立てたとき、虹蛇は妖しげな気配を感じた。

 つまり、あの音はかんざしの物の怪の仕業であり、わざわざまぼろしの中に出てきたのだから、何か伝えたいことがあるのだろうと思える。


「草草様、どうぞ」

「ありがとうございます」

 僧が出してくれた茶を、草草はにっこり笑っておいしくすすった。尻の下には、なかなかふっかりとした座布団もある。

 こんなときであっても、僧はもてなしを忘れていないらしい。虹蛇も負けじと菓子を並べ、坊ちゃんの指も、ちゃっかりそれをつまんでいるが。


「お母上、このかんざしですが」

 湯のみを置いてひと息つくと、草草は娘の母を見やった。

 かんざしにはどのような由来があるのか。こう聞けば、娘の身に起きた怪異だけでなく、髪を抜くだの切るだのと、二人の仙がのたまったせいだろう、だいぶ顔色を悪くした母がおどおどと口を開ける。

 このかんざしは、母の娘時分、黎の都の商人から両親が買ってくれた品だという。それを、嫁ぐ娘に贈った。


「じゃあ……帰りたい、のかな?」

 かんざしに向かってささやいてみると、しゃらら、良い音が返ってきた。これを聞き、草草はうなずく。


 娘が倒れて口を閉ざしたのは、食べられそうになった梨の精が驚き騒いだときのこと。無関係ではないはずだ。

 このとき、梨の精は慌てただけでなく、怖いと感じただろう。助けてと、きっと仙山を想っただろう。まぼろしの中でも、子供は必死な様子で『帰りたい』と訴えていた。

 この想いが、きっと物の怪を動かすきっかけとなったのだ。


「前の持ち主だった、お母上のところに帰りたいのかな?」

 ――じゃら

「じゃあ、売ってた店か作ってもらった職人さんのいる、黎の都に帰りたいの?」

 ――じゃらら


「違うみたいだねぇ」

 首をひねりつつ、草草は湯のみを手に取り茶をすすった。

 どうやら『帰りたい』は合っているようだが、帰る先は違うらしい。


「坊ちゃん、髪を切るか抜くかしたほうが、早いんじゃないですか?」

 人の言葉を話さない物の怪が、坊ちゃんを手間取らせているからだろう。虹蛇の鼻がふんっと鳴った。狼君も渋い顔でうなずいている。僧は頬を引きつらせ、母は顔面蒼白だ。

 草草は守役たちをなだめ、僧と母を安心させるべくにっこりと笑った。

 それからもう一度、片方の眉が上がった美麗な顔と、眉間にしわの寄った仏頂面を見やる。

 この二人は今、坊ちゃんのために不機嫌になっている。ということは、かんざしの物の怪も――


「帰りたいのは娘さんのほうだね?」

 ――しゃらら

「すると今、娘さんは実家に戻ってるんだから、嫁ぎ先に帰りたい……娘さんは、追いだされてしまったんだ」

 ――しゃらららららら


 美しくも、どこか悲しげないらえが、部屋に長くこだました。



「む、娘が、追いだされたなんて、そんなこと、ひと言も……」

 母は呆然とした顔で、眠る娘を眺めていた。


 かんざしの物の怪が娘の口を閉ざしたのは、梨の精を閉じこめたかったから、ではないだろう。

 婚家から追いだされてしまったことを、それでも帰りたいと思っている気持ちを、『娘は話すことができずにいる』。こちらを表していたのだ。

 娘に何があったのか、今後、婚家に帰ることはできるのか。これは草草にはわからない。娘と母とそして婚家で、話し合うべきことだと思う。


「では、かんざしを抜いてみますね」

 草草がこう言うと、狼君の手が、今は静かな銀細工に伸びた。

 するり、先ほどとは違いかんざしは簡単に抜け、ごほり、娘の口から咳が出る、と。


《ぼっちゃん!》

 ぽんっと勢いよく飛びだした梨の精が、まっすぐ、草草のふところに飛びこんできた。


「ただいま帰ったよ」

 入口のほうから、老いた感じのする、しかしよく通る声が聞こえてきた。


「あ、和尚様がお帰りになりました!」

 草草は、ふところにぴたりと貼りつく梨の精を優しい手つきでなでながら、嬉しげに笑う僧を見る。

「まったく、勝手に仙山を出るからこんなことになるんだよ」

「坊ちゃんがいなかったら、どうするつもりだったんだ」

 守役たちの、幼い精霊へのちょっとばかり安堵の混じった小言の合間に、近づいてくる矍鑠かくしゃくとした足音を聞く。


 そうして、坊ちゃんはふうわりと笑った。



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